郡上遠藤家 ~旗本 乙原遠藤家~

郡上遠藤家 ~乙原遠藤家~
 郡上藩主遠藤家の二つの庶流が徳川将軍家に仕え、郡上藩主としての遠藤宗家が転封されても、両遠藤家は郡上郡内に残って明治に至った。
 両遠藤家はそれぞれ郡上郡内に陣屋を持ち、その所在地に因んで乙原遠藤家(西乙原村)、和良遠藤家(和良村)と称された。また、その石高に因み、乙原遠藤家を「二千石遠藤」、和良遠藤家を「千石遠藤」とも呼ばれた。
・遠藤大助常昭(遠藤但馬守慶利の次男)…乙原遠藤家(二千石)
・山田金兵衛常紀(遠藤但馬守慶利の三男)…和良遠藤家(千石)

●郡上藩・三上藩遠藤家

郡上藩・三上藩の概要 美濃郡上藩主 近江三上藩主
乙原遠藤家 和良遠藤家
郡上遠藤家 木越遠藤家

●東氏の歴代

東氏惣領家 郡上東氏の歴代 郡上東氏 須賀川東家 森山東家

●江戸時代の遠藤家(東家)

土佐藩遠藤家 木曾遠藤家 田中藩遠藤家
苗木藩東家 小城藩東家 医官東家

●郡上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤慶隆 1550-1633 1601-1632 従五位下 但馬守 遠藤盛数 東常慶娘 乗性深心院
―― 遠藤慶勝 1588-1615 ―――― 従五位下 長門守 遠藤慶隆 三木良頼娘 明心大神院
2代 遠藤慶利 1609-1646 1632-1646 従五位下 但馬守 三木直綱 遠藤慶隆娘 至誠院乗雲
3代 遠藤常友 1628-1675 1646-1675 従五位下 備前守 遠藤慶利 板倉重宗娘 常敬院素信
4代 遠藤常春 1667-1689 1676-1689 従五位下 右衛門佐 遠藤常友 戸田氏信娘 恵正院素教
5代 遠藤常久 1686-1692 1689-1692 従五位下 ―――― 遠藤常春 側室某氏 本了院素道

●三上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤胤親 1683-1735 1692-1733 従五位下 但馬守 白須政休 小谷忠栄娘 宝地院素吟
2代 遠藤胤将 1712-1771 1733-1771 従五位下 備前守 遠藤胤親 久松氏娘 大心院素江
3代 遠藤胤忠 1732-1791 1771-1790 従五位下 下野守 遠藤胤親 田所氏娘 東覲院素秋
―― 遠藤胤寿 1760-1781 ―――― ―――― ――― 遠藤胤忠 青木氏娘 心開院素練
―― 遠藤胤相 1761-1814 ―――― ―――― ――― 酒井忠与 西村氏娘 霊信院素淳
4代 遠藤胤富 1761-1814 1790-1811 従五位下 左近将監 松平信復 小林氏娘 自得院素行
5代 遠藤胤統 1793-1870 1811-1863 従四位下 中務大輔 戸田氏教 猿田氏娘 敬武徳院素中
―― 遠藤胤昌 1804-1855 ―――― ―――― 式部少輔 松平義和 某氏娘 直諒院素温
6代 遠藤胤城 1838-1909 1863-1909
(藩知事含む)
従五位下
(贈正三位)
但馬守
(子爵)
遠藤胤統 小谷氏娘  

