鏑木氏

鏑木氏

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●鏑木家系図

 千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤                 +─白井次郎太郎
(千葉介)  (千葉介)  |(千葉介)                 |
              |                      |
              +─千葉常秀         +─白井定氏──+─白井四郎
              |(上総介)         |(九郎次郎)
              |              | 
              |              |       +─白井親胤
              |              |       |(孫太郎)
              |              |       |
              +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
               (八郎)   |(九郎)  |(六郎)           (孫次郎)
                      |      |
                      |      +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
                      |      |(七郎)    (孫八郎) |
                      |      |              |
                      |      |              +―白井胤継
                      |      |               (孫九郎)
                      |      |                      【系不詳】
                      |      +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高 … 鏑木胤繁
                      |      |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)  (十郎太郎)
                      |      |       |      |
                      |      +─白井十郎  +―円仁   +―鏑木小八郎  鏑木察胤──鏑木公永──鏑木胤元──鏑木胤義──+
                      |      |       |      |       (八郎四郎)(駿河守)       (長門守)  |
                      |      |       |      |                                |
                      |      +─理胤    +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次                           |
                      |      |       |(彦九郎)                                  |
                      |      |       |                                       |
                      |      +─白井五郎  +─鏑木胤信                                  |
                      |              |(彦十郎)                                  |
                      |              |                                       |
                      +─長吉信清         +─鏑木胤方                                  |
                       (十郎)           (余一)                                   |
                                                                             |
+────────────────────────────────────────────────────────────────────────────+

+─鏑木胤定──鏑木胤家───鏑木成胤──…鏑木胤近──鏑木胤宗──鏑木長胤──鏑木重胤
 (信濃守) (備後守)  (紀伊守)  (十左衛門)(八郎)  (与兵衛) (権太郎)
        
       【系不詳】 +─鏑木胤次===鏑木胤房──鏑木胤幹──鏑木氏胤==鏑木成胤==鏑木教胤==鏑木近胤===鏑木盛胤
             |(十太夫)  (十太夫) (新右衛門)(平内)  (十左衛門)(三五郎) (次郎右衛門)(平内)  
             |
             +─鏑木■■─+─鏑木胤房
              (新右衛門)|(十太夫)
                    |
                    +─鏑木胤幹
                     (新右衛門)

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鏑木胤泰(????-????)

 鏑木氏三代。実父は金田小大夫成常(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。母は千葉八郎胤時女子。養父は叔父の白井九郎胤定。通称は孫八郎。法名は圓佛(『鏑木長泉寺系図』)

 養父とされる白井九郎胤定には胤泰を含めて少なくとも七人の成人した男子がおり(『神代本千葉系図』)、そのうちの一人は氏族の通例に則り出家者(理胤)となった。胤泰以降の鏑木氏の伝承・系譜には史実的な傍証がなく、実に室町時代後期から江戸初期に至るまで、鏑木氏に関する説話は家伝・伝承の域を出ることはない。ただし、『神代本千葉系図』においても胤泰のみが「鳴矢木」氏となり、その兄弟は注記がなく「白井」氏のままであるとすると、胤泰は養子で白井庄ではない土地の地頭職を継承したとしても矛盾はない事から、胤泰が胤定の養子であるという伝を否定する必要はないだろう。おそらく胤定の実子は白井庄内の地頭職を継承し、隠居所の鏑木郷は胤定が養子とともに移ったと考えるのが妥当か。

 一方で、『鏑木長泉寺系図』にみられる胤泰の継承者「十郎家胤」及び二男の「孫八郎常泰」の名は『神代本千葉系図』に見られないことから、彼らの実在には疑問があると言わざるを得ない。胤泰入道の弟に実名不詳の「十郎」がおり、彼を家胤と比定することも可能ではあるが、彦八郎胤朝、彦九郎胤鑑、彦十郎胤信、余一胤方が実子として明記されていることから、少なくとも「鏑木」胤泰を継承した可能性は低い。

●『神代本千葉系図』

 千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤                 +─白井次郎太郎
(千葉介)  (千葉介)  |(千葉介)                 |
              |                      |
              +─千葉常秀         +─白井定氏──+─白井四郎
              |(上総介)         |(九郎次郎)
              |              | 
              |              |       +─白井親胤
              |              |       |(孫太郎)
              |              |       |
              +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
               (八郎)   |(九郎)  |(六郎)           (孫次郎)
                      |      |
                      |      +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
                      |      |(七郎)    (孫八郎) |
                      |      |              |
                      |      |              +―白井胤継
                      |      |               (孫九郎)
                      |      |
                      |      +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
                      |      |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
                      |      |       |      |
                      |      +─白井十郎  +―円仁   +―鏑木小八郎
                      |      |       |      |
                      |      |       |      |
                      |      +─理胤    +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
                      |      |       |(彦九郎)
                      |      |       |
                      |      +─白井五郎  +─鏑木胤信
                      |              |(彦十郎)
                      |              |
                      +─長吉信清         +─鏑木胤方
                       (十郎)           (余一)

●『鏑木長泉寺系図』の伝

 弘安10(1287)年、鏑木胤泰は「家紋及上総国武射郡蕪木郷」千葉介胤宗に請うた。その結果は記されないが、長男十郎家胤を下総国香取郡鏑木郷に置き、みずからは二男の孫八郎「常泰」を伴って上総国武射郡蕪木郷山武郡松尾村蕪木に移住したという。以降、武射郡蕪木郷は孫八郎常泰が継承して「蕪木」を称したという。家紋は鏑木十郎家胤の子孫は十曜を用い、蕪木孫八郎常泰の子孫は三星を用いることとなった。

 蕪木孫八郎常泰の子孫は実父方の祖・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷長生郡長生村金田へ移り、本氏である「金田」を称し、のちに三河国へ移り岡崎松平家に仕えた。 

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鏑木胤朝(????-????)

