●郡上藩・三上藩遠藤家
| 郡上藩・三上藩の概要 | 美濃郡上藩主 | 近江三上藩主 |
| 乙原遠藤家 | 和良遠藤家 | |
| 郡上遠藤家 | 木越遠藤家 |
●東氏の歴代
| 東氏惣領家 | 郡上東氏の歴代 | 郡上東氏 | 須賀川東家 | 森山東家 |
| 土佐藩遠藤家 | 木曾遠藤家 | 田中藩遠藤家 |
| 苗木藩東家 | 小城藩東家 | 医官東家 |
●郡上藩歴代藩主
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
| 初代 | 遠藤慶隆 | 1550-1633 | 1601-1632 | 従五位下 | 但馬守 | 遠藤盛数 | 東常慶娘 | 乗性深心院 |
| ―― | 遠藤慶勝 | 1588-1615 | ―――― | 従五位下 | 長門守 | 遠藤慶隆 | 三木良頼娘 | 明心大神院 |
| 2代 | 遠藤慶利 | 1609-1646 | 1632-1646 | 従五位下 | 但馬守 | 三木直綱 | 遠藤慶隆娘 | 至誠院乗雲 |
| 3代 | 遠藤常友 | 1628-1675 | 1646-1675 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤慶利 | 板倉重宗娘 | 常敬院素信 |
| 4代 | 遠藤常春 | 1667-1689 | 1676-1689 | 従五位下 | 右衛門佐 | 遠藤常友 | 戸田氏信娘 | 恵正院素教 |
| 5代 | 遠藤常久 | 1686-1692 | 1689-1692 | 従五位下 | ―――― | 遠藤常春 | 側室某氏 | 本了院素道 |
●三上藩歴代藩主
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 | 法名 |
| 初代 | 遠藤胤親 | 1683-1735 | 1692-1733 | 従五位下 | 但馬守 | 白須政休 | 小谷忠栄娘 | 宝地院素吟 |
| 2代 | 遠藤胤将 | 1712-1771 | 1733-1771 | 従五位下 | 備前守 | 遠藤胤親 | 久松氏娘 | 大心院素江 |
| 3代 | 遠藤胤忠 | 1732-1791 | 1771-1790 | 従五位下 | 下野守 | 遠藤胤親 | 田所氏娘 | 東覲院素秋 |
| ―― | 遠藤胤寿 | 1760-1781 | ―――― | ―――― | ――― | 遠藤胤忠 | 青木氏娘 | 心開院素練 |
| ―― | 遠藤胤相 | 1761-1814 | ―――― | ―――― | ――― | 酒井忠与 | 西村氏娘 | 霊信院素淳 |
| 4代 | 遠藤胤富 | 1761-1814 | 1790-1811 | 従五位下 | 左近将監 | 松平信復 | 小林氏娘 | 自得院素行 |
| 5代 | 遠藤胤統 | 1793-1870 | 1811-1863 | 従四位下 | 中務大輔 | 戸田氏教 | 猿田氏娘 | 敬武徳院素中 |
| ―― | 遠藤胤昌 | 1804-1855 | ―――― | ―――― | 式部少輔 | 松平義和 | 某氏娘 | 直諒院素温 |
| 6代 | 遠藤胤城 | 1838-1909 | 1863-1909 (藩知事含む) |
従五位下 (贈正三位) |
但馬守 (子爵) |
遠藤胤統 | 小谷氏娘 |
| 四代藩主 |
(1667-1689)
| <名前> | 常信→常春 |
| <通称> | 外記 |
| <正室> | 松平日向守源信女 |
| <正室2> | 牧野因幡守富成女 |
| <父> | 遠藤備前守常友 |
| <母> | 戸田采女正氏信女 |
| <官位> | 従五位下 |
| <官職> | 右衛門佐 |
| <就任> | 延宝4(1676)年6月30日~元禄2(1689)年3月24日 |
| <法名> | 恵正院素教 |
| <墓所> | 郡上市美並町白山の深心院乗性寺 |
―遠藤常春事歴―
郡上藩四代藩主。父は遠藤備前守常友。母は戸田采女正氏信女子。妻は松平日向守源信女子、のち牧野因幡守富成女子。寛文7(1667)年江戸に誕生した。
板倉重宗―+―板倉重郷――――板倉重常
(周防守) |(阿波守) (隠岐守)
| ∥
| +―女子
| |
+―女子 |
∥―――――――遠藤常友
∥ | (備前守)
∥ | ∥
遠藤慶利 | ∥――――――遠藤常春======遠藤胤親
(内蔵助) | ∥ (右衛門佐) (但馬守)
| ∥
戸田氏信――+―女子
(采女正) |
+―戸田氏西―――戸田氏成 白須政休
(肥後守) (淡路守) (甲斐守)
∥ ∥
∥ ∥――――――遠藤胤親
小谷守栄―+―女子 +―女子 (但馬守)
|(牧野成貞養女) |
| |
+―小谷忠栄 +―女子
(将監) |(陽春院)
∥ |
∥―――――――+―於伝の方 +―徳松
鶴牧信幹―――女子 (瑞春院) |
(茂右衛門) (高覚院) ∥ |
∥――――+―鶴姫
徳川家康――+―徳川秀忠―――徳川家光――――――徳川綱吉 ∥
(初代将軍) |(二代将軍) (三代将軍) (五代将軍) ∥
| ∥
+―徳川頼宣―――徳川光貞――――+――――――――徳川綱教
(和歌山藩主)(和歌山藩主) | (和歌山藩主)
|
+―徳川吉宗
(八代将軍)
延宝3(1675)年2月28日、四代将軍徳川家綱に初御目見した。ときに九歳。ところが翌延宝4(1676)年5月4日、父・備前守常友が急逝したため、6月30日に十歳の幼さで郡上藩の継承が認められ、外記常信と称する。7月11日には父の形見である保昌五郎の太刀一振りを将軍家に献上した。家督相続に当たり、家職を定めているが、池田庄兵衛(吉久)、遠藤十兵衛(朝慶)が「両人二而御後見」を命じられている(『遠藤外記様家中騒動記』)。このほか、「戸田左門様、板倉周防守様(隠岐守重常か、市正重大)、石川様、遠藤新六郎様、同源五郎様」が「御一門様」として家政の後見をしている。
| 御後見 | 池田庄兵衛(吉久) | 遠藤十兵衛(朝慶) | ||
| 国家老 | 遠藤新左衛門尉(長明) | |||
| 仕置家老 | 松井縫之助(宗従) | 遠藤杢之助(正英) | 野田覚右衛門(慶明) | |
| 侍大将 | 遠藤十郎左衛門 | 遠藤市右衛門(正明) | 畑佐兵左衛門 | 村山三右衛門 |
| 郡奉行 | 遠藤金左衛門(種政) | |||
| 寺社奉行 | 垣見伊右衛門 | |||
| 鉄砲足軽大将 | 石井文右衛門 | 武光市左衛門 | 片部大助 | |
| 聞番役人 | 広瀬忠治郎 | |||
| 用人 | 餌取六郎右衛門 | 遠藤治左衛門 | ||
| 御分地二千石 | 遠藤新六郎(常就) | |||
| 御分地千石 | 遠藤源五郎(常英) |
延宝7(1679)年正月、郡上では藩士が派閥に分かれ争い、ここに百姓も加わるかなり大規模な騒擾が勃発した。