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乙原遠藤家

        【美濃郡上藩主】              【近江三上藩主】
 遠藤慶利  +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久====遠藤胤親―――遠藤胤忠――――娘
(但馬守)  |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)    (但馬守)  (下野守)    ∥
  ∥    |                                      ∥
  ∥    |【乙原遠藤家】                               ∥
  ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―+=遠藤胤貞  +―遠藤胤明―――――――――――遠藤常益―+=遠藤常寿――遠藤常栄―+―遠藤岩之助
 板倉重宗娘 |(大助)   (新九郎) |(六郎左衛門)|(右膳)           (大之丞) |(式部)  (鐘次郎) |
       |             | ∥     |                     | ∥          ?
       |             +―娘     +―遠藤縁福[和良遠藤家へ]         +―娘          +―遠藤新六郎
       |             |       |(隼人)
       |             |       |          
       |             +=遠藤常之――+―川窪信友    
       |              (新六郎)  |(喜一郎)   
       |                     |
       |                     +―娘
       |                     |(向坂主計政賀妻)
       |                     |
       |                     +―娘
       |                      (山口出雲守直郷養女)
       |【和良遠藤家】
       +―山田常紀===遠藤常英―+=遠藤常実
        (金兵衛)  (源五郎) |(彦十郎)
                     | ∥―――――――遠藤常住―+=遠藤縁福  +―遠藤常章
                     +―娘      (源五郎) |(隼人)   |(文次郎)
                                    |       |
                                    +=遠藤常郷――+―遠藤常徳――遠藤鎮之助
                                    |(三蔵)    (熊之進)
                                    | ∥
                                    +―娘
                                    |
                                    |
                                    +―遠藤常寿[乙原遠藤家へ]
                                     (式部)

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遠藤常昭(1629-1692)

<名前> 慶寛→常昭(つねてる)
<通称> 大助
<正室> 某氏
<父> 遠藤但馬守慶利
<母> 板倉周防守重宗娘(清雲院殿妙恵日浄大姉)
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> 慈雲
<墓所> 郡上市の慈恩寺

 乙原遠藤家初代。父は郡上藩三代藩主・遠藤但馬守慶利。母は京都所司代・板倉周防守重宗女。通称は大助。初名は慶寛

 寛永6(1629)年8月4日、江戸で誕生した。曾祖母・三木右兵衛督良頼娘(智勝院)の養いとされたのち、天海大僧正に預けられ、天海は常昭に大助の名を与えたとされる(『遠藤家由緒』)

 寛永18(1641)年8月3日、将軍・徳川家光に待望の世子・竹千代(のちの四代将軍・徳川家綱)が誕生した。これにより、寛永18(1641)年11月14日、「遠藤但馬守慶利二子大助常昭」(『大猷院殿御実紀』寛永十八年十一月十四日条)ら大名家の次男、三男数名が御小姓組に列して禄米を給わって、二ノ丸口に勤仕することとなった。このとき竹千代に附けられた小姓衆のうち、遠藤家や金森家は戸田氏の縁辺に連なる人々である。

●竹千代の小姓衆

 戸田氏鉄―+―娘
(采女正) | ∥
      | 松平忠国――――松平信重
      |(山城守)   (三之助)
      |
      +―戸田氏信――+―戸田氏晴
      |(采女正)  |(山三郎)
      |       |
      +―娘     +―――――――――娘
        ∥               ∥
        ∥               ∥
        ∥―――――――娘     +―遠藤常友
 板倉勝重―――板倉重宗    ∥     |(備前守)
(伊賀守)  (周防守)    ∥     |
                ∥―――――+―遠藤常昭
 遠藤慶隆―+―清洲      ∥      (大助)
(但馬守) | ∥―――――――遠藤慶利
      | 三木直綱   (但馬守)
      |(右近大夫)
      |
      +―室町
        ∥―――――――金森重頼――――金森重利
 金森長近===金森可重   (出雲守)   (右近)
(兵部大輔) (出雲守)

 寛永19(1642)年2月9日、「若君(竹千代・家綱)」の初山王参詣に際し、「遠藤但馬守慶利二子大助常昭」ら小姓衆が供奉している(『徳川実紀』)。なお、『遠藤家由緒』には、 寛永17(1640)年8月、天海が常昭を家綱の近習に望み、寛永18(1641)年2月、家綱が氏神の山王権現へ社参のとき、騎馬で供奉したとあるが、寛永17(1640)年8月当時、竹千代はまだ誕生しておらず、山王参詣は寛永19(1642)年2月のことで、『遠藤家由緒』の記載は、それぞれ1年のずれによる誤記だろう。

遠藤慶勝廟
郡上慈恩寺の遠藤常昭霊廟(最奥)

 正保2(1645)年、病のため御小姓組を辞して小普請に列した。

 翌正保3(1646)年6月20日、父・慶利が亡くなり、同年11月12日、兄・常友が郡上藩二万七千石を相続した際、常昭は二千石、常紀は千石をそれぞれ分与されたため、幕府からの禄米は停止された。