 鏑木氏四代。父は鏑木孫八郎胤泰。通称は彦八郎

 千葉惣領家西遷以前の系譜を伝える『神代本千葉系図』で鏑木胤泰の子として見える「胤朝彦八郎」は、鏑木・白井家の祖である「胤時八郎」の「彦(曾孫)」として名付けられたと想像できるので、彦八郎胤朝が鏑木胤泰の嫡子であるとみられる。弟の彦九郎胤鑑、彦十郎胤信、余一胤方はそのあととして付けられたのだろう。

 なお、『神代本千葉系図』には鏑木孫八郎胤泰の子に、『鏑木長泉寺系図』による胤泰継嗣「十郎家胤」及びその弟・蕪木孫八郎常泰は見えない『千葉大系図』では十郎家胤を「追記」し、孫八郎常泰を「初鏑木孫八郎胤朝」とすることで辻褄を合わせている

●『神代本千葉系図』

 千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤                 +─白井次郎太郎
(千葉介)  (千葉介)  |(千葉介)                 |
              |                      |
              +─千葉常秀         +─白井定氏──+─白井四郎
              |(上総介)         |(九郎次郎)
              |              | 
              |              |       +─白井親胤
              |              |       |(孫太郎)
              |              |       |
              +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
               (八郎)   |(九郎)  |(六郎)           (孫次郎)
                      |      |
                      |      +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
                      |      |(七郎)    (孫八郎) |
                      |      |              |
                      |      |              +―白井胤継
                      |      |               (孫九郎)
                      |      |
                      |      +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
                      |      |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
                      |      |       |      |
                      |      +─白井十郎  +―円仁   +―鏑木小八郎
                      |      |       |      |
                      |      |       |      |
                      |      +─理胤    +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
                      |      |       |(彦九郎)
                      |      |       |
                      |      +─白井五郎  +─鏑木胤信
                      |              |(彦十郎)
                      |              |
                      +─長吉信清         +─鏑木胤方
                       (十郎)           (余一)

●『鏑木長泉寺系図』の伝

 弘安10(1287)年、鏑木十郎胤家(1270-????)は十八歳にして父・孫八郎胤泰から下総国香取郡鏑木郷を相続して鏑木を称した(「鏑木氏」の項参照)。弟の蕪木孫八郎常泰(1272-????)は父・孫八郎胤泰とともに上総国武射郡蕪木郷山武郡松尾村蕪木に移住し、常泰の子孫は祖先・金田小大夫頼次の旧地である長柄郡金田郷長生郡長生村金田へ移り、本氏である「金田」を称した。その子孫は江戸幕府の旗本となる。

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鏑木胤高(????-????)

 鏑木氏五代。父は鏑木彦八郎胤朝。通称は弥八郎

 詳細な伝はない。『神代本千葉系図』にのみその名が見える。

●『神代本千葉系図』

 千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤                 +─白井次郎太郎
(千葉介)  (千葉介)  |(千葉介)                 |
              |                      |
              +─千葉常秀         +─白井定氏──+─白井四郎
              |(上総介)         |(九郎次郎)
              |              | 
              |              |       +─白井親胤
              |              |       |(孫太郎)
              |              |       |
              +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
               (八郎)   |(九郎)  |(六郎)           (孫次郎)
                      |      |
                      |      +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
                      |      |(七郎)    (孫八郎) |
                      |      |              |
                      |      |              +―白井胤継
                      |      |               (孫九郎)
                      |      |
                      |      +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
                      |      |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
                      |      |       |      |
                      |      +─白井十郎  +―円仁   +―鏑木小八郎
                      |      |       |      |
                      |      |       |      |
                      |      +─理胤    +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
                      |      |       |(彦九郎)
                      |      |       |
                      |      +─白井五郎  +─鏑木胤信
                      |              |(彦十郎)
                      |              |
                      +─長吉信清         +─鏑木胤方
                       (十郎)           (余一)

●『鏑木長泉寺系図』の伝

 鏑木氏を継承した鏑木十郎胤家(1270-????)の子は、孫十郎祐胤。祐胤は「元弘以来数度軍役、属千葉介定(ママ)感状軍功」(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。 

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鏑木胤繁(????-????)

 鏑木氏六代。父は鏑木孫十郎祐胤。童名は伊豆犬丸。通称は十郎太郎。ただし、祐胤が実在の人物かどうかは定かではない。

 応安2(1369)年4月、鏑木郷に程近い生尾の式内社生尾神社に材木や造営料の「神殿造営奉加」をしている「鏑木十郎太郎胤繁」の名が見える(『生尾神社寄進帳』松山家蔵文書)

●応安2(1369)年4月(『生尾神社寄進帳』松山家蔵文書)

 老尾神社寄進
   材木   三百枚
   新籾   百石
 右者、此度就神殿造営奉加美玉旨如斯、仍而誠仰誠敬如件
 応安二年巳酉四月
             鏑木十郎太郎胤繁
   宮司大神主殿
   社務大禰宜殿 

 また、鏑木山願勝寺旭市鏑木には応安2(1369)年中の「ア」の種子の刻まれた某逆修板碑と応安5(1372)年8月16日の「結衆」による「バク(釈迦如来)」の種子の刻まれた板碑が残るが、願勝寺は胤繁子息の四郎察胤が芸範法印を開山として応永12(1405)年に開いたとされる真言宗寺院である。隣接する府馬郷にあった天台宗願勝寺が当地に移されたものとされる(『干潟町史』)。応安2年と応安5年の板碑はともに光明寺旭市鏑木など浄土宗寺院にあったものが移設されたと考えられ、応安2(1369)年中の「ア」の逆修板碑は大日如来ではなく阿弥陀如来を示しているとみられる。

●『鏑木長泉寺系図』の伝

「応安以来属千葉介満胤厚励軍功」という(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)

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鏑木察胤(????-????)

 鏑木氏七代。父は鏑木十郎太郎胤繁または鏑木弥八郎胤高か。通称は八郎四郎。童名は松寿丸(『鏑木長泉寺系図』)。官途名は大蔵少輔(『鏑木長泉寺系図』)

 応永12(1405)年、四郎察胤は鏑木家屋敷跡(察胤は屋敷を移したか)に芸範法印を招き、開山として真言宗寺院の鏑木山願勝寺釈迦院を建立したとされる。芸範上人は京都の人で応永7(1400)年3月21日、高野山において灌頂を得て密印を授かった人物(「願勝寺芸範上人碑文」『干潟町史』)

●『鏑木長泉寺系図』の伝

「応永二十三年丙申、上杉氏憲入道禅秀作乱於鎌倉、察胤属千葉介満胤、討之同三十年癸卯、小栗孫十郎満重背持氏卿、拠下総国結城城此時亦属満胤、兼胤、振勇名矣」という(『鏑木長泉寺系図』)とあるように、応永23(1416)年、上杉禅秀の乱においては千葉介満胤に属したという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。系譜では禅秀を「討之」とあるが、満胤禅秀側に加担して鎌倉米町付近に布陣していたとされており(『鎌倉大草紙』)、この伝は史料上不可である。

 応永30(1423)年の小栗孫十郎満重の叛乱では鎌倉御所持氏に属し、千葉介満胤兼胤に従って結城城に向かい、勇名を馳せたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)

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鏑木公永(????-????)