騒擾のきっかけは、藩主外記常信が「御幼稚にて郡中之政務等一向家老任セに仕置」したため、新役が増えて多くの金がかかり、「殿様御台所御不如意ニ被為成候」ために、領民に対して様々な加役(臨時負担)が徴収されたことで「被召上百姓困窮仕」り、「百姓方堪忍難成候」として、延宝5(1677)年7月下旬に「郡中百姓寄合一同に申合致徒党」し、五名の頭取百姓が総勢二十八名を以て「加役御訴訟」のために江戸の郡上藩邸に罷り下り、「右、御宥免之御訴訟達而奉願候」したことに端を発する。
●家老遠藤杢之助による百姓窮乏の表明
藩主の外記常信は当時十一歳で「何のわきまへも無之候」であったため、百姓らの対応は「御家門様方御寄合被遊御評議ニ而、対戸田左門様、板倉周防守様、石川様、遠藤新六郎様、同源五郎様被遊御相談」た上で、国家老の「郡上御家老之内遠藤杢之助を御召下し、郡上の様子とくと御聞可被遊由、御評定相究」った。これを請けて郡上から家老の遠藤杢之助(正英)を江戸表へ招き、御家門らによる「逐一に郡上の様子御尋被遊」た。
杢之助は「誠直の人にて仁心深く、忠義専の人」であり、「郡上の儀は山中にて殊に地面も宜からず、少しは高免にも相見え、其上諸役共追々増し、近年口米の儀、三分口米は天下同一の儀、三分口米は外にも有之云々へ共、四分の口米は外には例も不ニ聞及なれ共、訴訟も御取上もこれ無く、百姓公訴仕に於ては御家にかかり候儀も計り難く、仍て過役御有免被ニ遊可然、百姓困窮は騷動の基にて、元来家中は常に大禄を頂戴して安穏に罷在ければ、殿様御難渋の節は身を減じ御為を計るべき事尤も(郡上は山中で土地も良くなく、また年貢率もやや高めです。その上諸役が段々増え、近年の口米についても、三分口米(口米に対する三割の加徴米)なら天下共通ですが、四分口米など他国に例も聞きません。百姓の訴訟を取り上げず江戸で公訴に及べばお家の一大事です。ここは過役を免除なさるのが宜しかろうと存じます。百姓の困窮こそ騒動の元です。もとより家中は常に手厚い俸禄をいただいて安泰に暮らしているのですから、殿様が困窮されている時には自らの俸禄を減らして主家のためを図るべきです)」と述べると、「御一門方にも御評定の上、家中渡方六分の一に召上」るという措置が決定された。代わりに百姓らには「其年に米七分に残四分の御宥免被ニ仰付、其外過役の儀品々書付を以て減少御免許被ニ仰付」た。
これに「御一家様方」も「御尤と被思召」され、訴訟に出た百姓には「御一門様」より「訴訟之趣、被聞召分相叶候而、惣百姓江被仰付候」という。この減免策の十七条の書付が11月26日、遠藤新左衛門(長明)、遠藤市右衛門(正明)の名において作成され、後見役や仕置家老へ送られている。具体的には「高に七分、残り米四分御定免、共外過役の品々減少被仰付」、これらを認めた「御墨付頂戴仕」が百姓代表五名に与えられた。改定年貢率は七割(七公三民)という高率、かつ加徴の「残り米四分御定免」で実質税率は82%にも及ぶ。これでも軽減されているとすれば、以前は相当の搾取が行われていたことを物語る。
●延宝5(1677)年11月26日「百姓加役御免許御願申上候書付写」
●「百姓加役御免許御願申上候書付写」の要約
| 高二万四千石定めの内免合七歩免許申付候事 ※高に七分、残り米四分御定免 |
高二万四千石のうち、年貢率(免合)は七分(七割)とする (想像)
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| 木紙皮三十一〆目壱馳役銀四匁に申付候事 | 木・紙・皮三十一〆目につき一馳(馳役)あたりの役銀を四匁と定める | ||||||||||||||||||||||||||||
| 家中へ渡し候棚木にても代銀にても産所並申付候事 | 家中に納める棚木(物資)について、現物であっても代銀であっても産地相場通りと定める | ||||||||||||||||||||||||||||
| 駒出役免除申付候、並馬屋へ繋ぎ候儀は只今までの通り、其外家中へ取候分は馬主相対次第馬代可ニ受取候事 |
駒出役(馬の調達役)は免除。 ただし陣屋の馬屋へ繋ぐ儀は従来通りとし、その他家中で使う分は馬主との相対で馬代金を受け取ること |
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| 借米五百石当巳暮より寅暮まで十ヶ年の間一ヶ年に五十石宛相調申可候、其外橋領借付之金子並に脇借之分は借主と約束の通り返弁可申事 | 借米五百石は、今年(巳年)暮れから寅年暮れまでの10年間で、1年につき50石ずつ相調(返済)すること。その他、橋領借付金や脇借分は借主との約束通り返還すべきこと | ||||||||||||||||||||||||||||
| 先年込米一石に付四升つゝの處、定米之内にて免許申付候事 | 先年より込米として一石につき四升ずつの徴収分は、定米(年貢)の範囲内におさめて免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 古来より高百石に付銀子拾匁棚木銀免許申付候事 | 古来より高百石につき銀十匁徴収していた棚木銀は免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 古来より高百石に付銀拾壱匁余も桑木銀郡中一統に免許申付候事 | 古来より高百石につき銀十一匁余徴収していた桑木銀は郡中一統において免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 漉紙舟役今程紙漉不申分は免許申付候事 | 漉紙舟役(紙漉きへの課税)について、現在紙漉きを行っていない分は免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 夏麥立用直段惣様壱石に付米四升と立用申付候事 | 夏麦の立用(換算)価格について、一般に一石につき米四升の割合で充てること | ||||||||||||||||||||||||||||
| 年貢綿百匁に付立用代米壱斗の外先規之通り尤に候、出目様定免許申付候、並綿無用之事 | 年貢綿百匁につき立用代米一斗とするほか、従来通りの規定を妥当とし、余剰分等の規定は免除、綿の差出は不要とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 茶出役之事只今迄村役銀上茶下茶共に役銀半分免許申付候事 | 茶出役の件、これまで村役銀の上茶・下茶ともに役銀の半分を免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 諸物直段茶出役其限、惣て銀子に両替其年之相場に申付候事 | 諸物価や茶出役はその限度とし、すべて銀子への両替はその年の相場通りに命じること | ||||||||||||||||||||||||||||
| 見立金向後同免許候通り可申付事 | 見立金は今後も同様に免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 城中用木修補向後百石に付三本の割合に付申付、右の外は免許申付候事 | 城中の修補用木は、今後百石につき三本の割合で命じることとし、それ以外の過分は免除とする | ||||||||||||||||||||||||||||
