| 須賀川東家 | 森山東家 | 苗木藩東家 | 小城藩東家 |
| 医官東家 | 郡上東家 | 郡上遠藤家 |
美濃国苗木藩の藩士となった東家があった。家紋は真向月星。初代の東源右衛門が土岐郡から苗木に来訪し、中小姓席として苗木藩に召し抱えられた一族である。のち給人席へ昇格し、用人、家老を歴任する執柄の家柄となる。その惣領家は「東」から「千葉」へ改め、幕末に至る。
【恵那郡】
東常縁――――遠藤盛胤――――遠藤胤好―――遠藤胤縁――――遠藤胤俊―――――遠藤胤祐―+―遠藤新五郎――…
(下野守) (八左衛門尉) (新兵衛) (新兵衛) (大隅守) (新五郎) |
|
+―某
…―東胤常――――東権右衛門―+―東庄右衛門==東恒照―――――東胤陸――――+―東胤祥
(源右衛門尉) | (正右衛門) (新五左衛門) |(左内)
| |
| +―千葉常竹――千葉常贇――+―千葉常彬―――千葉武男
| |(権右衛門)(平太左衛門)|(権右衛門)
| | |
| +―千葉常恕 +―千葉正贇
| (与右衛門) (侑之進)
|
+―東常成――――東常富―――――東常縄――――――東常紀
(源兵衛) (源兵衛) (源右衛門) (八郎兵衛)
∥
岡本忠右衛門 ∥
∥―――――――女子
市川氏
その出自は東源右衛門以前は史料上残されていないが、下記のように恵那郡笠置山麓には郡上遠藤家の一族が移り住んでおり、千葉家と笠置の関わりから、苗木藩東家の出自の可能性の一つとして紹介する。
天正18(1590)年、郡上の遠藤二家(遠藤慶隆・遠藤胤基)は、織田信孝に属して羽柴秀吉勢と戦った科により郡上郡を没収され、遠藤胤基は加茂郡犬地へ、遠藤慶隆は加茂郡小原に移された。このとき両遠藤家の知行は合わせてもわずか一万五千石にまで減少し、彼らに代わって郡上には稲葉貞通(稲葉一鉄嫡子)が入部する。このとき、遠藤胤基の甥にあたる遠藤新五郎胤祐は逐電し、恵那郡河合村(恵那市笠置町河合)、堂木村(恵那市笠置町河合道木)あたりに土着したと伝わる(『笠置村誌』)。新五郎胤祐は屋敷地の鬼門の地に郡上から守護した稲荷社を勧請した。現在の黒岩稲荷社(恵那市笠置河合道木)である。河合村は土岐郡や加茂郡と隣接し、のち苗木藩東家が「土岐郡」から来訪したという伝とも近く苗木東家(千葉家)の祖は遠藤胤祐である可能性があろう。遠藤胤祐の五代前は、系譜上では東下野守常縁となり、東氏を称する根拠ともなる。
遠藤胤祐は慶長合戦(関ケ原戦役)に際して叔父の遠藤大隅守胤基とともに西軍に属して河合村樋狩山(恵那市笠置町姫栗)に籠ったため、東軍に属した遠藤慶隆に攻められて、慶長5(1600)年7月26日、自害したとされる。ただし子息二名は助命され、ひとりは遠藤新五郎と称して河合・堂木村二か村の庄屋となり、継承される(『笠置村誌』)。
●河合・道木村庄屋(『笠置村誌』)
| 庄屋 代数 |
氏名 | 没年 |
| 1 | 遠藤新五郎胤祐 | 慶長5(1600)年7月26日 |
| 2 | 遠藤新五郎 | 寛永17(1640)年10月4日 |
| 3 | 遠藤助右衛門 | 正保4(1647)年4月10日 |
| 4 | 遠藤助右衛門 | 明暦3(1657)年7月21日 |
| 5 | 遠藤作右衛門 | 寛文8(1668)年6月3日 |
| 6 | 遠藤作右衛門 | 元禄14(1701)年9月8日 |
| 7 | 遠藤助右衛門 | 正徳4(1714)年12月21日 |
| 8 | 遠藤丹右衛門 | 延享3(1746)年7月2日 |
| 9 | 遠藤惣右衛門 | 宝暦13(1763)年正月27日 |
| 10 | 遠藤文左衛門 | 寛政7(1795)年11月7日 |
苗木藩の家格及び役職に伴う役高は一定であり、嫡流の東権右衛門家は給人席(上級)の百石、庶流の東源兵衛家は中小姓席(中級)の九石弐人扶持である。
●苗木藩家格(明治3年当時)
| 席 | 石高 | 人数 | 人数 | 嫡子 |
| 給人席 | 高100石 | 3人 | 140人 | 金7両2人扶持 |
| 高70石 | 18人 | |||
| 知行75石 | 1人 | |||
| 中小姓席 | 現米9石2人扶持 | |||
| 徒士席 | 現米6石2人扶持 | 金5両2人扶持 | ||
| 歩卒共 | 現米3石5斗2人扶持 | 107人 | 金2両2人扶持 | |
| 金2両2分2人扶持 |
●苗木藩役職
| 職 | 知行 | 足高 |
| 家老 | 100石 |
30俵 |
| 70石 | 60俵 | |
| 用人 | 100石 |
20俵 |
| 70石 | 50俵 | |
| 武頭 | 100石 | 無之 |
| 70石 | 30俵 | |
| 側用人 | 100石 |
無之 |
| 70石 | 20俵 |
東 胤常(????-????)