 鏑木氏八代。父は鏑木八郎四郎察胤。通称は駿河守

 永享12(1440)年の結城合戦においては、結城城南部に布陣した千葉介胤直に属して軍功を挙げたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)

 公永には嗣子がなかったため、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。真壁新七義成は上曾駿河守義堯の子(『小田軍記』)で真壁伊豆守治幹舅といい(『小田天庵記』)、近世成立の軍記物『小田軍記』によれば真壁安芸入道道夢の兄弟という(『小田軍記』)。「真壁安芸入道道夢」については、応永11(1404)年9月11日生、文明12(1480)年3月18日に七十七歳で亡くなった真壁朝幹(三郎、右京亮、安芸守、法名参翁永真)が世代的に相当する(真壁家文書『当家大系図 全』)。また、世代的・人物比定に問題がある『水府志料』所収の系譜でも真壁新七義成の子・白井三郎幹成が「鏑木駿河守公永養子」とみえる。

●「常府小田氏撰系図」(『水府志料』所収)

        平直幹
       (常陸大掾)
        ∥─────真壁長幹─+─真壁貞幹──真壁邦幹===真壁武幹──真壁豊幹──真壁満幹──真壁康幹───真壁行幹──真壁安幹──+
        ∥    (六郎)  |(太郎)  (小六郎)  (孫四郎) (平六太) (左衛門) (左衛門次郎)(次郎)  (十郎)   |
        ∥          |                                                   |             
 千葉介常胤──女子         +=真壁秀幹──門井行秀─+─真壁武幹                                 |
(千葉介)               (紀内)  (弥四郎) |(孫四郎)                                 |
                                |                                      |
                                +─真壁豊幹                                 |
                                 (平六太)                                 |
                                                                       |
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+

+─真壁久幹──真壁茂幹───真壁是幹─+─真壁義成─+─真壁義助──真壁成幹──+─真壁助幹──真壁綱幹──────────────────+
 (孫四郎) (右衛門太夫)(安芸守) |(新七)  |(左衛門佐)(六郎左衛門)|      (左衛門尉)                 |
                    |      |             |                             |            
                    |      |             +─門井武真──門井定正──門井定能──女子        |
                    |      |             |(縫殿介) (弥四郎) (与八郎)  ∥────門井定光 |
                    |      |             |                   ∥  (丹波守)  |
                    |      |             |                   ∥         |
                    |      |             +─烟田憲幹──烟田幹家──江寺幹光==江寺胤光      |
                    |      |              (対馬頭) (右衛門尉)(五郎) +─(右京亮)     |
                    |      |                               |           |
                    |      |                     海上山城守─────+           |
                    |      |                                           |
                    |      +─麻生義幹──麻生久幹──麻生為幹──麻生之幹────+─麻生勝幹          |
                    |      |(淡路守) (左兵衛尉)(淡路守) (左衛門入道残雪)|(左衛門太郎)        | 
                    |      |                           |               |
                    |      +─白井幹成                      +─麻生冨幹          |
                    |       (三郎)                        (左衛門次郎)        | 
                    |                                                  |                                      
                    +─嶋崎利幹─+─嶋崎利正──嶋崎是利──嶋崎久利──嶋崎宗利                    |
                     (大炊介) |(左衛門) (右衛門) (大炊介) (左衛門入道宗庵)                |
                           |                                           |
                           +─大生利定                                      |
                            (左京亮)                                      |
                                                                       |
+──────────────────────────────────────────────────────────────────────+

+─真壁家幹────+─真壁師幹
|(安芸守道務入道)|(安芸守)
|         |
|         +─女子
|         |(水谷勝俊妻)
|         |
|         +─真壁某
|          (右衛門太夫)

| 千葉介胤富─────女子 
|           ∥───────+─白井胤幹
|           ∥       |(備後守)
|           ∥       |
+─真壁幹吉────+─白井宗幹    +―女子
 (下総守)    |(治部少輔)   | ∥
          |         | ∥
          |         | 千葉俊胤
          |         |(千葉権介)
          |         |
          |         +―白井幹時
          |         |(民部少輔)
          |         |
          |         +―鶴牧信幹
          |          (茂右衛門)
          |         
          +─真壁正幹────+─白井幹度───白井伊信
           (下総守)    |(八左衛門) (忠左衛門)         
                    |         
                    +―白井元勝
                    |(一郎衛門)
                    |         
                    +―芦野資継
                     (五郎左衛門)

●『小田軍記』

 白井察胤───女子
(八郎四郎)  ∥
        ∥──────白井幹成
        ∥     (三郎)
        ∥       
        ∥      真壁治幹
        ∥     (伊豆守)
        ∥      ∥
 上曾義堯───真壁義成─+─女子
(駿河守)  (新七)  |
             |
             +─真壁道夢
              (安芸入道) 

 『鏑木長泉寺系図』によれば、公永は後嗣がいなかった当時、前述の通り「常陸国真壁郡白井地頭」の白井幹成(真壁義成の子、姉の子)を養子に迎えていたが、その際に公永は「千葉介康胤(康胤は「千葉陸奥守入道」とあるように千葉介に就いたことはない)」に、「我若産男子、則以下総白井庄与幹成也、而冀与祖先白井家、公熟思之(もし私に男子が生まれたならば、下総国白井庄は幹成に与えようと思います。祖先白井家由緒の地であり、この旨を熟思いただきたい)と願い出た(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。鏑木氏は香取郡鏑木村へ移ってのちは白井庄に関する知行権は失っていたであろうから、もしこの記述通りであれば、胤時流白井氏の再興のために幹成へ白井庄を与えてほしいという願いということになるが、「則以下総白井庄与幹成也」には「欲」する文字がないため意図が通じず事績を記載する上での不備とみられる。それは「康胤許之、康正元年乙亥与証書」とあることからも、白井庄の新知を願ったものであることは明白である。この文の通り康胤は公永の請願を許諾して白井庄の安堵状を発給。公永は「而築新城於白井庄、使幹成居之」と、鏑木三郎幹成を白井庄に派遣した(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)

 その後、「公永生胤元、而譲家督」ったとあるように、実子の十郎胤元が誕生。彼に鏑木家の家督を譲ったとする。そして「於是因務、所相定之約、分与白井庄於幹成(以前の約定通り、白井庄を幹成に分与した)した。このことを聞いた「千葉介輔胤(輔胤も岩橋殿と称された宗家一門で千葉介に就任していない)」は「真壁氏当家同姓、而其祖長幹者常胤外孫也、依之世々倚頼当家相睦、幹成旧為真壁郡白井地頭、而今為公永所養亦領下総白井庄、両地其国雖異、地名是同宣、復白井氏、以七星為家紋、称白井三郎、乃是継絶興廃不亦可乎(真壁氏は当家と同姓で、祖の真壁長幹は千葉介常胤の外孫である。それゆえ代々当家を頼りとし睦まじく交流してきたのだ。幹成はもともと常陸国真壁郡白井地頭であるが、いまや公永の養子となり、下総国白井庄をも領有した。両白井は国こそ違え同じ『白井』である。白井氏が再興され『七星』を家紋とし鏑木を白井三郎と改め称す。これにより絶家が継承され、衰退した家が再興されるのは、なんと素晴らしいことではないか)と評したという(『鏑木長泉寺系図』)

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鏑木胤元(????-????)