 延宝元(1673)年10月21日、隠居して郡上に戻り、城下願蓮寺南に屋敷(大助様屋敷)を与えられて居住。元禄5(1692)年5月25日、六十四歳で亡くなった。法名は慈雲。

●遠藤常友の家中抜粋(『郡上藩分限帳』:『郡上八幡町史』所収)

石高 役職 氏名
2,500 常友実弟 遠藤大助常昭
1,300 常友実弟 山田金兵衛常紀
100 常友母親? 敬勝院
10人 常友伯母 伯母
10人 常友伯母 伯母
10人 常友娘?妹? 女中
  ~家中城代家老~  
500   遠藤十兵衛(朝慶)
500 仕置家老 遠藤新左衛門・遠藤杢之助(正英)
500 無役 遠藤主馬助
450 月番家老組頭 池田六左衛門(吉久か)
350 月番家老組頭 遠藤市右衛門(正明)
300 月番家老組頭 松井縫殿助(宗従)
300 無役 野田覚右衛門(慶明)
200 無役 粥川小十郎・石神太兵衛
300 物頭 餌取六右衛門
250 物頭 村山三右衛門・石井藤右衛門
200 物頭 高屋権太夫
150 物頭役領扶持 遠藤善左衛門・松井覚兵衛
150 寺社奉行 松井弥五左衛門
100 鑓奉行役領扶持 遠藤治部右衛門
150 町奉行役領扶持 吉田作左衛門
200 郡奉行 遠藤金左衛門・武光伝左衛門
200 目付 粥川半兵衛
100 目付 野田九右衛門
150 聞番役二十人扶持 澤部治部左衛門
100 奥家老 宮田兵右衛門・豊田源五兵衛
150 馬乗り 三浦四方助
150 馬医者 鷲見八右衛門
  ~御馬廻~  
300   粥川孫左衛門
250    小池孫右衛門
200   武光吉左衛門・豊島弥左衛門・遠藤久右衛門・松井勘右衛門・豊田武兵衛・佐藤治兵衛
150   遠藤七郎左衛門・遠藤助太夫・畑佐覚左衛門・豊田儀左衛門・山田又兵衛・桑原五兵衛・池田幸右衛門・垣見伊右衛門・角庄右衛門・池戸善右衛門
100   遠藤武太夫・野田弥兵衛・遠藤弥市右衛門・桜井宇右衛門・餌取八郎右衛門・伊東一拾・伊藤関三郎・三木竹之助・池戸求馬助


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遠藤常就(1654-1726)

<名前> 常就、房常
<通称> 岩之丞→織部→新六郎
<正室> 松平民部少輔氏信娘
<父> 遠藤大助常昭
<母> 某氏
<官位> 無位(布衣)
<官職> 無官
<法号> 義翁
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家二代。父は遠藤大助常昭。母は某氏。妻は松平民部少輔氏信女子。通称は岩之丞、織部、新六郎。「新六郎」は曽祖父の遠藤但馬守慶隆の通称である。

       遠藤慶利 +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久【郡上藩主】
      (但馬守) |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)
       ∥    |
       ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―――遠藤常之【乙原遠藤家】
 板倉重宗――娘    |(大助)   (新六郎)  (新六郎)
(周防守)       |        ∥
            | 松平氏信―+―娘
            |(民部少輔)|
            |      +―娘
            |        ∥
            | 渡辺吉綱―+―渡辺方綱
            |(丹後守) |(越中守)
            |      |
            |      +―娘
            |        ∥
            +――――――――山田常紀===遠藤常英【和良遠藤家】
                    (金兵衛)  (源五郎)

 承応3(1654)年、おそらく江戸で誕生。延宝元(1673)年10月21日、父が隠居して郡上に戻ったため家督を相続。翌延宝2(1674)年6月18日、御書院番に列して以来、桐間番、火事場目付、御使番を歴任。宝永6(1709)年12月18日、布衣を許された。

 享保元(1716)年9月1日に巡察使を命じられ、「諸国巡視の使番、荒川内記定由、遠藤新六郎常就、小姓組御手洗新太郎正矩、曾我七兵衛助賢、書院番富永源右衛門記豊、山本縫殿正延ともに暇給」い、畿内、紀伊、播磨、丹波、但馬、丹後国などを廻った(『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』)。 

