相馬氏惣領 相馬胤氏

相馬氏
代数 名前 生没年 父親 母親
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳)
7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤
8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■五代惣領家

相馬胤氏(????-????)

<正室> 不明
<通称> 次郎
<父> 相馬孫五郎左衛門尉胤村
<母> 不明(胤村の前妻か)
<官位> 五位もしくは六位
<官職> 左衛門尉
<法号> 不明

 相馬孫五郎左衛門尉胤村の嫡男。通称は次郎左衛門尉。胤村の前妻の嫡子。諸系譜に見える「氏胤」が「胤氏」と同一とすれば、系譜上では下総相馬氏の祖となる。なお、胤氏同母弟の相馬六郎左衛門尉胤重の子にも「相馬八郎氏胤」(「相馬系図」『鹿嶋市史』所収)がいる。

●『奥相秘鑑』をもとにした系譜

 相馬義胤―+―胤綱        +―胤村―+―氏胤
(五郎)  |(次郎左衛門)    |(次郎)|(太郎)
      |           |    |
      +―胤継―――胤経―――+    +―鷲谷胤定
       (小次郎)(左衛門尉)|    |(次郎)
                  |    |
                  |    +―根戸胤光
                  |    |(三郎)
                  |    |
                  |    +―布施胤久
                  |    |(四郎)
                  |    |
                  |    +―文間胤家
                  |     (五郎)
                  |
                  +―胤忠―――…<下総相馬氏>
                  |(上野介)
                  |
                  +―高井胤行―…<相馬民部>

●『相馬之系図』をもとにした系譜(『相馬文書所収』)

+―胤綱――――――胤村――――――――+―胤氏―――――――――師胤
|(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉)   |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
|                   |
|                   +―師胤
|                    (彦次郎)

+―胤継―――胤経――――胤村―――――+―氏胤――胤基―――+―胤忠
 (小次郎)(左衛門尉)(次郎左衛門尉)|(太郎)(左衛門尉)|(上野介)
                    |          |
                    +―鷲谷胤定     +―高井胤行
                    |(次郎)      |
                    |          |
                    +―根戸胤光     +―戸張胤重
                    |(三郎)      
                    |
                    +―布施胤久
                    |(四郎)
                    |
                    +―文間胤家
                     (五郎)

●『千葉大系図』をもとにした系譜

 相馬胤綱―――+―胤継――――――+―泰胤―――――――光胤
(次郎左衛門尉)|(二郎兵衛尉)  |(小五郎)    (小平太)
        |         |(民部大夫入道)
        |         |
        |         +―頼泰―――――――左衛門三郎                    +―胤長
        |         |(二郎左衛門尉)                           |(大炊助)
        |         |                                   |
        |         +―胤盛―――――――胤国―――――――忠重――――――胤望――――――+―胤豊
        |          (四郎兵衛尉)  (孫四郎左衛門尉)(四郎左衛門尉)(上野介、上野二郎)(小次郎)
        |
        +―胤村――――――+―胤氏―――――――胤忠―――――――胤経
        |(孫五郎左衛門尉)|(孫太郎左衛門尉)(長門前司)   (右衛門二郎)
        |         |           ∥
        |         | 武石胤継――――+―娘
        |         |(孫四郎左衛門尉)|
        |         |         +―高広――――――亘理広胤
        |         |          (四郎)    (左兵衛尉)
        |         |
        |         +―師胤――――――――胤重
        |          (五郎二郎)
        |
        +―胤景――――――――胤宗
        |(六郎左衛門尉)  (六郎太郎)
        |
        +―時綱
        |(七郎)
        |
        +―忠胤
         (九郎左衛門尉

