相馬氏惣領嫡子 相馬師胤

相馬氏
代数 名前 生没年 父親 母親
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳)
7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤
8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■相馬胤村後室嫡子■

相馬師胤 相馬氏五代 (1263?-1289?)

<正室> 不明
<幼名> 松若丸
<通称> 彦次郎
<父> 相馬五郎左衛門尉胤村
<母> 尼阿蓮(出自は不明)
<官位> 無位
<官職> 無官
<法号> ――――――――

●相馬師胤事歴●

 相馬五郎左衛門尉胤村の庶子。母は胤村後室(出家後は尼阿蓮)。幼名は松若丸。仮名は彦次郎。異母兄弟には次郎左衛門尉胤氏五郎胤顕六郎左衛門尉胤重十郎有胤孫九郎胤朝がいた。

     +―胤氏(次郎左衛門尉)
 妻1  |
  ∥  +―胤顕(五郎)
  ∥  |
  ∥――+―胤重(六郎左衛門尉)
  ∥
相馬胤村―+―有胤(十郎)
  ∥  |
  ∥  +―胤朝(孫九郎)
  ∥  
  ∥――+―師胤(彦次郎)
 尼阿蓮 |
     +―胤実(孫四郎)
     |
     +―通胤(与一)
     |
     +―胤門(彦五郎)
     |
     +―駒夜叉

 文永9(1272)年以前、父の胤村が急死したとみられ、所領の未処分地が残った。その田数(御家人役の御公事等算定の基礎となる田数)は「配分状」によればおよそ680町余(約224万坪)であった。

 「未処分跡」の配分については、将軍家家内法『御成敗式目』の第二十七条に規定がある。

一、未處分跡事
右且隨奉公之浅深、且糺器量之堪否、各任時宜可被分宛

 規定によれば、継承権を持つ人々(子息及び後家)の「隨奉公之浅深」と「糺器量之堪否」に応じて、時宜(室町期に多く用いられた「将軍家の意思」と捉えるよりも「状況」という意味で捉えるべきか)に応じて適切に配分するとある。つまり、未処分地の相続については、将軍家へ対する奉公の度合いと能力を鑑みたうえで決定されるべきとされていた。

佐津間 粟野
佐津間を流れる大津川 粟野

 その規定に則り、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」、胤村跡は左衛門尉に任官し、小侍所のもと主家に奉公していた胤氏(『吾妻鏡』建長四年八月一日条)がもっとも多く配分され、同じく出仕していたと思われる弟の五郎胤顕、六郎胤重が漸減して配分されたと思われる(胤氏・胤顕・胤重・胤実・胤門のものは伝わらず)。当初、胤村後家(出家して尼阿蓮)は胤村「譲状」を提出して、自分の長男「当腹嫡子」である松若丸に多くの所領が配分されるよう願ったと推測される。ところが、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で配分されたのは、胤氏以下の輩行に沿った田数だったと思われる。

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬家文書』)

 

(相馬孫五郎左衛門尉胤村後家)
下総国相馬御厨 増尾村(柏市増尾)
陸奥国行方郡 盤崎村(南相馬市小高区飯崎)
小高村(南相馬市小高区小高)
平松若丸(彦次郎師胤) 下総国相馬御厨 薩間村(鎌ケ谷市佐津間)
粟野村(鎌ケ谷市粟野)
陸奥国行方郡 耳谷村(南相馬市小高区耳谷)
平■■丸(十郎有胤) 陸奥国行方郡 高平村(南相馬市原町区上高平~下高平)
松崎村(南相馬市原町区下太田松崎か)
鷹倉狩倉(南相馬市原町区高倉)
平鶴夜叉丸(与一通胤) 陸奥国行方郡 大悲山村(南相馬市小高区泉沢大久)

 また、「平松若丸」分とされたのは、胤村「譲状」で「後家分」と記されていたであろう相馬御厨の「箕勾、薩摩、粟野、増尾」と行方郡「盤崎、小高」から割かれた「薩間、粟野」と、新規の「行方郡耳谷村」のみであった。そして後家分は「箕勾」は認められず「増尾、盤崎、小高」の三村のみとなった。

