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粟飯原〔粟飯原氏のページへ〕
千葉一族。「あいはら」「あいばら」とよむ。平安時代末期、平常長の四男・常益が粟飯原を称した。名字地は不明だが、千田庄内のいずれかの地か。その後、香取郡小見川郷(千葉県香取市)を領し、戦国末期まで粟飯原氏の居館となった。
粟飯原氏は中世千葉介の重臣として活躍し、千葉介氏胤の後見役をつとめた粟飯原清胤(下総守)は室町幕府の評定奉行人、さらには政所執事にも就任し、足利尊氏・直義兄弟に非常に重用された武人であった。しかし、観応の擾乱の最中、清胤は南朝方の山名時氏・楠木正儀と戦って京都神楽岡にて戦死を遂げた。
その弟・粟飯原基胤は鎌倉に下り、鎌倉公方・足利基氏(尊氏の四男)に仕えて「基」字を偏諱されたか。武蔵国で挙兵した新田義宗・脇屋義治の軍勢と戦って功績をあげた。清胤の嫡子・粟飯原詮胤(弾正左衛門尉)も幕府に重用され、千葉介満胤の後見人となった。その子孫は幕府奉公衆・千葉宗家の重臣ほか、四国や中国地方など、各地の粟飯原氏として発展していった。
―諸書に見える粟飯原氏―
| 粟飯原道光入道 | 『本土寺過去帳』によれば、文永3(1266)年に7回忌を行っていることから、文応元(1260)年に没したことがわかる。また、「曾谷彈正忠内方親父」とあることから、八幡庄曾谷村(市川市曽谷)の豪族・曽谷氏との係わり合いが見受けられる。 |
| 粟飯原清胤 | 下総守。千葉介氏胤の後見人を務め、貞和3(1347)年、足利尊氏の側近となり政所に出仕する。 |
| 粟飯原基胤 | 彦五郎。清胤の弟で足利尊氏の側近を務めた。笛吹峠で新田義宗を迎え討って撃退した。 |
| 粟飯原詮胤 | 弾正左衛門尉。清胤の子で嫡流は代々幕府の奉公衆となった。 |
| 粟飯原常善 | 但馬守。詮胤の弟。応永23(1416)年、千葉介満胤に従って上杉禅秀に荷担した。 |
| 粟飯原大和殿母 | 法名は妙言尼。粟飯原大和守の母親(『本土寺過去帳』)。宝徳2(1450)年6月28日没。 |
| 粟飯原胤直 | 右衛門尉。『鎌倉大草紙』に名があり、助九郎胤宣とともに戦死したとある。千葉大介胤直のことか。 |
| 粟飯原胤宣 | 助九郎。『鎌倉大草紙』に名があり、右衛門尉胤直とともに戦死したとあるが、千葉介胤宣のことか。 |
| 粟飯原九郎 | 康正元(1455)年、馬加康胤に攻められて千葉胤宣が自害したとき、ともに自害した。 |
| 粟飯原豊後入道 | 明応4(1495)年11月9日、常輝(千葉孝胤入道)から宛てられた浄泉寺周心院に関する文書に見える。 |
| 粟飯原左近将監 | 粟飯原右衛門三郎の父。永正6(1509)年9月28日、千葉介勝胤から右衛門三郎に宛てられた文書に見える。 |
| 粟飯原右衛門三郎 | 左近将監の子。永正6(1509)年9月28日、千葉介勝胤から宛てられた広念寺領伊篠北方を周心院に寄進する文書に見える。 |
| 粟飯原孝宗 | 左衛門尉。永正11(1514)年の文書に見える。大永元(1521)年文書の「上野介孝景」と同一人物。 |
| 粟飯原幹宗 | 孫二郎・左衛門大夫。孝宗の子。永正11年、大永元(1521)年、天文6(1532)年2月の文書に見える。 |
| 粟飯原保宗 | 左衛門大夫。幹宗の孫として天文6(1532)年2月に見え、天正13(1584)年の小見川金剛寺に寄付した人物に名が残る。 |
| 粟飯原豊後 | 入道浄永。天正17(1588)年の『木内文書』に見える。 |
| 粟飯原胤光 | 隼人。明応年中(1492-1501)の『伊篠浄泉寺文書』に名がある。 |
| 粟飯原大和守 | 小見川伊篠浄泉寺の本尊観音の背識に天文20(1551)年、粟飯原大和守の名がある。粟飯原大和守は根古屋村に墓があり、天正18(1590)年、小田原城から逃れて小見川に向かう途中で死亡した。 |
| 粟飯原九郎次郎 | 天正10(1582)年、討死。(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原四郎左衛門 | 塩古。天正11(1583)年2月17日、法名:日啓(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原大和守 | 塩古。妙浄。文禄3(1594)年正月22日。(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原大和守 | 塩古。文禄5(1596)年6月13日、法名:日昌(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原道感 | 佐倉。慶長11(1606)年6月25日、法名:日就(『本土寺過去帳』)。 |
