| 継体天皇(???-527?) | |
| 欽明天皇(???-571) | |
| 敏達天皇(???-584?) | |
| 押坂彦人大兄(???-???) | |
| 舒明天皇(593-641) | |
| 天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
| 志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
| 光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
(1083?-1143?)
| 生没年 | ????~???? |
| 別名 | 経繁(『下総権介平朝臣経繁寄進状』) |
| 父 | 千葉次郎大夫常兼 |
| 母 | 鳥海三郎大夫忠衡女 |
| 位 | 正六位上(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』) 従五位下(『吾妻鏡』建仁元年三月二十四日条) |
| 荘官 | 千葉庄検非違所 |
| 官 | 無 |
| 在庁職 | 下総権介 千葉郡司 相馬郡司:天治元(1124)年10月~保延2(1136)年7月? |
| 所在 | 下総国千葉庄 |
| 法号 | 善応宥照院 |
| 墓所 | 阿毘廬山大日寺? |
千葉氏四代。通称は千葉大夫、大権介(『桓武平氏諸流系図』『徳島本千葉系図』『源平闘諍録』)。父は千葉次郎大夫常兼。母は鳥海三郎大夫忠衡女(『桓武平氏諸流系図』)。官位は正六位上(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』)、のち従五位下(『吾妻鏡』建仁元年三月二十四日条)。官は「下総権介(国司より補任された在庁「権介」である)」、郡司としては「相馬郡司(千葉郡司でもあったろう)」。荘官としては千葉庄検非違所。永保3(1083)年3月29日誕生と伝えられるが(『千葉大系図』)、史料的な根拠はない。
常重の「下総権介」は、県召除目による「下総権介」ではなく、国司が補任する在庁「権介」であろう。なお、常陸平氏の多気権守清幹は、久安4(1148)年正月28日の除目で「肥前権守従五位下平清幹 臨時内給、下名加」(『本朝世紀』)と見えるように、成功による権守補任(常陸国司ではない)である。
千葉氏はもともと上総国大椎に本拠を構え、大治元(1126)年6月に千葉へと移ったという「伝承」がある。これは「伝承」という文化面で語られる上では問題ないが、「史実」として検討を要する面で語られるのは大変な問題を含む。
常重はもともと上総国大椎を本拠として「大椎介」「大椎権介」を称したとされるが、大椎に平安期に遡る史跡はいまだ発見されず、中世城郭の大椎城は室町期以降のものであって、常重が住した痕跡は残されていない。千葉氏の記載がある系譜で比較的古いものとしては、鎌倉期成立とみられる『桓武平氏諸流系図』および鎌倉期に肥前国小城に渡った千葉家系譜の写本『徳島本千葉系図』があるが、常重の項目については、
『桓武平氏諸流系図』:「大権介」
『徳島本千葉系図』 :「大椎介」
|
|
![]() |
| 常胤 (大千葉介) |
常重 (大権介) ※大椎ではない |
とある。「権」「椎」の行書体は非常に似ており、上記の「大権介」「大椎介」は同じことを指していると考えられる。千葉家の古伝を取り込んでいる平家物語異本『源平闘諍録』にも「大権介」とみえることから、「大権介」が本来の記載であったと推測できる。
また『桓武平氏諸流系図』には常重の子・常胤についても「大千葉介」(『源平闘諍録』では千葉大介)とあり、常重の「大権介」、常胤の「大千葉介」の「大」は、子孫が両者の「尊称」として「大」を捧げたものであろう。
つまり、常重は「大椎介」ではなく「大権介」と記されたのであって、常重と上総国大椎とは何ら関係がないのである。「大椎」伝承は、系譜上のミスから生じた物語であり「史実」として用いてはならない。
『千学集抜粋』に見られる「大椎権介」は、鎌倉時代中期までに「権」が「椎」と誤写された系譜が作成され、室町期にその系統の系譜を引用した『(原)千学集』が成立し、写本の際に校正者(写者)による「椎⇒権」字の註記が記載された系統を引く写本が、抄本『千学集抜粋』として残り、「大椎権介」の誤伝が遺されたのではなかろうか。
そもそも、元永年中(1118-19)には千葉介成胤の祖である「千葉大夫」が千葉庄の荘官を務めており、承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」についての調査が行われた際に成胤は、
「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」
と言っている(『吾妻鏡』承元三年十二月十五日条)。常重が大椎から移ったとされる大治元(1126)年6月の時点で、千葉郷はすでに鳥羽院に寄進されて「千葉庄」が立荘していたのである。つまり伝承の時点で常重は千葉郡を開発・支配していたこととなり、大治元年6月の千葉移住という具体的な年月は、常重が叔父・相馬五郎常晴から相馬郡を譲られた天治元年6月をもとにつくられた伝承であると考えられる。
