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遠藤氏の家紋
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| 十曜 | 三割亀甲 | 月星 | 亀甲 |
●郡上藩・三上藩遠藤家
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●東氏の歴代
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東氏と遠藤氏
美濃国郡上藩主・遠藤氏は、千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を祖とすると伝わる郡上東氏の重臣の家柄である。
平家政権の下、東胤頼は三浦義澄とともに大番役のために上洛し、上西門院(鳥羽院皇女統子)に出仕していた遠藤左近将監持遠の「挙」によって「仕上西門院」え、その「御給」を以って「従五位下」に叙された(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)。上西門院は歌人として知られた皇女で、教養人がその廻りに侍っていた。胤頼もこの上洛時に文化人としての教養を身につけたのだろう。彼は将軍家御家人のなかでも、宇都宮氏などとともに教養のある人物と知られていた。平家との戦いでは三河守範頼(頼朝弟)に従って壇ノ浦の戦いに参加。その後の奥州藤原氏との戦いにも従軍して、当主藤原泰衡の外祖父・前陸奥守藤原基成父子を捕らえる功績を立てている。その後、東氏は将軍家に側近として仕え、承久の乱・宝治合戦と数々の戦いにも功績を挙げた。
郡上東氏は東氏の庶流で、東中務丞胤行が承久の乱の戦功として給わった美濃国郡上郡山田庄に下向した胤行の子・東六郎左衛門尉行氏にはじまるとされる。ただし、東氏の本領は下総国東庄であり、行氏の兄・東図書助泰行が東家惣領である。
東行氏の郡上郡下向に際しては、下総国東庄から郎党が従ったとされ、『東家一統』(『和良村史』資料編)によれば、「御一族野田左近殿、遠藤左門殿」、「御家老埴生」、他には「日置、餌取、和田、石神、猪又、土屋、村山、河合、市村、升田、森、長田、梶原、中村、田中、山本」らの名が見える。
東中務丞胤行の妻(東六郎左衛門尉行氏母)は新古今集撰者の京極中納言定家の子・中院為家の娘とされているが、系譜に該当する女性は見えないことや、胤行と定家は面識がない事から誤伝とみられる。しかし、室町八代将軍足利義政のころには、行氏の子孫である東下野守常縁が古今集の解釈(御子左家の一流である二条流の解釈)を伝える古今伝授を「切帋」という形で行い、連歌師宗祇へ伝授された。この「古今(切帋)伝授」は、宗祇から公卿三條西実隆、さらに子の三条西公條、孫の三条西実枝へと伝えられ、細川幽斎玄旨へと伝えられていく。
こうした歌人東氏に仕えた遠藤氏は、鎌倉期から室町期に渡って郡上遠藤氏の重要被官として活躍。郡上郡各地に一族が繁栄して大きな勢力を築いた。そのためか、郡上東氏との間に抗争が起こっていたことが各古文書からうかがうことができる。そして室町時代後期、遠藤六郎左衛門尉盛数は義父の東下野守常慶入道素忠を居城の赤谷山城に攻めて殺害した(常慶は自害したとも、翌年まで生きていたとも)。そして義兄にあたる郡上東氏惣領・東七郎常堯を郡上郡から追放し、領主としての郡上東家を滅ぼしている。遠藤盛数は主家を簒奪する下克上の典型的な人物であった。
遠藤盛数は東氏が支配していた郡上郡を継承し、妻の東下野守常慶娘(友順尼)との間に生まれた遠藤新六郎慶隆は、織田信長・豊臣秀吉に仕えたのち、関ヶ原の戦いでは美濃国では数少ない徳川家康の側(東軍)について石田三成方(西軍)の稲葉貞通と戦うなど活躍。戦後、功績によって美濃郡上藩二万七千石の藩主となった。
しかし、五代藩主・遠藤岩松常久がわずか七歳で早世したため、継嗣無きにより断絶の危機に見舞われたが、遠藤家の先祖の働きを思った幕閣の厚意により、将軍家の縁戚に当たる増山弾正忠正利の旧臣で旗本となっていた白須甲斐守政休の子・数馬が美濃大垣藩主・戸田弾正氏成の養子となり、遠藤家の名跡を継いで遠藤但馬守胤親となった。しかし、名跡は残ったものの、法度に従い遠藤家の所領は召し上げとなり、新たに常陸国内などに一万石を与えられることとなった。そしてその二か月後、将軍・徳川綱吉に御目見した胤親は、近江国野洲郡三上などに所領を移され、陣屋を三上に置いて三上藩を立藩し、明治に至った。明治になって、子爵に叙爵された遠藤但馬守胤城は、勅許を得て「東」に復姓した。