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千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
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| +―千葉介教胤 +―少弐政資―――――少弐資元―――千葉胤頼
| (千葉介) |(大宰少弐) (大宰少弐) (千葉介)
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| |【晴気千葉家】
| 少弐教頼――+―千葉胤資
| (太宰少弐) (肥前守)
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+―千葉胤紹――+―千葉政胤 ∥ +―千葉胤治
(右京大夫) | ∥ |
| ∥ |
+―千葉介胤朝―+―尼日光――――+=千葉介胤繁 +=鍋島直茂――【佐賀藩主】
|(千葉介) | |(千葉介) |(加賀守)
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| | +=千葉介胤勝―――千葉介胤連――+―鍋島胤信――【佐賀藩千葉家】
| | (千葉介) (千葉介) (忠右衛門)
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| +=【祇園千葉家】
+―千葉胤盛――――千葉介興常――――千葉喜胤====千葉胤頼―――――千葉胤誠――千葉姉様
|(千葉介) (千葉介) (丹波守) (千葉介) (日住)
| ↓
+―千葉胤将 神代勝利―――――神代長良==千葉姉様
(妙法院僧侶) (大和守) (刑部大輔)
千葉興常(????-1540)
小城千葉氏十四代。東千葉氏初代。千葉介胤盛の子。千葉介胤朝の養子。初名は「胤棟」。興常より始まる「東千葉家」にに千葉家系図、妙見像、妙見太刀の三種の家宝が伝わっていることから、東千葉家が小城千葉氏の惣領家といえる。
文明10(1478)年10月3日、惣領家の伯父・千葉介胤朝が、対立していた叔父・千葉次郎胤将によって「国府(祇園山か)」で暗殺されると、少弐政資はわずか二か月後の12月3日には自分の弟を胤朝の娘と娶わせ、千葉肥前守胤資と名乗らせて跡を継がせた(『九州治乱記』)。
興常の父・胤盛は胤朝より早くに没したとされるが、実は胤朝以降も活動が見られることから、子の胤棟とともに大内家を頼ったとみられる。そして胤棟は元服時に太守・大内義興から一字を賜り、「興常」と改めた。
その後、大内家の小城郡攻略の礎として小城に派遣され、小城郡赤自館(小城市三日月町織敷赤司)に拠点を置いて、延徳3(1491)年に千葉胤資と合戦している。
明応6(1497)年正月、大内義興率いる大内勢は幕命を以て筑前国に攻め込み、陶興房が筥崎を占領。高祖城(糸島市高祖)に籠っていた少弐政資・高経親子は、それぞれ岩門城と勝尾城へ移るが、大内勢に攻められて陥落。政資は晴気城の弟・千葉胤資を頼って小城に逃れ、高経は勢福寺城に拠った。しかし、勢福寺城も大内勢の猛攻の末に落ち、高経は父や叔父を頼って小城へと落ちていった。
少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経 +―少弐冬尚
(大宰少弐)|(大宰少弐)| |(大宰少弐)
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+―千葉胤資 +―少弐資元―+―千葉胤頼
(肥前守) (大宰少弐)|(千葉介)
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千葉胤紹―+―千葉胤朝―――尼日光 +―少弐元盛
(右京大夫)|(千葉介)
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+―千葉胤盛―――千葉興常
