郡上遠藤家 ~旗本和良遠藤家~

郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

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   郡上藩主遠藤家の二つの庶流が徳川将軍家に仕え、郡上藩主としての遠藤宗家が転封されても、両遠藤家は郡上郡内に残って明治に至った。。
 両遠藤家はそれぞれ郡上郡内に陣屋を持ち、その所在地に因んで乙原遠藤家(西乙原村)、和良遠藤家(和良村)と称された。また、その石高に因み、乙原遠藤家を「二千石遠藤」、和良遠藤家を「千石遠藤」とも呼ばれた。
・遠藤大助常昭(遠藤但馬守慶利の次男)…乙原遠藤家(二千石)
・山田金兵衛常紀(遠藤但馬守慶利の三男)…和良遠藤家(千石)

●郡上藩・三上藩遠藤家

郡上藩・三上藩の概要 美濃郡上藩主 近江三上藩主
乙原遠藤家 和良遠藤家
郡上遠藤家 木越遠藤家

●東氏の歴代

東氏惣領家 郡上東氏の歴代 郡上東氏 須賀川東家 森山東家

●江戸時代の遠藤家(東家)

土佐藩遠藤家 木曾遠藤家 田中藩遠藤家
苗木藩東家 小城藩東家 医官東家

●郡上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤慶隆 1550-1633 1601-1632 従五位下 但馬守 遠藤盛数 東常慶娘 乗性深心院
―― 遠藤慶勝 1588-1615 ―――― 従五位下 長門守 遠藤慶隆 三木良頼娘 明心大神院
2代 遠藤慶利 1609-1646 1632-1646 従五位下 但馬守 三木直綱 遠藤慶隆娘 至誠院乗雲
3代 遠藤常友 1628-1675 1646-1675 従五位下 備前守 遠藤慶利 板倉重宗娘 常敬院素信
4代 遠藤常春 1667-1689 1676-1689 従五位下 右衛門佐 遠藤常友 戸田氏信娘 恵正院素教
5代 遠藤常久 1686-1692 1689-1692 従五位下 ―――― 遠藤常春 側室某氏 本了院素道

●三上藩歴代藩主

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親 法名
初代 遠藤胤親 1683-1735 1692-1733 従五位下 但馬守 白須政休 小谷忠栄娘 宝地院素吟
2代 遠藤胤将 1712-1771 1733-1771 従五位下 備前守 遠藤胤親 久松氏娘 大心院素江
3代 遠藤胤忠 1732-1791 1771-1790 従五位下 下野守 遠藤胤親 田所氏娘 東覲院素秋
―― 遠藤胤寿 1760-1781 ―――― ―――― ――― 遠藤胤忠 青木氏娘 心開院素練
―― 遠藤胤相 1761-1814 ―――― ―――― ――― 酒井忠与 西村氏娘 霊信院素淳
4代 遠藤胤富 1761-1814 1790-1811 従五位下 左近将監 松平信復 小林氏娘 自得院素行
5代 遠藤胤統 1793-1870 1811-1863 従四位下 中務大輔 戸田氏教 猿田氏娘 敬武徳院素中
―― 遠藤胤昌 1804-1855 ―――― ―――― 式部少輔 松平義和 某氏娘 直諒院素温
6代 遠藤胤城 1838-1909 1863-1909
(藩知事含む)
従五位下
(贈正三位)
但馬守
(子爵)
遠藤胤統 小谷氏娘 ――――