●『相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分』(『相馬文書』)

 相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■

       相馬   
一 後家分  箕勾  薩摩 粟野■■
          闕所
       増尾  盤崎
       同         
       小高  已上五ケ村内二ヶ村被給■
   件二ヶ所北田、高村可給之

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)

 可令早以相馬孫五郎左衛門尉胤村後家領知下総国相馬御厨内堰尾村、陸奥国行方郡盤崎、小高両村
右、亡夫胤村跡、為未処分所被配分也、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件

  文永九年十月廿九日
               相模守平■■  (花押:北条時宗)
               左京権大夫平■■(花押:北条政村)

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)

 可令早平松若丸領知下総国相馬御厨内薩間、粟野両村陸奥国行方郡耳谷村
右、亡父左衛門尉胤村跡、為未処分所被配分也、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件

  文永九年十月廿九日
               相模守平■■  (花押:北条時宗)
               左京権大夫平■■(花押:北条政村)

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)の後家分・松若丸(師胤)配分一覧

後家分(胤村譲状) 文永9(1272)年
10月29日
平松若丸分
文永9(1272)年
10月29日
後家分
下総国相馬御厨 箕勾村(柏市箕輪
薩摩村 薩摩村(鎌ケ谷市佐津間
粟野村 粟野村(鎌ケ谷市粟野
増尾村 増尾村(柏市増尾
陸奥国行方郡 盤崎村 盤崎村(南相馬市小高区飯崎
小高村 小高村(南相馬市小高区小高
耳谷村(南相馬市小高区耳谷  

 先に尼阿蓮が提出したであろう胤村「譲状」に記されていたのは、後に尼阿蓮が提出したとみられる「相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分(?)■■」(以下、配分状)にあるような、松若丸に対する過剰な配分であったが、前述のように、将軍家家人が地頭職を有する田地はただの土地ではなく、御家人役として行う様々な公事量算定の基礎となるものである。当然ながらすでに奉公している左衛門尉胤氏の二倍以上の田数を、元服前の未出仕「当腹嫡子」へ配分する「異常な譲状」は、引付衆での審判や評定衆が認めるものではないだろう。評定衆は『御成敗式目』に則り「隨奉公之浅深」と「糺器量之堪否」に応じて粛々と判決を下し、執権をして文永9(1272)年10月29日「関東下知状」を発給したと思われる。ただし、胤村「譲状」の精神も鑑みて、まだ御家人役も生じない幼少の鶴夜叉丸に至るまで未処分領を配分したと推測される。なお、現在伝わっていない胤朝、胤実、胤門(乙鶴丸)へ対しても関東下知状による配分は行われたのだろう。

尼阿蓮の敗訴

 胤村卒去時、尼阿蓮は長男の師胤(松若丸)を筆頭に、胤朝、胤実、通胤(鶴夜叉丸)、胤門(乙鶴丸)、女子(駒夜叉)の少なくとも六人の幼子を抱えているが、長男松若丸がいまだ元服前であることから、阿蓮自身もまだ三十歳代半ばであったと思われる。尼阿蓮は胤村の最期を看取った後室の自負か、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」の配分内容に対して、胤村譲状の「配分状」を作成して越訴したと思われる。なお、現在『相馬文書』に「配分状」は提出文書としての体を為しておらず、下書きであろう。

●『相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■』(『相馬文書』)

 相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■
一 五郎胤顕分  百九十四■余丁
一 六郎胤重分  百六十■■余丁
一 左衛門尉胤氏分 九十余丁
一 彦次郎師胤分 依為当腹嫡子、二百三十九丁■■
  二合也、令超過于自余子息畢、如傍例、
  駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任
  素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記
  之例哉、然者師胤任譲状分限欲預御配分、仍状、
       相馬   
一 後家分  箕勾  薩摩 粟野■■
          闕所
       増尾  盤崎
       同         
       小高  已上五ケ村内二ヶ村被給■■
   件二ヶ所北田、高村可給之