| 粟飯原和泉 | 某年正月14日。(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原三河入道 | 某年10月18日、法名:日源(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原治部左衛門 | 某年2月26日、法名:妙円(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原文六 | 某年某月26日、法名:法忠(『本土寺過去帳』) |
| 粟飯原彦右衛門 | 慶応2(1866)年の上総国佐貫藩(阿部駿河守正恒)の年寄(家老)職をつとめる(『大武鑑』) |
―粟飯原氏略系図(1)―
平高望―+―良兼――+―粟飯原盛家――定秀―――秀家――――実秀―――――秀宗――――親秀―――朝秀
(上総介)|(上総介)|(左衛門尉) (尾張守)(孫次郎) (河内守) (藤兵衛尉)(尾張守)(伊勢寿丸)
| |
| +―良定――……―常時
| |(文次郎) (文次郎)→妙見社神主
| |
| +―公雅―――+―致頼
| (武蔵守) |(散位)
| |
| +―娘
| ∥
| ∥――――常将――――常長―――+
| ∥ (上総権介)(下総権介)|
+―良文――――忠頼―――――忠常 |
(上総介) (上総介) (上総介) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| +―成胤―――時胤―――+
| |(千葉介)(千葉介) |
| | |
+―常兼――――常重―――常胤―――胤正―+―栗原寛秀 |
|(下総権介)(千葉介)(千葉介)(千葉介)(禅師) |
| |
| +――――――――――――――――――――――――――――――+
| |
| +―頼胤――+―宗胤 +―貞胤
| (千葉介)|(千葉新介) |(千葉介)
| | |
| +―胤宗―――――+―粟飯原氏光
| (千葉介) (下総守)
|
+―粟飯原常基――有胤==朝秀――+―信秀――胤秀――義秀―胤晴―+
(孫平) (孫平)(孫次郎)|(太郎)(孫平太) |
| |
| +―――――――――――+
| |
| +―基繁―義秀―氏秀=満胤
|
+―正秀
|(十次郎)
|
+―秀久
|(藤五郎)
|
+=寛秀―――常行―――常実――――常久――――常光====氏光――+
(孫三郎)(兵衛尉)(右衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)(下総守)|
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―清胤――+―詮胤―――――+―満胤―教胤―政胤―尚胤―孝胤―幹胤―持宗―瀧寿
|(下総守)|(彈正左衛門尉)| ∥――宗光―宗忠―宗勝―+
| | | ∥ |
+―基胤 | | 成毛宗正――粟飯原宗久 |
|(彦五郎)| | (対馬守) (対馬守) |
| | | |
+―兼胤 | | +―――――――――――――――――――――――――――+
(下野守)| | |
| | +―保宗――宗正―――胤秀――――家久
| |
| +―胤長―――秀助――――胤定―――晴次――――胤俊―――――胤行――――+
| (下総守)(治部少輔)(左馬助)(蔵人栄公)(越前守鑑公)(但馬守徹公)|
| |
| +――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| |
| |
| +―胤次――――――+=光胤=====俊胤
| |(但馬守源公) |(出雲守金公)(孫平)
| | |
| +―娘 +―常次―――――娘
| |(海上山城守妻) (孫平)
| |
| +―娘
| |(金田左衛門大夫信吉妻)
| |
| +―常直
| (助右衛門)
|
+―常善―――――――信宗―――勝助―――胤吉
(但馬守) (但馬守)(下野守)
| ―粟飯原氏略系図(2)― | ―粟飯原・鏑木氏関係図― | |
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青田
千葉一族。平常長の曾孫・粟飯原顕常(二郎)の3代の孫・顕綱(太郎)が青田を称した。その発祥地である「青田」という地名は不明。下総国相馬郡鹿島神社の神官の家柄とも伝わる(→粟飯原系譜2)。