この「千葉大夫」は『千葉大系図』をはじめ諸系譜で常兼の事とされており、時代的にも妥当である。つまり、常重の父・常兼の代にはすでに千葉郷を寄進地とするほど開発しており、おそらく本拠と定めていたと思われる。千葉郷は現在の千葉市中央区千葉寺付近を中心に池田郷(中央区院内から亥鼻町)を北限とする郷であった。そして、千葉寺が千葉郷の宗教的中心を担っていたことを考えると、千葉氏はこの千葉寺周辺に館を構えていた可能性が高いだろう。亥鼻はおそらく池田郷に含まれていることから、少なくとも初期千葉氏の館ではありえない。
常重は千葉郷の開発を進め、その開発エリアは東は多部田(若葉区多部田町)、南は椎名(緑区おゆみ野)にまで広がっており、広大な私領開発を行ったことがわかる。
下総国相馬郡は、「自経兼五郎弟常晴相承」(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解写』)とあるように、千葉次郎大夫常兼(常重父)から五郎弟の五郎常晴へ「相承(相伝承継)」された。そして、常晴は地主職を「進退(領)掌之時、立常重於養子」とあるように、相馬郡を承継したのと同時に甥・常重を養子に立てた。つまり、相馬郡承継は当初より常晴から常重への承継が前提として常兼から弟・常晴に譲られたものと想定できる。これは常兼が急病で倒れた等の理由で、急遽私領の配分を行うに当たり、弟の常晴にまだ若い常重を託したものと思われる。
なお、常重には異母兄と思われる「常衡(常平)」がおり、彼は早々に常兼父の千葉大夫常永(常長)の養子(つまり祖父養子)とされ、在国司職「下総権介(余一介)」を務めた。その後、下総国海上郡へ移り「海上」を称している。常永(常長)からは常兼に譲られたであろう海上郡「立花郷(橘川郷)」「小見郷(麻續郷)」を除く、「木内郷(城上郷)」「三埼郷(三前郷)」「阿玉郷(編玉郷)」など海上郡一帯の地主職を譲られていたのだろう。
●『桓武平氏諸流系図』(中条家文書) 千葉常永―+―千葉恒家 |
●『徳嶋本千葉系図』 千葉常長――+―千葉常兼――+―海上常衡 |
■10世紀当時の下総(之毛豆不佐)郡郷(『和名類聚抄』)
| 郡 | 郷 |
| 葛飾郡 | 度毛、八嶋、新居、桑原、栗原、豊嶋、餘戸、驛家 |
| 千葉郡 | 千葉、山家、池田、三枝、糟[草冠+依]、山梨、物部 |
| 印旛郡 | 八代、印旛、言美、三宅、長隈、島矢、吉高、舩穂、日理、村神、餘戸 |
| 迊瑳郡 | 野田、長尾、辛川、千俣、山上、幡間、石室、迊瑳、須加、大田、日部、玉作、田部、珠浦、原、栗原、茨城、中村 |
| 相馬郡 | 大井、相馬、布佐、古溝、意部、餘戸 |
| 猨嶋郡 | 塔陁、八侯、高根、石井、葦津、色益、餘戸 |
| 結城郡 | 茂治、高橋、結城、小埇、餘戸 |
| 豊田郡 | 岡田、飯猪、手向、大方 |
| 海上郡 | 大倉、城上、麻續、布方、軽部、神代、編玉、小野、石田、石井、橘川、横根、三前、三宅、舩木 |
| 香取郡 | 大槻、香取、小川、健田、磯部、譯草 |
| 埴生郡 | 玉作、山方、麻在、酢取 |
そして、天治元(1124)年6月、常晴は常重へ「所譲与彼郡也」(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))した。これは相馬郡の「郡務」の承継という公的な部分の譲与と思われ、常晴は「彼郡(相馬郡)」の公権譲与について国衙へ解を送達したとみられる。そして、その四か月後の天治元(1124)年10月、国司は常重に「可令知行郡務之由」の「国判」を下した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。これにより、常重は正式に「相馬郡司」となった。
●久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鏑矢伊勢宮方記』:『千葉県史料』中世編)
常晴は相馬郡内の私領について、常重に「地主職」の公験を譲り渡したと思われるが、この譲渡された「地主職」は相馬郡全域ではなく「手下水海(現在の手賀沼)」より北部の「布施郷(布瀬郷)」であろう。おそらくこれらは常兼が弟・常晴へ相馬郡を譲った当初の契約によるもので、常晴は「手下水海」以南の相馬郡南部(大井郷、古溝郷)の公験を継承したのだろう。常晴は相馬郡南部と地続きである印旛郡に私領を有しており、常晴の子・常澄は印旛郡「印東御庄」について「常澄於地主致沙汰、不被御収公併庄公之時、皆地主得分也」(「前権介平常澄解」『醍醐雑事記七、八裏文書』)とあるように印東庄の地主職を有しており、常晴・常澄による開発後、醍醐寺へ寄進されたものであろう。
なお、常晴は兄・常兼から相馬郡を「相承之当初」に、この地を「為国役不輸之地」として申請し、認可された。この「為国役不輸之地」は当然ながら「(相馬)郡」という公的行政区分を指すのではなく、郡内で代々開発を続けて地主職を得ている相伝私領=布施(布瀬)郷を指す。常胤の寄進状にある「当郡」はすなわち「布瀬郷」のことで、皇太神宮領として寄進された「布瀬墨埼御厨」と同地であると考えられる。その領域は、相馬郡衙・於賦駅のある相馬郡の中心地「黒埼郷」(「意部郷」「布佐郷」(我孫子市東部から利根町立木))と、「相馬郷」(我孫子市西部から野田市東部の木野埼・目吹、守谷市から取手市)から成り、低湿地域は餘戸として民家が点在した状況だったのではなかろうか。「布瀬郷(布施郷)」は「布瀬郷内保村田畠在家海船等注文」(大治五年六月十一日『下総権介平経繁副状写』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)とあるように、郷内に国衙領の保や村が複数存在し、内海に面しては多くの船もあったことがわかる。そして、この「布瀬墨埼御厨」の領家は「前大蔵卿殿」だった。