●『松羅館本千葉系図』をもとにした系譜

 相馬胤綱―胤継――+―泰胤     +―忠胤――――――――――→子二人
(小次郎)(小次郎)|(民部大夫入道)|(九郎左衛門尉、上野介)
          |        |
          +―頼泰     +―時綱
          |(次郎左衛門尉)|(七郎)
          |        |
          +―胤盛     +―胤景――――――――胤宗     +―胤基――――胤忠――――――+―胤長
          |(四郎左衛門尉)|(六郎左衛門尉)          |(次郎兵衛)(次郎左、上野介)|(小次郎左衛門尉)
          |        |                  |               |
          +―胤経―――――+―胤村――――――+―胤氏―――――+―胤重            +―忠重
           (五郎左兵衛尉) (孫五郎左衛門尉)|(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)        (四郎左衛門尉)
            法名:茂林            |
                             +―師胤―――――――重胤
                              (彦次郎)    (孫五郎)

 胤氏は胤村の嫡子(前妻腹)ですでに「左衛門尉」に任じられていたが、惣領として継承してはいなかった。父胤村は晩年は病がちであり、公的な所領配分を行わないまま文永9(1272)年以前に急死したとみられる。そのため所領は「未処分」とされ継承の問題が発生した。「未処分跡」については将軍家家内法『御成敗式目』第二十七條に規定されている。

一、未處分跡事
右且隨奉公之浅深、且糺器量之堪否、各任時宜可被分宛

規定によれば、継承権を持つ人々(子息及び後家)の「隨奉公之浅深」と「糺器量之堪否」に応じて、時宜(室町期に多く用いられた「将軍家の意思」と捉えるよりも「状況」という意味で捉えるべきか)に応じて適切に配分するとある。つまり、未処分地の相続については、将軍家へ対する奉公の度合いと能力を鑑みたうえで決定されるべきとされていた。

佐津間 粟野
佐津間を流れる大津川 粟野

 その規定に則り、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」、胤村跡は左衛門尉に任官し、小侍所のもと主家に奉公していた胤氏(『吾妻鏡』建長四年八月一日条)がもっとも多く配分され、同じく出仕していたと思われる弟の五郎胤顕、六郎胤重が漸減して配分されたと思われる(胤氏・胤顕・胤重・胤実・胤門のものは伝わらず)。このとき、胤村後家(出家して尼阿蓮)は胤村「譲状」を提出して、自分の長男である「当腹嫡子」である松若丸に多くの所領が配分されるよう願ったと推測される。ところが、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で配分されたのは、胤氏以下の輩行に沿った田数だったと思われる。

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬家文書』)

 

(相馬孫五郎左衛門尉胤村後家)
下総国相馬御厨 増尾村(柏市増尾)
陸奥国行方郡 盤崎村(南相馬市小高区飯崎)
小高村(南相馬市小高区小高)
平松若丸(彦次郎師胤) 下総国相馬御厨 薩間村(鎌ケ谷市佐津間)
粟野村(鎌ケ谷市粟野)
陸奥国行方郡 耳谷村(南相馬市小高区耳谷)
平■■丸(十郎有胤) 陸奥国行方郡 高平村(南相馬市原町区上高平~下高平)
松崎村(南相馬市原町区下太田松崎か)
鷹倉狩倉(南相馬市原町区高倉)
平鶴夜叉丸(与一通胤) 陸奥国行方郡 大悲山村(南相馬市小高区泉沢大久)

 さらに「平松若丸」分として分与されたのは、胤村「譲状」で「後家分」と記されていたであろう相馬御厨の「箕勾、薩摩、粟野、増尾」と行方郡「盤崎、小高」から割かれた「薩間、粟野」と、新規の「行方郡耳谷村」であった。

●『相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分』(『相馬文書』)

 相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■

       相馬   
一 後家分  箕勾  薩摩 粟野■■
          闕所
       増尾  盤崎
       同         
       小高  已上五ケ村内二ヶ村被給■
   件二ヶ所北田、高村可給之

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)