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和良遠藤家

        【美濃郡上藩主】              【近江三上藩主】
 遠藤慶利  +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久====遠藤胤親―――遠藤胤忠――娘
(但馬守)  |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)    (但馬守)  (下野守)  ∥
  ∥    |                                    ∥
  ∥    |【乙原遠藤家】                             ∥
  ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―+=遠藤胤貞  +―遠藤胤明―――――――――遠藤常益――+=遠藤常寿――遠藤常栄―+―遠藤岩之助
 板倉重宗娘 |(大助)   (新六郎) |(六郎左衛門)|(右膳)         (大之丞)  |(式部)  (鐘次郎) |
       |             | ∥     |                    | ∥          ?
       |             +―娘     +―遠藤縁福[和良遠藤家へ]        +―娘          +―遠藤新六郎
       |             |       |(隼人)
       |             |       |          
       |             +=遠藤常之――+―川窪信友    
       |              (新六郎)  |(喜一郎)   
       |                     |
       |                     +―娘
       |                     |(向坂主計政賀妻)
       |                     |
       |                     +―娘
       |                      (山口出雲守直郷養女)
       |【和良遠藤家】
       +―山田常紀===遠藤常英―+=遠藤常実
        (金兵衛)  (源五郎) |(彦十郎)
                     | ∥―――――――遠藤常住―+=遠藤縁福  +―遠藤常章
                     +―娘      (源五郎) |(隼人)   |(文次郎)
                                    |       |
                                    +=遠藤常郷――+―遠藤常徳―――遠藤常盛――遠藤大三郎
                                    |(三蔵)    (熊之進)  (鎮之助)
                                    | ∥
                                    +―娘
                                    |
                                    |
                                    +―遠藤常寿[乙原遠藤家へ]
                                     (式部)


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山田常紀(1638-1692)

<名前> 慶紀→常紀(つねただ)
<通称> 金兵衛
<正室> 渡辺丹後守吉綱娘(清光院殿日恵禅尼)
<父> 遠藤但馬守慶利
<母> 板倉周防守重宗娘(清雲院殿妙恵日浄大姉)
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> 達生院殿玄清日相居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』)
<墓所> 法恩寺(池之端四丁目
※現在は墨田区太平1に移転

 和良遠藤家初代。父は郡上藩三代藩主・遠藤但馬守慶利。母は京都所司代・板倉周防守重宗の娘。通称は金兵衛。妻は渡辺丹後守吉綱娘(清光院殿日恵禅尼)。初名は慶紀。彼は生涯「山田」を名字とし「遠藤」を称していない。「山田」はおそらく郡上東氏が下向して治めた郡上郡山田庄に因んだ名字であろう。

       遠藤慶利 +―遠藤常友―――遠藤常春―――遠藤常久【郡上藩主】
      (但馬守) |(備前守)  (右衛門佐) (岩松)
       ∥    |
       ∥――――+―遠藤常昭―――遠藤常就―――遠藤常之【乙原遠藤家】
 板倉重宗――娘    |(大助)   (新六郎)  (新六郎)
(周防守)       |        ∥
            |        ∥
            | 松平氏信―+―娘
            |(民部少輔)|
            |      |
            |      +―娘
            |        ∥
            |        ∥
            | 渡辺吉綱―+―渡辺方綱
            |(丹後守) |(越中守)
            |      |
            |      +―娘
            |        ∥
            |        ∥
            +――――――――山田常紀===遠藤常英【和良遠藤家】
                    (金兵衛)  (源五郎)

 寛永15(1638)年、江戸で誕生した。正保3(1646)年6月20日、父・慶利が亡くなり、同年11月12日、兄・常友が郡上藩二万七千石を相続した際、兄の常昭は二千石、常紀は千石を分与された。その所領は子孫の「遠藤源五郎様御支配所高覚」にあるものとほぼ変わらないだろう。

 正保3(1646)年12月5日、九歳にして初めて将軍・徳川家光に拝謁した。

 承応3(1654)年3月26日、「遠藤備前守常友弟山田金兵衛常紀、五島孫次郎盛次弟民部盛清初見し奉る」(「厳有院殿御実紀」『国史大系』第41巻)と見え、将軍家綱へ初謁見した。このとき十七歳。この時点で「山田金兵衛常紀」とあるが、延宝7(1679)年8月19日の延宝騒動に関する「遠藤杢助、同市右衛門此両人者隠居願」を藩主外記常信に提出した件について、「両人の世忰共へ無相違家督御申付候」に署名して家老衆へ指示した御一門衆のひとりに「山 金兵衛慶紀」とある上に、彼はこの三か月後に亡くなっていることから、「常紀」を正式名称としつつも私的には「慶紀」も併用していたと考えられる。