■布施(布瀬)郷(「布施墨埼御厨」)の推定地
| 郷名 | 『倭名類聚鈔』旧郷 | 現在地 |
| 相馬郷 | 相馬郷、餘戸 | 野田市東部から柏市、我孫子市西部、守谷市、取手市 |
| 黒埼郷 | 意部郷、布佐郷、餘戸 | 我孫子市東部~利根町、つくばみらい市 |
かつての「布瀬墨埼御厨」に関する相承の公験は、大治5(1130)年6月の寄進に際して、「若横人出来、号地主有相論時、為証文所令進上也」(大治五年六月十一日『下総権介平経繁副状写』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)とした常重所持の五通の「相馬郡布瀬郷証文」に含まれており、「国司庁宣布瀬墨埼為別符時、免除雑公事案」で「別符」の国宣が下され「免除雑公事」された荘園(御厨)であった。
その後、常重は「為仰神威、定永地」という祈念のもと、後述の通り、大治5(1130)年6月11日、「相馬郡布施郷(布瀬郷)」を「貢進太神宮御領」した(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。常重が大治5(1130)年6月に皇太神宮へ寄進するきっかけとなったのは、おそらく副状の三条目にある領家の「前大蔵卿」が、死去等により不在になったことと思われる。常重は新たな荘園領主を探すため、知己であったと思われる「散位源朝臣支定」を口入人として皇太神宮の権禰宜延明に繋ぎをつけ、寄進まで漕ぎつけたのだろう。なお、「布瀬墨埼御厨」の領家だった「前大蔵卿殿」について、文書に具体的な名前はみられないが、承保2(1075)年から長承3(1134)年までの大蔵卿は、以下の通り。
■歴代の大蔵卿(『公卿補任』)
| 大蔵卿の姓名 | 就任期間 | 大蔵卿辞後 |
| 藤原長房 | 承保2(1075)年6月~寛治6(1092)年9月7日 | 播磨権守兼大宰大弐 |
| 藤原通俊 | 寛治6(1092)年9月7日~寛治8(1094)年 | 治部卿 |
| 源道良 | 寛治8(1094)年~天永2(1111)年4月24日 | 死亡 |
| 大江匡房 | 天永2(1111)年7月29日~天永2(1111)年11月5日 | 死亡 |
| 藤原為房 | 天永3(1112)年正月26日~永久3(1115)年4月2日(4月1日出家) | 出家、翌日死亡 |
| 藤原長忠 | 永久3(1115)年8月13日~大治4(1129)年11月3日(10月5日出家) | 出家、まもなく死亡 |
| 源師隆 | 大治4(1129)年~長承3(1134)年 |
常重が「相馬郡布瀬郷」の寄進状を提出した大治5(1130)年6月当時の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。長忠は永久3(1115)年から大蔵卿であり、相馬常晴が「布瀬墨埼郷」を寄進した時期と矛盾はない。また、常重が証文を提出する半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞しており、常重の証文中の「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。長忠は辞任後直後の大治4(1129)年11月3日に薨じている。
+―藤原道隆―――藤原伊周――女子
|(関白) (内大臣) ∥
| ∥
藤原師輔―――藤原兼家――+―藤原道長 ∥―――――藤原能長
(右大臣) (関白) (関白) ∥ (内大臣)
∥ ∥ ∥
∥――――――――――――藤原頼宗 ∥―――――藤原長忠
醍醐天皇―+―源高明―――――源明子 (右大臣) ∥ (大蔵卿)
|(左大臣) +=(高松殿) ∥
| | ∥
+―盛明親王―+ ∥
|(上野太守) ∥
| ∥
+―村上天皇――――冷泉天皇―――花山天皇――昭登親王――女子
(中務卿)
常重は領家藤原長忠の薨去を知ると、散位源朝臣友定(支定)を口入人として、大治5(1130)年6月11日、皇太神宮権禰宜荒木田神主延明(稲木大夫)を新たな領家として布瀬(布施)郷の寄進を図ったのだろう。
大治5(1130)年6月11日、常重は「常重依内心祈念」って、伊勢皇太神宮へ「相馬郡布施郷」を寄進した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。寄進に際しては「相副調度文書等、永令附属仮名荒木田正富先畢」した。
●大治5(1130)年6月11日『下総権介平朝臣経繁寄進状写』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)
●大治5(1130)年6月11日『下総権介平朝臣経繁寄進状写』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)
この寄進地「布施郷(布瀬郷)」については、かつて常晴が「為国役不輸之地」と認められた「布瀬墨埼御厨」と同じ範囲と思われ、「相馬郷、意部郷、布佐郷の総称」である可能性が考えられよう。
