小城千葉氏の惣領 -祇園千葉氏(東千葉家)-

肥前千葉氏

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 千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       |       |
       |       +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
       |        (千葉介)  |(大宰少弐)   (大宰少弐) (千葉介)
       |               |
       |               |【晴気千葉家】
       |         少弐教頼――+―千葉胤資
       |        (太宰少弐)  (肥前守)
       |                 ∥
       +―千葉胤紹――+―千葉政胤    ∥      +―千葉胤治
        (右京大夫) |         ∥      |
               |         ∥      |                 
               +―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁          +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
               |(千葉介)  |        |(千葉介)           |(加賀守)
               |       |        |                |
               |       |        +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
               |       |         (千葉介)   (千葉介)    (忠右衛門)
               |       |
               |       +=【祇園千葉家】
               +―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
               |(千葉介)   (千葉介)    (丹波守)   (千葉介)          (日住)
               |                                         ↓
               +―千葉胤将                     神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
                (妙法院僧侶)                  (大和守)    (刑部大輔)


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千葉胤誠(????-1593)

 小城千葉氏十七代。東千葉氏四代。千葉介胤頼の嫡男。別名は胤政。号は千葉屋形千葉介

 永禄2(1559)年、父・胤頼が討死を遂げると、胤頼の家臣たちに護られて城を脱出し、川久保領主・神代大和守勝利を頼って落ち延びた。その後の目立った活躍はなく、神代大炊助家良の代まで川久保に在住し、文禄2(1593)年9月13日、川久保で亡くなった。法名は日儀。川久保領北部の帯隈山山裾にある皿山(屋形山)に葬られた。

 胤誠には男子はなかったが姫一人がいて、神代大炊助家良の「養子仕召置」いた。この姫は鍋島直茂の命によって佐野右京亮茂美方に「合宿」したが、子ができないうちに元和5(1619)年5月28日に茂美が死去。「彼姫右京方へ縁深之儀」を察した藩侯・鍋島勝茂の命により、十三歳で佐野家名跡を継承した「佐野右衛門(茂久。鍋島和泉守忠茂三男)方内儀」となった。しかし十五歳以上の年の差があったためか「煩差出候」につき離別。神代伯耆守常親が引き取って、常親の母(神代長良娘)と同居させ、常親は姫を「姉分」として敬っている(『神代家文書』)。常親との年の差は七~八歳程度と推測される。

 「千葉姉様」は寛文元(1661)年7月に亡くなり、父・胤誠と同じ屋形山に葬られた。法名は眞如院殿妙光日住大姉。「姉様」に仕えていた平田左馬助胤家ら千葉家旧臣たちはそのまま川久保神代家の家臣となっている。

千葉家家宝の系図、妙見絵像、妙見太刀のその後

 胤誠はもはや千葉家再興は叶わないと見たのか、神代勝利の跡を継いだ神代長良に家宝として伝わってきた「系図」「妙見大菩薩之絵像」「妙見太刀」を譲り渡している。長良はこの譲られた千葉家の宝物を「俗家ニ召置候事如何」として小城岩蔵寺へ預け置いた。

 寛永18(1641)年5月18日、江戸でこの系譜の存在を聞いた藩侯・鍋島勝茂は、中野数馬佐政利、出雲監物貞恒の両名に、神代伯耆守常親「神代之系図」を江戸まで送るよう指示した。勝茂自身もこの系譜を「大事之物ニ可有御座候条、常之飛脚にては如何と被思召上候」として、佐賀藩抱の飛脚または常親自身が仕立てた者を用いるようにとの格別の指示を出している。

 6月3日夜、手紙を受け取った神代常親は、翌4日には「神代系図」を飛脚を担当していた諸岡彦右衛門尉に託した。しかし常親は、この系譜の末尾に「神代勝利、長良、大炊助、拙者」の実名が記入されていることに不安を感じたのか、さらに追加で一筆認め、この末尾の神代家四代は十年以上前に記入されたものであると弁明している。

 江戸で書状を披見した勝茂は「妙見太刀、并妙見大菩薩之絵像」も観たいとして、7月2日、常親へこの両宝の江戸搬送を指示している。これを受けて7月20日、常親は妙見絵像と妙見太刀を江戸へ搬送した。この妙見絵像については問題なかったようであるが、妙見太刀は長い間岩蔵寺に預けられており、錆びついていた上に漆までつけられ「当分見苦敷御座候」という有様であった。ただ、常親の方で錆を落とすなど、勝茂拝見以前に確認することはいかがとして、錆びついたままの太刀を送っている。

 また、「千葉姉様」は父の胤誠から、神代家から「千葉胤頼御屋形様」へ宛てられた起請文ほか所領等にかかわる文書十四通を受け継いでおり、「千葉姉様」を保育した小柳自鑑が預かり、子孫と思われる「小柳源次兵衛」まで受け継がれていたようである。元禄4(1691)年4月25日、神代直利は小柳源次兵衛にこれらの文書を陣内神兵衛に受け取るよう命じ、中島二右衛門へ納めている。

 神代家は実質的に小城千葉宗家を継承したこととなり、平姓九曜を用い、千葉家の通字のひとつ「常」を諱に用いることとした。

 鍋島直茂――――鍋島忠茂―――佐野茂久
(加賀守)   (和泉守)  (右衛門)
         ∥      ∥
       +―娘      ∥
       |        ∥
       | 千葉胤誠―――娘(千葉姉様)
       |(千葉介)   ∥
 江上武種――+        ∥
(左馬大輔)=+―江上家種―――佐野茂美===佐野茂久
       |(武蔵守)  (右京亮)  (右衛門)
       |
 龍造寺隆信―+―龍造寺政家――佐野雅義
(山城守)   (肥前守)  (源四郎)


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