苗木藩東家初代。父母は不明。通称は源右衛門尉。
苗木藩三代藩主遠山友貞の代、寛永19(1642)年から寛永21(1644)年の間に「土岐郡」から来訪して「御徒士」に召し抱えられた(『苗木藩終末記』)。具体的な事歴は伝わらないが、子孫は「千葉」と「東」を用い、「常」「胤」を通字として用いる。また、家紋は真向月星を用いる。
東家の伝では東家が遠山家に仕えたのは「友山代(遠山友春)」とされているが、友春が苗木藩主となったのは延宝3(1675)年7月であるが、それ以前の正保2(1645)年時点で源右衛門の子「東野権右衛門」が代官職にあることから、実際には延宝3(1675)年7月の友春襲封よりも前から東家は苗木藩に仕えていることがわかる。
東 権右衛門(????-1674)
苗木藩東家二代。父は東源右衛門。母は不明。
正保2(1645)年、「東野権右衛門(六石五斗)」が六名の代官の一人となっている。その後の事歴は不明。妻とみられる女性「東権右衛門尉室」は正保4(1647)年12月23日に亡くなっている。法名は臘天宗雪信女。
延宝2(1674)年9月26日卒。法名は法岫道雲禅定門。
東 庄右衛門(????-????)
苗木藩東家三代。父は東権右衛門。母は不明。
寛文4(1664)年当時七十石を知行し、寛文11(1671)年当時、「東庄右衛門」は百石の郡奉行を務めていた。
寛文12(1672)年、三代藩主遠山信濃守友貞の駿河御加番の供の「平中小姓」席として「東源兵衛」の名が見える(寛文十二年『信濃守友貞公御勤之節御仕之面々名前』)。この源兵衛は元禄6(1693)年に亡くなった「東源兵衛尉常成(正入永■)」とみられれ、庄右衛門の弟など、近い一族である。
延宝3(1675)年7月6日、四代遠山友春は父友貞の死去に伴い藩主となるが、その二か月後の9月11日、郡奉行の「東庄右衛門」に対して、友春の藩政に対する五箇条の所信表明がなされている。
延宝8(1680)年8月晦日、志摩国鳥羽城主・内藤和泉守忠勝の改易に伴い、友春が城地請取の役を命じられた。友春は鳥羽城を管理し、天和元(1681)年4月に土井周防守利益へ引き渡した。このとき友春に従った供の一人に「東紋太夫」が見える(『苗木藩政史研究』)。
東 恒照(1668-1743)
苗木藩東家四代。養父は東庄右衛門。実父及び母は不明。通称は正右衛門。
石高は百石(『苗木藩終末記』)。享保6(1721)年4月、神土村ほか領内七か村での水害に対する藩の対応を示しているが、目付の「東源兵衛」、郡奉行の「東正右衛門」が名を連ねる(「水損検地済心得方触」『東白川村誌 史料編』)。
享保7(1722)年には藩中第二十三席に「東庄右衛門」が見えるが、これ以降、東家は家格を上げていく。
享保15(1734)年、他領からの入米を固く禁ずる禁令を下す郡奉行として「東正右衛門」が見える(「他領米買入禁止賢触留」『東白川村誌 史料編』)。
享保17(1732)年11月27日、郡奉行の「東正右衛門様」が「山内清右衛門様、村井甚左衛門様」を伴って神土村を訪問し、宿泊して11月28日に柏本村、越原村などを巡って神土村へ戻った(『東白川村誌 史料編』)。
享保18(1733)年11月8日、曾我郷右衛門、東正右衛門が年貢未納者に対して、「村々未進有之百姓共、普請一切致間敷旨被仰渡候」と「普請」を一切認めないとの触れを出しており、郡奉行として「庄屋、与頭」へ達している(『郡御役所御触書』)。
寛保3(1743)年5月16日、七十六歳で亡くなった。法名は大心全忠居士。
東 胤陸(1702-1767)
苗木藩東家五代。父は東正右衛門恒照か。母は不明。通称は新五左衛門(新五右衛門)。
元禄15(1702)年誕生。石高は百石。郡奉行をつとめる(『苗木藩終末記』)。
元文5(1740)年9月17日、郡奉行「東新五左衛門」が「遠山和泉守様御家督為御祝儀」につき、庄屋等への御祝儀の「御料理被下」について報告を行っている(『福岡町史 史料編下巻』)。
寛保元(1741)年春、巡回する郡奉行として「東新五左衛門様」がみえる(寛保元年六月「高山村普請請覚」『福岡町史 史料編下巻』)。
延享2(1745)年12月29日、「東新五左衛門」は郡奉行として(『恵那郡下野村佐見新田代知触状』)が見える。
延享4(1747)年、東新五左衛門は「宗門奉行」へ代わった(『福岡町史 史料編下巻』)。
宝暦9(1759)年、「新五左衛門」に嫡子(のちの千葉権右衛門常竹)が誕生している。翌宝暦10(1760)年10月10日の村方への書状に「東新五左衛門様」が見える。宝暦12(1762)年2月頃、「宗門御改」に際して宗門奉行の「東新五左衛門様」が村々を巡回する予定で触れられていたが、「御城ニおゐて俄ニ御病気差起、得御廻り不被成候」によって「陶山次郎左衛門様」が代わって巡回の奉行となり、3月1日に発駕した(『福岡町史 史料編下巻』)。4月5日当時も「新五左衛門様御病気ニて御引込被成候」とあり、体調不良が続いている。
明和4(1767)年3月10日卒去。享年は六十六。法名は徹寛宗底居士。