 ここに見える尼阿蓮の主張は、

(1) 師胤任譲状分限欲預御配分 師胤については「譲状」の分限の通り御配分されることを希望する
(2) 依為当腹嫡子、二百三十九丁■■二合也、令超過于自余子息畢 師胤は「当腹嫡子(現在の正室の嫡子)」であるため、譲状の分限においては「二百三十九丁■■二合」という、他の子息に超過した田数が記されている。
(3) 如傍例、駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任亡素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記之例哉 先例を見れば「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」は、いずれも「亡素意(故人の意向)」の通りに裁許されている。胤村の遺領に限って、どうして先例と違えられようか。
(4) 已上五ケ村内二ヶ村被給■■
件二ヶ所北田、高村可給之
胤村「譲状」で後家分として記載のあった「粟野 粟野」の「二ケ村」は文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で「平松若丸(師胤)」に「被給■■」ったため「件二ヶ所北田、高村可給之」とあるように、行方郡北田村(高村、太田村に隣接するがいずれかに吸収されたか、または南相馬市原町区益田か)、高村を給うよう願い出たものか。

の四つである。ここから「如傍例、駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任亡素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記之例哉」とあるように、先例を見れば「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」は「亡素意(故人の意向)」の通りに裁許されているのに、胤村の遺領に限ってどうして先例と違えられようか、という不満が読み取れる。つまりこの「配分状」は、すでに文永9(1272)年10月29日「関東下知状」が下されたのちのものであることがわかる。なお「配分状」で「平松若丸」ではなく「彦次郎師胤」としているのは、元服させることで出仕の意思と配分に預かる正統性を示したものと想像される。

●胤村死去時(文永9年)当時の未処分地

下知状 処分先 備考 田数
(田の面積)
下総国 相馬郡 箕勾村
(柏市箕輪)
なし なし 胤村譲状(配分状)
後家分として申請したが
後家分と松若丸分に
分割
 
増尾村
(柏市増尾)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
薩間村
(鎌ケ谷市佐津間)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)  
粟野村
(鎌ケ谷市粟野)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)  
陸奥国 行方郡 小高村
(南相馬市小高区小高)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
盤崎村
(南相馬市小高区飯崎)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
耳谷村
(南相馬市小高区耳谷)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)    
高平村
(南相馬市原町区上高平)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
松崎村
(南相馬市原町区下太田)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
鷹倉狩倉
(南相馬市原町区高倉)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
大悲山村
(南相馬市小高区泉沢)
文永9(1272)年
10月29日
平鶴夜叉丸(余一通胤)    
【不明】
北田村
(南相馬市原町区益田?)
吉名村
(南相馬市小高区吉名)
含む
永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤氏
(以亡父左衛門尉胤村跡)カ
已上田数載配分状カ 62町4段
院内村
(南相馬市原町区江井)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状 Bと合計
44町7段2合
八兎村
(南相馬市鹿島区烏崎)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状
大三賀村
(南相馬市原町区大甕)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤重 已上田数載配分状カ 32町6段
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平有胤 已上田数載配分状カ 28町8段9合
目々澤村
(南相馬市原町区目々沢)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状 13町9段8合
堤谷村
(南相馬市原町区堤谷)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状
小山田村
(南相馬市鹿島区小山田)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平有胤カ 已上田数載配分状カ 12町9段7合
大内村
(南相馬市鹿島区大内)
永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤実
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状カ 12町4段6合
高村
(南相馬市原町区高)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤門
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状 9町9段1合
荻迫
(南相馬市原町区小木迫)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤門
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状
小嶋田村
(南相馬市鹿島区小島田)
永仁2(1294)年
8月22日
平通胤
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状 12町6合
宮城郡 長田村
(宮城郡松島町磯崎長田)
永仁2(1294)年
8月22日
平通胤
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状
波多谷村
(宮城郡松島町幡谷)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状 B
赤沼六町
(宮城郡利府町赤沼)
永仁2(1294)年 胤氏 永仁二年御配分系図 6町
赤沼四町
(宮城郡利府町赤沼)
永仁2(1294)年 胤顕 永仁二年御配分系図 4町