 鏑木氏九代。父は白井駿河守公永。母は不明。義兄は白井三郎幹成(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)

 伝によれば父駿河守公永に実子がなく、姉が嫁いだ常陸国の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を養嗣子として迎えていた(『鏑木長泉寺系図』)。ところが、その後「公永生胤元」たため、白井家は幹成へ継承したまま、胤元には鏑木家の「而譲家督」っという(『鏑木長泉寺系図』)

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鏑木胤義(????-1574)

 鏑木氏十代。父は鏑木胤元。母は不明。官途名は長門守。名は胤安(『断家譜』)とも。

 胤元の嫡子・鏑木胤義(長門守)は千葉介利胤千葉介親胤千葉介胤富に従属した。天文19(1550)年11月23日に行われた妙見遷宮式では、「大檀那新介平親胤(当時は民部卿丸)のもと、宿老・原式部大夫胤清以下、本庄伊豆守胤村原大蔵丞胤安馬場又四郎胤平本庄新太郎胤里粟飯原源公海上山城守胤秀原九郎右衛門尉胤行金親兵庫正能鏑木長門守胤義牛尾左京胤道牛尾孫二郎胤貞(原胤貞)小川外記政俊・原隼人祐胤次斎藤源太左衛門尉清家ら被官層が参列したとされる(『千学集抜粋』)

 年月不詳10月21日、おそらく台風で破壊された香取社の神殿の造営について「治房」「実隆(大禰宜)」が鏑木長門守(胤義)へ宛てて発給された『大禰宜実隆等連署書状』が残る。

 天正2(1574)年5月5日卒去(『鏑木長泉寺系図』)。法名は天陽院殿春格心芳大居士(『鏑木長泉寺系図』『断家譜』)

 妻某氏は文禄4(1595)年2月27日卒去(『鏑木長泉寺系図』)。法名は自然院殿月心明公大禅定尼(『鏑木長泉寺系図』)。ただし、『断家譜』においては、文禄4(1595)年10月15日卒。法名は右到院殿澗泉正照大姉(『断家譜』)。なお『鏑木長泉寺系図』ではこれは胤家室の卒年及び法名であり、両者ともに文禄4(1595)年の卒去の為に混乱が生じている

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鏑木胤定(????-????)

 鏑木氏十一代。父は鏑木長門守胤義。母は不明。妻は某氏。通称は信濃守

 永禄2(1559)年正月22日、千葉介胤富の指示を受け、老尾神社に飯塚郷内から五十五石の籾を寄進し、これを毎年行う旨を奉納している。

●永禄2(1559)年正月22日(『老尾神社寄進帳』松山家蔵文書)

匝瑳郡総社老尾神社寄進之事
 一 合籾   五拾五石者
 右者、介殿就信仰従飯塚郷之内以後年々令寄進之旨、依仰執達如件
 永禄二巳未年正月廿二日
               鏑木信濃守胤定
  宮司大神主殿
  社務大禰宜殿

 永禄3(1560)年、「御塚」に「信濃守大守長泉大檀越」として「新福寿位 高岩道賀」の逆修塔を建立する(『千葉県地域民俗調査報告書第1集 千葉県史編さん基礎資料3』)。その後、百三十年余り風雨にさらされたこの逆修塔は傾き崩れはじめていたため、元禄6(1693)年3月、子孫の旗本鏑木平内氏胤が修復を施した(『千葉県地域民俗調査報告書第1集 千葉県史編さん基礎資料3』)

 永禄9(1566)年正月20日卒去(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)。「葬下総国香取郡鏑木邑高岩山長泉禅寺」した(『断家譜』)。法名は天長院高岩道賀(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)

 妻某氏は元亀4(1573)年8月28日卒去。法名は本性院殿明室永公大姉(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)

 天正17(1589)年8月20日、菩提寺の鏑木長泉寺に「道賀居士菩提之」の刻まれた五輪塔、「為道賀居士」の刻まれた宝篋印塔が建てられた(『千葉県史料 金石文篇2』)

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鏑木胤家(????-????)

 鏑木氏十二代。父は鏑木信濃守胤定(『千葉大系図』『鏑木長泉寺系図』)。母は不明。通称は彦次郎。官途名は備後守(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)長門守(『鏑木長泉寺系図』)。諱は胤通(『断家譜』)とも。

 胤家は下総国などの領主や大名との間に師檀関係を築いた伊勢の御師「龍大夫」に対し、祈祷および「御祓大麻」「五明櫛」を拝領したことの礼状と「最花三十足」を送っている。

●年不詳3月「鏑木胤家書状」(『龍大夫文書』)

御貴札拝見、殊毎年不相替、被抽丹請、御祓大麻并五明櫛、被懸御意候、目出即令頂戴候、弥於此上御精誠奉憑候、然而御祝儀計ニ御最花三十足、進覧之候、事々令期重音候、恐惶謹言
             鏑木備後守
               胤家(花押)
   三月吉日
 謹上 御師龍大夫殿
        参御報 

 天正18(1590)年の小田原合戦当時、「蕪木駿河守」「かふらき城」に在城し、その勢は「三百騎」(「北条家人数付」『毛利家文書』)という。ただし胤家は「備後守」または「信濃守」であって「駿河守」ではないため、毛利家が把握したという「蕪木駿河守」は系譜上見られないため、如何なる人物か比定ができない。

 文禄4(1595)年10月15日、妻某氏が卒去。法名は右到院殿澗泉正照大姉(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)

 文禄5(1596)年正月9日卒去。法名は常鶴院殿松岩道意大居士(『断家譜』『鏑木長泉寺系図』)

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鏑木成胤(????-????)

