郡上遠藤家 (木越遠藤家)

郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

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木越遠藤家

 鎌倉以来の郡上東氏の主要被官・郡上遠藤家のうち郡上郡木越城郡上市大和町島を拠点とする惣領家で、系譜上の東下野守常縁の末子・遠藤八左衛門盛胤の孫、遠藤新兵衛胤縁を祖とする一族である。胤縁は弟・遠藤六郎左衛門尉盛数とともに主家の東下野守常慶を支える柱石として活動をしていた。常慶は娘を盛数に嫁がせるなど、常慶の信頼も篤い一族であった。

 ところが、常慶が家督を嫡子・東七郎常堯へ継承すると、常堯と両遠藤家の関係に亀裂が生じたという。以下は後世の伝となるが、常堯胤縁の娘を妻に欲したが、胤縁常堯を信頼しておらず、密かに畑佐備後守信胤の子息・畑佐六郎右衛門信国にその娘を嫁がせてしまう。これを知った常堯は、永禄2(1559)年8月1日、「八朔の礼」のために赤谷山城郡上市島谷に登城してきた胤縁を射殺。その一報を木越城で聞いた弟・盛数は激怒して攻め寄せたことから、東常慶東常堯は籠城してこれを防ぐが、8月24日に陥落。東常慶は降伏し、東常堯は逐電した。

郡上の地図
▲木越城と郡上城の勢力図

 東氏の滅亡後、胤縁の弟・盛数は留守居をしていた木越城から、新たに八幡山に城を築いて移り、郡上郡南部を治めた。一方、胤縁の子・遠藤新右衛門胤俊はそのまま木越城主として郡上郡北部の小駄良(こだら)遠藤家・寒水(かのみず)遠藤家を支配した。胤俊の家老として小駄良遠藤氏の「遠藤惣兵衛(遠藤胤慶)」の名が見える(『郡上藩家中記録』:「郡上八幡町史諸記録」)

 木越城の胤俊と八幡城の叔父・盛数の「両遠藤」家は齋藤山城入道道三、続いてその子・齋藤義龍入道玄龍、齋藤右兵衛龍興の齋藤家三代に仕え、永禄5(1562)年10月、尾張国の守護代被官層の織田信長が美濃国侵攻に際してくると、盛数胤俊は稲葉山城下の井ノ口に織田勢を迎え撃ったが、齋藤龍興が大敗して美濃国から追放されると、両遠藤家は織田家の支配下となる。織田家からは盛数胤俊ともに郡上郡の支配を認められ、美濃可児郡金山城となった森三左衛門尉可成の寄騎となる。

 元亀元(1570)年11月、織田信長と朝倉義景・浅井長政との戦いで、遠藤胤俊は織田勢の先鋒として坂井政尚らととも近江堅田に派遣されたが、11月26日の合戦で討死を遂げた。

 

 その跡は弟の遠藤胤基が継承し、文禄の役では織田中納言秀信に従って朝鮮半島に出兵している。その帰国の際に病にかかり、文禄2(1593)年11月23日、長門国国分寺で亡くなった。そのため若年の嫡子・小八郎胤直が遠藤家惣領の家督を継承するが、叔父の八幡遠藤慶隆がおそらく後見的な立場で両遠藤家を差配したのだろう。さらに胤直は慶隆の娘を娶ったことで、両遠藤家のパワーバランスは八幡遠藤氏に比重が置かれ、実質的に八幡慶隆が木越惣領家を凌ぐこととなる。

 そして慶長5(1600)年の慶長合戦(関が原の合戦)では、胤直は義父遠藤慶隆とともに徳川方につくと約定を交わしていたが、突如西軍に属したため、遠藤慶隆に城を追われ、戦後は浪々の身となり大名として木越遠藤家は滅亡した。戦いの後は大坂に住んでいたようである。



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