 尼阿蓮の越訴に付されたと思われる「配分状」を見る限り、胤村長男の次郎左衛門尉胤氏の配分が他の兄弟より著しく少ないことから、胤村・尼阿蓮と胤氏との間には何らかの諍いがあったと想像できる。その原因は不明ながら、胤氏胤村と尼阿蓮の婚姻に対する強い不満があった可能性も想起される。後家尼阿蓮の長男は「松鶴丸(彦次郎師胤)」であるが、師胤には元服していない兄「平■■丸(十郎有胤)」がいる。有胤が胤氏の同母弟とすれば、胤氏らの生母(胤村前室)が卒去直後に後家(尼阿蓮)を迎えるなどした可能性もあろう。のち有胤の子・六郎左衛門尉胤平兄弟や吉名五郎兵衛尉胤遠(胤氏の孫?)らが孫五郎重胤(師胤子)や出羽権守親胤(師胤孫)と敵対している事実も、この尼阿蓮の婚姻に遠因があった可能性も考えられる。

●貞和4(1348)年9月「相馬胤平申状案」(『相馬文書』)

相馬六郞左衞門尉胤平謹言上
 欲早任舍弟九郎兵衛尉胤門一族吉名五郎兵衛尉胤遠其外輩傍例、蒙安堵御成敗、向後彌致忠節、行方郡高平村内胤平知行分田畠半分事、

右、於當村内胤平知行分田畠半分者、被付給人之間、去年霊山御発向之時、胤平者老躰病躰之間、子息左衞門二郎為代官最前令差進、於石山国見御合戦致忠節畢、仍彼半分可預安堵御成敗之由令申之處、未被聞食入之條、難堪次第也、舍弟胤門一族胤遠等者令安堵了、爭可有用捨哉、爰彼輩戦功と小須河之時、令遅参許歟、為同日軍忠之上者、爭可被棄損哉、就中相馬出羽権守親胤掠申闕所之由、申下御施行之間、就歎申可有御注進之旨、被仰出候間、所畏存也、而半分者闕所之由、有御注進者、末代可被召放之條、歎而有余、然早任一烈之法、蒙安堵御成敗、一円無相違之由、為預御注進、恐々言上如件、
  貞和四年九月日

 さて、後家尼阿蓮の訴えは、のちの後家尼や師胤の譲状を見ても、彼らの所領は文永9(1272)年10月29日「関東下知状」と変化はない。つまり、越訴方及び評定衆は「配分状」を採用しなかったということになる。それは前述の通り、未元服且つ未出仕の少年へ惣領を超える広大な所領田地を「譲状」の通り配分することは非現実的で一族混乱の基であるということであろう。なお、後家尼や師胤は所領を失っていない(『御成敗式目』第二十八条に虚言による讒訴の厳罰が規定されている)ことから胤村「譲状」は真物だったのだろう。

一、搆虚言致讒訴
右、和面巧言掠君損人之属、文籍所載、其罪甚重、為世為人不可不誡、為望所領企讒訴者、以讒者之所領、可宛給他人、無所帯者、可處遠流、又為塞官途搆讒言者、永不可召仕彼讒人

 こうして尼阿蓮の彦次郎師胤を惣領に据えようとする企みは、将軍家の探題力により防がれたことになる。当時においても厳格に「御成敗式目」が採用され、それを基にしながらも「時宜」により柔軟に運用されていたことがわかる。

