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尼日光 (????-????)
十代・千葉介胤朝の娘。晴気千葉氏を支えた女性。実名は不明。
文明18(1486)年10月3日の夜、父・胤朝は叔父の胤将によって「国府(牛頭山か)」において暗殺された。この報を得た少弐政資は、騒乱を惹起した「彼悪党次郎胤将以下の輩誅罰すべし」と激怒するが、胤将や同類はすでに逐電し、胤将与党は散々に消えていた。少弐政資は千葉家断絶を嘆き、12月3日に胤朝娘と自らの弟(千葉肥前守胤資)を娶わせ、胤朝の跡を継がせた(『九州治乱記』)。実は胤朝にはかつて惣領職を争った胤盛という弟がおり、この暴挙ともいえる少弐氏の介入に激怒。胤盛は「兄討死之後赴于中国頼大内介」と、大内氏を頼って長門国へと落ちていった。
その後、胤盛は大内義興に属して、明応6(1497)年正月、大内義興が筑前に攻め入って少弐勢を駆逐すると、同月23日、「平胤盛」は「河上山唯真坊律師」に対して「河上社座主職」と「往古神領」である佐嘉郡内の社領を安堵した。胤盛が大内勢とともに九州へ攻め入り、少弐政資・高経親子を追って肥前国へ侵攻したものと思われる。
同年4月8日、少弐政資は大内勢に敗れて、胤朝娘の夫で弟の千葉胤資の居城・晴気城に迎え入れられる。ところが4月13日、従兄弟にあたる千葉興常(胤盛の子)が大内勢として晴気城に攻め寄せると、兄・政資の身を案じた夫・胤資は、政資に多久梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資は晴気城から多久へと移った。しかし、翌19日にはすでに政資が多久に逃れた報が大内義興に届いており、義興は軍勢を梶峯城へ派遣している。
そして19日夜半、政資は梶峯城下の泉称寺で自刃。弟・少弐高経は晴気から別行動をとっていたが、こちらも21日に市ノ川の山中で自害した。そして、晴気城に残って大内氏を迎え撃った夫・千葉胤資も19日、決死の出撃をして討死した。享年二十四。
胤朝娘は、晴気落城前に夫・千葉胤資によって嫡男・胤治とともに晴気城から脱出しており、難を逃れることができた。その後、出家して尼日光と号したと思われる。なお、嫡男・胤治は文明18(1486)年生まれだが、胤資が千葉家に入った年が文明18(1486)年12月であることや、当時、夫の胤資がまだ十三才であることから、胤治は胤資の実子ではないこととなる。尼日光の連れ子の可能性もあるが、彼女も胤資とさほど年齢が変わらないとすれば、十代前半での出産となるため現実的ではない。胤治も養子ではなかろうか。
胤資亡き後、十二歳の胤治を擁する晴気千葉氏は存亡の危機を迎える。この危機に、尼日光はみずから晴気千葉氏を継ぐ形で晴気千葉氏を支えたと思われる。
その後、大内勢が大友氏との戦いに敗れて主力が豊前国から長門国に引き揚げるのを見届けると、身を隠していた尼日光、胤治らは晴気城の南東にあった小城郡甕調郷(小城市三日月町)の高田館に入った。
しかし、翌明応7(1498)年2月24日、大内方の筑紫満門・東尚盛らが高田館に攻め寄せたため、尼日光、胤治らは城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに援けを求め、これに応じた龍造寺豊前守胤家が、援兵に反対する弟の龍造寺家和を振り切り、夜陰に紛れて成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行し、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、晴気千葉家の胤治(少弐方)と敵対する牛頭山城の千葉興常(大内方)が筑紫・東の援軍として駆けつけてきたため、晴気千葉・龍造寺勢は敗れ、尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃れていく。こうして祇園山城に居した惣領家の千葉介興常が大内義興の後援のもと肥前国守護代となる。
筑前へ逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(大宰府官吏)のもとで肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡みやき町)城主・横岳兵庫頭資貞に養育されていた少弐政資の遺児・少弐資元が大友頼治の後援を得て挙兵した。この騒動の中、龍造寺胤家も肥前に戻り、弟・龍造寺家和に迎えられて大財端城に入城した。尼日光たちも同道したのかもしれない。
少弐資元は勢いに乗じて大内方の神埼郡勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに晴気千葉氏と龍造寺氏の力を借りて九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて、筑後国へ放逐した。その後、資元は白虎山城に重臣・馬場頼経を入れて守らせ、尼日光らは高田館へ戻った。しかし、永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らに攻められて、尼日光らは再び高田館を捨てて龍造寺氏を頼る。
少弐貞頼―+―少弐満貞――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経
|(太宰少弐)(太宰少弐)|(大宰少弐)|(大宰少弐)
| | |
| +―千葉胤資 +―少弐資元―――少弐冬尚
| (肥前守) (肥前守) (大宰少弐)
| ∥
| 千葉介胤朝―+―明胤―――+=千葉介胤繁
| |(尼日光) |(千葉介)
| | |
| +=千葉胤治 +=千葉介胤勝――千葉介胤連
| (満童丸) (千葉介)
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+―横岳頼房――横岳資貞―+―横岳資誠
(孫次郎) (兵庫頭) |(讃岐守)
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+―千葉介胤勝
(満童丸)
ところが、永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することになり、義尹の命によって義興と少弐資元は和睦した。さらに資元は肥前守に任じられ、尼日光らも晴気への帰還が許されたという。同年6月14日、千葉胤繁が「持永大蔵丞」に対して「舊地今河領小城郡大楊、乙牟礼廿四町」を「今度差戻」ので、ますます忠貞を尽くすべきとの書状を与えており、帰還に及んで、尼日光の養子・千葉胤繁が晴気千葉氏の家督を継承した可能性があろう。
こうして、永正5(1508)年6月、大内義興は足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からは横岳資誠、龍造寺家和らが将軍家の供奉として従った。この前将軍・義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹はふたたび将軍に返り咲いた。義尹はその後、名を義稙と改める。
このような中、永正7(1510)年3月13日、尼日光の子・千葉胤治が高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、当主で義弟の千葉胤繁との間での討死の可能性もあろう。さらに翌永正8(1511)年9月には、胤繁もまた十八歳の若さで卒している。その後、尼日光(胤朝娘、胤資室)は横岳兵庫頭資貞の子・満童丸(胤勝)を養子に迎え、晴気千葉家はこの胤勝を当主として続くことになる。ただし、千葉氏の重臣である原氏・円城寺氏らは、胤勝の系統の千葉氏を「横岳千葉」と呼び、その下知に従わずに離れていったという。
尼日光の没年は不明。法名は明胤。