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千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
| (千葉介) |(大宰少弐) (大宰少弐) (千葉介)
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| |【晴気千葉家】
| 少弐教頼――+―千葉胤資
| (太宰少弐) (肥前守)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤 ∥ +―千葉胤治
(右京大夫) | ∥ |
| ∥ |
+―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁 +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
|(千葉介) | |(千葉介) |(加賀守)
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| | +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
| | (千葉介) (千葉介) (忠右衛門)
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| +=【祇園千葉家】
+―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
|(千葉介) (千葉介) (丹波守) (千葉介) (日住)
| ↓
+―千葉胤将 神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
(妙法院僧侶) (大和守) (刑部大輔)
千葉胤盛(????-1497?)
小城千葉氏十二代。千葉右京大夫胤紹の三男。通称は千葉介。河上社大宮司。小城郡祇園山城主となった「祇園千葉氏」の祖。
文安2(1445)年8月、父の千葉右京大夫胤紹が兄で前惣領・千葉胤鎮との川上村西山田(佐賀市大和町)の戦いで大敗し、国府城(佐賀市大和町尼寺)で長男の千葉政胤とともに討死した。その後、胤鎮が再度惣領となり、小城の北・祇園山(祇園山)に新城を築いて本城とした。このとき、次男・胤朝、三男・胤盛は国府から脱出し、大内氏を頼ったものと思われる。四男は妙法院の稚児になっていたのか、のちに妙法院の住僧となっている。
千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤
| (千葉介)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤
(右京大夫) |
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+―千葉介胤朝
|(千葉介)
| 【祇園千葉家】
+―千葉胤盛―――千葉介興常
|(千葉介) (千葉介)
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+―千葉胤将
(妙法院僧侶)
寛正5(1464)年10月、惣領家・千葉介元胤(胤鎮嫡子)が急死。元胤の弟・教胤が十四歳で跡を継ぐも家中は混乱しており、兄の胤朝は大内政弘を通じて九州探題・渋川右衛門佐教直と結んで教胤の追い落としを図った。胤盛がそれに従ったかは史料に遺されていないが、行動はともにしていたと思われる。
ところが、その後おこった応仁の乱で、大内政弘は西軍(山名宗全)方の主力として上洛し、代わって対馬に逃れていた少弐頼忠(政尚、政資)が、対馬の宗貞国に擁立されて筑前へ入り、大宰府を占拠した。大内勢は劣勢で、少弐政尚はその勢力を広げていく。そして大内家に一貫して従う兄・胤朝に対して、胤盛は現在優勢な少弐氏と協力すべきとの立場にあったと思われる。そして、文明4(1473)年から文明8(1776)年までの間に、胤盛は胤朝から惣領家の本城である祇園山城を奪った。おそらく胤朝へ少弐氏からの圧力があったものと思われるが、胤朝は祇園山城を明け渡すと、千葉家旧城の晴気城へと退いたと思われる。
こうした背景の中、文明8(1476)年2月、兄の「千葉介胤朝」は内田某を藤津郡に派遣して、有尾城に大村家親を破って追放するなど(『九州治乱記』)、胤朝の勢力拡大が見られる一方、「平胤盛」も同年2月3日、高木兵部少輔が河上社領の佐嘉郡高木内の神野仏性料田に違乱をしたことから、兵部少輔に「高木名字」を禁じる命を下している(『実相院文書』)。胤盛が佐嘉郡内および河上社に所縁の深い高木氏に関して影響力を持ち、胤盛が胤泰以来の河上社の大宮司職として国務・社務・社領に関する決定権者であったことがわかる。
翌文明9(1477)年10月7日、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納めており(『河上社宝殿棟札写』)、祇園山城に在城して千葉惣領家を自認していたとみられる。