そのほか、近い一族として「東八郎兵衛常昌」などが見える。「東八郎兵衛」家は天保12(1841)年当時の九石であり、家格は中小姓席となる。天保12(1841)年7月23日、「東八郎兵衛殿」は山田三左衛門、神山三郎治とともに「中之方村庄屋 柘植理左衛門」より年貢の「真綿五百拾五匁」の請取を依頼されている(『恵那市史 史料編』)。なお天保期には「東八郎兵衛」は「不束ニ付役目取上げ」て「断絶」となっている(『恵那山をめぐる歴史と伝説』)が、弘化2(1865)年12月5日当時「東八郎兵衛様御抱」(『新修東白川村誌 史料編』)が見えることから、再興されたものとみられる。
東 胤祥(????-1764)
苗木藩東家六代。父は東新五左衛門胤陸か。母は不明。通称は左内。七十石の郡奉行(『苗木藩終末記』)となる。
明和元(1764)年に亡くなる。法名は西岩全意居士。
千葉常竹(1759-1828)
苗木藩東家七代。父は東新五左衛門胤陸か。母は不明。通称は新三郎、数馬、権右衛門。はじめ「東」を称し「千葉」に改める。
宝暦9(1759)年誕生。安永4(1775)年の役職帳に「東新三郎」が近習として見える。その後、通称を数馬と改めた。 家督相続に付き七十石の家領を相続する。
寛政4(1792)年12月23日、藩侯遠山友随の隠居並びに嫡子友寿の家督相続につき、友随の名代大田原飛騨守庸清、友寿名代片桐主膳正貞影が江戸城に登城し、城中波之間で老中列座のもと「隠居家督無相違」が戸田采女正より申し渡された。このときの遠山家「勤役重役之覚」として用人の一人に「東数馬常竹」が見える(『諸事之覚』)。
寛政9(1780)年12月23日、「用人東数馬常竹」は「病気ニ付依願退役」(『諸事之覚』)と用人職を辞している。
寛政12(1783)年2月27日、藩侯遠山友寿は十五歳(公辺十八歳)で元服し、「加冠河内正峯、理髪東八郎兵衛常紀」が務めている(『諸事之覚』)。常紀の系譜は不明だが、八郎兵衛を称する東一族で当時納戸役を務めていた。その後、常竹は病が癒えたとみられ9月13日、「東数馬常竹、用人江帰役申付候」という(『諸事之覚』)。こののち常竹は通称を数馬から「権右衛門」と改め、享和3(1803)年3月25日、藩侯友寿の江戸出府に「供 東権右衛門常竹」し、4月4日に江戸へ到着している(『諸事之覚』)。
同享和3(1803)年7月8日、「於苗木、用人東権右衛門常竹、家老職江申付、十石加増以書付遣之」(『諸事之覚』)という。当時常竹は江戸在府であり、国元苗木で常竹を家老職と決定し、江戸に書付を送ったということか。同年9月23日、駿府勤番のため駿府城に入った友寿に「家老 東権右衛門常竹、用人河内左中正峯」以下が供奉している(『諸事之覚』)。
文化3(1806)年3月、常竹は藩侯友寿の帰国に供奉し、4月8日苗木に帰着する。
翌文化4(1807)年2月6日、藩侯友寿の女子誕生につき「於苗木那木別館、妾腹女子出生申ノ下刻、産母お由賀」し、2月15日の七夜の祝に際して「名お熊ト東常竹ヨリ上之」(『諸事之覚』)した。
文化7(1810)年正月28日、江戸藩邸の「奥向住居」の普請が始められ、担当役人として「用懸用人鈴木靭負重賢、目付東八郎兵衛常紀、作事奉行佐々木半兵衛」(『諸事之覚』)が任じられている。
文政2(1819)年9月2日の亥刻、藩侯友寿の子(生母は於由賀)として男児が誕生し(『苗木藩終末記』)、9月11日の七夜祝の際に「名貞治郎与家老東常竹より」伝えられた(『諸事之覚』)。のちの最後の藩侯友禄である。用懸として「常竹忰 目付 東数馬常贇」、乳付の乳母として「同人 妻」が任じられている(『諸事之覚』)。
文政4(1821)年正月15日、家老常竹由緒の藩侯息女お熊が、戸田弾正達寿より「お熊事縁組被致度旨被申込候」こととなり、正月25日、「目付詰合東数馬常贇」は用人中原権佐師尹らとともに婚姻用懸りを命じられる(『諸事之覚』)。
文政5(1822)年4月23日、藩侯友寿は参勤交代のため江戸から苗木へと出立し、5月2日苗木城に到着。5月23日、友寿はおそらく苗木城に常竹を招くと「東権右衛門常竹、年来出精ニ付、本知百石ニ直し遣候」ことを通達し(『諸事之覚』)、長年の功労に報いたとみられる。
文政7(1824)年閏8月3日、「東権右衛門常竹六拾六才、老衰殊ニ近年病気ニ付、願之通隠居首尾能申付、五人扶持遣之、家督高百石、同性数馬へ遣之」ことが認められ、東数馬常贇が家督を継承する。
常竹は名字を「千葉」に改めているが、その時期は不明である。おそらく隠居後に「千葉」を名乗ったとみられ、苗木東家は、当主は「千葉」を称し、庶子は「東」を称するようになる。
「千葉権右衛門常竹初称東氏」は文政11(1828)年に3月に亡くなった。享年七十。法名は善海玄止居士。友禄の乳母となった常竹妻(千葉権右衛門常竹婦)は天保10(1839)年6月22日に亡くなった。法名は豊林智衍悟大姉。
千葉常贇(1788-1847)
苗木藩東家八代。父は東権右衛門常竹。母は不明。通称は数馬、平太左衛門。
はじめて千葉を称した人物とされるが、彼の父権右衛門常竹が隠居後に「千葉」を称している。
郡奉行を務め、のち藩家老職(『苗木藩終末記』)。石高は百三十石。彼は苗木藩領の美濃国加茂郡黒川村(加茂郡白川町黒川)の出身とされており(『苗木藩終末記』)、この地が千葉東家の知行地であったのかもしれない。黒川村(631石)は苗木藩領である(『拝領之知郷村高辻』)。