| 代官前相納候薪燈松向後は無用の事、其外何に依らず奇物送り申間敷候事 | 代官屋敷前へ納めていた薪や燈松は今後は不要とし、その他何事によらず進物を送ってはならない |
この減免に百姓らは大変喜び、「此恩忘却仕る間敷、殿様は不及ゝ申、全く杢之助様の御陰故なれば、是より百姓末々迄一統申合せ、殿様並杢之助様事命に掛け大切に可申」と語り継いだという。こののち、杢之助は郡上へ戻った。
●遠藤新六郎邸での刃傷沙汰
こうして百姓らの負担は軽減(それでも実質税率は8割を超える)されることとなったが、「外記様御領分にて、御年貢米弐千石余相減シ、其外諸役等大分ち減少仕候」という藩収入の大幅な減少を招くこととなった。「其外諸役多少減少致し、御納戸夥敷相違に仍て家中渡方六分一に召上、殊に寄れば家中は御暇被ニ下候様にも難ニ相成様子故、各薄氷を踏むが如」という疑心暗鬼が蔓延。その怒りの対象が、江戸へ赴いて対応した家老遠藤杢之助に向けられることとなる。
こうして「家中、仲間初め杢之助の作業に憤りを含」み、「此儀を幸」として、おそらく杢之助とは元来対立していたであろう石神太郎兵衛、村山三右衛門、粥川小十郎、遠藤新左衛門を頭取として「元来杢之助仕業にて百姓を謳め家中を難儀致させる事なれば、此分には差おきがたく、杢之助を破滅致させん」と、二十六人が申し合せて連判状を認め、「家中、彼是と談合有之」の結果、「難題七拾ヶ条、目安ニ書立、家中連判弐百壱人内弐拾六人目安ニ連判被致」して、延宝6(1678)年7月11日に杢之助を藩侯常信の後見人・戸田左門氏西(大垣藩主)へ告発するため「戸田左門様江指上申筈ニ究候て為持遣」した。その使者は「大垣領新月村ニ而、俄ニ作病を起し、夫より日傭を頼候而、大垣之家老中へ差遣申候」という。この使者の「作病之故」は「此連判之頭人知レ不申義、気之毒ニ存る之義と申」ためであり、そのため氏西への披見が遅れ「大垣家老中より左門様へいまだ御披見ニ不入」という状態のまま氏西は「俄ニ江戸より御召ニ付、左門様ハ江戸表ヘ御下向被遊候」とあるように、連判状を披見することなく江戸へ発ってしまった。
一方、郡上では11月14日に初めて「連判之内両三人」が「伺之御用」でもなく「江戸より差図」で江戸に召されることになり、11月15日に出立した。この三人(野田覚右衛門慶明、野田九右衛門、松井縫之助宗従?)が召されたのは「杢之助悪名をハ聞届被下候様ニと兼而申入置候由」という根回しによるものといい、三名は「御聞書相添」えて江戸へ上った。そのころ杢之助側ではこれらの動きを全く知らず、その間に自分たちに近い親類等が次々江戸に呼び出されている事実を知り、不審を感じていた。
江戸へ出た「連判之内両三人」は「御聞書」を戸田左門へ渡し、それについて「一々御吟味被遊」された。その後、「左門様より御横目両人」がこの「御聞書」を添えて郡上藩邸に派遣され、「外記様(遠藤常信)」が「目安」に記された條々を見た。ただ、このとき常信はわずかに十歳であり七十条にも及ぶ「条目之品、莫大数ヶ条なる故、御合点難被成由」であった。そのため「連判之内両三人」は「即座にて数をへらし候而十二ヶ条ニ相つゝめ指上」た。すると、大垣藩邸からの両目付は「此度之条目連判之頭人ハ何レ両三人にて可有」と尋ねるが「右三人之衆、有無之返答無」という。今回の連判衆は頭人を知られたくないために様々に工作を行っており、当然ここに召された三人衆もそれを答えることに躊躇したとみられる。
結局、この十二ヶ条を議論した結果、藩内の騒擾を鎮めるために「杢之助を大垣ヘ被召寄、切腹為致候に相極候」と決したため、「大垣之御家人山田又左衛門に被仰付、大垣ヘ被参候」という。また、郡上藩側も江戸藩邸から「極月廿六日に杢之助義、大垣へ被越候様御状」を国元へ急ぎ遣わし、12月26日に杢之助は大垣へ赴くようにとの指示をしている。ところが、この件について「大垣より申合之使者、不参候故、手筈相違」ったため、杢之助は「大垣へも日限相延候」となってしまう。なぜ大垣から郡上へ申合の使者が遣わされたなかったのかは定かではないが、大垣に隠居していた老公戸田一閑の指図によるものかもしれない。
その12月26日、郡上の杢之助のもとに、江戸の「山田金兵衛殿執権高垣平兵衛」から「御一門様」の衆議で決定した、藩内を鎮めるために「杢之助を大垣ヘ被召寄、切腹為致候」という一報が届いた。実は「高垣平兵衛」は「杢之助聟」で杢之助の縁者であり、高垣平兵衛は「遠藤新六郎家老一宮一郎左衛門」と内談し「杢之助へ内通」して内情を知らせたものであった。これを知った杢之助は驚き、「取急ぎ右一條相違に付、対決被仰付度由」を記した訴訟書を作成し、「江戸御一門方」へ、翌12月27日暮六つ時に若党の九助に持たせて江戸へ急行させた。九助は郡上出立から三日目の延宝7(1679)年正月一日未明に「江戸表、戸田左門様御門開の所へ駆付」けて、杢之助から託された訴訟書を提出した。こうして、戸田左門はもう一度、一門衆を集めて評議を開始した。これを江戸に留まっていた野田覚右衛門(慶明)が聞きつけ、「斯様の事杢之助様承り及びしこと難心得存ずる也、是れは必定新六郎様、常々杢之助を大切に思召さる故、内通あると相究る、最早謀事露顕したる上は本望達すること能はず、此上は新六郎様を打取り欝憤を晴らさん」と思い、同じく仕置家老である松井縫之助を「尤極此儀、其許ならでは外に仕負可申者無之」と持ち上げるが、正月4日夕方に遠藤新六郎常昭邸を訪問したのは、野田九郎右衛門一人であったようだ。九郎右衛門は「新六郎様に直に御目に懸り申度」ことを申し入れ、家老の永井平右衛門、沖津勘右衛門両名が対応したが、九右衛門の様子が尋常ではなく「扨子細ぞあらん」と怪しみ取次を断ったところ、「生来短気の九右衛門」はいきなり「眞ツ二に討取り(永井平右衛門か)」、そのまま屋敷内に斬り込もうと飛び込んだ。そこを沖津勘右衛門が立ち塞がり一尺二寸の脇差で防戦するが、野田九右衛門は二尺五寸の村正を振りかざしていた。武芸の達者である勘右衛門も実に三十八か所の手傷を負ってしまうが、九右衛門が打ち込んだところを撥ね除けると、九右衛門の背後に回って抱きすくめた。このとき、折節出入りの塗師屋が事態を察して九右衛門の足を掬って引き倒し、人々が九右衛門を生け捕りにし、勘右衛門は絶命した。その夜、九右衛門は「乱心」として斬首された。
●連判衆の過激な行動
一方、大垣藩側からは延宝6(1678)年12月26日に杢之助を大垣へ召喚する通告がないまま時が流れており、大垣藩側で握りつぶされたと推測される。この思わぬ結果に「連判之衆」は過激派と化してしまう。