 鏑木氏十三代。鏑木備後守胤家の子。官途名は紀伊守(『鏑木長泉寺系図』)。成胤は『断家譜』には掲載されていない。

 天正年中、数か年小田原在陣したという(『鏑木長泉寺系図』)

 寛永10(1633)年9月22日卒去。法号は勧叟道喜(『鏑木長泉寺系図』)

 『鏑木長泉寺系図』では、弟に鏑木主膳正が見える。

 『長泉寺過去帳』に記載されている「鏑木十太夫胤次」は承応2(1623)年12月23日、五十七歳で古河に卒去(『長泉寺過去帳』)していることから、永禄10(1567)年の生まれ(『長泉寺過去帳』より逆算)となり、世代としては成胤の代となる。

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鏑木胤近(????-1606)

 父不詳。通称は十左衛門(『断家譜』)

 慶長11(1606)年6月29日卒去(『断家譜』)。法名は常悟院高月常了居士(『断家譜』『長泉寺過去帳』)

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鏑木胤宗(????-1612)

 鏑木十左衛門胤近の子。通称は八郎 (『断家譜』)

 慶長17(1612)年7月28日卒去。法名は月宮院胤宗常桂(『断家譜』『長泉寺過去帳』)

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鏑木長胤(????-1636)

 鏑木八郎胤宗の子。通称は与兵衛(『断家譜』)

 鏑木家所蔵文書の伝によれば、「長胤始称重胤御死去之砌、系図弐通有リ、其内壱通ハ邦胤ノ御自筆、壱通ハ長胤御作リ成サレ候、此長胤ノ御作ノ系図ハ鏑木十太夫ヘ寛永十年正月十六日ニ相渡候處ニ、其年ノ暮古河ニオイテ内木テンノ原ニテ喧嘩ニテ相果テ、系図香取ノ明神ニ納候」とあるように、千葉重胤が寛永10(1633)年に病死した際、長胤に系図二通が譲られたが、長胤は同年末に古河で討たれたため、香取社へ奉納されたという。

 ただし、長胤は寛永13(1636)年正月26日に卒去したとされている。法名は洞裡院雲高常無(『断家譜』『長泉寺過去帳』)

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鏑木重胤(????-1639)

 鏑木与兵衛長胤の子。通称は権太郎(『断家譜』)

 寛永16(1639)年10月6日卒去。法名は孤円院月光常心(『断家譜』)

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鏑木胤次(1567-1623)

 父は不詳。通称は十太夫(『古城村誌前編』所収「長泉寺過去帳」)。永禄10(1567)年生まれ(『長泉寺過去帳』より逆算)

 承応2(1623)年12月23日。五十七歳で古河に卒去(『長泉寺過去帳』)。法名は常出院殿傑山常英大居士(『長泉寺過去帳』)。世代としては鏑木備後守胤家の子世代となる。おそらく鏑木十左衛門胤近とは別系の鏑木氏と思われる。

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鏑木胤房(1642-1665)

 『長泉寺過去帳』に「胤房廿四歳胤次甥」(『古城村誌前編』所収)とあるため、父は鏑木十太夫胤次の兄弟となる。通称は十太夫(『断家譜』)。寛永19(1642)年生まれ(『長泉寺過去帳』より逆算)

 寛文5(1665)年8月26日に下総国香取郡鏑木村で亡くなった。享年二十四(『長泉寺過去帳』)。法名は常正院仏光全性(『断家譜』)。長泉寺に宝篋印塔が建つ(『古城村誌前編』)

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鏑木胤幹(????-1666)

 通称は新右衛門(『断家譜』)

 寛文6(1666)年8月29日、下総国香取郡鏑木村で亡くなった。法名は常桂院殿雲州胤露居士(『断家譜』)。長泉寺に宝篋印塔が建つ(『古城村誌前編』)。前代胤房との法名の類似性、長泉寺の宝篋印塔の関係から、両者は兄弟であった可能性があろう。

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鏑木氏胤(????-1703)

 鏑木新右衛門胤幹の子か。母は某氏(出入院殿照月妙圓大姉)。通称は平内

 元千葉氏の客将で、館林藩主・松平右馬頭綱吉の御守役(のち御用人)として仕えていた押田三左衛門直勝に寄食し(『千葉伝考記』)、 氏胤は押田直勝の推挙によって綱吉に仕えることとなり百五十俵を給わった(『千葉伝考記』)

 延宝8(1680)年5月、綱吉嫡男「徳松殿」が西ノ丸に入るとその御家人に列する(『寛政重修諸家譜』『千葉伝考記』)。しかし、天和3(1683)年閏5月28日、徳松が逝去すると小普請となった(『寛政重修諸家譜』)

 元禄16(1703)年8月12日卒去。法名は常光院健安全勝。

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鏑木成胤(????-1709)

 鏑木平内氏胤の養嗣子。実父は浪人・星野覚左衛門安休(旗本久津見又助の縁者という)。通称は十左衛門(『千葉伝考記』『寛政重修諸家譜』)。のちに鏑木近胤が天野家から養嗣子として入って家名が保たれたのは、成胤の実父が久津見家と何らかの所縁があったためと想定される。ただし、久津見家との具体的な関係は不明である。

                           天野康世────天野康勝
                          (六右衛門)  (又右衛門)
                                   ∥────────天野康作
                                   ∥       (甚左衛門)
                                   ∥        ∥
堀江式部大輔─…─久津見又助─久津見又助─久津見頼久─久津見茂豊─+─女子       ∥─────+─鏑木近胤
                    (又助)  (又助)   |(貫珠院峯梅恵芳) ∥     |(次郎右衛門)
                                 |          ∥     |
                                 | 内河正宣=====養女    +─天野康平
                                 |(伝次郎)            (新八郎)
                                 |
                                 +─久津見充信────久津見息信───久津見主水──久津見息言──久津見又兵衛
                                  (又助)     (又助)           (又助)

 元禄16(1703)年10月27日に遺跡を継いで百五十俵を給され西ノ丸小十人番に列す(『寛政重修諸家譜』)。その後、小普請大久保玄蕃忠兼組に属す。のち大久保淡路守組のとき宝永6(1709)年6月23日に卒去した(『断家譜』)

 成胤には男子がなく、神尾七郎左衛門の子・三五郎教胤を養嗣子に迎えた。

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鏑木教胤(1693-1715)

 鏑木十左衛門成胤の養嗣子(『御家人分限帳』『千葉伝考記』)。実は神尾七郎左衛門長孝二男(『御家人分限帳』『千葉伝考記』)。通称は三五郎(『御家人分限帳』)「丑十七歳」(『御家人分限帳』)とあることから元禄6(1693)年に誕生(『御家人分限帳』より逆算)となる。なお『断家譜』によれば諱は「胤致」「実天野宗閑俗名甚左衛門康作二男」(『断家譜』)とある。

 宝永6(1709)年6月23日に家督を継承。小普請大久保淡路守組に属した(『御家人分限帳』『断家譜』)

 正徳5(1715)年10月12日卒去(『御家人分限帳』)。享年二十三。「牛込松源寺」(『断家譜』)に葬られた。法名は玄峰了通(『断家譜』)

 教胤には男子がなく、天野甚左衛門宗閑の子・次郎吉近胤を養嗣子に迎えた。

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鏑木近胤(1709-1745)

 鏑木三五郎教胤の養嗣子。実父は天野甚左衛門康作(宗閑)(『断家譜』)。母は御書物奉行内河伝次郎正宣女(『断家譜』)。妻は石原左兵衛義方女。通称は次郎助(『断家譜』)次郎吉次郎右衛門(『寛政重修諸家譜』)

