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千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
| (千葉介) |(大宰少弐) (大宰少弐) (千葉介)
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| |【晴気千葉家】
| 少弐教頼――+―千葉胤資
| (太宰少弐) (肥前守)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤 ∥ +―千葉胤治
(右京大夫) | ∥ |
| ∥ |
+―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁 +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
|(千葉介) | |(千葉介) |(加賀守)
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| | +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
| | (千葉介) (千葉介) (忠右衛門)
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| +=【祇園千葉家】
+―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
|(千葉介) (千葉介) (丹波守) (千葉介) (日住)
| ↓
+―千葉胤将 神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
(妙法院僧侶) (大和守) (刑部大輔)
千葉胤頼(1532-1559)
小城千葉氏十六代。東千葉氏三代。千葉丹波守喜胤の婿養子。少弐資元の三男。通称は千葉新介。天文元(1532)年、筑前国に生まれた。屋形号を号した。
天文10(1541)年、有馬氏の小城・佐賀郡への侵攻を警戒した龍造寺三郎右衛門家門の説得に応じた晴気千葉介胤勝、千葉胤連と祇園山千葉喜胤は、少弐冬尚と同盟を結ぶことを受け入れ、晴氣千葉家には、龍造寺党の鍋島清房の子・彦法師丸が養子に入り、祇園山千葉家には、少弐冬尚の十歳になる弟が喜胤の婿養子として入り、「千葉胤頼」と名を改めた。祇園山千葉家はその祖・千葉介興常より代々大内家の影響下にあったが、ここに至って祇園山・晴気の両千葉家は少弐氏のもとに参じたことになる。
少弐貞頼――+―少弐満貞―――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経 +―少弐冬尚
|(大宰少弐) (大宰少弐)|(大宰少弐)| |(大宰少弐)
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| +―千葉胤資 +―少弐資元―+―千葉胤頼――千葉胤誠――娘(千葉姉様)
| (肥前守) (大宰少弐) (千葉介)
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| 千葉胤紹―+―千葉胤朝―――尼日光 ∥
|(右京大夫)|(千葉介) ∥
| | ∥
| +―千葉胤盛―――千葉興常―――千葉喜胤―――娘
| (千葉介) (丹波守)
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+―横岳頼房―――横岳資貞―+―横岳資誠
(兵庫頭) |(讃岐守)
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+―千葉胤勝―――千葉胤連===千葉胤安【鍋島直茂】
(千葉介) (千葉介) (彦法師丸)
天文11(1542)年閏3月29日、養父・千葉喜胤が病を苦に自害すると、十一歳で家督を継承する。当時、祇園山・晴氣の両千葉家はともに少弐氏に属しており、抗争は起こっていない。ところが天文13(1544)年、少弐冬尚は、有力な支持者であった龍造寺剛忠入道(家兼)率いる龍造寺党が大内氏に通じているという重臣・馬場頼周の言葉を信じ、龍造寺党の討伐を画策した。馬場頼周は龍造寺党の勢力拡大への危機感と、かつて少弐資元が大内勢に討たれた際に、龍造寺党が積極的に少弐勢を援護しなかったことに怒りを感じていたとされる。
少弐冬尚は上松浦郡の波多氏や、島原の有馬氏に龍造寺党を攻めるよう依頼する一方で、龍造寺剛忠入道へは、有馬勢の侵攻を食い止めるよう指示する。11月21日、剛忠は一族の将士を出陣させるが、翌天文14(1545)年正月、龍造寺党は一族の武士を多く喪うという敗北を喫し、水ヶ江へと退いた。この包囲の中には少弐勢も含まれていたようで、剛忠はようやく冬尚の謀略と悟ったのだろう。その後、馬場頼周ら少弐氏の重臣が剛忠に水ヶ江館を明け渡して、冬尚の赦しを請うよう説得し、正月22日、剛忠は水ヶ江を出た。そして、一族の龍造寺周家、家泰、頼純を冬尚のもとに派遣するが、馬場頼周・神代勝利の手勢によって悉く討ち取られ、さらに別に動いていた剛忠の嫡男・龍造寺家純、次男の家門、純家も馬場頼周の子・馬場政員によって殺害されたという。
剛忠入道はからくも大友家の重臣である蒲池鑑盛を頼って筑後国柳川へと逃れた。佐賀郡の龍造寺党はここに崩壊、所領は少弐冬尚によって家臣たちに与えられ、水ヶ江館は少弐勢の小田政光が入ることとなった。
この佐賀郡周辺の戦乱は、両千葉氏をも二分したようで、馬場頼周・江上元種・千葉胤頼は龍造寺家と親密な千葉介胤連を討つべく2月27日に晴気城下に乱入し、29日の戦いで胤連を晴気城から追った。その後、胤連は杵島郡白石郷(杵島郡白石町)へ逃れている。その後、晴気城には胤頼が入り、祇園山城は、改修の上で少弐冬尚の居城とするべく城普請が開始された。また、馬場頼周は少弐家の本拠であった勢福寺城に入ることとなった。
ところが、龍造寺剛忠入道の反撃は素早く、龍造寺党の一人・鍋島清久は鹿江兼明、南里国有らを語らって剛忠を迎え、3月24日、佐賀郡川副郷無量寺にて挙兵。たちまち水ヶ江館を攻め落とした。さらに、千葉介胤連も配下の将士を糾合してそれに合流し、4月2日、馬場頼周が城普請を行っていた祇園山城に攻め寄せた。この城普請を行っていた民衆も馬場頼周に反抗したため、頼周は為す術なく城を脱出する。しかし、川上まで逃れたところで捕縛され、斬首された。少弐冬尚は勢福寺城へと逃れていく。
龍造寺党の本家筋である村中龍造寺胤栄も少弐冬尚に追われて筑前国へと逃れていたが、天文15(1546)年、佐賀郡への帰還を模索し、大内義隆と通じた。大内義隆も3月2日、重臣の杉隆満を遣わして協力を約束。4月には少弐氏を破って佐賀郡への帰還を果たした。これにより大内義隆より佐賀郡、神埼郡、三根郡、坊所に所領をあてがわれ賞された。このころ、龍造寺胤栄とともに行動していたのが、千葉介胤連の偏諱を受けて還俗し、水ヶ江龍造寺家を継いだ龍造寺胤信であった。
天文16(1547)年閏7月、龍造寺胤信は千葉介胤連や大内家の杉隆満らとともに勢福寺城に攻め寄せ、千葉胤頼や宗本盛入道ら少弐勢はこれを防ぐが、8月、神埼郡において宗本盛入道が討死を遂げ、10月16日、少弐冬尚はついに勢福寺城から逐電した。
天文22(1553)年10月13日、光勝寺に「小城郡久遠壽寺敷地弐町」を守護不入の寺領として永代寄進した。
永禄2(1559)年正月11日、胤頼は千葉介胤連に晴気城を攻められ、晴気城東方の山中における戦闘で戦死した。享年二十八。戒名は天受本龍大禅定門。法号は日頼。遺体は千葉家代々の菩提寺であった臨済宗三間山円通寺に葬られた。