●延宝7(1679)年8月19日『後見人連署書状』

今度遠藤杢助、同市右衛門此両人者隠居願候、俄外記殿迄申越候由承之候、其身願之通従外記殿被仰付通、両人の世忰共へ無相違家督御申付候而、弥其通可致申渡候、恐惶謹言
   八月十九日           遠藤新六郎常就
                   山 金兵衛慶紀
                   板 伊豫守重形
                   板 市正 重大
                   戸 左門 氏西
  遠藤十兵衛殿
  同新左衛門殿
  池田六左衛門殿
  松井縫殿助殿

 万治2(1659)年7月11日、「万石以上の子弟」192名が新たに召し出され、常紀は御小姓組に列した。常昭・常紀の兄弟は将軍家旗本ながら、郡上藩から分知された所領に属していた。

 延宝5(1677)年から国元の郡上で起こった百姓困窮に伴う諸役軽減派の家老・遠藤杢之助正英の方人と、諸役継続派の筆頭家老・遠藤新左衛門長明の方人の間で騒動が起こる。この「延宝の郡上騒動」では、常紀と甥の新六郎常就は遠藤杢之助側に立っており、騒動に関して幼少の藩主遠藤常信(のち常春)を後見する「御一門様」のひとりとして活動した。常紀が遠藤杢之助側に立っていたのは、「山田金兵衛殿執権高垣平兵衛」が「杢之助聟」であったことも理由の一つであろう。そして、高垣平兵衛は「遠藤新六郎家老一宮一郎左衛門」とも内談をするほどの間柄であり、旗本両遠藤家は遠藤杢之助側として動いたのであった。

 しかし、遠藤新左衛門側の「連判内両三人(野田覚右衛門慶明、野田九右衛門、松井縫之助宗従か?)」が、江戸に下って藩侯後見の大垣戸田藩邸に「御聞書」を提出。藩主戸田左門氏西はこれを読み「一々御吟味被遊」された後、「左門様より御横目両人」がこの「御聞書」を添えて郡上藩邸に派遣され、「外記様(遠藤常信)」が「目安」に記された條々を見た。ただ、このとき常信はわずかに十歳であり七十条にも及ぶ「条目之品、莫大数ヶ条なる故、御合点難被成由」であった。そのため「連判内両三人」は「即座にて数をへらし候十二ヶ条相つゝめ指上」た。すると、大垣藩邸からの両目付は「此度条目連判頭人ハ何レ両三人にて可有」と尋ねるが「右三人之衆、有無返答無」という。今回の連判衆は頭人を知られたくないために様々に工作を行っており、当然ここに召された三人衆も答えることができなかったとみられる。

 結局、この十二ヶ条を議論した結果、藩内の騒擾を鎮めるために「杢之助を大垣ヘ被召寄、切腹為致候に相極候」と決したため、「大垣之御家人山田又左衛門に被仰付、大垣ヘ被参候」という。また、郡上藩側も江戸藩邸から「極月廿六日に杢之助義、大垣へ被越候様御状」を国元へ急ぎ遣わし、12月26日に杢之助は大垣へ赴くようにとの指示をしている。ところが、この件について「大垣より申合之使者、不参候故、手筈相違」ったため、杢之助は「大垣へも日限相延候」となってしまう。なぜ大垣から郡上へ申合の使者が遣わされたなかったのかは定かではないが、藩主としての命を手違いとして有耶無耶にできる人物はただひとり、大垣に隠居する老公戸田一閑のみであり、彼の指図があった可能性があろう。