 宝永6(1709)年、天野甚左衛門康作の三男として生まれた。母は内河伝次郎正宣の女子(養女)

●『御家人分限帳』

三百俵  又左衛門子
      天野甚右衛門
         酉三十六:宝永2(1705)年

●『御家人分限帳』

百五拾石  上総 七左衛門子
内五拾表御蔵米    内河伝次郎
            未五十九:元禄16(1703)年

         天野康世───天野康勝
        (六右衛門) (又右衛門)
                ∥────────天野康作  +─天野康達
                ∥       (甚左衛門) |(三郎兵衛)
                ∥        ∥     |
        久津見茂豊──女子        ∥─────+─鏑木近胤=====鏑木盛胤
       (又助)   (貫珠院峯梅恵芳)  ∥     |(次郎右衛門)  (平内)
                         ∥     |
        内河吉次             ∥     +─天野康平
       (七左衛門)            ∥      (新八郎)
        ∥────内河正宣========養女
        ∥   (伝次郎)         
        ∥    ∥      
 水原親好───女子   ∥───────────内河正明──+─内河正知
(八右衛門)       ∥          (源八郎)  |(七左衛門)
             ∥                 |
 平尾茂右衛門──────女子                +─鏑木盛胤
                                (平内)

 先代の鏑木三五郎教胤が正徳5(1715)年10月12日に二十三歳で急死しており(『御家人分限帳』)、その直前に養嗣子に迎えられたものだろう。正徳5(1715)年12月26日、七歳で遺跡を継いでいる(『寛政重修諸家譜』)。その後、小普請大久保淡路守組に属し、さらに仙石丹波守組に属す(『断家譜』)

 享保12(1727)年3月27日、西ノ丸小十人岡部伊右衛門組に配され、享保14(1729)年閏9月2日、将軍徳川吉宗の三男・小五郎(一橋刑部卿宗尹)の御近習番となる。享保17(1732)年12月7日、御足高五十俵で廩米二百俵となる(『断家譜』)

 享保19(1734)年5月20日、小五郎の御小姓となるが、病気により小普請内藤越前守組に属し、延享2(1745)年10月に病没した。享年三十七。

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鏑木盛胤(1722-????)

 鏑木次郎右衛門近胤の養嗣子。実父は内河源八郎正明(『断家譜』)。通称は金之丞平内(『断家譜』)。

 享保7(1722)年、内河源八郎正明の次男として江戸に生まれた。近胤が延享2(1745)年10月に三十七歳で急死したため、その直前に従弟の金之允がその女婿に入ったとみられる。延享2(1745)年12月26日に二十四歳で廩米百五十俵を給され、家督を相続した(『断家譜』)

        天野康世────天野康勝
       (六右衛門)  (又右衛門)
                ∥───────────天野康作  +─天野康達
                ∥          (甚左衛門) |(三郎兵衛)
                ∥           ∥     |  |
        久津見茂豊───女子          ∥─────+─鏑木近胤=====鏑木盛胤
       (又助)    (貫珠院峯梅恵芳)    ∥     |(次郎右衛門)  (平内)
                            ∥     |
        内河吉次                ∥     +─天野康平
       (七左衛門)               ∥      (新八郎)
        ∥───────内河正宣========養女
        ∥      (伝次郎)         
        ∥       ∥      
 水原親好───女子      ∥───────────内河正明──+─内河正知
(八右衛門)          ∥          (源八郎)  |(七左衛門)
                ∥                 |
 平尾茂右衛門─────────女子                +─鏑木盛胤
                                   (平内)

 小普請内藤越前守組に属したのち、寛延3(1750)年12月21日に西ノ丸に入り、小十人組竹中彦八郎組に属した。宝暦2(1752)年2月9日、吹上で「大納言様(家治)騎射上覧勤之」(『断家譜』)と見える。当日は「大納言殿吹上にて大的を見給ふ、射手新番十人、小十人二十人」(『惇信院殿御実紀』)とあるように、小十人組が射手として見えるため、おそらく盛胤も射手として出仕したのだろう。

 しかし宝暦3(1753)年3月5日、突如出奔して旗本鏑木家は断絶となった(『断家譜』『寛政重修諸家譜』。その後の盛胤の消息は不明である。

 

浅草第六天社家・鏑木家

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鏑木正胤 (1614-1660)

 千葉権之助俊胤の次男とされ、通称は作十郎、式部。『千葉大系図』によれば、慶長19(1614)年6月13日生まれ。

第六天
第六榊神社

 寛永5(1628)年9月、浅草第六天神(現在の第六榊神社)の神主として氏子が迎えたという。兄・胤正浅草鳥越明神の神主になったと伝わる。万治3(1660)年3月22日、四十七歳で亡くなった(『千葉大系図』)

 正胤については、宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から千葉介正胤・尚胤の名を確認することができるが、ここに見える千葉介正胤と、俊胤の子とされる「鏑木正胤」は別人だろう。『千葉大系図』『千葉伝考記』の正胤に関する記述から見ると、俊胤が父親ということと、正胤両者の生年がまったく同じであることから、両者は同一人物としか考えられないが、その後の経歴・没年などがまったく異なっており、別人と考えざるを得ない。

史料名 正胤の生年 正胤の没年 正胤のその後 正胤の子
『千葉大系図』 慶長19(1614)年6月13日 万治3(1660)年3月22日 浅草第六明神神主 千葉正重(子孫神主)
『千葉伝考記』 慶長19(1614)年 延宝19(1677)年8月4日 厩橋藩士 千葉尚胤(子孫不明)

 千葉平祥胤という人物が香取郡の大須賀家菩提寺である宝応寺に納めた『大須賀家系図』のなかに、平介正胤の子に「平介政胤という人物が記載されている。その子孫も続いているように描かれているため、両者がともに「マサタネ」というところから混同されたのかもしれない。

 千葉邦胤─+─千葉重胤
(千葉介) |(千葉新介)  
      |        
      +─千葉俊胤──+─鏑木胤正──…(鳥越神社家)
      |(千葉権之助)|(作兵衛)
      |       |
      +─門井正道──+=千葉正胤─+─千葉尚胤───千葉祥胤    
       (弥四郎)   (平介)  |(権之助)  (権之助)     
                     |
                     +─千葉政胤─?─正重──…(第六天榊神社家)
                      (平介)

(1)千葉正胤・尚胤・祥胤について千葉正胤千葉尚胤

「千葉介正胤・尚胤」が連署した宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から実在を確認することができる。

 正胤・尚胤父子の出自を裏づけるものとして、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てたと思われる願書によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤(長胤弟ニ御座候)」「祖父平助正胤」「私親権之助とある。

 千葉介邦胤─+─千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助──権之助
       |(高祖父長胤) (曽祖父)  (祖父)  (親)  (私)
       |
       +─権之助俊胤