■相馬郡布施郷=相馬御厨の四至
・限東…蚊虻境(利根町立木、小文間、布川周辺)
・限南…志古多谷并手下水海(柏市篠籠田、手賀沼)
・限西…廻谷并東大路(野田市木野埼)
・限北…小阿高、衣河流(つくばみらい市小足高、小貝川)
同時に提出された副状には「布瀬郷証文」「布瀬郷内保村」とあるように、寄進地として「布瀬郷」が記されている。
●大治5(1130)年6月11日『下総権介平経繁副状写』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』)
常重からの寄進状や副状、条件を記した起請などの附嘱状は、散位源友定を通じて口入神主・荒木田神主延明へと渡され、8月22日に延明が請文二通を認めて禰宜荒木田神主元親へ提出。一通は両通同定を経ても延明へ返却され、寄進が成立した(大治五年八月廿二日『権禰宜荒木田延明請文写』)。
●大治5(1130)年8月22日『権禰宜荒木田延明請文写』(『鏑矢伊勢宮方記』:『平安遺文』)
荒木田延明請文に付された常重の起請には、開発田数に任せて地利上分・土産物等の上納が示されており、常重とその子孫は「得分」として「加地子」を取る権利を得た。寄進条件は、毎年「供祭料」として「地利上分(田:段別一斗五升、畠:段別五升)」と「土産物(雉佰鳥、鹽曳鮭佰尺)」を内宮の「一禰宜荒木田神主元親」と口入神主「権禰宜荒木田神主延明」に納めることであった。
■常重が寄進した相馬御厨の荘官及び荘園領主
| 職 | 人物 | 得るもの | 備考 |
| 下司職 | 下総権介常重(その子孫) | 加地子(貢物外の徴収物) | |
| 預所 | 散位源朝臣支定(その子孫) | 荘園からの貢物の一部 | 口入人 |
| (領家) | 皇太神宮権神主荒木田延明(その子孫) | 地利上分+土産物の半分 (件濟物之内、相分半分定) |
口入神主(皇太神宮) |
| (本家) | 一禰宜元親神主(その子孫) | 地利上分+土産物の半分 (件濟物之内、相分半分定) →供祭料 |
一禰宜(皇太神宮) |
■相馬御厨の寄進条件の貢納品(荒木田元親、荒木田延明)
| 供祭料 | 地利上分 | 田:段別1斗5升 畠:段別5升 |
| 土産物 | 雉:100羽 塩曳鮭:100尾 |
■皇太神宮「御厨」の支配構造
そして、四か月後の大治5(1130)年12月、「領使権守藤原朝臣」の「国司庁宣」によって「相馬郡司(常重)」による「布瀬郷」の皇太神宮寄進は公式に認められた。
●大治5(1130)年12月『下総国司庁宣案』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)
保延2(1136)年7月15日、常重は「国司藤原朝臣親通」によって「有公田官物未進」の罪で拘束された(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。未進となったのは、上記のような荒作が影響していた可能性もあろう。常重の拘束はおそらく国衙在庁時と思われ、「旬月(具体的な日数ではなくほんの数日という意味であろう)」拘束されたのち、「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」が賦課されている。これは「有公田官物未進」が発覚したことで、未納分が改めて「勘」考されて賦課されており、追徴ではなく本来納めるべき「相馬立花両郷」の官物未進分であろう。
常重の官物未進分「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」がどれほどの量だったのか。当時の度量衡が残されていないため、これより百五十年程前の長徳2(996)年12月17日、検非違使が入牢中の盗賊から押収した「贓物(盗難品)」を価格換算した記録(『西宮記』臨時十一『大日本史料2編』所収)に当てはめると、凡その平均(外値は無視)で一反=129文相当となる。
| 盗賊名 | 贓物金額換算 (文) |
贓物准布換算 (反) |
1文当たり (反) |
1反当たり (文) |
囚獄 |
| 大春日兼平 | 730 | 6.400 | 0.0088 | 114.0625 | 左 |
| 岩松 | 4,200 | 22.200 | 0.0053 | 189.1891892 | 左 |
| 清原延平 | 5,200 | 31.364 | 0.0060 | 165.7951792 | 左 |
| 藤井国成 | 7,500 | 61.133 | 0.0082 | 122.6833298 | 左 |
| 田辺延正 | 76,300 | 613.200 | 0.0080 | 124.4292237 | 左 |
| 伯耆諸吉 | 37,500 | 312.120 | 0.0083 | 120.1460977 | 左 |
| 津守秋方 | 100 | 0.423 | 0.0042 | 236.4066194 | 左 |
| 能登観童丸 | 10,000 | 80.150 | 0.0080 | 124.7660636 | 左 |
| 大神福童丸 | 15,700 | 125.500 | 0.0080 | 125.0996016 | 左 |
| 菅野並重 | 12,500 | 190.300 | 0.0152 | 65.68575933 | 左 |