相馬家被官筆頭の青田氏は、青田氏系図によれば平良繇(実在不明)の後裔という。「葛飾郡青田村」に住み、青田を称するという。相馬郡青田邑(流山市青田?柏市大青田?)発祥か(『衆臣家譜』)。
◆相馬四天王・青田氏◆
●山沢青田氏●
鎌倉期、青田常方(兵衛)が下総国相馬郡に入部した相馬師常(次郎)に従ったと伝わる。その曾孫・常永(右兵衛)は相馬胤村の老臣となったという(『衆臣家譜』)。その子・常平(次郎兵衛)は相馬重胤の被官となり、常平の弟・常清(孫左衛門。青田孫左衛門祐胤か)は相馬重胤とともに奥州行方郡へ下向し、行方郡小高郷耳谷村山沢に館を構えた。この常清の嫡流子孫を「山沢青田家」とよぶ。
青田祐胤(孫左衛門尉)と子・新左衛門尉は、建武3(1336)年3月3日の『相馬光胤到着状』と建武4(1337)年正月の『相馬胤頼到着状』に名が見える。祐胤と新左衛門は相馬助房(人物不明)の「家人」として北畠顕家勢と合戦し、新左衛門は負傷している。
祐胤七世の孫・常久(右衛門)は標葉郡新山城(双葉郡新山)に移った。その嫡子・常義(孫四郎)は大永5(1525)年8月、相馬顕胤に従って岩城重隆と戦い、磐城白土城(いわき市平南白土竜沢)北部の戦いで二十七歳で討死を遂げたため、弟・胤清(太郎右衛門)が家督を継承。天文12(1543)年、謀反の疑いのあった黒木正房(弾正)兄弟を討った。
常義(孫四郎)の嫡男・常高(能登守)は天文11(1542)年2月の掛田攻めで二十八歳で戦死。弟・治之(六郎)は永禄年中(1558-1570)に宇多郡富沢城に入り、相馬盛胤・相馬義胤に従って伊達家との戦いに活躍した。
常高の嫡男・常清(右衛門尉)は、天正17(1589)年5月19日、新地城(相馬郡新地町谷地小屋)に寄せた伊達政宗勢と戦い、四十九歳で討死。嫡男・常治(孫左衛門)は相馬義胤の重臣だったが、慶長7(1602)年の相馬家の中村移封では中村城下に移り「家中」の家格となる。その子・高治(孫左衛門)は寛永年中の分限帳によれば百三十七石を知行した。その子・常治(市郎左衛門)は信州小笠原一族の赤沢常重(小笠原丹斎)より小笠原礼法の免許を受けて赤沢常治と称した。その後、常治は故あって相馬家を出奔し、中村藩士としての山沢青田家は断家とされた。
享保14(1729)年3月22日、扶持米で御広間番を務める七十歳以上の者に、大儀であるとして御広間番を免ぜられた。その時の高齢者筆頭として「八十六歳 山澤六右衛門」の名が見える。また、同族の「七十壱歳 青田茂右衛門」「七十歳 青田所左衛門」が見える。
文政5(1822)年に山沢青田家の末孫・青田彦一郎が二十五石で召し出され、常美(孫左衛門)と称しており、庶流は相馬中村藩の家中または在郷給人として続いている。
このほか、室町時代後期の相馬盛胤の老臣であった青田信濃守顕治・左衛門尉胤治・修理亮常治父子の名が見える。相馬盛胤は青田顕治の次男・修理常治を伊達家との要衝・行方郡黒木城(相馬市黒木中樋)代とするが、永禄年中(1558-1570)、中村堡主(相馬市中村北町)の草野式部直清とともに盛胤に叛旗を翻した。盛胤は直ちに出陣して黒木城を攻め落とし、顕治父子は三春城主・田村清顕を頼った。青田顕治の「顕」の字は田村家との由緒を物語り、田村家との縁故があった可能性があろう。
顕治の嫡男・左衛門尉胤治(山城守)は知勇兼備の将として近隣に聞こえており、岩城氏が三春を攻めたときには、僅かの兵をもって岩城氏の大軍を壊滅させている。この話を聞いた盛胤は、胤治を許して呼び戻し、草野堡の主将に据えた。胤治も盛胤の温情に応えて堅固に守ったため、敵も胤治の守る草野堡には近づかなかったという。のち、新田村に移って五十貫六百十文を知行し、盛胤は彼の功績を賞して家老に抜擢している。
胤治は藩御一家筆頭の岡田八兵衛宣胤の末娘を娶っており、その所生の女子は岡田一門の岡田兵庫胤景に嫁ぎ、准一家の待遇を受ける。その後隠居し、慶長11(1606)年8月15日に亡くなった。法名は昌山禅定門。
胤治の子・繁治(彦左衛門)は、父のあとを継いで家老となる。慶長5(1600)年の慶長戦役に際し、伊達政宗が江戸から奥州へ下向する際、相馬領を通過したが、その際に繁治がその案内役として政宗のもとに遣わされた。政宗はこの案内役の繁治が、「山城子共之由」を知ると、直々に差していた朱塗りの脇差を下したという(『仙台藩家臣録』第二)。