(千葉介)
正月23日、「平胤盛」が「河上山唯真坊律師」に対して佐嘉郡内の河上社領を安堵しており、胤盛と興常は大内義興の軍に呼応したとみられる(胤盛・興常がこのとき小城郡赤自館にいたかは不明)。なお、胤盛は「兄よりいと早く死去しぬ」とあり、胤朝の死去以前に亡くなったとされているが、この年までは胤盛の活動が確認できる。おそらくその後、興常は祇園山城(千葉惣領家の本城)を乗っ取り、祇園山城が小城郡の東にあったことから興常の子孫は「東千葉」、または居城に勧請されていた「牛頭天王(祇園)」に因んで「祗園千葉」と呼ばれた。
そして4月13日、大内勢に加わる千葉興常が大内軍の将として晴気へ攻め入ると、兄・少弐政資の身を案じた千葉胤資は、政資に多久藤兵衛宗時(政資舅)の居城・梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資を晴気から逃れさせている。しかし、翌19日には大内義興は政資逐電の報を得て軍勢を梶峯城へ派遣している。この大内勢の大軍を前に多久宗時も万策尽きて政資に自刃を勧め、これに応じた政資は多久泉称寺で自刃して果てた。また、子の高経は晴気から父・政資とは別行動をとっていたが、21日に市ノ川の山中で自害した。
政資・高経は辞世の句を残したという(『北肥戦誌』)。
政資、打額きながら、一首の辞世に斯く計り、
と打ち吟みて、静かに腹をぞ切られける。
高経、今は遁がれぬ所よと、同廿一日、市川山中にて、とある木陰に立ち寄り、懐中より矢立を取り出し、辞世とおぼしくて、
と、一首の歌を書き付け、鎧脱ぎ捨て、腹掻き破って臥せけり
千葉胤資亡き後、西千葉氏(晴気城)の勢力は大きく後退、興常が名実ともに小城千葉氏の惣領となる。
一方、晴気城を逃れていた胤資室・尼日光、胤治らは晴気城の南東、小城郡甕調郷(小城市三日月町)の高田城に入ったが、翌明応7(1498)年2月24日、少弐一族ながら大内方に降伏していた筑紫満門・東尚盛らが高田城に攻め寄せたため、尼日光、胤治らはふたたび城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに対して援けを求め、これに応じた龍造寺豊前守胤家が、反対する弟・龍造寺家和を振り切って成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らとともに高田城へ攻め寄せ、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、千葉介興常が筑紫・東を救うべく出陣して龍造寺勢に攻めかかったため、龍造寺勢は大敗。尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃亡して、大内義興は興常を肥前国守護代とした。
永正元(1504)年、肥前国三根郡西島(佐賀県三養基郡みやき町)の横岳資貞に養育されていた少弐資元(少弐政資の遺児)が、大友頼治の後援を得て挙兵した。少弐資元は大内方の肥前国神埼郡の勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて筑後へ放逐し、少弐氏を復興。白虎山城は重臣の馬場頼経に守らせた。この少弐氏の復権によって、晴気千葉氏の千葉胤治らは高田城へ帰還することとなるが、二年後の永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らによって胤治らは再び高田城を追われ、龍造寺党を頼ることとなる。