| 紀重春 | 200 | 16.300 | 0.0815 | 12.26993865 | 左 |
| 星河清澄 | 5,500 | 34.900 | 0.0063 | 157.5931232 | 右 |
| 伊勢利永 | 7,200 | 58.250 | 0.0081 | 123.6051502 | 右 |
| 林枝重 | 800 | 6.320 | 0.0079 | 126.5822785 | 右 |
| 紀清忠 | 1,500 | 12.260 | 0.0082 | 122.3491028 | 右 |
| 美努福安 | 3,900 | 31.180 | 0.0080 | 125.0801796 | 右 |
| 多治比吉助 | 100 | 0.423 | 0.0042 | 236.4066194 | 右 |
| 秦吉信 | 1,200 | 9.500 | 0.0079 | 126.3157895 | 右 |
| 石城吉童丸 | 11,800 | 90.500 | 0.0077 | 130.3867403 | 右 |
| 三島重遠 | 13,000 | 125.000 | 0.0096 | 104 | 右 |
| 秦乙犬丸 | 2,000 | 17.100 | 0.0086 | 116.9590643 | 右 |
| 広井忠助 | 700 | 6.700 | 0.0096 | 104.4776119 | 右 |
時代が異なるため、当然ながら単純比較はできず、あくまで参考だが、仮にそのレートで計算すると「准白布七百弐拾陸段」は93貫654文相当となる。具体的な価値は「田辺延正年卅、左京」が盗んだ「絹百卅七疋、綾七疋、直垂一領、褂十一領、胡籙三腰箭、黒作太刀一腰、手作布二反」の換算額が76貫300文、これに「大神福童丸」が盗んだ「白褂一領、蒔絵櫛筥二合、紫檀念珠一連、綿二屯」の換算額15貫700文を合算すると92貫文となり、凡そ未納官物分と同等となる。また「藤井国成年卅七、大和国人」の盗品に「米一石 直一貫文」とあり、11世紀初頭では一貫文=米一石と換算されていたことになる。米一石は約150kgに相当するため、93貫654文は米14トン程度(玄米で約243俵)となる。また「馬一疋」「牛一頭」も「一貫文」から「一貫五百文」で換算されており、牛馬一頭と米一石(2.5俵)は同等の価値だったことになる。その額の妥当性については、相馬御厨の地利上分は、田は「反別一斗五升」であり、未納分の「七百弐拾陸段」で換算すれば109石程度となる。このように考えると、未納分として勘考された94貫文=94石は相馬御厨地利上分と大差なく、単純計算上では「相馬立花両郷」からの未納官物の代償額としては妥当、賦課行為自体も法的に当然だったと思われる。
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| 布施郷(西)・立花郷(東)の大体の位置 |
こうして、国司親通は官物未納分の「勘負准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」に対する「辨進」として、保延2(1136)年11月13日、庁目代散位紀季経に指示をして「押書相馬立花両郷之新券恣責取署判」し、相馬郷と立花郷を「妄企牢籠」た(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。これらは「依官物屓(負)累、譲国司藤原親通」(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状』)、「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)とあるように官物未納の代償であるため、親通は常重に反論の余地を与えないために「私領辨進」の「押書」を取ったのだろう。「押書」には未進分(に追徴もあるか)を「進済於国庫」に際しては、新券の「返与」が明記されていたとみられる。
こうして、常重は「相馬立花両郷」について両郷を譲渡する旨の一紙の新券を作成し、未納官物の弁済として国司藤原親通へ譲り渡したのである(常重が相馬郡布施郷を寄進した際も手元に置いていた相伝証明の「相馬郡布瀬郷証文等」五通は、このときも去り渡していないと思われる)。国司親通はこの新券を弁済分として国衙領に編入したと思われ、後任国司もこのときの「一紙先券」を継承している。つまり、この新券は解由状に記載されたものであろう。なお、新券に記されたうちの「相馬郷」は布施郷と同一地域と考えられる。
-千田庄藤原氏家系図-
藤原師輔―+―兼家――+―道綱 +―伊周 +―親頼――+―親長 +―親長――――+―宣親
(関白) |(関白) |(右大将)|(内大臣) |(右馬助)|(皇嘉門院判官代)|(皇太后宮亮)|(日向守)
| | | | | | |
| +―道隆――+―隆家 | +―親能――――――+―親光 +―忠能
| |(関白) (太宰権帥) | (散位) (律師)
| | |
| +―道長――――頼通―――師実―――… +―親方(源?)―――――二条院内侍
| (関白) (関白) (関白) |(下総守) |
| | ↓
+―為光――――公信――――保家―――公基―――伊信―――親通――+―親盛―――+=====二条院内侍
(太政大臣)(権中納言)(春宮亮)(周防守)(長門守)(下総守)|(下総大夫)| ∥