 可令早以相馬孫五郎左衛門尉胤村後家領知下総国相馬御厨内堰尾村、陸奥国行方郡盤崎、小高両村
右、亡夫胤村跡、為未処分所被配分也、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件

  文永九年十月廿九日
               相模守平■■  (花押:北条時宗)
               左京権大夫平■■(花押:北条政村)

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)

 可令早平松若丸領知下総国相馬御厨内薩間、粟野両村陸奥国行方郡耳谷村
右、亡父左衛門尉胤村跡、為未処分所被配分也、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件

  文永九年十月廿九日
               相模守平■■  (花押:北条時宗)
               左京権大夫平■■(花押:北条政村)

●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)の後家分・松若丸(師胤)配分一覧

後家分(胤村譲状) 文永9(1272)年
10月29日
平松若丸分
文永9(1272)年
10月29日
後家分
下総国相馬御厨 箕勾村(柏市箕輪
薩摩村 薩摩村(鎌ケ谷市佐津間
粟野村 粟野村(鎌ケ谷市粟野
増尾村 増尾村(柏市増尾
陸奥国行方郡 盤崎村 盤崎村(南相馬市小高区飯崎
小高村 小高村(南相馬市小高区小高
耳谷村(南相馬市小高区耳谷  

 先に尼阿蓮が提出したであろう「譲状」に記されていたのは、後に尼阿蓮が提出したとみられる「相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分(?)■■」(以下、配分状)にあるような、松若丸に対する過剰な配分であったのだろう。引付衆や評定衆での決裁は、すでに奉公する左衛門尉胤氏の二倍以上の田数を、元服前の未出仕「当腹嫡子」へ配分する「譲状」など当然認めることなく、「隨奉公之浅深」と「糺器量之堪否」に応じて文永9(1272)年10月29日「関東下知状」を発給したと思われる。現在伝わらない胤朝、胤実、胤門へ対しても配分されたと思われる。

 胤村卒去時、尼阿蓮は長男の師胤(松若丸)を筆頭に、胤朝、胤実、通胤(鶴夜叉丸)、胤門(乙鶴丸)、女子(駒夜叉)の少なくとも六人の幼子を抱えているが、長男松若丸がいまだ元服前であることから、阿蓮自身もまだ三十歳代半ばであったと思われる。尼阿蓮は胤村の最期を看取った後室の自負か、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」の配分内容に対して、胤村譲状の「配分状」を作成して越訴したと思われる。なお、現在『相馬文書』に「配分状」は提出文書としての体を為しておらず、下書きであろう。

●『相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■』(『相馬文書』)

 相馬五郎左衛門尉胤村譲状配分■■
一 五郎胤顕分  百九十四■余丁
一 六郎胤重分  百六十■■余丁
一 左衛門尉胤氏分 九十余丁
一 彦次郎師胤分 依為当腹嫡子、二百三十九丁■■
  二合也、令超過于自余子息畢、如傍例、
  駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任
  素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記
  之例哉、然者師胤任譲状分限欲預御配分、仍状、
       相馬   
一 後家分  箕勾  薩摩 粟野■■
          闕所
       増尾  盤崎
       同         
       小高  已上五ケ村内二ヶ村被給■■
   件二ヶ所北田、高村可給之

 ここに見える尼阿蓮の主張は、

(1) 師胤任譲状分限欲預御配分 師胤については「譲状」の分限の通り御配分されることを希望する
(2) 依為当腹嫡子、二百三十九丁■■二合也、令超過于自余子息畢 師胤は「当腹嫡子(現在の正室の嫡子)」であるため、譲状の分限においては「二百三十九丁■■二合」という、他の子息に超過した田数が記されている。
(3) 如傍例、駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任亡素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記之例哉 先例を見れば「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」は、いずれも「亡素意(故人の意向)」の通りに裁許されている。胤村の遺領に限って、どうして先例と違えられようか。
(4) 已上五ケ村内二ヶ村被給■■
件二ヶ所北田、高村可給之
胤村「譲状」で後家分として記載のあった「粟野 粟野」の「二ケ村」は文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で「平松若丸(師胤)」に「被給■■」ったため「件二ヶ所北田、高村可給之」とあるように、行方郡北田村(高村、太田村に隣接するがいずれかに吸収されたか、または南相馬市原町区益田か)、高村を給うよう願い出たものか。