 享保6(1721)年4月18日、御使番を辞して寄合に列し、享保11(1726)年6月10日、七十三歳で亡くなった。法名は義翁浅草智光院西浅草3-26。現在は杉並区松ノ木へ移転)に葬られた。 

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遠藤常之(1703-1750) 

<名前> 常之 
<通称> 熊八郎→宮内→新六郎
<正室> 小田切喜兵衛直広
<養父> 遠藤新六郎常就
<母> 某氏
<実父> 戸田大隅守忠囿(下野国足利藩主)
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> 禅雄
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家三代。養父は遠藤新六郎常就。実父は下野足利藩主・戸田大隅守忠囿、母は某氏。妻は松平民部少輔氏信。通称は熊八郎、宮内、新六郎。 

 養父・常就は以前、聟養嗣子として神保主膳元茂の三男・熊之助茂昆を迎えており、茂昆は遠藤式部胤貞と改め、元禄13(1700)年9月15日、将軍・徳川綱吉に初めて拝謁し、宝永6(1709)年4月6日に御小姓組に入るが、病のため神保家に戻った。当時二十九歳(『御家人分限帳』)。なお、胤貞はのちに一子・主馬茂満を儲けた。

●『御家人分限帳』

三百俵  新六養子 神保主膳子
         遠藤式部
          丑二十九

 胤貞が神保家に戻ったのち、遠藤家は足利藩主戸田大隅守忠囿の六男・熊八郎が養子に入り、遠藤常之と名を改めた。

      【美濃郡上藩】
       遠藤慶利
      (但馬守)
        ∥――――+―遠藤常友―――遠藤常春――――遠藤常久
 板倉重宗―+―娘    |(備前守)  (右衛門佐)  (岩松)
(周防守) |      |
      |      |
      |  【旗本】+―遠藤常昭―――遠藤常就――+=遠藤常之
      |      |(大助)   (新六郎)  |(新六郎)
      |      |              |
      |  【旗本】+―山田常紀         +―娘
      |       (金兵衛)         | ∥
      |                     | ∥
      |                     +=遠藤胤貞
      |                      (六郎左衛門)
      |【上野安中藩】                 ↑|
      +―板倉重形―――娘               |↓
       (伊予守)   ∥――――+―――――――――神保茂昆―――――神保茂満
               ∥    |        (熊之助、舎人) (主馬)
               ∥    |
               ∥    |【陸奥泉藩】  【上野安中藩】
              神保元茂  +―板倉重同――――板倉勝清[老中]
             (主膳)    (伊予守)   (佐渡守)

 享保3(1718)年7月11日、将軍・徳川吉宗に初めて拝謁し、享保11(1726)年6月10日、養父・常就が亡くなったため、9月4日、十六歳で遠藤家家督を相続。享保13(1728)年3月25日、西ノ丸御書院番に列し、元文5(1740)年9月28日、御使番となり、12月21日、三十八歳のとき布衣を許された。

 寛保2(1742)年3月1日、前年11月に陸奥国白河城主となった松平越中守定賢へ襲封の命を伝達するため、「使番遠藤宮内常之、小姓組堀数馬親敷」が暇乞いして出立している(『徳川実紀』)

 寛延3(1750)年9月26日、四十八歳で亡くなった。法名は禅雄

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遠藤胤明(1731-????)

<名前> 胤明
<通称> 大助→主水→外記→右膳
<正室> 松平藤九郎正命娘
<父> 遠藤新六郎常之
<母> 小田切喜兵衛直広娘
<官位> 無位
<官職> 無官
<隠居号> 為山
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家四代。父は遠藤新六郎常之。母は小田切喜兵衛直広娘。妻は松平藤九郎正命娘。通称は大助、主水、外記、右膳。隠居号は為山