文政6(1823)年2月12日、前年より国元で起こっていた百姓等の山論につき、「江戸表より山論用向ニ付、河内左中立帰として苗木へ着」した。4月25日、河内左中と「郡奉行東数馬」が見分のために赤河村へ出役し(『諸事之覚』)、所々見分して回っている。
文政10(1827)年の分限帳で「千葉平太左衛門」は百石の郡奉行とあるが、同年正月11日、「於苗木郡奉行、勝手用人政事懸り、千葉平左衛門常贇事、用人役、申付廿石之加増遣之」(『諸事之覚』)と見えるが、郡奉行は兼任されており、同年11月11日の民家棟札に「郡御奉行千葉平太左衛門殿」とある。用人役二十石が加増されて家禄は百二十石となる(「神土村大口組佐平居宅棟札」)。
文政12(1829)年3月13日、柏本村周蔵と他所の吉田村八十吉娘いちとの婚姻等につき、藩家老「小倉猪右衛門」「河内左中」、用人「千葉平左衛門」「棚橋源太左衛門」らが連署した許可状を下している(「他所縁組願」『東白川村誌 史料編』)。
天保2(1831)年正月18日、「用人役 千葉平太左衛門 常贇」は「家老職へ申付」け、十石加増され(『諸事之覚』)、家禄は父の権右衛門常竹(苗木藩家老)と同様に百三十石となった。
天保9(1838)年当時、小倉猪右衛門とともに家老職に在職している。当時の平太左衛門常贇の年齢は五十一歳(千早保之『苗木藩墓からみた歴史 : 「廃仏毀釈」以前』22世紀アート)であることから、天明8(1788)年生まれとなる。
天保14(1843)年8月6日、江戸城西丸の建築御用に際しての桧材を献上した下野村紋左衛門を褒賞するよう纐纈善左衛門と伊藤隼人に指示する家老に「千葉平太左衛門」が見える(「下野村紋左衛門桧材献上褒状」『東白川村誌 史料編』)。
弘化3(1846)年の分限帳では「千葉平右(左)衛門」が家中第三席まで昇進している。文書に「平左衛門」とも見られることから、「太」を省くこともあったのだろう。
弘化4(1847)年2月16日卒。法名は特英玄勝居士。享年六十。安政5(1858)年4月23日に「千葉権右衛門方病人」で「今曉養生不相叶死去致候」した「お鶴様」は平太左衛門の妻か。
千葉常彬(1824-1870)
苗木藩東家九代。父は千葉平太左衛門常贇。母は不明。妻はお鶴(『恵那山をめぐる歴史と伝説』)。通称は将監、権右衛門。
嘉永2(1849)年3月および嘉永6(1853)年9月に恵那郡毛呂窪の水上稲荷社(恵那市笠置町毛呂窪)に「苗木藩 千葉常彬」が石灯篭を奉納している(『恵那市史』)。
嘉永7(1854)年7月9日、「千葉将監」の妻が亡くなり、三日間の「穏便」が藩内に触れられている(『苗木藩終末記』)。
安政5(1858)年3月25日、江戸下向のため苗木を出立する(『恵那山をめぐる歴史と伝説』)。このとき「お鶴様」が重病にあり、4月22日、千葉家留守居の中原直之進が権右衛門懇意の医家赤池村の大沢正軒に「御祈祷之儀、御頼申入」たが、翌4月23日に「千葉権右衛門方病人」は「今曉養生不相叶死去致候」したので、その連絡をしている。
安政5(1858)年5月29日、江戸から苗木に帰国した藩主遠山友禄(信濃守)は、藩政改革として6月17日に「千葉将監」を「御武頭上席」とする(『御下屋形勤方荒増』)。「武頭」とは武官を統率する役職で家老、用人に次ぎ、足軽小頭、中頭、供番、表門番、裏門番、麻布門番、在所大門番、表組足軽を支配した。同年12月27日には「千葉将監殿」が「御用人」と改められる(『御下屋形勤方荒増』)。
文久3(1863)年12月21日に「千葉與右衛門常恕初称東氏」が亡くなっているが、千葉権右衛門の弟か。
元治2(1865)年正月、千葉権右衛門は家老職となった(『苗木藩終末記』)。慶應2(1866)年2月の分限帳(『惣侍順席分限帳』)によれば「千葉権右衛門」は藩中席次は次席で「御家老」、知行は「百三十石」。
幕末の動乱の中で、苗木藩は京都の新政府に味方することと決し、慶応4(1868)年正月28日、藩主遠山友禄は江戸を発つと2月9日に苗木城に入った。そこから2月21日に本巣郡美江寺宿(瑞穂市美江寺)の揖斐川沿いの本陣に岩倉具視を訪ねて、新政府に協力することを明言した。
これ以前の2月5日、朝廷に帰順していた尾張藩主・徳川慶勝のもとから勝野正太郎、杉邸寿目蔵、板野又三郎の三名が苗木藩重臣一名を尾張名古屋に出頭させることを求めて来訪しており、翌2月6日、家老代の伊藤木工丞、青山稲吉景通が対応して了承。2月8日、伊藤木工丞と大目付・東侑之進正贇(千葉権右衛門弟)が名古屋に急行した。名古屋には苗木藩と同様に諸藩も重役を派遣しており、尾張藩は諸藩重役を藩校・明倫館に招き、ここで勤王への勧誘が行われ、2月13日、何事も尾張藩の下知を柱とし、たとえ幕命が下っても従うことなく勤王に徹せよとする大意書を示し、これについての「仮証書」の提出が命じられた。そして国元の藩重役の「連印之請書」の提出が命じられたことから、請書に家老の小倉猪兵衛・千葉権右衛門の両名が連印して提出した。