 そして、延宝6(1678)年12月26日、郡上の杢之助のもとに、江戸の「山田金兵衛殿執権高垣平兵衛」から「御一門様」の衆議で決定した「杢之助を大垣ヘ被召寄、切腹為致候」という一報が届いた。杢之助の女婿である高垣平兵衛は「遠藤新六郎家老一宮一郎左衛門」とも内談し、「杢之助へ内通」したものであった。これを知った杢之助は驚き「取急ぎ右一條相違に付、対決被仰付度由」を記した訴訟書を作成し、「江戸御一門方」へ、翌12月27日暮六つ時に若党の九助に持たせて江戸へ急行させた。九助は郡上出立から三日目の延宝7(1679)年正月一日未明に「江戸表、戸田左門様御門開の所へ駆付」けて、杢之助から託された訴訟書を提出した。こうして、戸田左門はもう一度、一門衆を集めて評議を開始した。なお、遠藤杢之助が大垣へ召喚されなかったことは問題視されておらず、やはり戸田老公の指図であった可能性が高いだろう。

 この再吟味が行われる旨を知った野田覚右衛門(慶明)は、「斯様の事杢之助様承り及びしこと難心得存ずる也、是れは必定新六郎様、常々杢之助を大切に思召さる故、内通あると相究る、最早謀事露顕したる上は本望達すること能はず、此上は新六郎様を打取り欝憤を晴らさん」と思い、同じく仕置家老である松井縫之助を「尤極此儀、其許ならでは外に仕負可申者無之」と持ち上げるが、正月4日夕方に遠藤新六郎常就邸を訪問したのは、野田九郎右衛門一人であったようだ。

 野田九郎右衛門は「新六郎様に直に御目に懸り申度」ことを申し入れ、家老の永井平右衛門、沖津勘右衛門両名が対応した。本藩重職の訪問であったが、九右衛門が尋常ではない様子を感じた両者は「扨子細ぞあらん」と怪しみ取次を断ったところ、「生来短気の九右衛門」はいきなり「眞ツ二に討取り(永井平右衛門か)」、そのまま屋敷内に斬り込もうと飛び込んだ。そこを沖津勘右衛門が立ち塞がり一尺二寸の脇差で防戦するが、野田九右衛門は二尺五寸の村正を振りかざしていた。武芸の達者である勘右衛門も実に三十八か所の手傷を負ってしまうが、九右衛門が打ち込んだところを撥ね除けると、九右衛門の背後に回って抱きすくめた。このとき、折節出入りの塗師屋が事態を察して九右衛門の足を掬って引き倒し、人々が九右衛門を生け捕りにし、勘右衛門は絶命した。その夜、九右衛門は「乱心」として斬首された。

 延宝7(1679)年10月27日、亡くなった。享年四十二。法名は日相。亡くなる六日前の10月21日に戸田氏西以下の御一門衆による郡上藩の家中和合の諭示書の中に慶紀の名はなく、この頃には体調を崩していたと考えられる。墓所は谷中の平河山法恩寺池之端四丁目。法恩寺はその後本所墨田区太平1に移され、次代の源五郎常英以降は移転地に埋葬された。

●遠藤源五郎様御支配所高覚(『和良村誌』)

村名 石高
宮代村 215.9石
下沢村 170石
下洞村 160石
小地方 100石
乙原村 176.2石
そしの村 170.2石
戸川村 94.2石
法師丸村 10.3石
清八分  
合計 1,096.8石

●遠藤常友の家中抜粋(『郡上藩分限帳』:『郡上八幡町史』所収)