        【美濃郡上藩主】              【近江三上藩主】
 遠藤慶利  +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久====遠藤胤親―――遠藤胤忠――娘
(但馬守)  |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)    (但馬守)  (下野守)  ∥
  ∥    |                                    ∥
  ∥    |【乙原遠藤家】                             ∥
  ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―+=遠藤胤貞  +―遠藤胤明――――――――遠藤常益――+=遠藤常寿――遠藤常栄―+―遠藤岩之助
 板倉重宗娘 |(大助)   (新六郎) |(六郎左衛門)|(右膳)        (大之丞)  |(式部)  (鐘次郎) |
       |             | ∥     |                   | ∥          ?
       |             +―娘     +―遠藤縁福[和良遠藤家へ]       +―娘          +―遠藤新六郎
       |             |       |(隼人)
       |             |       |          
       |             +=遠藤常之――+―川窪信友    
       |              (新六郎)  |(喜一郎)   
       |                     |
       |                     +―娘
       |                     |(向坂主計政賀妻)
       |                     |
       |                     +―娘
       |                      (山口出雲守直郷養女)
       |【和良遠藤家】
       +―山田常紀===遠藤常英―+=遠藤常実
        (金兵衛)  (源五郎) |(彦十郎)
                     | ∥―――――――遠藤常住―+=遠藤縁福  +―遠藤常章
                     +―娘      (源五郎) |(隼人)   |(文次郎)
                                    |       |
                                    +=遠藤常郷――+―遠藤常徳――遠藤鎮之助
                                    |(三蔵)    (熊之進)
                                    | ∥
                                    +―娘
                                    |
                                    |
                                    +―遠藤常寿[乙原遠藤家へ]
                                     (式部)

 延享2(1745)年3月25日、十五歳のとき初めて将軍・徳川吉宗に謁見を果たし、寛延3(1750)年12月2日、家督相続。宝暦3(1753)年2月19日、御書院番士となり、天明2(1782)年10月19日、職を辞した。

 寛政元(1789)年8月5日、隠居し為山と号す。

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遠藤常益(1751-1791)

<名前> 常益
<通称> 大之丞
<正室> 遠藤下野守胤忠(三上藩主)娘
<父> 遠藤右膳胤明
<母> 松平藤九郎正命娘
<官位> 無位
<官職> 無官
<法名> 良英
<墓所> 浅浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家五代。父は遠藤右膳胤明。母は松平藤九郎正命娘。妻は本家・遠藤下野守胤忠の娘。通称は大之丞

        【美濃郡上藩主】              【近江三上藩主】
 遠藤慶利  +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久====遠藤胤親―――遠藤胤忠――娘
(但馬守)  |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)    (但馬守)  (下野守)  ∥
  ∥    |                                    ∥
  ∥    |【乙原遠藤家】                             ∥
  ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―+=遠藤胤貞  +―遠藤胤明――――――――遠藤常益――+=遠藤常寿――遠藤常栄―+―遠藤岩之助
 板倉重宗娘 |(大助)   (新六郎) |(六郎左衛門)|(右膳)        (大之丞)  |(式部)  (鐘次郎) |
       |             | ∥     |                   | ∥          ?
       |             +―娘     +―遠藤縁福[和良遠藤家へ]       +―娘          +―遠藤新六郎
       |             |       |(隼人)
       |             |       |          
       |             +=遠藤常之――+―川窪信友    
       |              (新六郎)  |(喜一郎)   
       |                     |
       |                     +―娘
       |                     |(向坂主計政賀妻)
       |                     |
       |                     +―娘
       |                      (山口出雲守直郷養女)
       |【和良遠藤家】
       +―山田常紀===遠藤常英―+=遠藤常実
        (金兵衛)  (源五郎) |(彦十郎)
                     | ∥―――――――遠藤常住―+=遠藤縁福  +―遠藤常章
                     +―娘      (源五郎) |(隼人)   |(文次郎)
                                    |       |
                                    +=遠藤常郷――+―遠藤常徳――遠藤鎮之助
                                    |(三蔵)    (熊之進)
                                    | ∥
                                    +―娘
                                    |
                                    |
                                    +―遠藤常寿[乙原遠藤家へ]
                                     (式部)

 安永4(1776)年9月1日、はじめて将軍・徳川家治に謁見し、寛政元(1789)年8月5日、家督を相続したが、寛政3(1791)年7月12日に四十一歳で亡くなった。法名は良英

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遠藤常寿(1774-1824)