新政府軍の征東軍は有栖川宮熾仁親王が東征大総督となり、橋本実梁(東海道先方総督兼鎮撫使)、岩倉具定(東山道先方総督兼鎮撫使)、高倉永祐(北陸道先方総督兼鎮撫使)らが主将として江戸へ向かっており、苗木藩主遠山友禄が美江寺宿の東山道総督府本陣に出頭したのはこの下向途次の事である。ただし、藩論は新政府への恭順となったものの、苗木藩には新政府に協力できるような財源がもはや存在していなかった。わずか一万石の大名に百名を超える藩士を抱えるという構造的問題が根本にある中で、近年の凶作もあり、その藩債は実に十四万三千両に加え乱発した藩札一万六千両もあったのである。藩政執行部はその藩債を少しでも解消するべく領民に対する御用金徴収を行うがもはや焼け石に水であり、却って領民からの度重なる借財への不満が噴出。事実上藩政改革に失敗したのであった。そして、それに代わって藩内に台頭してきたのが「平田国学」思想を通じて結びついた青山稲吉景通、青山佐次郎直道父子を中心とした中級藩士の一部であった。この平田学派に藩侯遠山友禄が傾倒することで、苗木藩は実務的な「藩政改革」とは異なる、異様異形の改革が進められようとしていた。
こうした中、執政方の神山健之進、伊藤杢允、千葉侑之進の三名は7月23日に藩庁から召喚のうえ、加増分取り上げや平給人への降格が命じられた。さらに公用で大坂表にいた千葉権右衛門は7月29日に苗木へ戻ると「永蟄居」が命じられた上、子息の千葉宮之進への相続ならびに役高召上につき七十石への石直しが命じられた (『苗木藩終末記』)。その罪状として取り上げられたのは、「其方儀、勤役中奸曲之所業不少尠、一藩動揺ヲ生ジ候ニ付」(明治三年八月八日『裁許状』)や「依怙偏執之所業不少、剰坂之行跡等悉人心之不和を醸し」(慶應四年七月『裁許状』)たこととされる。「坂之行跡」が具体的にどのような行いであったのかは不明。同年7月15日、大坂では諸外国への大坂開港式典が行われており、帰途の日程から考えても千葉権右衛門は藩執政としてこの式典に出席していた可能性がある。その席上での何らかの行動が罪に問われたのかもしれない。まさにクーデタが行われたのである。
●慶応4(1868)年7月『裁許状』(『覚秘録』)
●苗木千葉家想像系図
遠山美濃守友寿―――+―遠山美濃守友禄
|
|
+―女子
〔安政2(1855)年卒〕
∥
∥
千葉平太左衛門常贇―+―千葉権右衛門常彬―+―千葉武男
| |
| +―千葉鐐五郎
| ↓
+―東侑之進正贇=====千葉鐐五郎
|
?
+―千葉与左衛門常恕(兄弟か?)
こうして門閥派を一掃した青山直道はさらに藩侯遠山友禄との交渉を重ね、明治2(1869)年2月14日に家老や奉行などの職制を廃止した「執政、副執政、参政」の三格が置かれ、さらに2月26日にはその三格も改められた新職制を立ち上げた(『中津川市史』)。執政・参政は旧給人席(上級藩士)が占めるが、その参政の一人に旧中小姓席(中級藩士)の青山直道がみられる。
| 職 | 氏名 | 慶應二年当時 |
| 執政 | 石原正三郎 | 留守居手代(70石) |
| 宮地一学 | 留守居(120石) | |
| 参政 | 福田忠左衛門 | 御用人政事係(100石) |
| 青山佐次郎(直道) | 刀番(15両2人扶持) | |
| 議長兼文学教授 | 曾我多賀八 | 元方目付兼帯(10石2人扶持) |
| 参事兼奥附 | 伊藤新平 | 目付(10石2人扶持) |
| 参事兼議員 | 水野新兵衛 | 代官(8石2人扶持) |
| 議員 | 藤田優平 | 納戸買物方(6石2人扶持) |
| 郡市主務 | 小池鍬之進 | 宗門改寺社取次(10人扶持) |
| 会計主務 | 宮地作左衛門 | 元方目付兼帯(11石2人扶持) |
| 公用人 | 太田勇磨 | 取次頭取(定府/70石) |
| 会計幹事 | 中根助右衛門 | 江戸広間取次(9石2人扶持) |
| 銃卒頭 | 中原権助 | |
| 文学教授 | 石原謙次郎 | 平中小姓(9石2人扶持) |
| 書記 | 岩島忠三郎 | 御箱調定助(8石2人扶持) |
| 千早正右衛門 | 江戸賄徒士目付兼帯(7石2人扶持) |
さらに明治2(1869)年4月に東京へ出張した藩侯遠山友禄は、6月23日の版籍奉還に伴い、新たに苗木藩「知藩事」に任じられた。7月26日に苗木へ戻った友禄は、新政府の方針に伴う藩職制の再度の変更を余儀なくされる。旧藩士族を前に大参事、権大参事、少参事、権少参事の人選を行う旨を説明し、11月9日に人選が決定する。ここでついに青山直道は藩政トップの大参事に就任することとなる。さらに明治3(1870)年2月にも藩庁人事が変更される。
●明治2(1869)年11月9日「苗木藩庁」
| 職 | 氏名 | 前名 | 掛(2月26日職) |
| 大参事 | 石原定安 | 石原正三郎 | (執政) |
| 青山直道 | 青山佐次郎 | (参政) | |
| 権大参事 | 宮地貴巳 | 宮地一学 | 監察掛(執政) |
| 棚橋朝成 | 棚橋亘理 | 監察掛 | |
| 少参事 | 小池房煒 | 小池八郎 | 都市掛(郡市主務) |
| 曾我祐申 | 曾我多賀八 | 学校掛(議長兼文学教授) | |
| 水野忠鼎 | 水野新兵衛 | 議事社寺掛(参事兼議員) | |
| 権少参事 | 宮地正武 | 宮地佐左衛門 | 会計掛(会計主務) |