杢之助を合法的に排除することが不可能となったことから、「連判之衆中談合有之」して「兎角正月元日ニ御城ニ而杢之助を闇討ちニ可仕」と決し、連判衆頭人である筆頭国家老「遠藤新左衛門」邸に「連判之衆四、五拾人打寄候」した。ところが、その連判衆のうち「鷲見八右衛門、角庄右衛門、垣見伊右衛門、太田助左衛門、伊藤三左衛門」の五名が、連判衆側の思想に反発して離脱。12月28日午刻、「江戸御一門中様方」に宛てて「爰元連判之様子不埒故、拙者共ハ立退申候」ことを飛脚を飛ばして報告した。同日中「杢之助方へも何方より歟、廿八日ニ聞へ申し候」ことがあった。おそらくこの離脱した五名からの密告と思われるが、正月元日の城中での暗殺計画を知った杢之助は「存念之段、書状被相認、江戸御一門様方へ廿八日夜九時ニ手前中間に為持、為飛脚被遣候」という。26日朝方の戸田左門邸への使者九助に続くものである。この中間もまた出立から三日目の延宝7(1679)年正月2日に江戸に入っており、若党九助に続けて大垣藩邸に入ったものと思われる。
一方、杢之助方に杢之助暗殺計画が漏洩した事を知った「連判方」は「最早杢之助を朔日ニハ討れ申間敷」ことを悟り、「二日之日に御城にて御弓初ニ討申筈」へと計画を変更した。延宝7(1679)年正月2日は「遠藤市右衛門当番にて登城被致候」であるが、遠藤市右衛門は杢之助側の人物である。なお杢之助は「極月廿日頃、気分悪敷候ヘ共、御公用一義、彼是取沙汰有之候故、年内無滞御勤」と、12月20日頃より体調が悪化していたものの、公務こそ第一であると考え、周りで様々な噂や沙汰が飛び交っているが、年内の勤めを何とか滞りなく勤め上げた。さらに杢之助は「元日ニハ、若党草履取斗にて家中へ年始之礼ニ被出候」と、正月元日はほとんど供を連れずに登城し「年始之礼」を執り行った。その場で「委敷義、御存候通り、去冬より気分悪敷候得共、連判衆闇打ニ可致候由承候故、無理ニ今日まで相勤申候、明日より引込養生可致候」と、連判衆の存在と自らの暗殺計画を暴露し、元日の務めも無事に行ったので明日よりは屋敷に籠って養生する旨を宣言した。藩士らからも異存は出ることなく遠藤杢之助の二日の登城がなくなったため、正月2日、遠藤忠右衛門、遠藤治部右衛門(杢之助弟)の両家老は鎖帷子などを着すことなく登城した。
一方、領内の百姓たちは「杢之助殿事、去々年御訴訟之節、腰をおし被申候由にて今宵闇討ニ可被成被相究候由、然レ共杢之助殿義、こしを御押候義毛頭無覚候義、其上左様之やミ打騒動御座候而ハ、第一殿様御為不宜候間、片時も早く八幡御城下へ罷出申立仕候様ニ」と決し、百姓たちは「鹿威之鉄砲鑓にても持出候様」と言い合って城下に駆け付け、「右之余内五六十人、杢之助殿江押込候」と、城下に駆け付けた百姓らのうち五、六十名ほどが遠藤杢之助邸に入った。このとき杢之助は体調を崩していたため寝所にいたが、百姓らを寝所に招いて話を聞いた。ここで「百姓共申」ことは、「去々年御訴訟之節、貴公様百姓之腰を御押被遊候由にて御家中より今夜御つぶし可被成候由承候、此段百姓毛頭覚無御座候、其上騒動御座候而ハ第一殿様御為不宜候間、中立ニ罷出候、是非御屋敷ニ相詰堅メ可申と存知候、若先様より御手出御座候は、中立可仕候覚悟に相極申候」と言う。つまり、遠藤杢之助を無実の罪状で討ち取ろうとする連判衆から警衛したいとの申出であった。これに杢之助は、「左様之儀致し候而、何程の事か可有候哉、兎角御為不宜候間、早々所へ引申候様に」と再三に亘って百姓らを説得した。これに百姓らもやむなく「御屋敷の外構へ罷出」て杢之助屋敷の警衛を行った。ただ、その後も諸方村々より追々に百姓らが馳せつけてくるに及び、杢之助も当番の家老(遠藤市右衛門)に、「今宵騒動御座候由にて百姓大勢罷出候由申候、兎角御為不宜候間、村々江引込申候様ニ御しづめ可被成」と、帰村するよう説得すべきと伝えている。しかし、これに対して筆頭家老の遠藤新左衛門から「今晩百姓共罷出候ハ、杢之助逆心」と、今回の百姓の城下結集は杢之助の逆心によるものであるとの返答があったという。ここで杢之助の使者は新左衛門の家来に向い、「さりとては逆心の御返事心得かたく候、御連判衆中こそ逆心にて御座候」と言い捨てて城から罷り帰った。
遠藤新左衛門は「連判衆、浪人四、五十人相集罷在、今後与相究被居候」と、連判衆らを屋敷に集めて杢之助を処罰せんと企てていたものの、「杢之助様為見舞夜廻リ辻々ヲ堅メ、、一騎同前仕合候」(「長瀧寺真鑑正編」『白山史料集』)とあるように、予想外に杢之助を守るべく百姓らが結集して騒動となったことから、「石井藤右衛門(氏房)、高屋権太夫(正辰)、郡奉行、町奉行」へ使者を遣わして参上を命じた。ここで新左衛門は「今宵百姓共罷出候段、ひとへに杢之助逆心」と申し述べたが、彼らは「逆心之儀ハ双方不存候故、合点不参候ヘ共、杢之助殿百姓共存意聞届可申ノ由にて罷立」と返答して、その「逆心」を否定する。
こうした中、「連判衆中ハ鎖帷子或ハ具足にて登城被致候」と、正月2日の賀日にも拘わらず連判衆は武装して登城した。これは「市右衛門殿、治部右衛門殿、忠右衛門殿、此人々を討て、其引足に杢之助へ押入、討留可申体」という計画であったという。そのため連判衆は城内で「鑓のさやを外し」て、当番の遠藤市右衛門のもとへ向かったが、市右衛門は「其ものを礑とにらみ、それは何としたる体ぞ」と一喝すると、一同は委縮して静まり返った。この武装蜂起の様子を見た遠藤治部右衛門は「杢之助事、今夜に相究申候様子に相見へ申し候」と感じ、「杢之助方江内談可有」として城内の出来事を杢之助へ伝えた。これを聞いた杢之助は「市右衛門ハもはや城にて被討可申と無念千万也、はや今夜限り」として、武装したうえで子息三人とともに門外へ出た。「其容貌、扨々感入申さぬ者なし」という。
こうした所に、遠藤新左衛門から派遣された「石井藤左衛門、高屋権大夫、郡奉行両人」が杢之助屋敷に参上した。高屋権大夫は「今宵百姓共罷出申義ハ貴様御逆心之義と新左衛門被申候、逆心之義ニ候ハ、只今切腹可被成候、又御心入之趣御座候ハ、我々に可被仰聞候」と杢之助に伝えると、杢之助は「扨々無念千万也、申分ニハ御座候、先刻使を以、申時も新左衛門左様に申越候、其時も家来江申遣罷帰候、各ハ我等か働、御存知無之哉」と段々に道理を申し述べた。これに奉行衆は「いかにも慥ニ聞届申候上ハ、左様ニ被成候而ハ、御為不宜候侭、先に御内へ御入被成候ヘハ、達而被申候」と返答したため、杢之助もその通りと感じ「手に持し弓を捨」てた上で、「先、治部右衛門ハ登城被致候様に」と申し述べて、屋敷内へと引返した。
次に石井藤左衛門らは杢之助邸を警衛していた百姓にも事の次第を尋ねたところ、彼らは「私共罷出候ハ、去々年之御訴訟に付、杢之助百姓之腰を御押被遊候と御家中衆より被談候て御潰し被成候由承候、然ハ第一殿様御為不宜候、是のみ奉存候て罷出申候」と、とくに「無別意委細ニ申候」たため、石井藤左衛門ら奉行衆はこれを聞き届た上で帰城し、新左衛門へ事の次第を報告した。ここで高屋権太夫は「今宵百姓出申候事、杢之助逆心之様被仰候故、段々杢之助殿口上、百姓之存念、悉承届候処、聊左様にて無之候、弥左様ニ思召候哉、是非ニ逆心ニ相究候ハ、何れも罷越、直ニふミ潰し可被申」と、高屋権太夫が新左衛門に高勢に詰め寄ったため、「いや逆心とハ不申候」と言葉を濁して返答したため、遠藤治部右衛門と奉行石井藤左衛門、高屋権太夫、遠藤軍平は連れだって城を下がった。このとき、治部右衛門らは登城する家老野田覚右衛門と出会った。このとき「覚右衛門鎧を着込にて鉄砲を持たせ、自分は軍配を持ち、軍立の躰」での装束であった。遠藤治部右衛門は覚左衛門を見咎めると「扨々珍敷御装束哉、合点不参候」と詰め寄った。さらに遠藤軍平はもとより剛毅な質であったため「悪さも悪しさ思」って「宜し覚右衛門殿には御祝儀の登城に其体は乱心せられしや」と「会釈もなく胸ぐらを取つて寄倒して着込の具足を引き出し」た。これに「覚右衛門大きく恥入り面目なくすぐすぐと宿所に帰」って普段の装束に着替えて再登城したという。このような中で、百姓らは次々に城下に集まり、正月4日の朝までに六、七十人程となった。城中も諸役人も中立となり、連判衆からも手出しはなかった。