胤治は子がなかったため、慶長9(1601)年に御一家泉家の同族・泉乗世の弟・源助を養嗣子として義治(彦左衛門)を名乗らせる。知行は六百五十二石という中村藩大身の家であった。しかし、その子・恒治(退休)は寛永18(1641)年、配下の者が何らかの訴えを起こしたため、所領を収公され、北郷山下村に蟄居する。翌寛永19(1642)年、妻子ほか家人とともに松島へ赴いて雲居和尚を頼るが、退休は浪人であり一家を扶助できないことを雲居和尚から仙台藩侯忠宗に訴えたとみられ、忠宗は雲居和尚へ「退休儀は遁世之者に候条、嫡子源助可被召仕之旨」と、源助を召し抱える旨を伝達。慶安元年2月25日、忠宗は古内主膳を松島へ派遣して源助を召し出し、知行三十貫文を下し置くとした。以降は仙台藩士として続いた。
源助の跡は、妹婿の彦右衛門が継承し、青田彦右衛門を称する。彦右衛門は「遠田」と改めたが、その後青田氏にもどしている。(→新舘氏)。
●高平青田氏●
相馬氏に仕えた青田家には高平郷を本拠とした「高平青田家」がある。山沢青田氏との系図上の関係は不明。名字として「豊田」も称した。
文安2(1445)年2月、牛越堡主・牛越定綱(上総介)が謀反を企てた際には、相馬高胤はみずから出陣したものの、名高い定綱を相手に手をこまねいていた。このとき、文間胤久(萱浜五郎左衛門)は青田清弘(豊田三郎左衛門)と謀って定綱に偽って降伏し、牛越堡に入ったところで定綱の首級をあげた。このことに高胤は感激し、「門馬・青田(萱浜・豊田)の両家は永代断絶させぬ」とする証印を与え、清弘には高平村を知行させた。これ以降、清弘の末裔は「高平青田家」とよばれ、山沢青田家とならんで「両青田」と称されることになる。
清弘のあとは、嫡男・則常(修理)が継ぎ、相馬盛胤・相馬義胤に従って伊達家との戦いに活躍。その子・常定(内膳)は文禄2(1593)年の朝鮮派兵時の名簿に名が見える。采地は高平邑五十五貫二百九十文。その子・出雲は慶長7(1602)年の相馬家中村移封により中村城下に屋敷を構え「家中」として遇された。子孫は代々三郎左衛門を称する。幕末の三郎左衛門はは二十五石。
―相馬青田氏略系図(1)―
平常長-鴨根常房-千田常益-粟飯原家常-顕常――良範-胤久-青田顕綱-次郎左衛門尉
(三郎) (庄司) (五郎) (次郎)(九郎) (太郎)
―相馬青田氏略系図(2)―
青田常方-□-□-常永――――祐胤―――――新左衛門尉-□-□-□-□-□-常久
(兵衛尉) (右兵衛尉)(孫左衛門尉) (右衛門尉)
―相馬青田氏略系図(3)―
青田常久―+―常義――――+―常高――――常清――――常治――――高治――――赤沢常治………青田常美
(右衛門尉)|(孫四郎) |(能登守) (右衛門尉)(左衛門尉)(孫左衛門)(市郎左衛門)(孫左衛門)
| |
+―胤清 +―治之
(太郎右衛門)|(六郎)
|
+―顕治――+―新館胤治――繁治====義治―――→[伊達家青田氏]
(信濃守)|(左衛門尉)(彦左衛門)(彦左衛門)
|
+―常治
(修理亮)
―仙台青田氏略系図―
青田顕治―――新館胤治――青田繁治――義治――――恒治====重治―――――――――――+
(信濃守) (左衛門尉)(彦左衛門)(彦左衛門)(仙台藩士)(膳所藩士・松岡重和の子) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―長治―基治=安房守―――――安定=======義長======治賢
(佐賀顕長3子)(佐々助五郎3子)(岡崎当良2子)(岡本盛信2子)
◎建武3(1336)年3月3日『相馬光胤着到状』
| 名前 | 身分 | 主 | 事歴 |
| 青田孫左衛門尉祐胤 | 家人 | 相馬助房 | 建武3(1336)年3月3日、光胤に従って鎌倉から小高に帰還。 |
| 青田新左衛門尉 | 家人 | 相馬助房 | 祐祐胤の嫡男。 |
◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』
| 名前 | 身分 | 石高 | 住居 | 備考 |
| 青田孫左衛門 | 小身 | 25石 | 上向町 | 山沢青田氏(宗家) |
| 青田三郎左衛門 | 小身 | 25石 | 上向町 | 高平青田氏(分家) |
| 青田太郎右衛門 | 小身 | 21石 | 上向町 | ????? |
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』
| 名前 | 身分 | 石高 | 住居 |
| 青田安左衛門 | 給人 | 14石 | 宇多郡宇多郷中村 |
| 青田次兵衛 | 給人 | 8石 | 宇多郡宇多郷初野村 |
| 青田茂右衛門 | 給人 | 14石 | 宇多郡宇多郷大坪村 |
| 青田三右衛門 | 給人 | 9石 | 宇多郡宇多郷大坪村 |