の四つである。ここから「如傍例、駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡、皆以任亡素意御成敗畢、限胤村之跡、爭可被違先記之例哉」とあるように、先例を見れば「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」は「亡素意(故人の意向)」の通りに裁許されているのに、胤村の遺領に限ってどうして先例と違えられようか、という不満が読み取れる。つまりこの「配分状」は、すでに文永9(1272)年10月29日「関東下知状」が下されたのちのものであることがわかる。なお「配分状」で「平松若丸」ではなく「彦次郎師胤」としているのは、元服させることで出仕の意思と配分に預かる正統性を示したものと想像される。

●胤村死去時(文永9年)当時の未処分地

下知状 処分先 備考 田数
(田の面積)
下総国 相馬郡 箕勾村
(柏市箕輪)
なし なし 胤村譲状(配分状)
後家分として申請したが
後家分と松若丸分に
分割
 
増尾村
(柏市増尾)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
薩間村
(鎌ケ谷市佐津間)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)  
粟野村
(鎌ケ谷市粟野)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)  
陸奥国 行方郡 小高村
(南相馬市小高区小高)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
盤崎村
(南相馬市小高区飯崎)
文永9(1272)年
10月29日
相馬孫五郎左衛門尉胤村後家  
耳谷村
(南相馬市小高区耳谷)
文永9(1272)年
10月29日
平松若丸(彦次郎師胤)    
高平村
(南相馬市原町区上高平)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
松崎村
(南相馬市原町区下太田)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
鷹倉狩倉
(南相馬市原町区高倉)
文永9(1272)年
10月29日
平■■丸(十郎有胤か)    
大悲山村
(南相馬市小高区泉沢)
文永9(1272)年
10月29日
平鶴夜叉丸(余一通胤)    
【不明】
太田村
(南相馬市原町区上太田
 ~下太田か)
吉名村
(南相馬市小高区吉名)
含む
永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤氏
(以亡父左衛門尉胤村跡)カ
已上田数載配分状カ 62町4段
院内村
(南相馬市原町区江井)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状 Bと合計
44町7段2合
八兎村
(南相馬市鹿島区烏崎)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状
大三賀村
(南相馬市原町区大甕)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤重 已上田数載配分状カ 32町6段
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平有胤 已上田数載配分状カ 28町8段9合
目々澤村
(南相馬市原町区目々沢)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状 13町9段8合
堤谷村
(南相馬市原町区堤谷)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状
小山田村
(南相馬市鹿島区小山田)
永仁2(1294)年
8月22日
平■■(師胤)跡
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状
【不明】 永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平有胤カ 已上田数載配分状カ 12町9段7合
大内村
(南相馬市鹿島区大内)
永仁2(1294)年
8月22日
★現存せず
平胤実
(以亡父左衛門尉胤村跡)
已上田数載配分状カ 12町4段6合
高村
(南相馬市原町区高)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤門
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状 9町9段1合
荻迫
(南相馬市原町区小木迫)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤門
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状
小嶋田村
(南相馬市鹿島区小島田)
永仁2(1294)年
8月22日
平通胤
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状 12町6合
宮城郡 長田村
(宮城郡松島町磯崎長田)
永仁2(1294)年
8月22日
平通胤
(以亡父左衛門尉跡)
已上田数載配分状
波多谷村
(宮城郡松島町幡谷)
永仁2(1294)年
8月22日
平胤顕
(以亡父左衛門尉胤村跡)
→胤顕跡
已上田数載配分状 B
赤沼六町
(宮城郡利府町赤沼)
永仁2(1294)年 胤氏 永仁二年御配分系図 6町
赤沼四町
(宮城郡利府町赤沼)
永仁2(1294)年 胤顕 永仁二年御配分系図 4町