また、遠藤軍平は今回の騒擾は遠藤新左衛門が不忠であると聞いていたため、遠藤杢之助に加勢して杢之助の屋敷に毎夜詰めていたが、延宝7(1679)年正月4日、城下の宮ヶ瀬で遠藤新左衛門と出会った際、その袂を掴むと「此度家中の米虫共一味致され杢之助を討取る計略世に新しき企なり、笑止千万、夫ながら如何様なる事致す共、我々が片手にも及ばざる米虫共、只花やかに致されよ(このたび家中の米虫どもへ一味され杢之助を討ち取ろうなどという計画は何とも斬新な企みだが、笑止千万、たとえいかなる手を打ってこようと、我が片手にすら及ばぬ米虫どもとせいぜい華々しく散るがよい)」と大音に罵った。
延宝7(1679)年正月4日晩、百姓らがさらに大勢馳せ寄ったため、物頭衆、郡奉行、町奉行が辻まで出向き、
「斯様に大勢城下へ相詰め候へば、百姓一揆と相聞え他国への聞え宜しからず、一先五ケ村が小野村へ控へ然るべし(このように大勢で罷り出ることはに百姓一揆のようで殿様のためによろしくない。まずは五町村まで引きなさい)」
と百姓達に伝えたが、百姓らはなかなか承引しなかった。そのため、正月8日、遠藤十兵衛と大垣藩の永井右衛門が同道で出張し、
「何れも左様に退き申さざれば殿様の御為宜しからず大切と存ずるなり、心得も有るべき」
と説得すると、百姓らは
「杢之助様にも百姓の為ばかり御思召しても非ず、殿様の御為を思ひ杢之助様も百姓の訴訟に依て御難儀を懸けては相済みがたくと一寸も跡へは引ざれども、百姓一揆と聞え殿様の御為悪しきとの事なれば、是非に及ばず引退き申すべし、去ながら家中の騒動鎭り申すまでは退き難く」
と返答した。これに十兵衛らは、
「其儀は新左衛門仕業なれば心得もある事なり、殿様の御為を思ふなれば早く退き申すべし、此上愈騒動に及ぶ時は、殿様を始め一統の難儀、斯様大勢百姓押寄せ城下を騒がすに於ては、他領の聞えは百姓一揆と風聞もありらん、早く退き呉れよ」
と伝えると、長百姓ら4、5人は
「我々は殿様の御為こそ一大事と存ずる處、百姓一揆と相聞え殿様の御為ならざる事なれば、此上は我々江戸表へ罷出で百姓一揆是れなき旨を申上、神文にて致す可(我らは殿様のためを思って立ち上がった。一揆と言われるなら江戸へ上って神文を差し出します)」
と返答したため、野田覚右衛門、遠藤十兵衛、高屋権太夫、餌取六郎右衛門、松井弥左衛門が、
「其儀に及ばず、一刻も早く引取こそ肝要なれ(それには及ばぬ、一刻も早く引き揚げよ)」
と諭したが、百姓らは一向に引き上げる気配がなかった。当時、大垣藩から派遣されていた目付辻恵右衛門がこの騒擾を監視していたが、辻恵右衛門に加えて、山田庄左衛門、一村六左衛門、岡長左衛門が派遣され、正月8日の会合で騒擾の一部始終を確認。順を追って百姓たちへ理を尽くして言い聞かせたため、百姓らも恐れ入って服従し、穏やかに収めよとの仰せが出されると、百姓衆はそれぞれの村へ引き揚げていった。その際「庄屋組頭は後へ残るべし」との指示があったため、村役人たちは同道せずに城下に留まった。
翌正月9日の協議において、大垣藩主戸田左門の指示により「家中一統故障是れなく旨」の書付を提出することが命じられ、また百姓についても同様の「書付」の提出が指示された。その案文は、
というものであった。ところが、百姓らは、
「御家中にての騒動を承り罷出候儀にては是れなく、殿様の御為を思ひての事なり、右証文にては百姓共事を起せし様に相聞え候、此儀は御免被下べし(我らは御家中の騒動を受けて城下へ繰り出したのではない。殿さまの為を思って出てきている。この証文の文面では百姓らが事を起こしたように見えるので、証文提出の儀はお断りする)」
と、大垣藩の使者へ断りを入れたが、その後、大垣藩側からとくに沙汰はなく、うやむやのまま大垣藩の使者は正月11日に郡上を発って大垣へ帰っている。その後、高島弥左衛門、鈴木弥市右衛門が郡上に遣わされ、「愈ゝ鎮り穏に相成候や」との問い合わせがあり、対応には遠藤杢之助、遠藤十兵衛が当たり、正月17日に帰国した。その12日後の正月29日に改めて大垣藩下目付が遣わされて「郡上家中屋敷町方等絵図面」の提出が指示され、杢之助がこれに印を捺した。そして、2月7日に辻篠右衛門、正木喜左衛門が郡上を訪問。「家中双方共、以後とも故障申間敷旨神文被仰付、無失儀奉畏入一礼差上」た。百姓への誓紙提出は取りやめられたとみられる。
また、この郡上城下の騒動は他領へも大きく聞こえており、正月23日、尾張藩からは林八郎右衛門、稲葉九郎左衛門、物頭の星野勘左衛門、御目付の鈴木藤兵衛、御奉行の近松権兵衛、御代官の山本興三兵衛ら都合二百三十名が武装して国境の領原兵左衛門方を本陣として警戒に当たった。別の史料(「長瀧寺真鑑正編」『白山史料集』)では「尾張殿ニ相聞ヘ」て、尾張徳川光友は国奉行に命じて「上下三百人ニテ洲原迄被参候」、「御子息摂津守殿上下八百人ニテ小巻野迄御出被成候」、「渡部飛騨守殿上下三百五十人ニテ大垣口ヘ被参候」、「千村平右衛門殿二百五十人ニテ勝山迄被参候」という、大規模な出勢で郡上周辺を警戒している。そのため郡上側から石井藤左衛門(氏房)、桑原五兵衛(頼堯)、松井弥五左衛門(高澄)が挨拶に出向き、
「百姓共立騷ぎけれ共、穏に治りければ御引取被下度」
と申し入れたため、尾張藩兵は2月15日に尾張へと引き上げていった。
こうして、ようやく藩内も騒擾の終わりが見えたところ、3月4日、江戸藩邸より沢辺治右衛門が到着。
(一)百姓訴訟の箇条中にて一味致せし者無之哉
(ニ)家中騒動の節、百姓罷出候事、杢之助内通にても有之哉
(三)百姓城下へ押詰候儀、殿様の御為めに一命をかけ罷出候に相違無れなく哉
以上の三ヶ条について、よく吟味して問題がなければ誓紙を提出すべきことを指示した。また、この件について、杢之助へも御尋ねがあったが、杢之助は「何の子細之れ無き趣」として神文を提出した。
そして8月下旬、遠藤杢之助、遠藤市左衛門は江戸表の御一門へ「隠居の願」を提出。「願相叶」い、「跡式新地子息へ仰付」られた。また、御一門からは「諸家中睦敷可致由」の書簡を下され、杢之助らは「無異議と御請申上」た。しかし、どうやら藩中は相変わらず藩士同士の反目が続いていたようである。郡中の百姓らは変わらぬ藩内の対立を見て怒り心頭に達したようである。
延宝8(1680)年2月1日頃、百姓五人が江戸にのぼり「先年一乱以後御手中諸士不和に御座候故、百姓共難儀の事夥多有之旨申上」た。これに驚いた「御一門方」はすぐさま郡上へ「問合之役人」を遣わして実態調査し、「家中上下不残神文被仰付」た(5月29日、百姓五名は帰国)。