| 青田武四郎 | 給人 | 3石 | 宇多郡宇多郷大坪村 |
| 青田孫兵衛 | 給人 | 13石 | 宇多郡宇多郷日下石村 |
| 青田新右衛門 | 給人 | 10石 | 宇多郡宇多郷富沢村 |
| 青田又右衛門 | 給人 | 5石 | 宇多郡宇多郷富沢村 |
| 青田三左衛門 | 給人 | 4石 | 宇多郡北郷大内村 |
| 青田定右衛門 | 給人 | 10石 | 行方郡中郷大木戸村 |
| 青田藤右衛門 | 給人 | 20石 | 行方郡中郷中太田村 |
| 青田卯右衛門 | 給人 | 6石 | 行方郡中郷中太田村 |
| 青田喜四郎 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷中太田村 |
| 青田七左衛門 | 給人 | 5石 | 行方郡中郷中太田村 |
| 青田庄右衛門 | 給人 | 16石 | 行方郡中郷南新田村 |
| 青田弥左衛門 | 給人 | 11石 | 行方郡中郷牛越村 |
| 青田庄太夫 | 給人 | 14石 | 行方郡中郷北長野村 |
| 青田弥右衛門 | 給人 | 10石 | 行方郡中郷北長野村 |
| 青田市郎右衛門 | 給人 | 15石 | 行方郡中郷北新田村 |
| 青田多右衛門 | 給人 | 11石 | 行方郡中郷北新田村 |
| 青田十右衛門 | 給人 | 9石 | 行方郡中郷高平村 |
| 青田与市右衛門 | 給人 | 8石 | 北標葉郡権現堂村 |
| 青田五郎 | 給人 | 14石 | 北標葉郡幾世橋村 |
浅井
千葉一族。岩橋輔胤の子・胤益(六郎)が浅井を称したという。発祥地は不明。胤益は「応仁の乱」の余波で文明元(1469)年8月上旬ごろに挙兵した三浦党(相模)・北条党(伊豆)・成田兒玉党(武蔵)らを討つため、父・輔胤とともに戦ったとされる(『系図纂要』)。
薊
相馬一族。「あざみ」と読む。「浅海」とも。
慶長年中に相馬利胤に召し出された薊久太夫を祖とする。久太夫は御使番として二百石を与えられ、二代藩主・相馬大膳亮義胤にも側近として仕え、諸所に従った。正保4(1647)年4月21日に亡くなる。法名は一法道無。宝月山東泉院に葬られた。
久太夫の二人の子はいずれも早世していたため、御一家泉家の一族、泉縫殿助乗信の次男・泉助之進を養嗣子に迎え、助之進は薊弥左衛門として正保4(1647)年、薊家を継承する。慶安2(1649)年には藩侯相馬義胤の大坂在番に従って大坂へ下向。明暦年中に御使番となる。
薊弥左衛門には男子がなく、甥の泉庄次郎(泉縫殿助成乗次男)を婿養子として薊五兵衛となるが、故有って改易処分とされた。妻の弥左衛門女は離縁となり中津所兵衛の妻となった。
麻生
千葉一族。埴生常門(九郎)の次男・久常(次郎)が埴生庄麻生郷(印旛郡栄町麻生)を領して麻生を称した。
―麻生氏略系図―
→埴生常門-麻生久常
(九郎) (二郎)
安相原
武石一族。「あそうはら」と読む。亘理武石氏の重臣の家柄で、涌谷伊達家の「御一族」の一家に数えられる。発祥地は陸奥国亘理郡安相原邑(亘理郡山元町浅生原)。
涌谷伊達定宗の「家之子衆次第」として、菱沼四郎兵衛、鷲足弥左衛門、安相原藤八、大平八郎左衛門、小平和泉の五名が数えられている(『涌谷伊達家関係資料集』坂本様御提供)。
足立原
千葉一族。熊坂氏の一族か?
相模国愛甲郡八菅山光勝寺(八菅神社)内の五十一院坊のうち、有力な宝喜院など十五院坊が、慶応4(1868)年3月、神仏分離令の発布とともに復飾改名し、足立原を称した。
阿玉
東氏一族。海上胤方の子・海上胤景(弥次郎)が香取郡阿玉郷を領して阿玉をなのった。阿玉氏は海上氏の惣領家であり、常陸の佐竹氏や常陸大掾氏と縁戚関係となって、その勢力を拡大していく。子・海上胤泰(六郎左衛門尉)の娘は佐竹貞義(上総介)の妻となって、次の当主・義篤(遠江守)の母親となった。
―阿玉氏略系図―
→千葉介常胤-東胤頼-海上胤方-阿玉胤景―+―海上教胤【横根海上氏】………
(六郎)(二郎) (左衛門尉)|(太郎左衛門尉)
|
+―海上左衛門尉次郎
|
|
【海上氏惣領家】+―阿玉胤泰―――+―娘
(六郎左衛門尉)|(佐竹貞義妻)
|
+―師胤……
姉崎
千葉一族か。出自は上総国海上郡姉崎村(市原市姉崎)とおもわれる。
天羽
上総一族。「あまは」と訓む。上総介権広常の弟・直胤が上総国天羽郡天羽庄の荘官となって「天羽庄司」を名乗った。初名は秀富か。館は天羽城(富津市相川)にあった。しかし、兄の上総権介広常が謀叛の疑いありとして頼朝に誅されたとき、その一党として捕えられ、所領を没収された。しかし広常が無罪であったとわかると、他の一族とともに許されて御家人に列する。彼の子、直常も頼朝に仕えている。