こうした中、翌年の永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することとなったため、義興は足利義尹の命であるとして、少弐資元に和睦を持ち掛け、大内家と少弐家は和睦することとなる。これにより資元は肥前守に任官し、尼日光、胤治らは、本来の居城である晴気城へ帰還が認められた。ただし、同年6月14日、千葉胤繁が「持永大蔵丞」に対して「舊地今河領小城郡大楊、乙牟礼廿四町」を「今度差戻」ので、ますます忠貞を尽くすべきとの書状を与えており、この帰還に当たっては、胤治は隠居して高田館へ移り、胤繁が家督を継承したと思われる。「持永大蔵丞」は持永大蔵丞秋景のことであるが、秋景の伯父・今川伊予守胤秋が応仁元(1467)年6月に千葉介教胤に反抗して討たれ、所領を収公されており、胤繁はそのときに奪った旧今川領を秋景に戻したことになる。
少弐氏との和睦が成ると、大内方の将として小城郡を縦横に活躍した千葉介興常は「屋形」号を許可された。屋形号は国主クラスに与えられる名誉ある称号であり、興常が小城千葉氏の惣領家であることの証明でもあった。
こうして、後顧の憂いのなくなった義興は、永正5(1508)年6月、足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からも横岳資誠、龍造寺家和らが義尹の供奉衆として従軍する。この義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹は将軍職に返り咲き、名を義稙と改める。
こうした中、永正7(1510)年3月13日、胤治は高田城で討死を遂げた。享年二十五。当時、大内氏と少弐氏は和睦中であり、胤治の討死は大内氏との戦闘によるものではないと思われることから、義弟・胤繁との戦闘での討死の可能性もあろう。さらに翌永正8(1511)年9月には、胤繁もまた十八歳の若さで卒している。その後、尼日光(胤朝娘、胤資室)は横岳兵庫頭資貞の子・満童丸(胤勝)を養子に迎え、晴気千葉家はこの胤勝を当主として続くことになる。
この晴気千葉家の家督相続については、惣領家である祇園山千葉家の興常や重臣層と相談なく進められたもののようで、「本千葉殿御若輩ニ而候故、誰とかや申人之校量ニ而、横武ト云人之子ヲ千葉ニ可取立と被仕候」とされ(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)、三十代半ばの興常を差し置き、「誰とかや申人(興常の伯母・尼日光を指すか)」が本宗家を無視して他家より養子を迎えたため、「原、円城寺、中村、白井、平田なと申者共、本千葉ヲ奉捨、横武ヲ千葉ト不可仰と随不申候」(『右馬允殿千葉之事』神代家文書)という事態を招いたと思われる。
永正10(1513)年12月15日、興常は中村主馬允に「肥前国杵島郡山口八十町」のうち、「浪打今里弐拾五町」についての知行安堵状を発給し、翌永正11(1514)年8月10日と11月2日の二度にわたって中村三河守に知行安堵状を発給した。そして、大永3(1523)年3月、千葉氏代々の祈願寺である松尾山光勝寺へ「肥前国杵嶋郡之内水尻分弐十四町」を寄進した。
一方で、晴気千葉家の千葉介胤勝も勢力を拡大しつつあった。永正11(1513)年3月15日、肥前国佐嘉郡の龍造寺家和の嫡男・龍造寺新次郎に「胤」字を授け「胤久」の名乗りを与えたのを皮切りに、4月には、龍造寺勢とともに東尚盛を攻めて肥前上松浦郡に放逐。占領した東館には重臣の鑰尼胤光を置いて守らせ、少弐資元や龍造寺氏と連携して勢力を拡大していった。大永6(1526)年9月24日、胤勝は三浦右衛門大夫に「肥前国佐賀郡之内寄人七拾五町并豊益弐拾九町」の宛行状を発給している。胤勝の勢力は佐嘉郡内にまで広がっていたことがうかがえる。
永正14(1517)年、少弐資元は正式に大宰少弐に任じられると、亨禄元(1528)年には嫡男・松法師丸(冬尚)に家督を譲り、資元は大宰府を奪還する。大宰府を手放して以来二十年ぶりの少弐家の大宰府奪還であった。大内義興は大宰府陥落の報告を聞くと、危機感を募らせて将軍・足利義稙へ少弐家討伐を請うたが許されず、さらに中国地方では出雲守護代・尼子経久が領国を侵略しつつあり、その対応に追われて九州戦線へ深く介入することができないまま、12月20日に病死してしまった。跡を継いだのは嫡男の大内義隆で、九州の覇権を取り戻すべく積極的に動き出した。
