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東 行胤(????-????)
東丹後守行長の子。通称は弥次郎(『東次郎兵衛系図』)。古系譜の系統を継ぐ『神代本千葉系図』には、行長の子に「弥次郎」の名が見え、これが行胤のことと思われる。
―『神代本千葉系図』―
東泰行―+―行長――+―行宗―――+―胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
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| +―弥次郎 +―六郎
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| +―六郎
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+―頼行――+―又次郎
|(五郎) |
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+―盛行 +―■■
|(六郎)
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+―泰胤――+―七郎
|(七郎) |
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+―泰家 +―八郎
(八郎)
建武3(1336)年正月、足利尊氏は後醍醐天皇方に破れて九州へと落ちていった。その際、千田氏当主・千田太郎胤貞についても建武4(1337)年4月の『田中行祐申状』の中に「去年故殿鎮西御下向」という文言があることから、尊氏に従って九州へ赴いたと思われる。このとき、胤貞に従った一族の中に、行胤がいたという(『東次郎兵衛系図』:「小城家中系図」)。
東 重行(????-????)
東弥次郎行胤の子。通称は又次郎、丹後守。
建武3(1336)年の筑前多々良浜の戦いでは、足利方の武士として後醍醐天皇方の菊池氏と戦った。そして九州に大きな影響力を持った足利尊氏ははやくも京都へ向けて船出した。そして5月、播磨国兵庫での新田義貞、楠木正成の後醍醐天皇方の軍勢との戦いで軍功をあげたという。
東 泰行(????-????)
東丹後守重行の養嗣子。実は肥前千葉介胤泰の子という。通称は彦二郎、丹後守。
東 泰常(????-????)
東丹後守泰行の子。通称は太郎、左衛門尉。
東 親常(????-????)
東左衛門尉泰常の子。通称は平二郎、主計允、左衛門太夫。
東 貞常(????-????)
東左衛門太夫親常の子。通称は丹後守。
東 親伯(????-????)
東丹後守貞常の子。通称は二郎兵衛。
東 貞親(????-????)
東二郎兵衛親伯の子。通称は又二郎、左衛門太夫。
東 胤親(????-????)
東左衛門太夫貞親の長男。通称は新二郎、左衛門太夫。
東 信胤(????-1584)
東左衛門太夫貞親の次男。通称は兵部少輔。
龍造寺山城守隆信に仕え、天正12(1584)年3月14日、島原半島での島津氏、有馬氏との戦いの中で討死した。弟の知斎も討死した。
東 加右衛門(????-????)
東兵部少輔信胤の養嗣子。実は土肥出雲守信安の子。母は鍋島駿河守清房娘。鍋島加賀守直茂の甥にあたり、藩公・鍋島信濃守勝茂の従兄弟。
土肥信安
(出雲守)
∥―――――東加右衛門
鍋島清房―+―姉
(駿河守) |(善譽妙香)
|
+―鍋島直茂――鍋島勝茂
(加賀守) (信濃守)
東 加右衛門(????-1631)
東加右衛門の養嗣子。実は江上太郎四郎の子。母は鍋島加賀守直茂姪(土肥出雲守娘)。
父・江上太郎四郎は江上家の家老で、鍋島直茂の次男・伊勢松(のちの佐賀藩二代藩主・鍋島丹後守勝茂)が、江上家種(龍造寺隆信次男)の養子となったとき、その斡旋に勉めた。その後、父は病のため家督を弟・八兵衛に譲り、知行地の岩田村に隠居した。
土肥信安 +―東加右衛門===東加右衛門
(出雲守) | ↑
∥ | |
∥―――――+―娘 |
鍋島清房―+―姉 ∥―――――――東加右衛門
(駿河守) |(善譽妙香) 江上四郎太郎
|
+―鍋島直茂――――鍋島勝茂――――鍋島元茂
(加賀守) (伊勢松) (紀伊守)
主君・鍋島直茂は、江上太郎四郎が鍋島家の縁者であることから、江上家中に解け込むことを拒否していた姿勢に感じ、その子を東家の養子とし、孫の鍋島紀伊守元茂の小城立藩に際し老臣として付属させた。総勢八十三人おり、「八十三士」という。東氏は加右衛門父子のほか、東太郎兵衛、甚五左衛門両名が記載されてるが、系譜上、加右衛門とどのように関わるかは不明。