しかし、直常は「庄司」を称した形跡がなく、「天羽庄司」ではなかったと思われる。直胤が所領を没収されたときには、もちろん「庄司職」も奪われたであろうことから、直胤は許されたのちに所領を返されても、庄司は認められなかったと思われる。直常の跡は直明が継ぎ、その後、一族はゆえあって阿波に移住した。
阿波に移った一族のうち、大和を介して移った「天羽生氏」のほか、徳島藩士となった天羽氏がいる。寛文8(1668)年、天羽光信(作太夫)が徳島藩に150石で召し出され、蜂須賀綱矩に仕えた。ほか、宝永~享保にかけての分限帳に250石を領したとある天羽半兵衛、つづいて寛延3(1750)年の分限帳に250石の天羽甚三郎がいた。幕末の文久元(1861)年に小奉行格とされた天毛政吉がいた。家紋は「月星」「二枚笠」。
―天羽氏略系図―
→平常兼-相馬胤晴-上総介常澄-天羽直胤――直常――直明
(上総介) (天羽庄司)(次郎)(太郎)
―徳島藩天羽氏略系図―(『徳島藩士譜』)
→天羽光信=光尚――――――――――――――――光貫―――――――光豊―――――――光胤――+
(作太夫)(与一右衛門・天羽弥五左衛門の嫡子)(作太夫・藤三郎)(作太夫・弥忠治)(藤三郎)|
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―光久―――――――――光長
(与一右衛門・伝五郎)(新次郎)
天羽生
千葉一族。上記「天羽氏」と同族と思われる。大和国宇陀郡天羽城で天羽清綱(摂津守)が生まれ、その子孫・道清(飛騨守)は年月不詳ながら、駿河国で起こった戦いに参戦して功績を挙げる。しかし、その後は禄を離れて京都四條坊門に住んで弘治3(1557)年3月19日に没したという。このころ駿河で起こった大きな戦いといえば、天文14(1545)年8月の今川義元・武田晴信と北条氏康の駿河国狐橋の戦い、天文23(1554)年3月の今川・武田連合軍と北条氏康の駿河刈屋川の戦いがある。
その3代の孫・久利(出羽守)まで京都に住んだ。妻は阿波郡伊沢城主・伊沢越前守の娘。久利は35歳の時、京都を抜け出して阿波国に渡り、三好長治(1553-1577)に仕えた。天正元(1573)年5月、阿波国に長宗我部元親が攻めてくるとこれを迎え討って功績を挙げ、長治から感状と皆朱の甲冑・粟田口吉光の脇差(七寸五分)を賜る。さらに所領として阿波国名西郡に28貫文の知行を許された。
彼の嫡男・信盛(越中守)は遠祖・天羽清綱(摂津守)が天羽城で「生」まれた故事をもって、姓を「天羽生」と改めた。妻は名東郡蛭子城主・庄野和泉守兼時の娘。信盛の弟・天羽吉三郎は名東郡板野に住んだ。子孫は徳島藩に仕えた。
時代は下って幕末の文久2(1862)年、徳島藩主・蜂須賀茂韶が皇居守衛のために入京した。このとき、徳島藩家中は筆頭家老の稲田邦稙(九郎兵衛)を中心として討幕派グループが組織されており、その中心的な人物として天羽生岐城・小杉榲邨・安芸梅軒の名が見える。家紋は「月星」「劍酢漿草」「下がり藤」。
[Special thanks:天羽生様]
―天羽生氏略系図―(『平姓天羽生氏系譜』)
→天羽清綱―綱忠―――綱政―――政則―――則綱―――綱明―――明利―――利清―――+
(摂津守)(美濃守)(近江守)(伊賀守)(肥前守)(越中守)(信濃守)(大和守) |
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―清政―――明宗―――宗則―――則政―――綱道―――綱定―――元時―――道清――+
(相模守)(豊前守)(武蔵守)(伊豆守)(常陸介)(長門守)(肥前守)(飛騨守)|
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―清久―――久則―――天羽生久利―信盛
(河内守)(出羽守)(出羽守) (越中守)
荒木
千葉一族と伝わる。下総国相馬郡荒木(我孫子市新木)を発祥とする。室町時代、手賀沼と利根川に挟まれた広大な中州であった我孫子地方の一領主で、芝崎城を支配した。小金大谷口城主の高城氏、千葉宗家の筆頭家老・原氏と密接なかかわりを持っていた。
天正7(1579)年4月、対岸の手賀城に臼井城の原胤栄が攻め寄せたことが伝えられている。手賀城主は臼井城原氏の庶流である原氏が治めていた。手賀城主・原胤親は荒木三河守ら我孫子衆に救援を求め、我孫子五郎右衛門(我孫子城主)・河村出羽守(芝原城主)・豊島肥前守(布佐城主)らが高城氏とともに救援におもむき、臼井勢を追い返したとされる。