石高 役職 氏名
2,500 常友実弟 遠藤大助常昭
1,300 常友実弟 山田金兵衛常紀
100 常友母親? 敬勝院
10人 常友伯母 伯母
10人 常友伯母 伯母
10人 常友娘?妹? 女中
  ~家中城代家老~  
500   遠藤十兵衛(朝慶)
500 仕置家老 遠藤新左衛門・遠藤杢之助(正英)
500 無役 遠藤主馬助
450 月番家老組頭 池田六左衛門(吉久か)
350 月番家老組頭 遠藤市右衛門(正明)
300 月番家老組頭 松井縫殿助(宗従)
300 無役 野田覚右衛門(慶明)
200 無役 粥川小十郎・石神太兵衛
300 物頭 餌取六右衛門
250 物頭 村山三右衛門・石井藤右衛門
200 物頭 高屋権太夫
150 物頭役領扶持 遠藤善左衛門・松井覚兵衛
150 寺社奉行 松井弥五左衛門
100 鑓奉行役領扶持 遠藤治部右衛門
150 町奉行役領扶持 吉田作左衛門
200 郡奉行 遠藤金左衛門・武光伝左衛門
200 目付 粥川半兵衛
100 目付 野田九右衛門
150 聞番役二十人扶持 澤部治部左衛門
100 奥家老 宮田兵右衛門・豊田源五兵衛
150 馬乗り 三浦四方助
150 馬医者 鷲見八右衛門
  ~御馬廻~  
300   粥川孫左衛門
250    小池孫右衛門
200   武光吉左衛門・豊島弥左衛門・遠藤久右衛門・松井勘右衛門・豊田武兵衛・佐藤治兵衛
150   遠藤七郎左衛門・遠藤助太夫・畑佐覚左衛門・豊田儀左衛門・山田又兵衛・桑原五兵衛・池田幸右衛門・垣見伊右衛門・角庄右衛門・池戸善右衛門
100   遠藤武太夫・野田弥兵衛・遠藤弥市右衛門・桜井宇右衛門・餌取八郎右衛門・伊東一拾・伊藤関三郎・三木竹之助・池戸求馬助

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遠藤常英(1665-1736)

<名前> 常英(つねふさ)
<通称> 三四郎→源五郎
<正室> 伊東九郎左衛門祐信娘(光長院殿妙恵日道大姉)
<養父> 山田金兵衛常紀
<実父> 能勢惣十郎元之
<母> 長谷川三左衛門守勝娘
<妻> 伊東九郎左衛門祐信娘
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> 時正院殿秋岸日終居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』)
<墓所> 法恩寺(池之端四丁目
※現在は墨田区太平1に移転

 和良遠藤家二代。養父は山田金兵衛常紀。実父は能勢惣十郎元之。母は長谷川三左衛門守勝娘。妻は伊東九郎左衛門祐信娘。通称は三四郎、源五郎。「山田」を「遠藤」に改める。

 寛文5(1665)年、能勢惣十郎元之の子として江戸に誕生した。その後、子のなかった山田常紀の養嗣子となり、延宝7(1679)年12月11日、十五歳で故山田常紀の家督を相続した。同日に「父死して子家つぐもの廿七人」(『厳有院殿御実紀』)であった。家督相続後も役職には就かずに小普請入りしている。

 元禄9(1696)年7月5日、御小姓組に列し、享保2(1717)年2月15日、松平与左衛門忠一とともに中国地方の巡察を行なった。宝永2(1705)年当時四十一歳とある(『御家人分限帳』)

●『御家人分限帳』

千石  山田金兵衛養子 能勢惣十郎子
          遠藤源五郎
            酉四十一

 享保19(1734)年4月6日、七十歳にして職を辞した。このとき黄金二枚が下賜されている。慰労の意味があるのだろう。元文元(1736)年8月19日、七十二歳で亡くなった。法名は日終。

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遠藤常住(1717-1786) 

<名前> 常住
<通称> 文次郎→内匠→源五郎
<正室> 河野仙寿院通休娘(信受院殿妙持日行大姉)
<父> 遠藤彦十郎常実
<母> 遠藤源五郎常英娘
<官位> 無位(布衣)
<官職> 無官
<法号> 是法院殿常住日演居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』)
<墓所> 法恩寺(池之端四丁目
※現在は墨田区太平1に移転

 和良遠藤家三代。父は遠藤彦十郎常実。母は遠藤源五郎常英娘。通称は文次郎、内匠、源五郎。妻は河野仙寿院通休娘。

 河野通房―+―河野通休―+―河野通頼
(松庵)  |(仙寿院) |(仙寿院)
      |      |
      +―遠藤常実 +―娘      【乙原遠藤氏】
       (彦十郎)   ∥―――――――遠藤常寿
        ∥      ∥      (式部)     
        ∥      ∥     
        ∥――――――遠藤常住====遠藤常郷
 遠藤常英―――娘     (源五郎)   (三蔵)
(源五郎) 