| 中根清浜 | 中根助右衛門 | 会計掛 | |
| 藤田政治 | 藤田優平 | 勧農山林掛(議員) |
●明治3(1870)年2月23日「苗木藩庁」
| 職 | 氏名 | 役 |
官給 (現米) |
| 知事 | 遠山友禄 | ||
| 大参事 | 青山直道 | 200石 | |
| 石原定安 | |||
| 少参事 | 土岐正紀 | 監察刑法軍事分課長 | 85石 |
| 水野忠鼎 | 会計学校分課長 | ||
| 大属 | 岩瀬邦雄 | 監察刑法軍事掛 | 67石 |
| 牧安押 | 学校教授専務 | ||
| 権大属 | 曾我祐申 | 宣教掛 | 50石 |
| 土岐正武 | 会計掛 | ||
| 福田豊 | 監察刑法軍事掛 | ||
| 少属 | 塚本忠安 | 会計掛 | 33石 |
| 紀野経益 | 監察刑法軍事掛 | ||
| 小川光賢 | 監察刑法軍事掛 | ||
| 権少属 | 佐々木綱益 | 会計掛 | 26石 |
| 安藤金明 | 会計掛 | ||
| 棚橋朝成 | 会計掛 | ||
| 山内勝孝 | 会計掛 | ||
| 史生 | 小栗重義 | ||
| 新田義質 | |||
| 千早正路 | |||
| 教授 | 牧安押 | (大属) | 70石 |
青山直道は平田篤胤を祖とする平田流神学を信奉する一方で、堕落した仏教を排するという念を強く持った人物である。藩知事遠山友禄と青山直道はともに平田派を学ぶ仲で深く繋がり、仏教施策、儒教教育の否定をもとに藩侯菩提寺の雲林寺も含む藩内の寺院を徹底的に破却するなど、急進的な藩政改革を進めた。青山直道の父の平田国学者で新政府神祇局に出仕する青山景通を通じ、知藩事遠山友禄自らも主導する徹底した廃仏の嵐は、個々人の家の位牌、仏壇、仏像までも強勢的に破却・焼却するという異常事態であり、古くからの文化財も数多く灰燼に帰した。藩学においては神道を主軸とした講義が行われ、朝廷神祇官と繋がる思想を植え付けていった。
この青山藩政に反発する空気の中で立ち上がったのが、永蟄居を命じられていた千葉権右衛門であった。千葉権右衛門は弟の東侑之進(千葉侑之進正贇)や、子の千葉武男(千葉宮之進)、千葉鐐五郎(東侑之進養子)、同志の中原央、神山隠山(健之進)、八尾伊織(龍王院神官)らとともに青山景道らの失脚を画策した。しかし、この動きは青山の知るところとなり、明治3(1870)年正月12日、「士族初歩卒ニ至迄、正五時惣出仕」の際、大参事青山直道は登城してきた千葉武男、千葉鐐五郎、中原央の三名を捕らえて監察局へ留置させ、蟄居中の千葉権右衛門の家宅捜索を断行。屋敷からは「己卯歳男」と記載された藁人形が不自然に発見される。藩知事遠山友録が「己卯」の生まれであったため、彼を呪詛をしたものと判断されたのだろう。藩政顛覆の罪状により権右衛門はじめ十名が逮捕された。彼らは青山直道や監察の面前に引据えられて厳しい尋問が行われたうえ、不眠不休の糺明拷問が行われたとされる(『苗木藩終末記』)。8月8日、権右衛門らの処分が決定し、千葉権右衛門、千葉武男、中原央は終身流罪、弟の東侑之進、神山隠山、横谷要人は五年流罪、計十五人が罪科に問われた。
●明治3(1871)年8月8日『裁許状』(『覚秘録』)
●罪科に問われた人々
| 氏名 | 旧藩役等 | 罪科 | 判決 | 8月4日裁許状 |
| 千葉権右衛門 | 家老 | 蟄居後に様々奸計を巡らし、諸人を扇動し、調伏祈祷を行った事 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) |
| 中原央 |
権右衛門以下と同腹 東京での今井七右衛門暗殺を青山直道の謀略とした事 其外様々に流言をした事 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) | |
| 千葉武男 | 権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) | |
| 神山隠山(健之進) | 用人 | 様々奸計を巡らし、諸人を扇動し、権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 五ヶ年流(東京刑部省へ差出) |
| 横谷要人 | 陰陽師 | 調伏祈祷を行った事 | ||
| 千葉侑之進(侑太郎) | 調伏祈祷を依頼した事、権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 五ヶ年流(東京刑部省へ差出) | |
| 千葉鐐五郎 | 養父侑之進、実父権右衛門、兄武男が大罪 | 入牢 | 徒刑三年 | |
| 八尾伊織 | 龍王院神官 | 容易ならざる事件を行った事 | 神職召放、入牢 | |
| 中原弥学 |
総出仕の際に不実の書状を差し出した事 その他御改正について不満を示して強願を企てた事 | 親類預け | 隠居 | |