 尼阿蓮の提訴に付されたと思われる「配分状」を見る限り、胤村長男の次郎左衛門尉胤氏の配分が他の兄弟より著しく少ないことから、胤村・尼阿蓮と胤氏との間には何らかの諍いがあったと想像できる。その原因は不明ながら、胤氏胤村と尼阿蓮の婚姻に対する強い不満があった可能性も想起される。後家尼阿蓮の長男は「松鶴丸(彦次郎師胤)」であるが、師胤には文永9(1272)年当時、元服していない異母兄「平■■丸(十郎有胤)」がいる。有胤の母は不明ながら胤氏の同母弟とすれば、胤氏らの生母(胤村前室)が卒去「直後」に後家(尼阿蓮)を迎えるなどした可能性もあろう。のち有胤の子・六郎左衛門尉胤平兄弟や吉名五郎兵衛尉胤遠(胤氏の孫?)らが孫五郎重胤(師胤子)や出羽権守親胤(師胤孫)と敵対している事実も、この尼阿蓮の婚姻に遠因があった可能性も考えられる。

●貞和4(1348)年9月「相馬胤平申状案」(『相馬文書』)

相馬六郞左衞門尉胤平謹言上
 欲早任舍弟九郎兵衛尉胤門一族吉名五郎兵衛尉胤遠其外輩傍例、蒙安堵御成敗、向後彌致忠節、行方郡高平村内胤平知行分田畠半分事、

右、於當村内胤平知行分田畠半分者、被付給人之間、去年霊山御発向之時、胤平者老躰病躰之間、子息左衞門二郎為代官最前令差進、於石山国見御合戦致忠節畢、仍彼半分可預安堵御成敗之由令申之處、未被聞食入之條、難堪次第也、舍弟胤門一族胤遠等者令安堵了、爭可有用捨哉、爰彼輩戦功と小須河之時、令遅参許歟、為同日軍忠之上者、爭可被棄損哉、就中相馬出羽権守親胤掠申闕所之由、申下御施行之間、就歎申可有御注進之旨、被仰出候間、所畏存也、而半分者闕所之由、有御注進者、末代可被召放之條、歎而有余、然早任一烈之法、蒙安堵御成敗、一円無相違之由、為預御注進、恐々言上如件、
  貞和四年九月日

●胤氏・師胤略系譜

 先妻
 ∥
 ∥――――――――+―相馬胤氏――――相馬師胤―――?―吉名胤遠
 ∥        |(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉) (五郎兵衛尉)
 ∥        |
 ∥        +―相馬胤顕――――相馬胤康
 ∥        |(五郎)    (小次郎)
 ∥        |
 ∥        +―相馬胤重――――相馬氏胤
 ∥        |(六郎左衛門尉)(八郎)
 ∥        |
 相馬胤村     +―相馬有胤――――相馬胤平
(孫五郎左衛門尉)  (十郎)    (六郎左衛門尉)
 ∥
 ∥――――――――+―相馬師胤――――相馬重胤
 尼阿蓮      |(彦次郎)   (孫五郎)
          |
          +―相馬胤朝
          |(孫九郎)
          |
          +―相馬胤実――――相馬胤持
          |(孫四郎)   (又六)
          |
          +―相馬胤門――――彦犬
           (彦五郎)