 元文元(1736)年11月4日、「元御小性組被勤候遠藤源五郎ト申仁之嫡孫承祖、文次郎跡目被仰付候而、寄合ニ入被申候」(『古事類苑官位部24』)とあるように、祖父・源五郎常英の遺跡を継ぎ、寄合に列した。そして12月11日、将軍・徳川吉宗に初めて拝謁し、延享2(1745)年9月13日、御小姓組となる。

 宝暦元(1752)年6月11日、大御所吉宗が江戸城にて薨去。22日、常住は吉宗への院号ならびに従一位太政大臣の贈位についての使者として朝廷に遣わされた。

 宝暦4(1755)年正月11日、御使番となり、12月28日には布衣を許された。その後、明和3(1766)年正月11日に御先鉄砲組頭に転じ、9月8日、火付盗賊改に就任した。しかし、翌明和4(1767)年8月7日、前任の火盗改の細井金右衛門正利が捕らえていた容疑者を勝手に釈放する失態を犯した。この容疑者は町奉行・依田豊前守政次から吟味すべきことがあるとして以前から常住へ伝えられていたにもかかわらず常住が独断で召し放ったため、常住は「越度の至り」として出仕停止を命じられた。9月9日、出仕は許されたが、翌日には火盗改を解任されている。

 安永5(1776)年4月、将軍・徳川家治の日光社参に供奉した。

 天明6(1786)年12月11日、七十歳で亡くなった。法名は日演

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遠藤常郷(1744-1794)

<名前> 常郷
<通称> 熊之進→三蔵
<正室> 遠藤源五郎常住娘
<養父> 遠藤源五郎常住
<実父> 堀大和守親蔵(信濃飯田藩主)
<母> 某氏
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> 日雲
<墓所> 法恩寺(池之端四丁目
※現在は墨田区太平1に移転

 和良遠藤家四代。養父は遠藤源五郎常住。実父は信濃飯田藩主・堀大和守親蔵。母は某氏。通称は熊之進、三蔵。妻は遠藤源五郎常住娘。

 遠藤源五郎常住には嫡子がなく、飯田藩主・堀家から熊之進が養嗣子として迎えられ、明和3(1766)年12月21日、将軍・徳川家治に初めて拝謁を果たした。安永3(1774)年、養父の常住に実子の栄次郎が誕生するが、常郷の惣領の地位は変わらず、栄次郎は同族の乙原遠藤家に養子に出され、遠藤式部常寿となる。

 安永5(1776)年12月19日、御書院番に列した。天明7(1787)年3月7日、養父・遠藤常住の遺跡を継ぐ。常住には養子として、一族の乙原遠藤新六郎常之の四男・遠藤隼人縁福を養嗣子に迎えていたが、宝暦9(1759)年6月7日に二十二歳の若さで亡くなっていた。

 寛政元(1789)年12月29日、御書院番を辞して小普請山口勘兵衛組となり、寛政6(1794)年8月21日、五十一歳で亡くなった。法名は日雲

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遠藤常徳(1783-1853)

<名前> 常徳→常紀
<通称> 熊之進→源五郎→求馬
<正室> 滝川氏(久成院)?
<父> 遠藤三蔵常郷
<母> 某氏
<官位> 無位
<官職> 無官
<法名> 堅樹院殿同光日良居士(「和良遠藤家位牌」『進藤家文書』)
<墓所> 法恩寺(池之端四丁目
※現在は墨田区太平1に移転

 和良遠藤家五代。父は遠藤三蔵常郷。母は某氏。通称は熊之進、源五郎、求馬

 寛政6(1794)年閏11月5日、十二歳にして家督を相続。小普請山口勘兵衛組となり、寛政12(1800)年8月22日、御書院番安藤伊予守組へ転じ、組頭は追々替わりながら、天保13(1842)年正月12日、菅沼伊賀守組となった。

 嘉永6(1853)年3月21日、亡くなった。享年六十九。法名は日良

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遠藤常盛(1827-????)