大規模な騒擾が収まったのちも続いていた藩内の対立に対し、これまで穏便に済ませようとしていた「御一門」は方針を一転。家老、奉行以下多くの重臣を粛清した。
延宝8(1680)年4月12日、大垣藩主戸田左門氏西は一村六郎右衛門、瀬木治太夫、そのほか奉行五人を郡上に遣わすと、騒動時の責任者に対する処分を言い渡した。
これを受けて、遠藤杢之助、市左衛門、治郎左衛門は翌4月13日六ツ前に郡上を出立した。4月14日には遠藤新左衛門、唯右衛門が郡上を去った。この措置を見届けた大垣使者は14日に郡上を出立し大垣への帰途に就いた。最初に処分された人々は杢之助や新左衛門の名がみえる通り、騒擾の中心的な存在となった人々であろう。その後「新左衛門、唯右衛門家内、不残早々郡上立退き候様被仰渡」されているように、連判派の頭人についてはとくに対立を煽ったということか家自体が改易されている。遠藤新左衛門家は鎌倉遠藤家に属していることから藩主の血縁家系と考えらえ、その惣領家の改易となる。
粛清はこれに留まらず、5月5日、6日には江戸からの飛脚で十名が「御暇」、その後も御暇や追放などが命じられ、処罰者の合計は六十人を超える事態となった。
ただし、「惣百姓」から「遠藤市右衛門、同杢之助帰参の願」が提出されたことで、遠藤市右衛門、遠藤杢之助は「弓大将被仰付」て帰参が内定された。そして「御一門方」の意見を聞くため、6月3日に高屋権太夫が江戸へ下ったが、彼らの帰参は認められなかった。高屋権太夫は御一門から「百姓共、遠藤杢之助帰参を願申上候へ共、不相叶由、百姓共へ申付、斯様被仰出」て6月28日に郡上へ帰国したが、彼はこの決定に不服だったのだろう。百姓らに「其儀不申伝」なかったため、7月14日に「閉門」が命じられた。さらに9月22日には「御暇」を命じられている。
●延宝8(1680)年処罰者
| 処罰日付 | 判決 | 処罰者 | その後 |
| 2/20 | 切腹 | 遠藤三郎左衛門 | (『延宝騒動記録』)かんなん御切被成候而、廿日之朝切腹被致候 ※御暇を給わり、「和良野尻村に浪人し、外記様より五人扶持を頂戴仕在候」の遠藤三郎左衛門と同人? |
| 4/12 | 御暇 | 遠藤杢之助(正英) | 牢人以後山城国宇治大茶師閑林と云ふ人に懸り罷在候て、江戸へ下り牧野因幡守へ五十人扶持に相進み申候 遠藤杢之助一子利助儀は松平右京太夫へ相勤申候 |
| 御暇 | 遠藤市右衛門(正明) | 浪人以後関の邊に兎や角と世を送り申され、其後郡上八幡上ヶ洞に来り法体して淨泉と改め、安養寺々中にて相果てらる、 | |
| 御暇 | 遠藤新左衛門(長明) |
(『遠藤騒動記』)惣右衛門と云ふて妾腹の一子にて元来結構第一の人にて、同輩の挨拶等も慰惣在之候に付、尤思慮はなく、物事不構有成りの人なり、出店を出し草履、草鞋を売り一代朽果てられになり (『遠藤外記様家中騒動記』宝暦八年の記録) 元来結構第一の人品にて、扶持人等ニ至迄挨拶至極慇懃成生れ付にて思慮もなき何事も人次第にて物に不構人にて浪人之以後ハ関のわき、田原といふ所ニ出店をしつらい、草履鞋を売、一代くち果申候 |
|
| 御暇 | 遠藤六左衛門 | ||
| 御暇 | 遠藤治部右衛門 | 兄杢之助ニ御暇給リ候故、我等も相勤可罷在様無之とて御暇をねがひ候処、首尾能御暇被下置、無程帰参被仰付候て本地弐百石被下置候 | |
| 御暇 | 遠藤唯右衛門 | (『延宝騒動記録』)新左衛門殿内方子息 | |
| 時期不明 | 御暇 | 池田庄兵衛(吉久) | |
| 御暇? | 遠藤三郎左衛門 | 和良野尻村に浪人し、外記様より五人扶持を頂戴仕在候 | |
| 御暇? | 遠藤十郎右衛門 | 和良野尻村に浪人して居申候 | |
| 5/1 | 閉門 | 遠藤十兵衛(朝慶) | 遠藤内記殿(藩祖遠藤慶隆の甥)の子息にて和良法師丸筋を領知して内は格式の人ニて格別之人也 |
| 5/6 | 御暇 | 豊島弥左衛門(氏証) | |
| 御暇 | 池戸求馬之助 | ||
| 御暇 | 村山三右衛門 | ||
| 御暇 | 石神太兵衛 | ||
| 御暇 | 粥川小十郎 | ||
| 御暇 | 松井勘右衛門 | ||
| 御暇 | 松井覚兵衛 | ||
| 御暇 | 豊田源五兵衛 | ||
| 御暇 | 遠藤弥市右衛門 | ||
| 御暇 | 太田助左衛門 | ||
| 5/15 | 御暇 | 粥川半兵衛 | 江戸藩邸詰 |
| 6/7 | 追放 | 遠藤七郎右衛門 | 大罪につき追放。 |
| 7/23 | 御暇 | 井戸茂右衛門 | |
| 御暇 | 石井藤右衛門(氏房) | ||
| 御暇 | 遠藤又右衛門 | ||
| 御暇 | 豊田茂右衛門 | ||
| 御暇 | 石井文右衛門 | ||
| 御暇 | 和田源太夫 | ||
| 御暇 | 粥川小平太 | ||
| 御暇 | 星野文太夫 | ||
| 御暇 | 村山勘五兵衛 | ||
| 御暇 | 服部甚平 | ||
| 御暇 | 池戸弥右衛門 | ||
| 追放 (三ヶ国追放家財闕所) |
川尻彦兵衛父子 | 浪人を入れ候科。 | |
| 7/25 | 御暇 | 餌取源五右衛門 | |
| 御暇 | 三浦四万之助 | ||
| 御暇 | 吉田八助 | ||
| 御暇 | 可児伝兵衛 | ||
| 8/13 | 郡上御構 | 村瀬忠次郎 | 稲葉様ニ御用人相勤申候 |
| 9/22 | 御暇 | 高屋権太夫 | |
| 11/21 | 御暇 | 小川茂左衛門 | |
| 御暇 | 高野茂左衛門 | ||
| 御暇 | 種村弥市兵衛 | ||
| 御暇 | 種村弥惣右衛門 | ||
| 御暇 | 山田忠左衛門 | ||
| 御暇 | 水谷新七父子 | ||
| 御暇 | 粥川源左衛門 | ||
| 御暇 | 遠藤久右衛門 | ||
| 御暇 | 鷲見甚内 | ||
| 御暇 | 桑原五兵衛(頼堯) | ||
| 御暇 | 春木嘉右衛門 | ||
| 五十石召上 | 市村平左衛門 | ||
| 五十石召上 | 野地三郎左衛門 | ||
| 五十石召上 | 武光吉左衛門 | ||
| 五十石召上 | 小池源左衛門 | ||
| 五十石召上 | 豊田茂右衛門 | ||
| 五十石召上 | 伊藤三関 | ||
| 五十石召上 | 伊藤関三郎 | ||
| 五十石召上 | 今井権左衛門 | ||
| 切腹(斬首) | 野田九右衛門 | 遠藤新六郎邸での刃傷 |
●延宝8(1680)年加増者
| 加増月 | 加増 | 処罰者 | その後 |
| 12月 | 百石 | 松井縫殿助(宗従) | |
| 十人扶持 | 鷲見庄右衛門 | ||
| 五人扶持 | 吉田作右衛門 | ||
| 百石廿人扶持 | 遠藤治郎右衛門 | 杢之助弟。御暇を願って浪人するも呼び戻されて帰参 |
天和元(1681)年11月25日、上野国沼田藩主・真田伊賀守信利が悪政を行った結果、政事不行届として改易され、信利の次男・武藤源三郎信秋を幕命によって預かっている。