 さて、後家尼阿蓮の訴えは、のちの後家尼(現在は増尾村の譲状のみ文面が伝わるが、小高村と盤崎村の分も作成されていた)や師胤の譲状を見ても、彼らの所領は文永9(1272)年10月29日「関東下知状」と何ら変化がないことがわかる。つまり、審理において引付衆(または越訴方)は阿蓮提出の「配分状」を採用しなかったということになる。それは前述の通り、未元服且つ未出仕の少年へ惣領を超える広大な所領田地を「譲状」の通り配分することは非現実的で一族混乱の基であるという判断によるものであろう。なお、後家尼や師胤は所領を失っていない(『御成敗式目』第二十八条に虚言による讒訴の厳罰が規定されている)ことから胤村「譲状」は真物だったのだろう。

一、搆虚言致讒訴
右、和面巧言掠君損人之属、文籍所載、其罪甚重、為世為人不可不誡、為望所領企讒訴者、以讒者之所領、可宛給他人、無所帯者、可處遠流、又為塞官途搆讒言者、永不可召仕彼讒人

 こうして尼阿蓮の彦次郎師胤を惣領に据えようとする企みは、将軍家の探題力により防がれたことになる。当時においても厳格に「御成敗式目」が採用され、それを基にしながらも「時宜」により柔軟に運用されていたことがわかる。

 一方、相馬惣領家となった胤氏が継承した田数ははっきりしないが、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」においては、最も多い未処分領を継承したであろう。胤村遺領の田数は「配分状」をもとに概算すると680町余(224万坪余=740ヘクタール余)となるが、これが胤村の遺領全体とすれば、文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で下総国相馬郡・陸奥国行方郡内の440町余を分割して後家及び子息全員に配分されたと思われる(未処分残は陸奥国239町余)。最初の配分がどういった基準で処分と未処分を決定したのかは不明。ただ、推測するに文永9(1272)年10月29日「関東下知状」で処分された田地は家祖相馬師常が右大将家より給わったうち、胤村へ継承された根本私領か。一方、239町余の陸奥国の未処分田数は、二代義胤以降が恩賞(畠山合戦、和田合戦、承久の乱等)として給わった所領かもしれない。結果として将軍家の判断によって処分残239町分は配分保留とされたと思われる。

 相馬五郎胤顕(永仁二年は胤顕跡)の所領配分は以下の通りである。胤顕に対する文永9(1272)年10月29日「関東下知状」は遺されていないが、胤顕も未処分地を拝領していると思われる。「配分状」には五郎胤顕分として「百九十四■余丁」が記載されているが、これが相馬家に伝わった根本私領のうち胤村が継承していた地頭職を有する田地ということになろう。

国郡 伝領 関東下知状 田数 備考
下総国相馬郡 泉村(柏市泉 文永9(1272)年
10月29日か?
   
・上柳戸(柏市柳戸の西側) 下柳戸は新田岩松氏の所領
・金山(柏市金山  
・船戸(柏市手賀字船戸  
陸奥国行方郡 岡田村(南相馬市小高区岡田  
飯土江狩倉(南相馬市小高区井田川?)
※周辺山野か
※飯舘村飯樋は離れすぎか
 
矢河原狩倉(南相馬市原町区矢川原  
上鶴谷村(南相馬市原町区鶴谷  
陸奥国行方郡 院内村(南相馬市原町区江井 永仁2(1294)年
8月22日
44余町 未処分地239
町余から分与
大三賀村(南相馬市原町区大甕
八兎村(南相馬市鹿島区烏崎
※大内村(鹿島区大内)と接する
陸奥国高城保 波多谷村(宮城郡松島町幡谷

 その後、二十二年間もの間、未処分田地は将軍家により保留された。その間は後家尼はもちろん、家督の左衛門尉胤氏もその未配分領には手を付けられずにおり、おそらく将軍家が管理したのであろう(御家人役は「相馬五郎跡」などとして執行されていたはずであり、その間は将軍家別当〈執権・連署〉や令〈政所執事〉、北条諸家の役付、奉行等が代官を派遣して支配していたか)。なぜこれほどまで長い間、未処分田地を配分しなかったのかは定かではないが、永仁2(1294)年8月22日「関東下知状」までの間に、裁定に不満を述べた尼阿蓮、混乱の基になり得る彦次郎師胤が死去しており、これらが二度目の未処分田地配分のきっかけとなったのかもしれない。