 おそらく「私親権之助」とは「尚胤」を指していると思われ、香取郡の宝応寺に伝わる『大須賀系図』の中に見える千葉権介尚胤と同一人物と思われる。

●元文7(1738)年『大須賀系図(千葉平祥胤筆)』(宝応寺蔵)

 新田満次郎───女子
         ∥─────────千葉重胤
         ∥        (法名長胤)
 千葉介胤富─+─千葉介邦胤
(千葉介)  |(千葉介)
       | ∥
       | ∥───────+─千葉俊胤=+─千葉正胤──+─千葉尚胤───千葉祥胤
       | ∥       |(千葉権介)|(平介)   |(千葉権介) 
       | 常陸大掾幹定娘 |      |       |
       |         +─門井正道 |       +─千葉政胤────…
       +─娘        (弥四郎) |        (平介)
         ∥         ∥────+    
         ∥         ∥      
         ∥───────+=娘         
         白井宗幹    |(実ハ岡里和泉守道明娘) 
        (治部少輔)   |
                 +─白井胤幹
                 |(備後守)
                 |
                 +─白井幹時
                 |(志摩守)
                 |
                 +─鶴牧信幹
                  (茂右衛門)

 宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は、祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、元文2(1737)年5月、下総に戻って宝応寺に寄宿し、元文3(1738)年、大須賀家の系図をみずからの系譜と合わせて宝応寺に納めている。この祥胤は、おそらくそれまで江戸にあって、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ宛てて千葉家再興の嘆願書を提出した千葉権之助」その人であると思われる。

●宝永4(1678)年11月30日『千葉介正胤・尚胤連署書状』

 
香取長手神職、任例依太望而、号胤久許免之者也

                   千葉介
   延宝               正胤(花押)
    霜月晦日  (花押影)
   二二年              尚胤(花押)
             香取
               大長手雅

 江戸時代、千葉家の再興を目指した千葉宗家の末裔は俊胤の子孫だけではなく、慶安元(1648)年11月には千葉新介重胤の子「千葉介定胤」が香取神社に願文を奉納し、千葉介邦胤の子といわれる「千葉介良胤」の子「千葉源之介知胤」も増上寺へ願文を提出した。

 千葉知胤(源之介)が増上寺に宛てた千葉家再興に関する文書の中には千葉源之介祖父千葉介良胤、親千葉釆女正当胤候儀迄、増上寺住持御開山之系図ニ委細ニ書戴申候」とある。

●千葉家再興を願った宗家の末裔たち

⇒千葉介胤富─+─千葉介良胤───釆女正当胤────源之介知胤
       |(祖父)    (親)
       |
       +─千葉介邦胤─+─千葉新介重胤─+─千葉介定胤──七之助完胤
               |(高祖父)   |(千葉介)
               |        |
               +─権之助俊胤  +=権之助俊胤==平助正胤──権之助(尚胤)──権之助(祥胤)
                          (曽祖父) (祖父)  (私親)

(2)『千葉伝考記』

 正胤については『千葉伝考記』によれば、俊胤の子ではなく、俊胤の弟・門井正道(弥四郎)の子で、母は白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)。俊胤の娘と結婚して養嗣子として俊胤のあとを継いだという。正胤の初名は門井平助、のち千葉権介と称し、千葉家の家宝を譲り受けたとある。

 +─千葉新介重胤
 |
 +─千葉権介俊胤===正胤
 |          ↑
 +─門井正道─────正胤───尚胤
  (善兵衛)    (平助) (平助)
    ∥
   白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)

 俊胤から家督を継ぐ前、十四歳の時に重胤(入道長胤)・俊胤の意を受けて、上野国厩橋藩主・酒井雅楽頭忠世(老中筆頭)に仕えた。これは重胤・俊胤の「千葉家再興」の願いを伝えるという意図があった。正胤はこのときには「千葉」を名乗っておらず、実父・正道の「門井」を名乗り、重胤の甥であることを明らかにしていなかった。この後、俊胤より千葉宗家を継いだものの、この事を秘密にして仕えていたようである。

 その後、弘文院学士・春斎法印が4代将軍・徳川家綱(厳有院殿)の命を受けて『本朝通鑑』の編纂をはじめたが、正胤はこれを聞いて、

「私は千葉の嫡流を受け継ぐものとはいえ、なんの功績もない。何をもって祖先に酬いればよいのかわからない。千葉家累代の勲業も長く地に落ちて、後の世の者が我が家の偉業を知ることもなくなるだろう。ただ恨むばかりだ」

と、そのとき一大決心をして、家に伝わっている系図・家譜をうつしとって春斎法印に提出した。法印も系譜を見て「なんとすばらしい」と賞賛し、これを『本朝通鑑』に書き入れた。

 寛文10(1670)年の冬、忠世の孫・酒井雅楽頭忠清(大老)はこの事を聞いて系譜などを見たあと「千葉」を称するようにと正胤に伝えて時服を与え、亡き重胤・俊胤の念願もかなうと思ったのもつかの間、急病にかかってしまったため、酒井家を辞して閑居した。病は次第に篤くなり、子・尚胤(平助)を枕辺に呼び、先祖の志を継ぐべき由を遺言して、延宝5(1677)年8月4日、浅草の屋敷で亡くなった。享年は六十四歳。

 正胤は浅草寺塔中梅園院に葬られ、佐倉海隣寺に御影が安置された。法号は臨阿弥陀仏龍昌院殿井雲■門大居士

史料名 正胤の生年 正胤の没年 正胤のその後 正胤の子
(1)『千葉大系図』 慶長19(1614)年6月13日 万治3(1660)年3月22日 浅草第六明神神主 千葉正重(子孫神主)
(2)『千葉伝考記』 慶長19(1614)年 延宝19(1677)年8月4日 厩橋藩士 千葉尚胤(子孫不明)

→(1)(2)の正胤は、生年が慶長19(1614)年と同じであり、同一人物とも思われるが、名前と生年だけが同じでほかはまったく生き方も子孫の経歴も違っていて、違う人物とも思えるほど。

(3)千葉権之助(正胤)について(『千葉伝考記』の一節)

 千葉権之助という者の由緒について、酒井雅楽頭の儒臣・古市兵庫(初名は南軒、のち藤之進)が、

「先年、酒井雅楽頭家に門井何某という者があるが、故あって千葉氏の文書・記録を得、時期を待ってから自分は千葉氏の嫡流ということを言って千葉嫡流の証書を提出し、門井から千葉への復姓を願っていたのだが、望みの通りに許された。その後、この人はあらかじめ用意していた『月に星』の紋のついた衣類・大小脇差をつけて翌日から出仕した。