 和良遠藤家六代。父は遠藤求馬常徳。母は某氏。通称は鎮之助

 文政10(1827)年誕生。兄の遠藤熊五郎(実成院殿法遠日久居士)は天保10(1839)年6月13日に亡くなっており、次男の鎮之助が嫡男とされたとみられる。

 父の遠藤求馬常徳は嘉永6(1853)年3月21日に亡くなっており、それ以前に家督を継いだとみられる。安政2(1855)年、御小姓組土屋国之允組となり、その後は小普請組に編入された(『旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ遠藤鎮之助』)。また元治元(1864)年からは病がちとなったようである。

 慶応4(1868)年2月13日、尾張藩は東山道先鋒総督兼鎮撫使岩倉具定より旧尾張藩領および周辺域の旗本知行地に関する取締を命じられ、尾張藩は水谷宅兵衛、川口太郎右衛門をその臨時担当官に任じ、笠松陣屋の管轄下にあった天領及び旗本領については「笠松支配所の儀、天朝御領に相成候に付、追て御処置被仰出候迄、御取稼筋並に是迄差配居候公事出入諸願達之外、臨時御用向並に御取締向共、当分の内美洲出張の者に於て取扱候様被仰出候」と、尾張藩の管轄とされた旨を布達した。2月18日には遠藤新六郎(乙原遠藤家)にこの旨が達書が渡されているが、彼らは去就を決めかねたのか、遠藤新六郎遠藤鎮之助(和良遠藤家)は「方向不足」という逡巡の科を以て知行地を収公されることとなる。

 これに対して、遠藤新六郎遠藤鎮之助は当時旧領乙原村での謹慎していたが、鎮之助は所領を収公された直後とみられる2月某日、笠松縣弁事に「遠藤鎮之助用人 名代高田貢右衛門 同付添田口総右衛門」を遣わして、「去ル卯年将軍職御辞退ノ上ハ早速馳登如何様ノ御奉公モ可仕」ことを思いながらも、「鎮之助儀四ケ年以前丑春ヨリ長病ニ打臥于今起不申不任心底」という状態のためにそれが叶わなかったと弁明した。さらに「嫡子大三郎幼穉」であり、思うようにならなかった旨を鑑みて「寛大ノ御処置奉歎願候」ことを伝えている(『旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ遠藤鎮之助』)

元年
遠藤鎮之助
  遠藤鎮之助用人名代
   高田貢右衛門 同付添田口総右衛門願 弁事宛

      美濃国郡上郡乙原村以下六ケ村
      従本家分知高千石

                   遠藤鎮之助常盛
                       当辰四十二歳
                嫡子 同 大三郎
                       当辰九歳

右ハ本家先祖遠藤備前守従往古代々於美濃国領地相伝仕候豊臣家ノ御代同国同郡八幡ニ居城仕本高四万八千石ノ内鎮之助六代以前ノ祖遠藤金兵衛分知仕従将軍家光公御代々ノ幕府ヘ出勤仕候、然ル処去ル卯年将軍職御辞退ノ上ハ早速馳登如何様ノ御奉公モ可仕ノ処、鎮之助儀四ケ年以前丑春ヨリ長病ニ打臥于今起不申不任心底、且嫡子大三郎幼穉ニテ昼夜苦心仕候、依之今般乍恐以名代寛大ノ御処置奉歎願候此段御憐察被為成下何卒御執達奉願上候以上 明治元年二月

 これに対し、笠松縣は3月12日、自身の病気が快復した上は、自ら上京して帰順の道を立てるよう命じている。

病気快気ノ上、自身上京帰順ノ道相立候様被仰付候事 明治元年三月十二日

 この頃、遠藤鎮之助は遠藤新六郎とともに「西乙原新六郎方に同居申付置候」していたが、両名は謹慎を免じる歎願を尾張藩の旗下取締方荒川弥五右衛門へ「致歎達候」したところ、認められて「去る六月中、謹慎被免候」と謹慎が解かれた。