| 大島五左衛門 | 目安箱に武男に頼まれた投書を行った事 | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 伊藤紋次郎 | 事件に関係があった | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 石川清左衛門 | 事件に関係があった | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 神山繁 | 事件に関係があった | 親類預け | 隠居、蟄居 | |
| 水野甫松 | 医師 | 事件に関係があった | 謹慎 | 永蟄居 |
| 小池房煒 | 宗門改寺社取次 |
権右衛門に度々面会を求めた事。 「重キ役儀ヲ相勤メナガラ不束ノ次第」 | 謹慎 | 隠居、叱ノ上謹慎 |
このうち流罪以上の千葉権右衛門、千葉武男、横谷要人、神山隠山、中原央、千葉侑之進(侑太郎)の六名は東京の刑部省への移監となるが、この時点で相当な拷問などにより、六名は相当な心身衰弱の状態に置かれていたとみられる。神山隠山、中原央、千葉侑之進は拷問等によるが原因と推測される「不快」により牢死する。7月6日に「神山隠山」が牢舎で衰弱死。とくに「八月十四日、侑之進、央両人、先頃より不快の処、牢にて相果」てるという同日死であり、非常に不自然な牢死であった。
明治3(1870)年8月18日、監察小川小次郎を責任者とする護送団は、千葉権右衛門、千葉武男、横谷要人の三名を籠に乗せて東京へ出立するが、途路の馬籠宿(中津川市馬籠)で「権右衛門、今朝被差立候処、馬籠宿峠迄罷越候処、此頃中之病気再発、急変差重り候」て卒去した。享年四十六。遺体は「捕亡壱人、夫卒壱人、巻添へ帰藩、同夜取仕舞申付候」とあるように、捕亡方鈴木喜一郎、夫卒市次の両名が付き添い帰藩(『苗木藩次官日記』)し、大林寺へ埋葬されたとみられる。墓碑は明治24(1891)年、神山鹿六、神山礼により「丈六(上陸墓地か)」にともに殉難した猿渡隠山(神山健之進)、中原央、千葉侑之進、千葉武男と連名で建てられた。
千葉武男(1849-1870)
苗木藩東家十代。父は千葉権右衛門常彬。母は不明。弟は千葉鐐五郎。通称は宮之進。給人(『苗木藩終末記』)。
父権右衛門常彬は藩主遠山友禄と結びついて藩内に台頭する平田国学信奉者の武頭・青山稲吉景通と青山佐次郎直道父子と対立した結果、慶応4(1868)年7月29日、大坂から戻った権右衛門は「永蟄居」を命じられ、嫡子の千葉宮之進への相続ならびに役高(足高)召上及び七十石への石直しが命じられた(『苗木藩終末記』)。銃士(『八丈島流人銘々伝』)。
明治元(1868)年10月3日、弟の千葉鐐五郎について叔父・千葉侑之進への養子願が認められている。このとき鐐五郎は十五歳であることから嘉永7(1854)年の生まれとなる。宮之進の五歳下である。10月9日、鐐五郎は「中小姓寄合席」へ召し出され、九石二人扶持が遣わされた。
●明治元(1868)年「千葉宮之進養子願」以下
その後、青山景通は明治新政府の神祇局に出仕。その国威・国史的に作り上げられたイデオロギーを原理主義的に信奉する景通の子・青山直道は、苗木藩の大参事として異様な「改革」を行う。知藩事遠山友禄も平田国学の信奉者であったことから、知藩事友禄自身も主導者となって、藩主菩提寺の雲林寺を含めた領内の寺院仏閣の沽却、個々人の位牌、仏像、仏壇、経文を含めた一切の仏教関係物を廃棄・焼却を行い、ただひたすら神道興隆を行ったのである。国内でも廃仏毀釈の元凶たる津和野藩以外に例を見ない藩執行部による狂気の廃仏毀釈である。
この民情をまったく省みない中央イデオロギーを反映させる青山藩政に反発する中で立ち上がったのが、永蟄居を命じられていた旧家老千葉権右衛門であった。千葉権右衛門は弟の千葉侑之進(千葉侑之進正贇)や、子の千葉武男(千葉宮之進)、千葉鐐五郎(千葉権右衛門子息で侑之進養子)、同志の給人中原央、神山隠山(健之進)、八尾伊織(龍王院神官)らとともに青山景道ら執行部の失脚を画策した。しかし、この動きは青山の知るところとなり、明治3(1870)年正月12日、「士族初歩卒ニ至迄、正五時惣出仕」の際、大参事青山直道は登城してきた千葉武男、千葉鐐五郎、中原央の三名を捕らえて監察局へ留置させ、蟄居中の千葉権右衛門の家宅捜索を断行。屋敷からは「己卯歳男」と記載された藁人形が不自然に発見される。藩知事遠山友録が「己卯」の生まれであったため、彼を呪詛をしたものとされたとみられる。これら藩政顛覆の罪状により権右衛門はじめ十名が逮捕された。
逮捕された彼らは青山直道や監察の面前に引据えられて厳しい尋問が行われたうえ、不眠不休の糺明拷問が行われたとされる(『苗木藩終末記』)。そして明治3(1870)年8月8日裁許状によって、千葉権右衛門、千葉武男、中原央は終身流罪、弟の東侑之進、神山隠山、横谷要人は五年流罪、計十五人が罪科に問われた。
●明治3(1871)年8月8日『裁許状』(『覚秘録』)
●罪科に問われた人々
| 氏名 | 旧藩役等 | 罪科 | 判決 | 8月8日裁許状 |
| 千葉権右衛門 | 家老 | 蟄居後に様々奸計を巡らし、諸人を扇動し、調伏祈祷を行った事 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) |
| 中原央 |