| | ∥
| | ∥――――資盛
| | ∥ (右少将)
| | +―平清盛―――重盛
| | |(太政大臣)(内大臣)
| | |
| | +―娘 +―功徳院快雅
| | ∥ |(功徳院僧正)
| | ∥ |
| +―千田親雅――――+―聖円
| |(皇嘉門院判官代) (権律師)
| |
| +―盛光
| |(筑前権守)
| |
| +―盛保
| |(散位)
| |
| +―顕盛==日野邦俊――邦行―――種範―――俊基
| | (彈正少弼)(大学頭)(治部卿)(少納言)
| |
| +―円玄
| |(法橋)
| |
| +―弁然
|
|
+―承元―――+―承長
| |
| |
+―円空 +―覚経
|
|
+―忠顕
(阿闍梨)
| 年月日 | 東端 | 南端 | 西端 | 北端 | 文書 | |
| 前身 | 天治元(1124)年10月 ~大治4(1129)年 |
不明 | 不明 | 不明 | 不明 | 布瀬墨埼御厨 『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』 |
| 1 | 大治5(1130)年 6月11日 |
蚊虻境 | 志子多谷并手下水海 | 廻谷并東大路 | 小阿高并衣河流 | 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』 |
| 2 | 天養2(1145)年 3月 |
須渡河江口 | 藺沽上大路 | 繞谷并目吹岑 | 阿太加并絹河 | 『源義朝寄進状写』 |
| 3 | 久安2(1146)年 8月10日 |
逆川口・笠貫江 | 小野上大路 | 下川辺境并木埼廻谷 | 衣川・常陸国境 | 『平朝臣常胤寄進状写』 |
| 4 | 永暦2(1161)年 正月日 |
常陸国堺 | 坂東大路 | 葛餝・幸嶋両郡堺 | 絹河・常陸国境 | 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』 |
| 5 | 永暦2(1161)年 2月27日 |
逆川口・笠貫江 | 小野上大路 | 下川辺境并木埼廻谷 | 衣川・常陸国境 | 『下総権介平常胤解案写』 |
それぞれが寄進した範囲はすべて同一の地域を指しているとみられる。
常重が国司親通に押書を取られて「相馬立花両郷」を手放してから七年ほど経過した康治2(1143)年、今度は上総国の「上総介常澄」のもとにいた、当時二十一歳の源義朝が「自常重之手」から「責取圧状之文」った(『櫟木文書』)。義朝は前年の永治2(1142)年4月28日以前に、武蔵秩父党の私領とみられる上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)を皇太神宮へ「故左馬頭家御起請寄文」して「被下奉免宣旨」(『神宮雑書』)されており、武蔵国秩父郡の秩父権守重綱(義朝嫡子の義平乳母夫)のもとから上総国へ移ってしばし滞在したのは永治2(1142)年から翌康治2(1143)年の間で、東海道を通って上洛する途次であろう(下表のとおり、義朝は長女誕生から逆算して天養元(1144)年または天養2(1145)年初頭には在京である。その後も京都付近の女性を母とする子が生まれており、しばらく在京していたことがわかる)。
●源義朝の動向
| 年 | 月日 | 義朝年齢 | 義朝の所在 | 義朝の動向 | 出典 |
| 永治元年 (1141) |
18歳 | 武蔵国比企郡 |
嫡男の源義平が誕生。 母は橋本遊女。乳母は秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)。義平は重綱妻を「御母人」と呼ぶ。 |
『兒玉党系図』 | |
| 永治2年 (1142) |
4月28日以前 | 19歳 | 武蔵国比企郡 | 「故左馬頭家御起請寄文」に基づき、上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)に「被下奉免宣旨」された。 | 『神宮雑書』 |
| 康治2年 (1143) |
20歳 | 上総国一宮か | 「前下野守源朝臣義朝存日、就于件常晴男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」と、上総権介常澄と組んで、下総国相馬御厨を千葉常重から圧し取る。 | 『櫟木文書』 | |
| 相模国鎌倉 | この頃、義朝は相模国松田郷を中心とする一帯を抑える波多野義通妹と通じており、鎌倉へ本拠を移したとみられる。このとき、上総国から付けられたのが常澄の八男、介八郎広常であろう。広常は鎌倉北東部に館を構えている。 | 『天養記』 | |||
| 天養元年 (1144) |
21歳 | 相模国鎌倉 | 二男の源朝長が誕生。 母は波多野義通妹。「此殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀典膳大夫久経為子、仍父義通、就妹公之好、始候左典廐」という。朝長は波多野氏のもとで成長し「松田御亭故中宮大夫進旧宅」に住んだという。 |
『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条 | |