●「八拾三人名付 直茂公御隠居附、紀伊守殿江御譲人数」より
| 肥前居住不詳 | 江上太郎四郎子 東 加右衛門 右同 同 助右衛門 |
| 右 同断 |
野副勘助子 東 太郎兵衛 右同 同 甚五左衛門 |
寛永8(1631)年4月10日に亡くなった。法名は高山宗忠居士。
東 助右衛門(????-1679)
東加右衛門の養嗣子。実は庄内藩士・長谷川氏の次男。
承応4(1655)年3月5日、小城鍋島加賀守直能家の主だった家臣たちは、鍋島勝茂・光茂、直能に対して忠誠を誓うこと、万一直能が本藩に対して背くことがあった場合などは異見を唱えることなどを誓う血判起請文を鍋島式部少輔、中野数馬助へ宛てて提出した。
●「鍋島加賀守直能家臣等連署起請文」
| 田尻宮内少輔 | 持永右衛門佐 | 犬塚将監 | 犬塚三郎右衛門 | 犬塚内匠助 | 三浦杢之助 | 千手外記 |
| 石井織部 | 水町采女助 | 南里大膳 | 大田六右衛門 | 園田善左衛門 | 村川伝右衛門 | 松崎五郎右衛門 |
| 河波久太夫 | 藤崎左衛門 | 西三郎兵衛 | 木村主馬助 | 宮地五左衛門 | 東助右衛門 | 安本源太左衛門 |
| 東嶋主馬允 | 富岡九郎左衛門 | 馬場又左衛門 | 大木権左衛門 | 相浦太郎兵衛 | 関 隼人佐 | 神代次兵衛 |
| 遠武源右衛門 | 遠武孫四郎 | 深江与惣兵衛 | 野口六左衛門 | 今泉伊兵衛 | 大木利兵衛 | 野口八郎右衛門 |
| 安住介左衛門 | 薬王寺伝九郎 | 川浪又兵衛 | 飼井四郎兵衛 | 小柳孫右衛門 | 秀嶋庄右衛門 | 犬塚伊織 |
| 西岡権之助 | 今泉安左衛門 | 水町杢左衛門 | 重松次郎兵衛 | 徳嶋忠兵衛 | 横尾内蔵允 | 横尾清五左衛門 |
| 野口十太夫 | 岡本八左衛門 | 永橋七郎右衛門 | 馬場八郎兵衛 | 小野源右衛門 | 角田伝兵衛 | 藤山弥平左衛門 |
| 綾部玄蕃 | 東嶋五郎左衛門 | 今泉兵左衛門 | 田中彦七郎 | 服部奥之助 | 留守五郎右衛門 | 綾部勘兵衛 |
| 葉弥五左衛門 | 富岡勘右衛門 | 野副弥太右衛門 | 村川市郎右衛門 |
延宝7(1679)年正月29日、亡くなった。法名は一雲宗閑居士。小城郡下栗原の正法山寿福寺(小城市小城町栗原字八竜)に葬られた。
東 頼全(????-????)
東助右衛門の子。通称は加右衛門。妻は水町作右衛門娘。
延宝4(1676)年11月16日、小城郡三日月郷に百二十二石を給わる。さらに元禄8(1695)年には十五石が加増となった。元禄11(1698)年には三十石が加増され、都合で百六十七石取となる。
東 助右衛門(????-1732)
東加右衛門頼全の子。妻は西造酒養女(持永與右衛門娘)。
享保17(1732)年9月21日亡くなった。法名は松岩浄宗居士。小城郡下栗原の正法山寿福寺(小城市小城町栗原字八竜)に葬られた。
東 尚喜(????-1776)
東助右衛門の養嗣子。実は松崎佐仲の嫡子。通称は十兵衛、十左衛門。妻は佐賀本藩の杉町孫助の伯母。
松崎佐仲嫡子として生まれたが、圓覚院の命により助右衛門の養子となる。その後、父・東助右衛門の死後ほどなく尚喜の不調法の廉で享保17(1732)年10月18日、浪人となった。
元文3(1738)年8月25日、二十人扶持で帰参することが命じられ、寛延3(1750)年、切米四十石を給わった。
宝暦6(1756)年、十石加増となり、切米から知行取となる。明和4(1767)年にはさらに十石の加増があり、都合で六十石取りとなった。
嫡男・東善十は明和8(1771)年10月6日、父に先立って亡くなったため、孫の尚郷が家督を継いだ。
安永5(1776)年正月23日に亡くなった。法名は義牲浄立居士。小城郡下栗原の正法山寿福寺(小城市小城町栗原字八竜)に葬られた。
東 尚郷(????-1807)
東十左衛門尚喜の子・東十善の子で、祖父尚喜の養嗣子となる。通称は次郎兵衛。母は宮地新五右衛門妹。妻は今泉金兵衛娘。
父の東十善が明和8(1771)年10月6日、祖父・東十左衛門尚喜に先立って亡くなったため、尚喜の嫡子として東家の家督を継いだ。
文化4(1807)年10月14日に亡くなった。法名は天珠通冠居士。小城郡下栗原の正法山に葬られた。
東 尚昭(????-????)
東次郎兵衛尚郷の子。通称は左衛門。妻は七田治郎右衛門娘。
弘化5(1848)年、番頭を命じられ、三十石が加増された。先だって加増十石があり、都合で百石高となった。