 一方で、相馬惣領家となった胤氏が継承した田数ははっきりしないが、最も多い未処分領を継承したであろう。胤村遺領の田数は「配分状」をもとに概算すると680町余(224万坪余=740ヘクタール余)となるが、これが胤村遺領全体とすれば、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で下総国相馬郡・陸奥国行方郡内の440町余が配分されたと思われる。このとき、どういった基準で処分と未処分が決められたのかは不明だが、推測するに、家祖相馬師常が右大将家より給わり胤村へ継承された根本私領か。一方で、陸奥国の未処分田数239町余は、二代義胤以降が恩賞(畠山合戦、和田合戦、承久の乱等)として給わった所領なのかもしれない。結果として将軍家の判断によって処分残239町分は配分保留とされたのだろう。

 例えば、相馬五郎胤顕(永仁二年は胤顕跡)の所領配分は以下の通りである。胤顕に対する文永9(1272)年10月29日「関東下知状」は遺されていないが、胤顕も未処分地を拝領していると思われる。「配分状」には五郎胤顕分として「百九十四■余丁」が記載されているが、これが相馬家に伝わった根本私領のうち胤村が継承していた地頭職を有する田地ということになろう。

国郡 伝領 関東下知状 田数 備考
下総国相馬郡 泉村(柏市泉 文永9(1272)年
10月29日か?
   
・上柳戸(柏市柳戸の西側) 下柳戸は新田岩松氏の所領
・金山(柏市金山  
・船戸(柏市手賀字船戸  
陸奥国行方郡 岡田村(南相馬市小高区岡田  
飯土江狩倉(南相馬市小高区井田川?)
※周辺山野か
※飯舘村飯樋は離れすぎか
 
矢河原狩倉(南相馬市原町区矢川原  
上鶴谷村(南相馬市原町区鶴谷  
陸奥国行方郡 院内村(南相馬市原町区江井 永仁2(1294)年
8月22日
44余町 未処分地から分与
大三賀村(南相馬市原町区大甕
八兎村(南相馬市鹿島区烏崎
※大内村(鹿島区大内)と接する
陸奥国高城保 波多谷村(宮城郡松島町幡谷

 その後、二十二年間もの間、未処分田地は将軍家により保留された。その間は後家尼はもちろん、家督の左衛門尉胤氏もその未配分領には手を付けられずにおり、おそらく将軍家が管理したのであろう(御家人役は「相馬五郎跡」などとして執行されていたはずであり、その間は将軍家別当〈執権・連署〉や令〈政所執事〉、北条諸家の役付、奉行等が代官を派遣して支配していたか)。なぜこれほどまで長い間、未処分田地を配分しなかったのかは定かではないが、永仁2(1294)年8月22日「関東下知状」までの間に、裁定に不満を述べた尼阿蓮、混乱の基になり得る彦次郎師胤が死去しており、これらが二度目の未処分田地配分のきっかけとなったのかもしれない。

その後の尼阿蓮、彦次郎師胤

 弘安8(1285)年6月5日、師胤母・尼阿蓮は『阿蓮譲状』で増尾村の田在家を彦次郎師胤に譲った(弘安八年六月五日「阿蓮譲状」:『相馬家文書』)。これは胤村未処分所とは関係のない、文永9(1272)年10月29日の「関東下知状」で安堵された尼阿蓮の領知する下総国相馬郡増尾村についての譲状である。

 相馬胤村   +―駒夜叉⇒弘安八年出家か(■■入道の田一町)
(左衛門尉)  |(女子)
 ∥      |
 ∥――――――+―彦次郎師胤(増尾村田在家)
 ∥      |(松若丸)
 某氏女    |
(後家尼阿蓮) +―孫四郎胤実(源兵衛入道、■■ふん三郎の屋敷田在家)
        |(■■丸)
        |
        +―与一通胤
        |(鶴夜叉丸)
        |
        +―彦五郎胤門(へ■■■三郎の屋敷、同じき■■二町)
         (乙鶴丸)

弘安8(1285)年6月5日、尼阿蓮から譲られた増尾村内田在家等

 もともと増尾村の田在家は娘の駒夜叉(師胤姉か)が出家を企てたため、それを留めるために彼女に譲られたものだったが、彼女は母尼阿蓮に背いて出家を遂げたため、没収されて師胤に譲られた地である。