我孫子市の柴崎神社(妙見神社)は領主であった荒木三河守が社殿を改修し、その武運長久を祈ったといわれる。天正9(1581)年の『高野山連判控帳』(広瀬家文書)には「荒木三河胤重」の名が見える。同じく、天正9(1581)年、守谷城主・相馬治胤が高野山へ書状を送り、一族重臣が連判をしているが、その連判者に「新木三河守胤重」が見える。
●天正9(1581)年高野山連判(『相馬当家系図』)
| 菅生越前守胤貞 | 筒戸小四郎胤文 | 岩堀主馬首弘助 | 大木駿河守胤清 | 新木三河守胤重 | 横瀬伊勢守保広 | 横瀬弾正忠恒広 |
| 佐賀掃部介整満 | 佐賀美濃守久次 | 佐賀筑後守長弘 | 寺田弾正左衛門吉次 | 寺田出雲守長尚 | 横瀬源太左衛門貞広 | 木屋長門守満吉 |
| 松井主税広吉 | 鮎川筑後守安勝 | 安富斎朝直 | 遊座右京亮広直 | 泉勝坊光音 |
荒見
大須賀氏一族。大須賀氏初代の大須賀胤信(四郎)の三男・胤村(小四郎)が埴生庄荒海村(成田市荒海字橋本)を領して荒見を称した。
荒見泰朝(弥四郎)は浄土宗の有力壇越として著名で、浄土宗三祖・良忠を庇護した。正嘉元(1257)年3月、東国を回っていた良忠が下総国に来訪。約十年にわたってこの地で布教することになるが、泰朝は荒見村の光明寺に良忠を招き、『観経疏』の講義を受けた。その後、泰朝が良忠との寄進地についての約束を果たさず、良忠は怒って荒見を去った。
―荒見氏略系図―
→千葉介常胤-大須賀胤信-荒見胤村――朝胤―――+―朝村
(千葉介) (四郎) (小四郎) (四郎太郎)|(又太郎)
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+―泰朝
(弥四郎)
荒野
椎名一族。椎名胤光の子孫・泰胤(孫五郎)が海上郡荒野村(銚子市末広町)を領して荒野を称した。
―荒野氏略系図―
→椎名胤光-時胤-長岡行胤-米倉胤貞―+―荒野泰胤―――弥五郎
(五郎) |(孫五郎)
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+―井戸野景胤――又五郎
(孫六郎)
粟野
東氏一族。東秀胤(掃部助)の子、胤香(弥七)が海上郡粟野郷(香取郡東庄町粟野)を領して粟野を称した。粟野郷は沼闕東高胤から秀胤に譲られ、その子・胤香(弥七)がそのまま継承した。
―粟野氏略系図―
→東胤頼-重胤―――――海上胤方―――東盛胤―――――――胤世――――――+
(六郎)(平太・覚然)(次郎・道胤)(七郎左衛門・妙覚)(七郎太郎・良円)|
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―高胤――――――秀胤―――――粟野胤香
(下総守・実阿)(弥八・宗永)(弥七)
安西
千葉一族。千葉介常胤の叔父にあたる常遠が、三浦為俊(駿河守)の長男・安西為景の跡を継いで、安西四郎と称したと伝わるが、時代的には合わない。安西の地名は消えてしいるが、安房国府西側の地を指すか。
常遠の子・常景は保元の乱のとき源義朝にしたがって白河殿攻めで功績があった。その子・景益は源頼朝の乳兄弟だったといわれ、頼朝が安房へと逃れてきたとき、頼朝を館に招いて再起を図る手助けをした。景益の館がどこにあったのかはこれまた判らないが、安房勝山との説もある。景益は頼朝が木曾征伐・平家討伐戦に乗りだすと、嫡男の景明とともに源範頼(頼朝の異母弟)に従い、宇治川での戦いに戦功を挙げている。
その後は鎌倉時代から安房を4分していた神余氏・東条氏・丸氏とも均衡を保ちつつ、勝山城を中心にして発展した。永享年間に起こった結城合戦では、安房里見氏の祖・里見義実が結城城から逃れて、勝山城の安西景春(伊予守)を頼った。景春は神余氏の内紛・丸氏との抗争を通じて安房3郡を領し、客将の里見義実を安房白浜城主として赴任させた。しかし、ここで義実は安西氏に対して謀叛を起こし、景春はその大軍を前にして戦わずに降伏、その後は里見氏の重臣となった。
その後、景益は義実に依頼されて、安房で最後まで独立を保っていた東条七郎を計略をもって討ち取り、里見氏の安房統一に貢献した。里見実尭の重臣・安西実益は景春の子か?里見氏最後の当主・里見忠義の家臣には、安西彦右衛門、安西七郎次、安西市正、安西久助などの名が見える。
安西氏の一族は、他に古河公方の奏者を務める家もあり、安西実胤(蔵人佑)、安西政胤(右衛門尉)、安西能胤(但馬守)、安西晴胤(摂津守か)が見られる。能胤は文化人として知られ、歌道を得意とした。晴胤は江戸時代、足利国朝が下野国喜連川藩主として移るとこれに従い、同藩重臣となった。