ところが、文明9(1477)年10月3日、応仁の乱の収束に伴い、大内政弘は将軍家より周防国、長門国、豊前国、筑前国の守護職に任じられ、11月、周防国山口へ帰陣。翌文明10(1478)年8月には、守護職を務める豊前国へ少弐氏追討のため自ら出陣した。そして9月25日、少弐政資を太宰府から放逐してふたたび占拠する。
その後、政弘は肥前へ出立し、仁保平左衛門頼重を「小城春日城(晴気城)」に遣わし、胤朝と折衝している。このとき、「探題御心中依御同心」として、探題・渋川教直が政弘と同心の意思であること、弟の胤盛と下松浦仁は「遅参云々」であることを語っている。胤盛が大内政弘から参陣を促されていたことと、それを事実上拒絶していることがわかる(『正任記』)。
また、胤盛は探題・渋川教直の指示にも従っておらず、10月6日、探題・渋川教直が派遣した使者・万年寺明範が政弘の陣所を訪れた際、「千葉胤盛事」について、政弘の「御内儀」のとおり、「先小城之城事、可去渡之由、被仰遣候処、難叶云々、於和与之儀者、無子細候由也」と、「小城之城」を明け渡すよう命じるも胤盛は拒否し、「和与」には応じると返答したことを伝えている。これにより、政弘は同道していた重臣・陶弘護、杉重道の言上によって胤盛追討を決定。また、万年寺明範も「於以後被任御当方之儀、可有御合力胤朝由」と、探題・渋川教直は胤朝に合力し、胤盛にはいささかも協力しないことを約束している(『正任記』)。
政弘は胤朝の祇園山城復帰の戦いに合力することを書状にしたためて胤朝へ遣わすとともに、探題へは胤盛の事は追討することとなったことを伝えた。さらに、上下松浦党にも胤朝へ味方するよう指示している。翌7日、胤朝に合力するよう江口余三郎忠郷を秋月太郎種朝、千手越前入道道吽のもとへ遣わした。さらに翌8日、政弘のもとに「松浦弾正少弼入道皎達、同肥前源二郎少弼甥云々」からの「源次郎御一字望」の書状が届き、政弘はその返信に「先為胤朝合力、可出陣、追而可有言上」すべきことを指示した(『正任記』)。また、松浦党内部においての「対同名丹後守可及弓矢云々」は「小城対治之間、可相待候」とし、まずは小城郡での胤盛追討を優先する指示を出している。9日には、胤朝に合力するべく、波多下野守泰、白石左衛門大夫通顕が下多久を進発、それに加えて松浦後藤兵庫頭、渋江右馬頭が波多・白石勢と合流、さらに少弐勢を駆逐中の探題・渋川教直も五百の兵を胤朝合力のために派遣している(『正任記』)。
| 少弐方 | 大内方 |
| 少弐政尚(逐電中) | 大内政弘 |
| 渋川教直(探題) | |
| 千葉胤盛(祇園山城) | 千葉胤朝(晴気城) |
| 大友政親(政弘妹婿) | |
| 宗貞国(対馬島主) |
そして20日前後に、祇園山にて合戦が行われたと思われる。しかし、結果としては城は落ちず、21日には小城攻めに参戦している秋月太郎種朝、千手越前入道道吽両人の使者が政弘のもとを訪れて「小城之時宜条々言上」している。22日には「依千葉両家落居之儀延引、落人等神埼辺少々出張之由」が報告されている(但し、「不実之由風聞」とも)。23日、「佐賀郡春日山(府中尼寺の北山)」に在陣していた胤朝の使者・菊泉坊玄忠が政弘のもとに参じ、「時宜同篇由」を言上した(『正任記』)。胤朝が小城を離れて「府中」館近くまで出張っていた理由は不明ながら、府中辺りに探題が在陣していた可能性もあるか。
その後、探題・渋川教直は「千葉両家和与事」を胤朝と胤盛の両者へ提案したところ、胤朝は「不可叶候由申切了」と強硬に拒絶する一方、胤盛は「可任御意之由」と和睦については探題に一任するという柔軟な姿勢を見せている(『正任記』)。教直は万年寺を使者として29日に政弘へこれを伝えている。その結果、胤朝と胤盛は和解したようで大内氏に降伏したのだろう。文明12(1480)年6月29日には、胤朝・胤盛兄弟はともに河上社の「後座主宰将公殿」へ「肥前国佐嘉郡之内山田三十町」を安堵している。胤朝も河上社へ対して社領安堵状を発給していること、胤朝は「知行不可有相違之状」とある一方で、胤盛は「御知行不可有相違之状」とあり、胤朝が胤盛に代わって河上社の大宮司職に就いた可能性もあろう。文明18(1486)年4月5日、「平胤盛」が河上山実相院に佐嘉郡内に寺領を安堵している。
そのような中で、同年10月3日の夜、兄・胤朝は胤将によって「国府(祇園山か)」において暗殺された。享年五十一。胤朝急死の報を受けた少弐政資は騒乱を惹起した「彼悪党次郎胤将以下の輩誅罰すべし」と激怒する。しかし、胤将や同類はすでに逐電し、胤将与党は散々に消えていた。少弐政資はこの千葉家断絶を嘆き、12月3日に自分の弟を胤朝の娘と娶わせ、千葉肥前守胤資と名乗らせて跡を継がせた(『九州治乱記』)。
胤盛は「兄よりいと早く死去しぬ」とあり、胤朝の死去以前に亡くなったとされているが、明応6(1497)年正月23日、「平胤盛」は「河上山唯真坊律師」に対して「河上社座主職」と「往古神領」である佐嘉郡内の社領を安堵していることから、胤朝の死後も生存し、胤朝の死後は少弐政資による千葉家介入に反発し、「兄討死之後赴于中国頼大内介」と、子・胤棟(興常)とともに大内家を頼っている。そして、胤盛が安堵状を出した明応6(1497)年正月は、大内義興が筑前に攻め入って少弐勢を駆逐した月であることから、胤盛・興常は大内義興に同陣し、少弐政資・高経親子が肥前へ逃れたのを追って、千葉家の再興を図り、河上社の大宮司職にふたたび就いたのだろう。
没年は不明。法名は日盛。