相馬御厨地図

相馬郡内所領関係図(胤氏は想像)

 一方で、相馬惣領家となった胤氏が文永9(1272)年10月29日「関東下知状」(現存せず)で継承した田数はまったく不明だが、最も多い未処分領を継承したであろう。

 胤村遺領の総田数は明確に残されているものはないが、前述のように680町余(224万坪余=740ヘクタール余)が概算で算出できる。相馬御厨の中心地である藺沼北側の北相馬郡諸所は、相馬胤村の義兄である相馬次郎兵衛尉胤継や弟の六郎左衛門尉胤景らの系統がおもに領知したと考えられ、胤村子孫は藺沼南側の半島(現在の我孫子市東部)から手下水海以南(旧沼南町~鎌ケ谷市北部)が胤村の相馬郡における領知だったのだろう。そのうち五郎胤顕に配分された地は手下水海(現在の手賀沼)南の半島付け根部分に集中し、後家尼・師胤は大津川沿いの要衝を把握した。胤氏が領したのはそれら以外の相馬郡南部と思われる。やや後の建武3(1336)年11月22日、斯波家長が相馬親胤へ下した所領充行の奉書では相馬郡南部においては「鷲谷村相馬左衛門■■」「藤谷」「高柳」の闕所地がみられるが、この辺りは五郎胤顕や師胤の所領と隣接しているように、胤村が一円領知したまとまりが想定されるため、胤氏がこの闕所地を継承していた可能性も十分考えられよう。

●建武3(1336)年11月22日「斯波家長奉書」(『相馬文書』)

鷲谷村(柏市鷲野谷
→五郎胤顕領の泉村西隣
相馬左衛門■■  
津々戸(つくばみらい市筒戸 相馬■六郎跡  
藤谷(柏市藤ヶ谷
→五郎胤顕領の金山南隣
→彦次郎師胤領の佐津間東隣
相馬六■■
九郎等跡
現在も相馬家が多く在住する地域。
相馬家菩提寺の持法院には平将門塚が残る。
伝千葉介常胤拝仏の如意輪観音も祀られる。
大鹿(取手市白山 相馬孫六郎跡  
高井(取手市上高井下高井 相馬■■■■  
高柳村(柏市高柳
→藤谷西隣
→彦次郎師胤領の佐津間北隣
不明  

 そして、未配分領のうち奥州領二百三十九町余は配分されないまま二十二年後の永仁2(1294)年8月22日に子息(または孫)に配分が為された。その間は後家尼はもちろん、家督の左衛門尉胤氏もその未配分領には手を付けられずにおり、おそらく将軍家が家人中の相続問題が解決するまで管理したのであろう(年貢や所役は執権や北条諸家など将軍家職が代官をして肩代りしていたのかもしれない)。

●永仁2(1294)年『永仁二年御配分系図』(『相馬文書』)

  永仁二年御配分系図

胤綱――胤村―+―胤氏     六十二町三段三百歩 追赤沼六町
       |
       +―胤顕     四十四町七段二合  追赤沼四町
       |
       +―胤重     三十二町一段半  
       |
       +―有胤     二十八町八段九合  
       |
       +―師胤――重胤 十三町九段八合  
       |
       +―胤朝     十二町九段七合  
       |
       +―胤実     十二町四段六合  
       |
       +―胤通     十二町六合
       |      養子
       +―胤門――重胤 九町九段一合

 胤氏の奥州における所領としては、貞和2(1346)年正月ごろ成立とされる『相馬一族闕所地置文案』の師胤の項に「一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、又同郡吉名村土貢四十貫文、先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之」(『相馬家文書』)とあるように、胤氏の子・五郎左衛門尉師胤の知行として大田村南相馬市原町区下太田付近)、吉名村南相馬市小高区吉名があったことがわかる。それに加えて「赤沼宮城郡利府町赤沼」も給付されている。