また、奥州二本松城の畠山氏に仕えた安西氏がおり、安西真行(太郎左衛門)は南北朝時代前期の畠山時国の子・高国に仕え、高国が奥州探題に任じられて二本松に下ると、それに従って重臣となる。子孫も代々二本松畠山氏の重臣として続き、安西道高(越後介)とその子・真道が最後の二本松城主・畠山義継に仕えている。
徳川家康の6男・松平忠輝(上総介)の重臣・安西正重(右馬允)がいた。彼は松平家の目付として300石を知行し、大坂の陣の際も従軍した。このとき、東海道尾張守山に至ったとき、宿所にしようとしていた今金屋坊・大永寺の両寺が将軍・秀忠の軍勢によって抑えられており、忠輝は安西を遣わして、宿所を抑えた旗本・長坂信時(長坂血槍九郎の弟)とかけあわせた。この秀忠と忠輝の内心のあらそいはそれぞれの家臣たちのいがみ合いとなり、忠輝の家老・花井主水正義雄は旗本の中に槍をかざして切り込み、忠輝自身は長坂信時を一刀のもとに斬り捨てている。このことや、大坂の陣の失態で忠輝は越後一国を改易処分となる。正重はこののち旗本として召され、850石を給された。
―安西氏略系図―
Ⅰ 三浦忠通―為通――――為俊―――安西為景=常遠●
(駿河守) (駿河守)(八郎) (四郎)
Ⅱ 平常兼――安西常遠●―常景―――景益―――明景……景春
(四郎) (三郎) (三郎) (太郎)(伊予守)
安蒜
千葉一族か。「あんびる」と読む。上総国畔蒜郡発祥の一族? 畔蒜郡はのちに望陀郡と合併されて消滅しているが、畔蒜氏がいつここから移動したのかは不明。康正2(1457)年の上総武田氏の上総侵略に追われて葛飾郡方面へ逃れていき、高城氏の家臣となったもの?高城氏については「高城氏」を参照。
千葉介満胤の四男・原胤高(四郎)の子・高城胤雅(越前守)の次男・胤俊(日向守)が安蒜を称したという。どこを領して安蒜と称したかは不明だが、高城氏の一族は相馬郡内にも勢力を広げており、相馬郡内の我孫子邑が発祥地か? この我孫子にも高城氏の一族がいたことは『本土寺過去帳』によってもわかる。我孫子氏=安蒜氏か? もしくは上記の畔蒜氏の名跡を胤俊が継いだのかもしれない。ただ、胤俊の実在を証明するものはない。また、胤俊ははじめ「椎名」を称したとあり、高城氏の家臣・椎名氏と同族の可能性も。
『小金城主高城家由緒』によれば、正長元(1428)年、父・胤雅と兄・辰千代(胤充)・介二郎(胤俊)とともに熊野新宮から下総に帰ってきたという。千葉介満胤の幼少時を支えた重臣に「高城越前守」の名が見えるが、満胤が家督を継いだのが貞治5(1365)年であり、正長元(1428)年に熊野から帰ってきたという話とは矛盾する。
永正14(1518)年の足利義明の小弓城攻撃のときに安蒜日向守なる人物が小金城主・高城氏の命で小弓城に出陣しているが、時代的に胤俊の孫か曾孫あたりに相当するか。この戦いで、安蒜介二郎という者が戦死しているが、日向守の子か。
天文9(1540)年、安蒜淨意(丹後入道)は高城胤吉の命令で大谷口城を7年かけて築いている。この城址は現在は住宅地となっていて当時の面影を見ることはできないが、常磐線の北小金から新松戸にいたる間、向かって右手(上り電車の場合)にみることのできる山全体が巨大な城郭だった。天文16(1547)年、大谷口城が完成すると、胤吉は根木内城から移って以降、高城氏の居城となった。
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| 小金大谷口城 |
安蒜浄意の子・伊予守は永禄7(1564)年の国府台合戦に参加した。天正10(1582)年12月に主の高城胤辰が亡くなったので、嫡子・辰千代があとを継いだが、彼は12歳だったので安蒜丹後守・高城筑前守・安蒜伊予守の三人が後見人となったとされる。
伊予守の弟・備前守は天正18(1590)年の小田原合戦時、主君・高城胤辰が千葉宗家の千葉介重胤に従って小田原に籠ったために、高野縫殿助らとともに大谷口城に籠って秀吉軍を迎え撃った。しかし、小田原からの胤辰の開城せよとの書状によって秀吉軍に明け渡し、大谷口城周辺に帰農した。現在、千葉県流山市・松戸市に多い安蒜氏はこの子孫と考えられる。安蒜備前守が居城とした深井城は、流山市にあった城。
―安蒜氏略系図―
→千葉介宗胤-胤貞―――原胤高-高城胤雅-安蒜胤俊―…―日向守―+―介二郎
(大隅守)(四郎)(越前守)(日向守) |
+―丹後守――+―丹後守
(淨意入道)|
+―伊予守
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+―備前守[深井城主]