天和2(1682)年12月27日、従五位下・右衛門佐に叙され、十六歳の若さで大夫の地位にのぼった。そして元禄元(1688)年5月3日、はじめて郡上への下向が認められたが、翌元禄2(1689)年3月24日、郡上で急逝した。享年二十三。号は素教恵正院。
弟の遠藤内記慶紀は和良郷二千石を給わり、のち遠藤家の家老職に就いた。延宝騒擾に際して何らかの処分を受けたと思われる御後見遠藤十兵衛朝慶(藩祖遠藤慶隆の甥・遠藤内記の子)の養嗣子となったものか。慶紀は東家の系譜をまとめており、元禄12(1699)年9月5日に「東家系図」を写している(『日置家所蔵東家系図』)。
延宝8(1680)年4月12日、騒擾の責任を取って藩の「御暇」を給わった遠藤杢之助は、浪人となって、まず「山城国宇治」の大茶師「閑林(上林峯順)」の世話になった(『遠藤騒動記』)。その後江戸へ出ているが、茶師上林の門人として江戸の公用に随従したのかもしれない。そして、江戸で「牧野因幡守」に出仕して五十人扶持を与えられたとする。当時の「牧野因幡守」は田辺藩主牧野因幡守富成であるが、成富は郡上藩主遠藤常春の舅で次代の遠藤常久養母の父にあたる。ただ、遠藤杢之助と「牧野」因幡守との関わりはうかがえず、某年2月12日に「上林峯順」からの「遠藤杢之助儀」についての話を「松因幡守興衡」が返答しているように、遠藤杢之助は上林峯順を通じて「松平」因幡守と交渉(おそらく仕官について)をしていることがわかる。「遠藤杢之助一子利助」も牧野家ではなく「松平右京太夫へ相勤申候」とある。「松平右京太夫」は松平右京大夫輝貞(高崎藩主)で松平因幡守興衡(信興)の嗣子であり、遠藤利助は父杢之助が仕官した大河内松平家にそのまま仕えたとみる方が自然であろう。つまり、『遠藤騒動記』等にみられる遠藤杢之助の仕官先「牧野因幡守」は「因幡守違い」で「松平因幡守」であった可能性が高い。
某年12月9日、七千七百石の大身旗本「蒔田権之助(蒔田定行)」が松平因幡守興衡邸を訪問し、「遠藤杢之助儀」について留守居の者に話している。この日興衡は公務等で出ていたとみられ、蒔田定行とは対面していない。そのため翌12月10日に「遠藤杢之助儀、被仰聞候趣、承届被入御含儀共々」とし、同席できなかった詫びと御礼を送達している(「高崎藩士遠藤家文書」『群馬県立歴史博物館紀要』第41号)。
この書状の時期がいつなのか、元号が記載されていないため確定的な判断はつきかねるが、署名が「松平因幡守興衡」とあるように、松平因幡守信興の前名(興衡以前も信興を称していた事がある)である。この書状は百人組頭蒔田定行が屋敷を訪れていることから、当時興衡が江戸にいたことを示す。興衡は貞享4(1687)年10月13日に大坂城代として大坂へ上り(この頃信興に戻すか)、京都所司代へ転じて死去していることから、遠藤杢之助が松平信興に仕えたのは、彼が大坂城代となる貞享4(1687)年以前のこととなる。「興衡」を使用した最後として見えるのは、貞享元(1684)年11月21日に、甥で宗家の松平伊豆守信輝の名代「松平因幡守興衡」であることから(『大河内家譜』)、この頃に宇治茶師の上林峯順を伝手として松平因幡守興衡に仕えたのだろう。その仲介をしたのが蒔田権之佐定行であったのだろう。遠藤常春の姉は「蒔田久太郎定良妻」(「遠藤家系図」『経聞坊文書』:『白鳥町史 史料編』)とあるが、おそらく権之佐定行の子・久太郎定次と思われる。久太郎定次は貞享2(1685)年5月6日に亡くなった「蒔田久太郎権之介息」(『山鹿素行先生日記』)と同一人物であろう。蒔田家も松平興衡もともに遠藤家とは縁戚に当たる。
牧野富成――女子
(因幡守) ∥
∥
板倉重宗―+―板倉重郷 ∥―――――+―遠藤常春
(周防守) |(阿波守) ∥ |(右衛門佐)
| ∥ |
+―女子 ∥ +―女子
| ∥―――――遠藤常友 ∥
| ∥ (備前守) ∥
| ∥ ∥
| 遠藤慶利 蒔田定行――――蒔田定次
|(内蔵助) (権之佐) (久太郎)
|
+―女子
(龍泉院殿)
∥―――――松平信輝
∥ (伊豆守)
松平信綱―+―松平輝綱
(伊豆守) |(伊豆守)
| 【高崎藩主】
+―松平興衡――松平輝貞
(因幡守) (右京大夫)
松平因幡守信興(興衡改め)は元禄3(1690)年12月26日、大坂城代から京都所司代に転じたことから、翌元禄4(1691)年3月に上洛及びその後の諸役や段取りが定められた。この中で「於京都」の「堂上方」に「堂上方御使者」として「遠藤杢之助」が任じられており、遠藤杢之助は渉外担当に抜擢されたことになる。松平信興一行は3月3日に入京し、所司代屋敷に入っている(『大河内文書』)。
3月12日、霊元院から所司代就任の祝意に「生鯛二ツ御拝領」し、その「為御礼」に「御所附市岡対島守様」に遠藤杢之助が遣わされている。このとき杢之助は「御持筒役」(『大河内文書』)とある。翌3月13日には霊元院が所司代河原屋敷へ行幸した際には、御使者として遠藤杢之助が勤め、禁裏への御使者は「遠藤杢之助、深井助右衛門」両名が勤めた。3月16日、霊元院から再度鯛が届けられ、その御礼として遠藤杢之助が菊亭大納言及び牧下野守のもとに遣わされている(『大河内文書』)。
6月10日、遠藤杢之助が使者として朝廷へ御献進の御茶壷を御用番伝奏の柳原大納言前光へ送達した。御茶壺の鍵と口上書を柳原大納言の被官人へ渡している。7月3日にも朝廷に「氷砂糖」を届ける使者を杢之助が請け負っている。8月21日、松平信興から仙洞へ初鮭を献じる使者に杢之助が遣わされ、仙洞付の「千種様」が請けとっている。
ところが所司代松平信興はその一月後の元禄4(1691)年閏8月12日、京都千本通の所司代下屋敷で急死する。享年六十二。在職はわずかに七か月であった。前日の閏8月11日、上屋敷は役宅であるため下屋敷で床に伏していたが、「進献之間エ御床ヲカゝイテ御出御」して「家中ノ面々不残被召出被仰渡」たのは「何茂相慎、人口ノ批判無之様ニ引払可申候、何茂流牢ハ為致間敷候、是か御暇乞」と述べ、家臣らはいずれも落涙しない者はなかったという。その後、家老山本菅助晴方が座敷に入り「酉ノ下刻御息絶逝去」した(『大河内文書』)。なお、この家老「山本菅助晴方」は「山本菅助菅原晴幸入道道鬼」の末裔である(近藤章著『墓石は語る』あさを社)。
元禄8(1695)年5月、松平右京大夫輝貞が高崎藩主となり、以降遠藤杢之助家は高崎藩士として続くこととなる。元禄14(1701)年10月21日、「遠藤杢之助正久」は「御小性頭」として出仕(『役人系図』)したのち、宝永4(1707)年7月4日に亡くなった(『遠藤家墓誌』『役人系図』)。享年不祥。法名は霊照院鐵翁道眼居士(『遠藤家墓誌』)。墓碑には「美濃郡上産」「遠藤杢之助政久」と刻まれており「郡上」出身であることを銘記する。墓碑自体は「孝子 遠藤清兵衛邦教」によるものである。なお、この「孝子 遠藤清兵衛邦教」が「遠藤杢之助一子利助」なのだろう。「清兵衛」もまた和良遠藤家の伝える通称の一つであり、子孫もまた「杢之助」「清兵衛」を称している。そして、墓碑には延宝騒動に対する杢之助の心が四言絶句で刻まれている(『遠藤家墓誌』)。