●『相馬一族闕所地置文案』

 相馬
  五郎左衛門尉   二郎左衛門尉  五郎左衛門尉
  胤村―――――+―胤氏――――――師胤 一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、
         |            又同郡吉名村土貢四十貫文、
         |            先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之
         |
         | 彦次郎     孫五郎    出羽権守    
         +―師胤――――――重胤―――――親胤   訴人
         |
         | 十郎
         +―有胤 子息等御敵也、彼跡等
         |    高平村五十貫文、稲村十五貫文
         |
         | 孫四郎      六郎
         +―胤実―――――――胤持 大内村十貫文、長田村五十貫文
         |
         +―女子 高城保内根﨑村三十貫文、鳩原村弐十五貫文
         |
         +―女子 牛越村三十貫文

 その二年後の永仁4(1296)年秋、胤氏は大田村に隣接する「高村堰澤苅取作稲」(永仁五年六月七日「関東下知状」『相馬家文書』)という濫妨をはたらいた。胤氏自身は御所に出仕すべき立場であるので、この「押領」は現地代官によるものであろう。この「高村堰澤」は、押領直前の8月24日に胤門から重胤へ譲られた所領であり、この押領を受けて在鎌倉の「孫五郎重胤代頼俊」が問注所へ訴え出た。

●永仁4(1296)年8月24日『相馬胤門譲状』(『相馬文書』を修正)

譲渡、所領之事
行方郡の内、高村堰澤山共に嫡子孫五郎重胤に譲渡、此重胤は彦二郎師胤契約深かりしにより嫡子に立る也、後家一期之後は後家分をは重胤可知行、女子一期之後者、女子分をも重胤可知行、此後に相宛たらん輩之中に、聊も煩をも致たらん輩に於ては、為不孝之輩として不可宛此跡、孫五郎重胤其所をは可知行、但高村内新三郎田在家者、祖母一期之程者、知せて胤門が孝養之をも心安くせさす可、但、此屋敷に煩思ひたらんに於は不可知之、祖母一期之後者、重胤可知行、仍為後状如件
  永仁四年八月廿四日    胤門

 この訴えを請けた問注所では胤氏に「度々下召符」して召喚したが、胤氏は永仁5(1297)年4月2日に「不相綺」という請文を提出するのみであった。これを受けて重胤は「重訴状」において「胤氏不相綺■■者、可預裁許」と、胤氏が本件は「不相綺(争わない)というでのあれば、今後も胤氏は高村へ干渉しないことと定める旨の裁許を求めたのだろう。その結果、永仁5(1297)年6月7日、将軍家別当(執権・連署)名の「関東下知状」において「此上不及異儀」と胤氏からの反訴を禁じ、重胤の高村堰沢の知行を認めた(永仁五年六月七日「関東下知状」『相馬家文書』)

 胤氏の活動はその後見られなくなるが、その子・五郎左衛門尉師胤もまた「左衛門尉」の官途を得ていること、彦二郎師胤以下の子息は官途を得ていない事から考えて、胤氏系は相馬家の惣領であった推測される。しかし、子息の五郎左衛門尉師胤「罪科」によって「所領三分一」を収公され、所領の「奥州行方郡内北田村」が元亨元(1321)年12月17日、得宗御内人・長崎思元入道へ与えられた。この事件により胤氏流相馬家は衰退したのではなかろうか。なお、五郎左衛門尉師胤がなぜ所領三分一を没収されたかについては明確な史料が遺されていないが、将軍家家内法『御成敗式目』では、三十一条に「依無其理不関裁許之輩、為奉行人偏頗之由構申之条、甚以濫吹也、自今以後、構不実企濫訴者、可被収公所領三分一」とある。


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