権右衛門以下と同腹 東京での今井七右衛門暗殺を青山直道の謀略とした事 其外様々に流言をした事 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) | |
| 千葉武男 | 権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 終身流罪(東京刑部省へ差出) | |
| 猿渡隠山(神山健之進) | 用人 | 様々奸計を巡らし、諸人を扇動し、権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 五ヶ年流(東京刑部省へ差出) |
| 横谷要人 | 陰陽師 | 調伏祈祷を行った事 | ||
| 千葉侑之進(侑太郎) | 調伏祈祷を依頼した事、権右衛門以下と同腹 | 士族召放、入牢 | 五ヶ年流(東京刑部省へ差出) | |
| 千葉鐐五郎 | 養父侑之進、実父権右衛門、兄武男が大罪 | 入牢 | 徒刑三年 | |
| 八尾伊織 | 龍王院神官 | 容易ならざる事件を行った事 | 神職召放、入牢 | |
| 中原弥学 |
総出仕の際に不実の書状を差し出した事 その他御改正について不満を示して強願を企てた事 | 親類預け | 隠居 | |
| 大島五左衛門 | 目安箱に武男に頼まれた投書を行った事 | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 伊藤紋次郎 | 事件に関係があった | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 石川清左衛門 | 事件に関係があった | 親類預け | 徒刑三年 | |
| 神山繁 | 事件に関係があった | 親類預け | 隠居、蟄居 | |
| 水野甫松 | 医師 | 事件に関係があった | 謹慎 | 永蟄居 |
| 小池房煒 | 宗門改寺社取次 |
少参事。 権右衛門に度々面会を求めた事。 「重キ役儀ヲ相勤メナガラ不束ノ次第」 | 謹慎 | 隠居、叱ノ上謹慎 |
このうち流罪以上の千葉権右衛門、千葉武男、横谷要人、神山隠山、中原央、千葉侑之進(侑太郎)の六名は東京の刑部省への移監となるが、この時点で相当な拷問などにより、六名は相当な心身衰弱の状態に置かれていたとみられる。神山隠山、中原央、千葉侑之進は拷問等によるが原因と推測される「不快」により牢死する。7月6日に「神山隠山」が牢舎で衰弱死。とくに「八月十四日、侑之進、央両人、先頃より不快の処、牢にて相果」てるという同日死であり、非常に不自然な牢死であった。
明治3(1870)年8月18日、監察小川小次郎を責任者とする護送団は、千葉権右衛門、千葉武男、横谷要人の三名を籠に乗せて東京へ出立するが、途路の馬籠宿(中津川市馬籠)で「権右衛門、今朝被差立候処、馬籠宿峠迄罷越候処、此頃中之病気再発、急変差重り候」て卒去した。享年四十六。遺体は「捕亡壱人、夫卒壱人、巻添へ帰藩、同夜取仕舞申付候」とあるように、捕亡方鈴木喜一郎、夫卒市次の両名が付き添い帰藩(『苗木藩次官日記』)し、大林寺へ埋葬されたとみられる。墓碑は明治24(1891)年になって、ともに殉難した猿渡隠山(神山健之進)、中原央、千葉侑之進、千葉武男とともに、神山鹿六、神山礼によって「丈六(上陸墓地か)」に建てられた。
千葉武男、横谷要人の両名を連行する一行は中山道を東京へ進むが、8月25日に武蔵国籠原にて横谷要人が急死する。残暑の中、深谷宿の三高院に仮埋葬し、8月28日午刻、被護送人のうち千葉武男のみが愛宕山下の苗木藩邸に到着した。
明治3(1870)年9月2日、藩公用人岩島匡明が武男を刑部省へ同道。武男は同日中に伝馬町の牢舎へ移管され、9月5日、八丈島への遠島が公布された。その揚屋の環境は残暑に加えて幕政時代と同様不潔そのものであったとみられ、食事も満足なものは出されることはなかったであろう。激しい拷問を受けた千葉武男の体力はここでも激しく削がれたと想像される。
その後の出港までの日程は不明だが、出港前に小遣いとして二十貫文が渡されている。稲田騒動に与した徳島藩士らと同じ日程で進められたと想定されることから、その日程を鑑みると、10月14日夜に伝馬町の役所で点呼を受け「氏名と年齢が読み上げられ」たのち「銭二十貫、膳、椀一人前、薬品類、半紙などの支給」(大隈三好『明治時代流人史』)を受けた。揚屋へ戻ると、酒付の食事が用意されたという。そして、翌10月15日に「八丈島江流罪被仰付」た「合三拾六人」(「八丈島流人証文」『八丈島実記』)は霊岸島から出帆。三浦の浦賀(横須賀市浦賀)を経由して、まず伊豆大島へ向かった。大島波浮港(大島町波浮港)に到着すると一時居留ということで人々は下船し、春の船で三宅島を経由して八丈島へと向かう予定となっていたようである(大隈三好『明治時代流人史』)。
この大島上陸後、武男とともに流刑とされていた徳島藩士のうち四名が次々に波浮で病に斃れた。武男もいつ亡くなったのかは定かではないが、徳島藩士同様に「大島波浮」で病死したという(『八丈島流人銘々伝』)。享年二十二。八丈島に渡ることはなかった。明治24(1891)年に神山鹿六らによって苗木に父権右衛門らと連名の墓碑が建立されている。