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千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
| (千葉介) |(大宰少弐) (大宰少弐) (千葉介)
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| |【晴気千葉家】
| 少弐教頼――+―千葉胤資
| (太宰少弐) (肥前守)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤 ∥ +―千葉胤治
(右京大夫) | ∥ |
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+―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁 +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
|(千葉介) | |(千葉介) |(加賀守)
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| | +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
| | (千葉介) (千葉介) (忠右衛門)
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| +=【祇園千葉家】
+―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
|(千葉介) (千葉介) (丹波守) (千葉介) (日住)
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+―千葉胤将 神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
(妙法院僧侶) (大和守) (刑部大輔)
神代勝利(1511-1565)
父は神代利久入道宗元。母は千葉氏支配下の豪族・陣内大和守(佐賀郡千布領主)女。妻は、副島近江守信吉女、千布兵庫頭入道淨貞女。通称は新次郎。官途は刑部少輔、大和守。肥前に名を轟かす兵法の達人として知られた。
勝利は幼いころに千葉介興常に養われ、武術家としての名を高め、神埼郡三瀬城主・野田宗利がまねいて山内城主となった。天文14(1545)年12月、豊姫神社の灯油料を免除し、天文17(1548)年12月には佐賀郡の所領を寄進しており、佐賀郡内にも所領があったことがわかる。
佐賀郡に本拠を持つ龍造寺隆信は、この神代勝利の存在がうるさく、弘治元(1555)年9月5日、勝利の谷田城(富士町)に攻め寄せた。勝利は筑前へ逃れて原田了栄を頼り、伊都郡長野に陣を張って龍造寺勢に備えた。一方、隆信は勝利を追放できたことで安心したのか、自らは水ヶ江城に引き揚げたため、勝利はひそかに山内へ戻ると熊川の代官を討ち取って、本城・神埼郡三瀬城に戻った。
永禄2(1559)年正月、千葉胤誠は父・胤頼が千葉介胤連(西千葉)に晴気城を攻められて戦死すると、神代勝利を頼って川久保へ逃れた。これ以降、胤誠は文禄2(1593)年9月13日に亡くなるまで川久保で庇護された。
その後も勝利と龍造寺隆信との戦いは続くが、永禄5(1562)年に隆信から勝利へ和議の申し込みがあり、永禄7(1564)年、勝利の孫娘と隆信の三男・鶴仁王丸の婚約が成立して和議が成った。その直後、勝利は嫡男・長良に家督を譲って隠居し、三瀬城から佐賀郡畑瀬城へと移ったのち、永禄8(1565)年3月15日、五十五歳で没した。法名は覚譽賢利。