| 9月上旬 | 相模国鎌倉 | 大庭御厨内の鵠沼郷(神奈川県平塚市鵠沼)は鎌倉郡内であると難癖をつけて領有を主張し、郎従清大夫安行らを鵠沼郷に差し向けて伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。 | 『天養記』 | ||
| 10月21日 | 相模国鎌倉 | 義朝は田所目代源頼清らと結託し、「上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じて再度大庭御厨に濫妨をはたらく。 | 『天養記』 | ||
| 10月22日 | 相模国鎌倉 | 御厨の境界を示す傍標を引き抜き、収穫の終わったばかりの稲を強奪し、下司職景宗の館に乱入して、家財を破壊して奪い取り、家人を殺害した。 | 『天養記』 | ||
| 相模国鎌倉 | 御厨定使散位藤原重親、下司平景宗(大庭景宗)が荘園領主の神宮に急使を派遣して濫妨を訴えた。 | ||||
| 京都か | 院近臣藤原季範(熱田大宮司)の女子と通じる。 | (長女誕生から逆算) | |||
| 天養2(1145)年 | 3月4日 | 22歳 | 京都 | 朝廷より義朝らの濫妨停止の官宣旨が出される。 | 『天養記』 |
| 京都 | 荒木田明延を口入神主として「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」と、相馬御厨を神宮に寄進する。 | 『櫟木文書』 | |||
| 京都 | 京都近辺に在住か(摂津国江口に通う範囲) | ||||
| 京都 | 長女の「右武衞室」が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母姉。 |
『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算 | |||
| 久安2年 (1146) |
23歳 | 京都 | 次女の「江口腹の御女」が誕生。 母は摂津国江口の遊女。 院近臣藤原季範女子と通じる。 |
『平治物語』より逆算 | |
| 久安3年 (1147) |
24歳 | 京都 | 三男の源頼朝が誕生。 母は院近臣藤原季範女子。外祖父季範は在京とみられるが、頼朝自身の出生地は京都か尾張熱田かは記録がない。 |
義朝が上総国に在住の際、「上総介常澄」が相馬郷の権利を手に入れるために、義朝をして常重に圧力をかけ、相馬郷の譲状を「自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」したものである。なお、常重から義朝へ渡された譲状は「圧状」であって、国司親通が取った履行証明の「押書」とは異なる違法文書である。義朝が常重から相馬郷に関する避状を圧し取ったのは、次の通り、国司の交代に乗じたものか。
下総国では、義朝による相馬郷押領の年初、康治2(1143)年正月27日の除目で「従五位下源親方」が「前司親通進衛料物功」で「下総守」となっている(『本朝世紀』康治二年正月廿七日条)。この「源親方」は、親通の子「従五位下下総守 親方」(『尊卑分脈』)と同一人物とされる(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)。親通は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取神宮)」によって重任しており(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)、親通―親方という親子での継承だったことがわかる。親族で国司が継承される場合は姓を改めて記載される例があるという(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)。なお、源親方の「源」姓は、彼が源氏の猶子になっていた可能性も考えられよう。その源氏が後述の永暦元(1160)年頃に親通の「次男親盛」(『尊卑分脈』では次男は親方で親盛は三男)から相馬郷の新券を継承したと主張した「前左兵衛少尉源義宗」の出身家とすれば、「迊瑳北條之由緒」により相馬郷を継承する糸口となり得る。源義宗は源頼清(源頼義弟)の子孫で、上野冠者宗信の子である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))。宗信の曽祖父(頼清の子)源家宗は関白師実・師通に仕え、承暦2(1078)年に上野介となって任国に赴任し、応徳元(1084)年4月11日までの在任が確認できる(『後二条師通記』応徳元年四月十一日条)。
源頼信―+―源頼義――源義家――源為義―――源義朝――――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(検非違使)(下野守) (右兵衛権佐)
|
| +=源義宗
| |(判官代)
| |
+―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
(陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代)
|
+―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕
義朝は康治2(1143)年に相馬郷を常重から「掠領」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)したのち、天養2(1145)年3月11日までの2年ものあいだ相馬郷を寄進しておらず、常澄のもとで「掠領」による実効支配が進んでいた可能性があろう。常澄の九男である九郎常清は「相馬」を名字としており、相馬郷に派遣されていた可能性があろう。義朝の「掠領」により相馬郷は御厨としての機能を停止していたと思われ、当然ながら皇太神宮への貢進もなくなったのだろう。
![]() |
| 大庭御厨内の鵠沼神明社(伊介神社) |
さらに「上総曹司源義朝」はこの前年の天養元(1144)年9月、相模国大庭御厨で濫妨を働き、大庭御厨内「伊介神社」の祝であった内宮系の荒木田彦松を殴殺するという事件を起こしており、相馬郷の御厨としての機能はますます暗雲が垂れ込めたのであろう。なお、義朝はこの時点で「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」(「官宣旨案」『平安遺文』2544)とあり、すでに上総から「鎌倉之楯」を父為義から「伝得」して移り住んでいた。
この相馬郷の御厨存続危機の事態に困惑した皇太神宮側は、義朝が有した「源義朝又自経繁之手、責取圧状文」をもとに、領家の荒木田延明が「沙汰」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)したことで、義朝は「為募太神宮御威、限永代所寄進也」(天養二年三月十一日『源某寄進状』)、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)、「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)とあるように、神宮から「御勘発(裁許)」され、天養2(1145)年3月11日、自分と子孫が下司職として代々継承していく旨の「永可為太神宮御厨之由」の寄進状(避文)を皇太神宮へ奉った(天養二年三月「源某寄進状写」『鏑矢伊勢方記』)。荘園領主側としては、常重であろうが義朝であろうが、年貢供祭を確実に実行されれば、下司職が誰であろうと構わなかったということがわかる。
●天養2(1145)年3月『源某寄進状写』(『鏑矢伊勢方記』)
一方、義朝が常重から奪った「圧状」をもとに相馬郷を寄進したことを知った常重の子・常胤は、「為断向後論」に、父・常重が国司親通へ「私領辨進」の「押書」で譲った相馬郷・立花郷の「新券」を取り戻すべく、久安2(1146)年4月、「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を「進済於国庫」した。
| ●保延2(1136)年・常重未進の追徴分 (貢納されず) |
①准白布:726段2丈5尺5寸 |
| ●久安2(1146)年・常胤進済の貢納分 | ①上品八丈絹:30疋 ②下品:70疋 ③縫衣:12領 ④砂金:32両 ⑤藍摺布上品:30段 ⑥中品:50段 ⑦上馬:2疋 ⑧鞍置駄:30疋 |
これにより、下総国司は「以常胤為相馬郡司、可令知行郡務之旨、去四月之比国判早畢」とあるように、久安2(1146)年4月、常胤を相馬郡司に補任する国判を発給した。このときの下総国司は、康治2(1143)年正月27日除目で「下総守」に補任された「従五位下源親方」であれば、父親通の「押書」の内容通り、相馬郷を返還して相馬郡司としたことになる。しかしながら、国衙に留められていた「一紙先券之内、被拘留立花郷壹處許之故、所不被返与件新券也」とあるように、常重の「相馬立花両郷」の「新券」のうち、立花郷だけは返付が認められなかったために、常重が親通に譲渡した一紙の「件新券」は「返与」されなかった。ただし「雖然至于相馬地者、且被裁免畢」とあるように、相馬郷は裁免された(この裁免を認めた別紙は下されたのだろう)ために、常重譲与の「件新券」の返与はなくとも常胤への相馬郷領有は国衙から認可されたものと考えられる。
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| 伊勢内宮 |
なお、この時点ですでに常胤を「御厨下司」とあるが、これは「常重契状」に「下司職者以経重子孫」(大治五年十二月『下総国司庁宣写』)などの一文が入っていたためと思われる。それに基づき、4月の「進済」と「相馬郡司」の補任から7月までの間に内宮との間で細かい取り決めが済んだとみられ、寄進日付で、加地子・下司職は常胤の子孫に相伝され、「預所職」は「本宮御牒使清尚」の子孫に相承されるべきこと寄進条件が追加された正式な寄進状が作成された(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)。
常重は康治2(1143)年までの存命は確認できるが、その後は常重の姿は史料から見られなくなる。その後、源義朝や源義宗が介在してくる相馬御厨の領有についての争いも常胤が対処しており、常重自身はこのころ亡くなったのだろう。
『千葉大系図』によれば、治承4(1180)年5月3日、千葉猪鼻城で九十八歳の長寿を全うしたとあるが、永暦2(1161)年4月1日の常胤の申状内に「仍親父当国介常重存日」とある(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)ことから、常重は永暦2(1161)年にはすでに亡くなっていることがわかる。法名は善応宥照院。