<名前> 常寿(つねとし)
<通称> 栄次郎→新六郎→式部
<正室> 遠藤大之丞常益娘
<正室2> 白須甲斐守政雍養女
<父> 遠藤源五郎常住(和良遠藤家当主)
<母> 河野仙寿院通休娘(御奥医師)
<養父> 遠藤大之丞常益
<官位> 無位
<官職> 無官
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転
<屋敷> 千代田区九段北3-3-9(法政大学新一口坂校舎)

 乙原遠藤家六代。養父は乙原遠藤大之丞常益。実父は和良遠藤源五郎常住。母は奥医師・河野仙寿院通休娘。先妻は遠藤常益娘、亡後は白須甲斐守政雍養女を迎えた。白須家は本家・三上藩遠藤家と縁戚に当たる。

                 遠藤常友
                (備前守)
                 ∥――――――遠藤常春===遠藤胤親
         戸田氏信――+―娘     (右衛門佐) (但馬守)
        (采女正)  |               ↑
               +―戸田氏西―――戸田氏成===遠藤胤親
                (肥後守)  (淡路守)  (但馬守) 
                        ∥      ↑
                        ∥      |
         小谷忠栄―+=小谷守栄――+―娘      |
        (将監)  |(武左衛門) |(牧野成貞養女)|
         ∥    | ∥     |        |
         ∥    +―娘     +=小谷郡栄   |          
         ∥    |        (甚四郎)   |
         ∥    |                |
         ∥    +―娘              |  
         ∥      ∥―――――+――――――――遠藤胤親――――遠藤胤忠――
         ∥      ∥     |       (但馬守)   (下野守)  ∥
         ∥      ∥     |                      ∥
         ∥    +―白須政休  |                      ∥
         ∥    |(甲斐守)  |                     【乙原遠藤家
         ∥    |       +=白須政親===白須政賢――+―娘     遠藤常益===遠藤常寿
         ∥    +―白須政種―――(主馬)   (甲斐守)  | ∥    (大之丞)  (式部)
         ∥     (十兵衛)                 | ∥            ∥
         ∥                           +=白須政雍=========娘
         ∥                            (甲斐守)         ↑
         ∥                             ↑            |
         ∥                     増山正贇――+―幾之助          |
         ∥                    (対馬守)  |              |
         ∥                           |              |
         ∥                           +――――――――――――――娘
         ∥              
         ∥             
         ∥――――――――――――――於伝の方 +―松平徳松
 鶴牧信幹――――娘             (瑞春院) |
(茂右衛門)  (高覚院)           ∥    |
                        ∥――――+―鶴姫
 徳川家康――+―徳川秀忠―――徳川家光――――徳川綱吉   ∥
(初代将軍) |(二代将軍) (三代将軍)  (五代将軍)  ∥
       |                       ∥
       +―徳川頼宣―――徳川光貞――+――――――――徳川綱教
        (和歌山藩主)(和歌山藩主)|       (和歌山藩主)
                      |
                      +―徳川吉宗
                       (八代将軍)

 和良遠藤家では遠藤源五郎常住に嗣子がおらず、飯田藩主堀大和守親蔵の子・熊之進遠藤常郷)が養嗣子に迎えられ、明和3(1766)年12月21日、将軍・徳川家治に拝謁を済ませていた。ところが安永3(1774)年、常住に実子の栄次郎が誕生した。しかし、常住は養嗣子常郷を嫡子のまま据え置くこととし、実子栄次郎を男子のいなかった乙原遠藤常益の養子に出した。栄次郎常寿は寛政3(1791)年10月4日、常益の遺跡を相続し、12月22日、将軍・徳川家斉に初謁見した。

 天明6(1786)年当時、「遠藤岩之助様御知行」として「遠州敷知郡」の「岡本村(696石)」と「平山村(272石)」があてがわれている(『湖西市』資料編)。当時「岩之助」に該当する人物が見えないが、常郷を指すか。

 寛政7(1795)年10月16日、御小姓組に列し、翌寛政8(1796)年12月10日、将軍家世子敏次郎(のちの家慶)附となり、西ノ丸に勤仕した。

 文化12(1815)年正月11日、御使番となり、文政3(1820)年6月4日には大坂目付代まで立身するが、文政7(1824)年4月26日、亡くなった。享年五十一。

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遠藤常栄(????-1844)

