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千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
| (千葉介) |(大宰少弐) (大宰少弐) (千葉介)
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| |【晴気千葉家】
| 少弐教頼――+―千葉胤資
| (太宰少弐) (肥前守)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤 ∥ +―千葉胤治
(右京大夫) | ∥ |
| ∥ |
+―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁 +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
|(千葉介) | |(千葉介) |(加賀守)
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| | +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
| | (千葉介) (千葉介) (忠右衛門)
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| +=【祇園千葉家】
+―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
|(千葉介) (千葉介) (丹波守) (千葉介) (日住)
| ↓
+―千葉胤将 神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
(妙法院僧侶) (大和守) (刑部大輔)
千葉喜胤(1507-1542)
小城千葉氏十五代。東千葉氏二代。東千葉初代・千葉介興常の次男。官途は丹波守。娘は千葉介胤頼妻。
目立った活躍は伝えられていないが、天文9(1540)年、父・興常が亡くなると家督を継承した。
天文10(1541)年には島原半島高来郡の有馬賢純が武威を張り、彼杵郡から小城郡、佐賀郡をうかがった。当時、晴気城の千葉介胤勝とその子・千葉胤連は対立しており、有馬賢純はこれに乗じたものであった。胤勝はこれまでの経緯から、おそらく大内方であったろう。対して子の胤連は少弐方の心底であったのかもしれない。
しかし、有馬賢純の侵攻に危機感を強めた少弐方の龍造寺三郎右衛門家門は、おそらく少弐冬尚の指示のもと大内方の祇園山・千葉喜胤、晴気・千葉介胤勝、千葉胤連を説得し、少弐氏との同盟を結ばせることに成功する。少弐冬尚は実弟に喜胤の娘を娶らせて喜胤の婿養子(千葉胤頼)とし、祇園山千葉氏の平井館へ入った。また、千葉胤連の養子として龍造寺党の鍋島清房の子・彦法師丸を入れて、千葉氏、少弐氏、龍造寺氏の連携を強めた。この連携を察した有馬賢純は侵攻を断念し、軍を退く。
しかし、喜胤はこのころ悪疾に冒されており、天文11(1542)年閏3月29日、三十四歳の若さで自害した。