 ただし、それは不憫に感じたのか、尼阿蓮は増尾村内の「■■たうの田一町」を駒夜叉一期分として残し、その死後は師胤が継承すると定めた。また、増尾村内の「けんへいにうたう■■」「■■ふん三郎が屋敷付の田」は弟「たねさね(孫四郎胤実)」へ、「へ■■■三郎かやしき、おなしき■■■にちやう」は「おとつるまろ(乙鶴丸:彦五郎胤門)」へと譲られることとなる。『阿蓮譲状』は現在では増尾村分のみが伝わっているが、実際には師胤、胤実、乙鶴丸(胤門)に対しする小高村と盤崎村の譲状も作成されていた。

●弘安8(1285)年6月5日『阿蓮譲状』(『相馬家文書』)⇒相馬師胤宛の増尾村のみの譲状

譲渡詳細 譲渡人条件阿蓮との続柄
下総国相馬御厨増尾村 駒夜叉譲渡分(悔返分)。ただし下記をのぞく相馬彦次郎師胤  嫡子
■■入道の田 一町駒夜叉一期後は師胤 長女(師胤姉?)
源兵衛入道■■ 三郎胤実   次男
■■ふん三郎が屋敷付の田 三町 
へ■三郎が屋敷同じき■■ 二町 乙鶴丸(胤門)  末子

 ところで、師胤母の後家尼阿蓮から子女への譲状は、尼阿蓮の有していた増尾、盤崎、小高の三村のうち、上記の弘安8(1285)年の師胤宛の増尾村のもののみが残っているが(弘安八年六月五日「阿蓮譲状」:『相馬家文書』)、正安2(1300)年4月23日の相馬重胤(師胤子)と相馬胤実(師胤実弟)の「阿蓮遺領下総国相馬御厨内益尾村、陸奥国小高村幷盤崎村内釘野事」の相論の際に、証拠として「孫四郎■■■五郎胤門等、帯弘安八年六月五日阿蓮譲状■■處…」「於阿蓮譲状等■書之由…」とあることから(承安二年四月廿三日「相馬重胤申状案」:『相馬家文書』)、同日付で駒夜叉、胤実、乙鶴丸(胤門)への増尾、盤崎、小高の三村についての譲状も作成されていたことがわかる(現存しないが、師胤への譲状内に条件が記されており、この旨が譲状として面々に渡されたと思われる)。

 その後、尼阿蓮についての伝はなく、弘安8(1285)年の譲状発給ののちまもなく卒去したものと思われる。また、師胤もその後の具体的活動は見られず、永仁2(1294)年8月22日の時点で「平師胤跡」とあることから、正応2(1289)年2月20日の重胤への譲状発給ののち、時を経ずに卒したと想像される。師胤の生年は定かではないが、文永9(1272)年にはまだ幼名「松若丸」であることから、生年はそれから十二、三年以内と考えられ、没年齢は三十代前半であったろう。

 なお、姉妹の駒夜叉は増尾村■■入道田一町を一期分として給付され、駒夜叉死後は師胤が知行するという条件であったが、おそらく師胤が先に亡くなったと思われることから、その後の継承は不明である。

●相馬師胤の所領

正応2(1289)年2月20日
重胤へ譲った所領
弘安8(1285)年6月5日
「後家尼阿蓮譲状」
正応2(1289)年2月20日
「平師胤譲状」
下総国
相馬御厨
薩摩村
(鎌ケ谷市佐津間
  四郎入道在家■■
又次郎在家合弐宇
(一期後は重胤)
女房
上記以外 松鶴丸
(重胤)
粟野村
(鎌ケ谷市粟野
  松鶴丸
(重胤)
増尾村
(柏市増尾
■■入道の田一町
(一期後は師胤)
駒夜叉    
源兵衛入道■■分
三郎が屋敷付の田
ともども三町
胤実
へ■■三郎が屋敷
同じき■■二町
乙鶴丸
(胤門)
■■入道の田一町以外 彦次郎師胤 八郎■在家■■■、
新平四郎在家合弐宇
舎弟彦五郎胤門
※胤門於無子息令死去
 松鶴可知行
上記以外 松鶴丸
(重胤)
陸奥国
行方郡
小高村
(南相馬市小高区小高
  松鶴丸
(重胤)
耳谷村
(南相馬市小高区耳谷
  松鶴丸
(重胤)
村上浜
(南相馬市小高区村上)
  松鶴丸
(重胤)