<名前> 常栄
<通称> 鐘次郎
<正室> 某氏
<父> 遠藤新六郎常寿
<母> 白須甲斐守政雍養女?
<官位> 無位
<官職> 無官
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家七代。遠藤新六郎常寿の長男。次男の新六郎は江戸期最後の当主となる。

 文政10(1827)年ごろの当主はすでに遠藤鐘次郎(『旗本人名事典』)とあり、文政11(1828)年12月2日、西丸書院番から中奥番へ異動。天保8(1837)年には御使番となり、天保10(1839)年10月19日、火事場見廻組を兼務した。

 天保13(1842)年2月17日、目付に就任。翌天保14(1843)年8月2日には御先鉄砲頭に就いたが、翌天保15(1844)年6月、急死した。

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遠藤岩之助(1828-1862)

<名前> 不明
<通称> 岩之助
<正室> 水野下総守次女(『建部徳次郎親類書』)
<父> 遠藤鐘次郎常栄
<母> 不明
<官位> 無位
<官職> 無官
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転
<屋敷> 千代田区九段北3-3-9(法政大学新一口坂校舎)

 乙原遠藤家八代。父は遠藤鐘次郎常栄。妻は水野下総守重明次女(『建部徳次郎親類書』)

       水野重明[京都町奉行]
      (下総守)
       ∥
       ∥―――――+―水野采女(中奥御番)
       ∥     |
       ∥     |
 水野頼元――女子    | 建部徳次郎
(源右衛門)       | ∥
             +―女子
             |
             | 溝口真太郎(御書院番)
             | ∥
             +―女子
             |
             | 遠藤岩之助
             | ∥
             +―女子

 天保15(1844)年6月、父の遠藤鐘次郎常栄の急死に伴い家督を相続する。同年9月5日、「先手頭遠藤鐘次郎子岩之助」「父、祖父死して家つぐもの、十七人」(『慎徳院殿御実紀』)として記録される。

 安政2(1855)年、小普請小笠原弥八郎組に入った。

 万延元(1860)年12月11日、小普請から中奥番に就任。

 文久2(1862)年に急死する。享年三十五。叔父の遠藤新六郎が急遽家督を相続している(『中奥番遠藤新六郎相続仰付書抜』)

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遠藤新六郎(1818-????)

<名前> 不明
<通称> 新六郎
<正室> 某氏
<父> 遠藤新六郎常寿
<母> 不明
<官位> 無位
<官職> 無官
<墓所> 浅草智光院(西浅草3-26
※現在、寺院は杉並区松ノ木に移転

 乙原遠藤家九代。遠藤新六郎常寿の次男。母は不明。文政元(1818)年誕生。

 文久2(1862)年10月、甥の当主遠藤岩之助の急病のため「急相続」を願い出て許され、家督を相続する(『中奥番遠藤新六郎相続仰付書抜』)

 慶応4(1868)年2月13日、尾張藩は東山道先鋒総督兼鎮撫使岩倉具定より旧尾張藩領および周辺域の旗本知行地に関する取締を命じられ、尾張藩は水谷宅兵衛、川口太郎右衛門をその臨時担当官に任じ、笠松陣屋の管轄下にあった天領及び旗本領については「笠松支配所の儀、天朝御領に相成候に付、追て御処置被仰出候迄、御取稼筋並に是迄差配居候公事出入諸願達之外、臨時御用向並に御取締向共、当分の内美洲出張の者に於て取扱候様被仰出候」と、尾張藩の管轄とされた旨を布達した。2月18日には新六郎にこの旨が達書が渡されているが、旗本である新之助は江戸在勤であるため、代官がこれを請けたと思われる。しかし、江戸へこの布達を届ける前に、遠藤新六郎と一族の遠藤鎮之助(和良遠藤家)は「方向不足」という逡巡の科を以て知行地を収公されることとなる。

 このような中で、遠藤鎮之助および遠藤新六郎は郡上へ帰還したうえで旧領乙原村での謹慎とされたが、同年7月3日夕刻、「遠藤鎮之助元来地郡上郡乙原村土民沸騰す」と、乙原村の百姓らが一揆を起こした。遠藤鎮之助側は郡上藩に対して「為鎮静人数差出呉候様、以使者頼申越候」という依頼をしたことで、郡上藩は「同夜不取敢為鎮静一小隊差出」した。7月20日の段階では江戸に「未だ出張家来共より動静之義、不申越候」という状態であった。そして7月22日、「百姓共鎮静致候に付、去十二日晝八ツ時頃同所より人数引揚、同夜五つ半時帰国致候」という報告が郡上の青山大膳亮より江戸へ到着しているように、7月12日に百姓の蜂起は解除された。