 ところが、7月3日夕刻、「遠藤鎮之助元来地郡上郡乙原村土民沸騰す」と、旧領乙原村の百姓らが突如一揆を起こした。これは、「遠藤鎮之助家来高田正兵衛、遠藤新六郎家来畑佐鼎」が「最前本領安堵触出取計」という事を独断で旧領内に触れたために起こったもので、百姓たちは「長く御料之御支配に被成下候様との趣願立、村内不穏之次第有之」したものであった。遠藤鎮之助側は郡上藩に「為鎮静人数差出呉候様、以使者頼申越候」という依頼をしたため、郡上藩は「同夜不取敢為鎮静一小隊差出」した。そして「百姓共鎮静致候に付、去十二日晝八ツ時頃同所より人数引揚、同夜五つ半時帰国致候」と青山大膳亮が江戸へ報告したように7月12日に百姓の蜂起は鎮定されている。

 この騒動の最中、荒川弥五右衛門は7月8日での解職が決まり、その前日7日までに笠松県庁に「追々暮し方難渋の由にて甚以て気の毒の次第に付、先々近藤孫右衛門初方にて旧主人の分に付、相養ひ置、自然主人帰邑致候様、篤と説諭申遣候處、今八日、当御取締被免候に付、前件始末結局何れ御苦労筋万端其御含取計可被下候、尤此一件、実以大事件に付、篤と情実御勘味可被下候」と、両遠藤家のその後の事や百姓蜂起の後始末などを依頼している。

 荒川弥五右衛門は、高田正兵衛と畑佐鼎は「実以不容易事件等申、偽不埒の事に付」ため、「兼て御縣へ御打合の上、当方方にて屹度取締申付置候」しようとしていたが、両遠藤家より旧家老の武村益蔵、一宮源左衛門が遣わされて、「尤於主人は更に不存儀に付、家来両人の儀は主人手元にて屹度取締」う旨を伝え、その身柄の引き渡しを依頼している。これを受けて旗下取締方は吟味を行い、その願い通りに「今七日主人々々へ引渡方取計候に付、此段不取敢申達候」と決定。荒川弥五右衛門が笠松県庁へその旨報告している。また、騒動に加担した「遠藤孫右衛門、同篤輔」については、百姓と揉めた程度であるので、二十七日間の謹慎とするよう申し置いた旨が報告された。

郡上郡両乙原騒立候一件に付、遠藤鎮之助家来高田正兵衛、遠藤新六郎家来畑佐鼎儀、最前本領安堵触出取計、実以不容易事件等申、偽不埒の事に付、兼て御縣へ御打合の上、当方にて屹度取締申付置候處、今般鎮之助家来武村益蔵、新六郎家来一宮源左衛門初並両遠藤よりも追々嘆願いたし、尤於主人は更に不存儀に付、家来両人の儀は主人手元にて屹度取締いたし、於主人毛頭不存廉相顕度旨差頻り申出候に付、段々吟味の上、今七日主人々々へ引渡方取計候に付、此段不取敢申達候、御縣へ御打合の上、取締申付置候、遠藤孫右衛門、同篤輔儀、追々主人鎮之助より旧家来の分に付、差免方等も願出に付吟味致候處、右両人儀は全く百姓共差騒候丈の咎品に付、任其意差免し、二七日の間謹慎申付置、右の通り夫々取計候に付、此段申上候

  遠藤新六郎は、明治2(1869)年2月2日におそらく笠松縣を通じて東京の太政官行政官伝達所に東京下向の歎願を行っており(明治二己辰年二月行政官伝達所『日記』)、その後東京へ移ったと思われる。その後の足取りは不明である。

一 徳川旗下    遠藤新六郎
  右東京下之義ニ付歎願

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遠藤大三郎(1860-????)

 和良遠藤家六代嫡子。父は遠藤鎮之助常盛。母は某氏。通称は大三郎


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