●弘安8(1285)年正月4日「相馬胤顕譲状」(『相馬岡田文書』)

いたはり火急なるにより、めんゝゝのゆつりをあたふるにおよはす、しかれハすなはち、ちやくしこ小次郎たねもり、又とよわか、おとわか二人かなかにいつれにても一人、又こけ、これら三人にをのさハの入道殿御はからひにて、たねあきか所領をハはいふんして給へく候、よてのちのためにしやく如件
 弘安八年正月四日
             平胤顕(花押)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
労り火急なるにより、面々の譲を与ふるに不及、然者即ち嫡子小次郎胤盛、又豊若、乙若二人が中に何れにても一人、又後家、これら三人に小野澤入道殿御計ひにて胤顕が所領をば配分して給べく候、仍為後証如件
 弘安八年正月四日
             平胤顕(花押)

●弘安8(1285)年6月5日「後家尼阿蓮譲状」(『相馬文書』)

ゆつりわたす、しもつさのくに■■
御くりやのうち、ますをのむら■■
の事、ちやくしひこ二郎も■■■■
ゆつりわたすところ也、この所ハね■■
こまやさしゆけすへきよし、■■■
申とゝめんかために、ゆつりて■■
しゆけをし候ぬるあひた、くりかへ■■
もろたねにゆつりわたす所也、■■
たうの田壱ちやうハ、こまやさ■■
たひ候て、ひくに一こののちハ、もろたね■■
すへき也、たゝし、けんへいにうたう■■
ふん三郎かやしきつきのたとも■■
三ちやう、たねさねにとらすへし、■■
三郎かやしき、おなしき■■
にちやう、おとつるまろにとらすへし、■■
しそやくにおきてハ、いつれも■■
まかせて、けたいなく、さたをいた■■
こなくしてしなハ、をとゝのなかに心■■
あらんにゆつるへきしやう■■■■
 こうあん八年六月五日
             あれ■■
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
譲渡 下総国相馬御厨内増尾村事
嫡子彦次郎師胤に譲渡す所也、此所は女子駒夜叉出家すべき由、■■申し止めんがために、譲りて後出家をし候ぬる間、悔返して師胤に譲渡す所也、■■入道の田一町は駒夜叉へ給ひ候て、比丘尼一期の後は師胤知行すべき也、但、源兵衛入道■■分三郎が屋敷付の田ともども三町、胤実に取らすべし、■■三郎が屋敷同じき■■二町、乙鶴丸に取らすべし、但、所役に於ては、何れも先例に任せて懈怠なく沙汰をいたすべし、師胤子なくて死なば、弟の中に心■■あらんに譲るべき証、如件
 弘安八年六月五日
             阿蓮(花押)

●正応2(1289)年2月20日「相馬師胤カ譲状」(『相馬文書』)

譲渡 松鶴丸所領事
 下総国相馬御厨内益尾村、粟野、薩摩
 陸奥州行方郡内小高村、耳谷村并
 村上浜、兼又祖母親父之跡、於預御配分者一
 円可知行、但薩摩村内■四郎入道在家■■
 又次郎在家合弐宇、奉譲女房、ゝゝ一期後者
 松鶴可知行、又益尾村内八郎■在家■■■、
 新平四郎在家合弐宇、譲渡舎弟彦五郎胤門、
 胤門於無子息令死去者、松鶴可知行、■■■
 等、云後家云胤門、於御公事者、任先例■■
 可加催促、但松鶴無子息令死去者、舎弟
 彦五郎胤門可知行、仍守此旨可知行■■如件
  正応二年己丑二月廿日
             平■■

 


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