 この騒動の際、遠藤鎮之助遠藤新六郎とともに「西乙原新六郎方に同居申付置候」とあるように同居謹慎中であった。両名は尾張藩の旗下取締方荒川弥五右衛門へ「致歎達候」したところ、「去る六月中、謹慎被免候」と謹慎が解かれている。その荒川弥五右衛門は7月8日に解職となることとなり、解職前日の7日までに笠松県庁に「追々暮し方難渋の由にて甚以て気の毒の次第に付、先々近藤孫右衛門初方にて旧主人の分に付、相養ひ置、自然主人帰邑致候様、篤と説諭申遣候處、今八日、当御取締被免候に付、前件始末結局何れ御苦労筋万端其御含取計可被下候、尤此一件、実以大事件に付、篤と情実御勘味可被下候」と、両遠藤家のその後の事や百姓蜂起の後始末などを依頼している。

 また、この騒動の原因としても報告がなされている。それについては「遠藤鎮之助家来高田正兵衛、遠藤新六郎家来畑佐鼎」が「最前本領安堵触出取計」という事を勝手に触れたために、百姓たちが「長く御料之御支配に被成下候様との趣願立、村内不穏之次第有之」という事態になったということであった。

 当初は尾張藩旗下取締方が高田正兵衛と畑佐鼎を沙汰しようとしていたが、両遠藤家より旧家老の武村益蔵、一宮源左衛門が遣わされて、両名は旧臣であり、当方で厳しく取り計らうため、引き渡しを依頼している。これについて吟味を行い、その願い通りに「今七日主人々々へ引渡方取計候」という方針で決定したので、下取締方の荒川弥五右衛門が笠松県庁へ報告している。また、騒動に加担した「遠藤孫右衛門、同篤輔」についても、百姓と揉めた程度であるので、二十七日間の謹慎とするよう申し置いた旨が報告された。

郡上郡両乙原騒立候一件に付、遠藤鎮之助家来高田正兵衛、遠藤新六郎家来畑佐鼎儀、最前本領安堵触出取計、実以不容易事件等申、偽不埒の事に付、兼て御縣へ御打合の上、当方方にて屹度取締申付置候處、今般鎮之助家来武村益蔵、新六郎家来一宮源左衛門初並両遠藤よりも追々嘆願いたし、尤於主人は更に不存儀に付、家来両人の儀は主人手元にて屹度取締いたし、於主人毛頭不存廉相顕度旨差頻り申出候に付、段々吟味の上、今七日主人々々へ引渡方取計候に付、此段不取敢申達候、御縣へ御打合の上、取締申付置候、遠藤孫右衛門、同篤輔儀、追々主人鎮之助より旧家来の分に付、差免方等も願出に付吟味致候處、右両人儀は全く百姓共差氏騒候丈の咎品に付、任其意差免し、二七日の間謹慎申付置、右の通り夫々取計候に付、此段申上候

 その後、10月8日に、笠松県より弁事官へ鎮之助の東京(慶応四年七月十七日詔勅により江戸は「東京」となる)への上京についての通告および、鎮之助の本領安堵を願い出る旨が送られた。

 旧旗下
  郡上郡東乙原村
      遠藤鎮之助
右、帰順在邑之處、尾藩取締中謹慎被免候間、至急上京可仕之處、此程判事千賀助作上京之砌、一と通御届申上置候通、元采地之人民共長く御料之御支配に被成下候様との趣願立、村内不穏之次第有之上京差控罷在候處、鎮之助家来共より及愁訴候趣も有之、当縣より右村民共へ段々及示談一同屈服鎮定仕候に付、鎮之助儀不日上京可仕候間、何卒本領安堵等之儀兼て上京罷在候旧旗下同様被仰出候様仕度、仍之猶又御届旁此段申上候、

  遠藤鎮之助が東京へ出立した時期は不明。


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