遠藤杢之助は郡上においては「正英」を諱としていたが、高崎藩においては「正久」「政久」と改めたようである。杢之助のあとは「遠藤清兵衛邦教」が継承する(『遠藤家墓誌』)。
二代「遠藤清兵衛邦教」は元禄12(1699)年10月9日、二十八歳で御小性となり「御切米金七匁、御扶持米弐人扶持」を下される(『自分覚』)。元禄14(1701)年8月25日、三十歳で御馬廻、宝永元(1704)年10月6日に御者頭となり新知百石を下置かれる(『自分覚』)。享保8(1723)年8月13日、御持筒となり、享保21(1736)年2月3日、御持鑓奉行を仰せ付けられ、役料五十石を下置かれる(『自分覚』)。元文2(1737)年9月3日「御小性頭」(『役人系図』)となるが、実際の任命は10月2日か(『自分覚』)。その間に「遠藤清兵衛行久」と改める。御小性頭は延享4(1747)年10月5日に七十六歳で亡くなるまで在職した。法名は霊光院鐵叟常肝居士。
三代「遠藤清助平胤喜」は行久の「孝子」で、のち清兵衛と改め、明和6(1769)年正月11日「御旗奉行」に就任(『役人系図』)。明和8(1771)年8月11日に御小姓頭へ転じる(『役人系図』)。安永5(1776)年11月22日に在職のまま亡くなる(『遠藤家墓誌』『役人系図』)。享年七十六。法名は向寒院一翁鐵無居士(『遠藤家墓誌』『役人系図』)。
四代「遠藤杢内平胤久」は遠藤胤喜の子。妻は吉田伝左衛門の娘。宝暦9(1759)年8月頃に中小性として出仕。明和8(1771)年5月に表小性となる。安永5(1776)年11月22日に父胤喜が亡くなると、安永6(1777)年に家督相続し、百五十石取りとなる。天明元(1781)年7月16日亡くなった。享年四十。法名は蘭庭院慈聞秀香居士(『遠藤家墓誌』)。「遠藤木工内平胤久之女(好操院窈淑貞窕大姉)」は近藤伊兵衛重弘の妻(子は近藤荘之助重由)となり文政5(1822)年6月11日に亡くなっている。
五代「遠藤清兵衛平胤年」は遠藤胤久の子。天明元(1781)年7月の父胤久の死去に伴い家督を継ぐと、11月には山奉行となる。彼については詳細が伝わらず、卒年等は不詳。
六代「遠藤木工之助平胤則」はおそらく五代胤年の子と思われるが、胤則は文政2(1819)年8月4日に十九歳の若さで亡くなっている。この卒去に伴い、おそらく五歳年下の胤次(通称は胤次郎か)が「忌中引込之者ニ而も急養子願書差出候」(『高崎御用部屋勤向大概』)によって八代の家督継承が認められたと思われ「遠藤清兵衛胤次」を称した。「郡奉行相勤申候」(「明治六年旧高崎藩貫属明細短冊帳」『高崎市史』)とあるように、文化元(1806)年3月に郡奉行に就任している。文化3(1806)年正月に御使番、文化11(1814)年12月には者頭上席、弘化2(1845)年2月には使役に任じられた。嘉永元(1848)年9月19日、四十三歳で亡くなった。法名は悟信院道功了元居士。
九代「遠藤胤維」は遠藤清兵衛胤次の子で、安政4(1857)年2月に郡奉行、安政7(1860)年2月に数鑓奉行、文久2(1862)年に町奉行、慶応2(1866)年9月に者頭席に任じられた。明治5(1872)年5月以前に卒去し、同年5月23日に遠藤清次が十歳で家督を継承している(「明治六年旧高崎藩貫属明細短冊帳」『高崎市史』)。
●和良遠藤
東常顕―+―東師氏―――東益之――――東常縁――――――東常和―――――東常慶――――東常堯
(下野守)|(下総守) (下野守) (下野守) (下野守) (下野守) (七郎)
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+―東胤綱―――遠藤胤善―…―遠藤清左衛門―+―遠藤清左衛門―――――――+―女子
(清左衛門) | |(遠藤弥九郎妻)
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| +―女子
| |(遠藤六兵衛妻)
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| +―女子
| |(粥川甚五右衛門妻)
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| +―女子
| |(中島新三左衛門妻)
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| +―女子
| |(池戸与十郎妻)
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| +―吉田清左衛門
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+―小酒井左衛門(三州小坂井庄、信長公御家人木作左衛門ト従弟)
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+―遠藤清兵衛――――――――+―遠藤与五 +―女子
| | |(河合牛兵衛妻)
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+―遠藤能助 +―遠藤亀之助――+―女子
| | (松田八左衛門妻)
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+―女子 +―遠藤伝右衛門―+―遠藤彦二郎
|(飛州益田今井六郎右衛門妻)| |
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+―女子 | +―吉田伝右衛門
(津保三輪忠左衛門妻) |
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+―遠藤杢之助――+―女子
| |(桑原勘左衛門内)
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+―遠藤入三郎 +―女子
|(畑佐惣右衛門内)
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+―遠藤杢之助
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+―女子
|(池戸五郎右衛門内)
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+―遠藤十郎右衛門
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+―遠藤弥左衛門
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+―女子
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+―女子
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+―桜田監物
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+―遠藤七兵衛