亨禄3(1530)年3月、大内義隆は将軍・足利義晴から少弐氏討伐の許しを得ると、ただちに筑前守護代・杉興連に少弐資元追討を命じ、肥前へ大軍を送り込んだ。資元は多久梶峰城へ拠点を移し、これに対抗するが、杉興連は肥前国基肄・養父・神埼郡へ攻め入り、少弐一族の朝日頼貫、筑紫尚門、横岳資貞らはたまらず降伏。父・資貞の説得があったか、晴気千葉家の千葉介胤勝も大内家に下った。大内勢は勢いを増して各所に侵攻するが、8月15日、勢福寺城に程近い神埼郡田手において、少弐方の龍造寺家兼率いる龍造寺党ほか少弐一族が迎え撃ち、龍造寺勢の鍋島清久・清正・清房ら鍋島一族が赤熊の甲冑を着し、杉興連勢の横合いに突撃したため、大内勢は大混乱に陥り、横岳資貞、筑紫尚門が討死を遂げた。これにはたまらず、杉興連も大宰府まで退却せざるを得なかった。
享禄4(1531) 年閏5月20日、興常は「龍造寺民部大輔(龍造寺胤久)」へ宛てて、千葉家や龍造寺党のために働くよう命じているが、「其方之儀無心元存之候」とある。胤久は本来、龍造寺一族の惣領であるが、後見人の叔父・龍造寺家兼が実権を握っており、前年の大内氏と少弐氏の戦いにも見られるとおり、少弐氏の有力支持者として活躍をしており、胤久の烏帽子親である千葉介胤勝も大内勢に加担している状況の中で、龍造寺党を大内方に加担させる狙いがあった可能性もあろう。
天文元(1532)年11月、大内義隆の命を受けた名将・陶興房入道道麟は筑前に攻め入り、さらに肥前へと軍を進めた。これに少弐資元は龍造寺家兼の支援のもと、子の松法師丸とともに勢福寺城へと入った。翌天文2(1533)年10月17日、千葉介興常は千葉介胤勝とともに川上実相院に祈祷料についての文書を発給しており(『実相院文書』)、両千葉家はともに大内方に属していた様子がうかがえる。
翌天文3(1534)年2月15日には同じく実相院に千葉介興常と千葉介胤勝が連署で禁制を与えており(『河上神社文書』)、さらに2月29日には、興房入道自身が実相院へ「諸軍勢甲乙人等、乱妨狼藉」を禁じる禁制を与えており(『河上神社文書』)、このころ興房入道は龍造寺党の本拠・水ケ江に程近い佐賀まで侵攻し、陶軍には両千葉家が加わっていたことがわかる。陶興房は5月16日、水ケ江館に襲いかかるが、堅い守りに阻まれて退却。さらに7月15日には龍造寺家兼勢に不意を突かれて基肄郡まで潰走した。
少弐勢の抵抗を聞いた大内義隆は、10月、自ら渡海して肥前に乗り込み、勢福寺城を包囲した。義隆は陣中の千葉介興常と子・千葉喜胤を招くと、龍造寺家兼から少弐資元へ和睦を勧めさせるよう指示し、家兼の陣中へ遣わした。もともと龍造寺党は千葉氏の影響力を強く受けてきた一族であり、家兼も承知して資元に和睦を勧めた。結局、資元も説得に応じて、勢福寺城を義隆に明け渡すことになる。義隆は和睦に満足して山口へと引き上げ、陶興房は大宰府に在陣した。
しかし、大内義隆は少弐氏を完全に屈服させることを目標としており、翌天文4(1535)年10月、陶興房に命じて三根郡、神埼郡、佐賀郡内の少弐氏領を悉く没収した。これに反抗した少弐資元は12月29日、多久梶嶺に走った。大内義隆の少弐氏攻略の執拗さは、天文5(1536)年5月16日、「大宰大弐」の官職を得たことでもわかる。官職上でも義隆は少弐氏の上官となった。
千葉介興常は陶興房や肥前諸豪族とともに、9月、少弐資元の籠もる多久梶嶺城を包囲する。もはや手勢もない資元には抵抗する術はなく、9月4日、多久専称寺に入って自害した。
天文5(1536)年3月5日、興常は「後藤殿」に「肥前国杵嶋郡内山口八拾町、小城郡内原分弐拾四町」の知行宛行状を発給した。後藤氏は少弐氏攻めに功あり、その恩賞であろう。興常が小城郡のみならず、杵島郡の支配も任される存在だったことがわかる。
天文9(1540)年6月4日に卒した(『神代本千葉系図』)。法名は本光寺殿。日慶。日蓮宗本光院に葬られた。