 しかし、そののちに千葉氏の嫡流であることが偽りとわかったため勤仕し難くなって酒井家を辞し、浪人して下総国に来たのだが、『千葉権之助』という名を聞いて『千葉の殿様だ』と信じる者がいたのだが、地元には千葉氏をいまだに知る古老がいて、権之助にいろいろ質問をしてみると、答えにつまること多く、面目をなくして江戸に上って針灸などをして暮らして一生を終えた。子もいた」

と語っている。この千葉権之助とは門井正胤のことと思われる。(2)でみる酒井家退転の理由と(3)の退転理由がまったく異なっており、実際はどういうことなのか不明。

  人物 酒井家退転の理由 酒井家退転の理由(原文)
(2) 千葉権介 病にかかって辞す 偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す
(3) 千葉権之助 偽りが発覚して辞す 千葉の正統を偽ること顕はれて勤仕し難くなり同家を立ち退いて浪人せり

(4)千葉新助(尚胤か)について

 松平摂津守(嵩岩院)の家臣・楠岡右衛門の談によると、

「今世の千葉権之助は本苗字を門井といって、千葉の一族で千葉の家来筋である。千葉重胤殿が浪人しておれらたのを、家来筋の者どもが敬って保護された。重胤が亡くなる時、千葉の家書と妙見尊像を門井という者がひったくったとか、看病の褒美にもらったとかいわれているが、門井という者がこれらを相伝した。

 門井は酒井雅楽頭に仕え、あるとき千葉権之助と改めた。門井はもともと常陸・下総両代官・関口作左衛門の妹婿である。作左衛門は厳有院様(家綱)の御代に、不始末があって切腹を仰せ付けられた。その弟・関口孫右衛門は甲府様(甲府宰相綱豊)に仕えていた。孫右衛門と権之助は一族であり、権之助は本所にすんでいた。その子は『千葉新介』と言ったが、子がないまま亡くなった。権之助は千葉相伝の家書の箱を笈にしていたが、新介が亡くなってしまったので、岩村八郎右衛門(もと水野隼人正家臣。隼人家が改易される前に浪人)の子・藤右衛門を養子として迎え、「千葉」姓を与えた。藤右衛門は元文年中(1736-1741)に神尾内記殿に仕えて千葉新助を称したという。」

                 岩村八郎右衛門──藤右衛門
        門井権之助   (水野隼人正旧臣)  |
        ∥                  ↓
        ∥────────千葉新介=====千葉新助
      +─娘                (神尾内記家臣)
      | 
      |
      +─関口作左衛門(作兵衛満継)
      |(常陸・下総御代官)
      |
 加瀬胤正─+─関口孫右衛門
(太左衛門) (徳川綱豊の家臣)

 『千葉家実記』に収められた「関口家文書『加瀬家由来書』」の記述によると、下総代官・関口作左衛門は、笹本村馬走加瀬太左衛門胤正の長男、加瀬作兵衛満継という人物で、母方の関口姓に改めるようにとの上意を受け、さらに総州御代官を仰せつかり、上総国小西に知行を与えられて居所としたという。また、代官所手代として疋田太左衛門(米倉村)、堀江権右衛門(八日市場村)、湯浅金左衛門(松山村)を召抱えたという。加瀬氏は千葉一族であり、その孫にあたる人物が「千葉新介」を称したということだろうか。

 関口作兵衛満継は元和元(1615)年4月、下総代官職を拝命し、翌元和2(1616)年に上総国小西陣屋に赴任した。正保2(1645)年8月10日には常陸国宍戸領二万石の代官も拝命し、承応元(1652)年8月25日、亡くなった。子息・関口作左衛門正満が跡を継ぎ、承応2(1653)年3月25日、代官職を拝命し小西陣屋に赴任するが、勘定方の不始末の廉で、延宝5(1677)年7月26日、代官を罷免され、切腹を命じられた(『江戸幕府郡代代官史料集』)

(5)大久保源次郎の談

 大久保源次郎は岩松治部の次男。千葉新介重胤の母は岩松治部少輔(新田満二郎)の娘であり、彼は治部少輔の子孫か。源次郎は彼の書のなかで、(4)の岩村藤右衛門(千葉新助)について

「岩村藤右衛門は源次郎が知る人である。ただし千葉旧記のなかに岩村の名を見ことはできない。この岩村という者はもともと千葉の庶流といって九曜紋をつけていたが、不審がある。私が思うに、岩村はいずれの代にか、縁のある家から紋をもらったものであろう。もしくは古くは千葉の家来で主君より賜ったものかもしれない」

とある。

 また、「増上寺の開山・酉譽上人(父は千葉介氏胤。母は新田義貞女)は千葉氏の出であるから、幔幕・什器にも十曜星を付けていた。その縁によってか、貞譽大僧正の時、千葉権之助は大僧正に頼んで、千葉氏の再興を桂昌院様(綱吉の母)まで願いあげたたのだが、桂昌院様が程なく亡くなってしまったので、結局千葉氏の再興はならなかった」とある。

鏑木正重(1647-1690)

 鏑木式部正胤の子。正保4(1647)年5月11日生まれ。幼名は千勝、通称は織部正。父が亡くなると家督を継ぎ、元禄3(1690)年3月13日亡くなった。

鏑木正義(1675-1736)

 鏑木織部正重の子。初名は正家。通称は大蔵丞・出羽守・下総守。延宝3(1675)年10月2日生まれ。元文元(1736)年12月16日没した。

鏑木慶寛(1718-1750)

 鏑木下総守正義の子。通称は長門掾、長門守、紀伊守、出羽守

 享保3(1718)年12月29日生まれ。享保17(1732)年に15歳で家督を相続し、寛延3(1750)年7月5日亡くなった。

鏑木  (1740-1806)

 鏑木出羽守慶寛の子。通称は兵庫頭出羽守

元文5(1740)年1月9日生まれ。寛延3(1750)年9月、11歳で家督を継いだ。文化3(1806)年6月22日亡くなった。

鏑木  (1765-1821)

 鏑木出羽守崇の子。諱は。通称は出羽介。弟は(兵庫助・隼人)。明和2(1765)年6月6日生まれ。

 

浅草鳥越神社社家・鏑木家

千葉胤正(????-1640)

鳥越神社
鳥越神社

 二代鳥越神社宮司千葉権介俊胤の長男。通称は作兵衛。父・俊胤は水戸城主・武田信吉(家康の五男)に仕えていたが、信吉が亡くなると浪人。そののち武蔵国江戸浅草の鳥越神社・第六天神にまねかれて神主となり、氏を「鏑木」に改めた。

 胤正(作兵衛)は鳥越神社神主となり、弟の正胤(式部)は第六天神の神主となったと伝わっている。胤正は元和7(1621)年1月6日、江戸城大広間に召されて年賀の儀を務めた。

 

鏑木式部(????-1673)

 三代鳥越神社宮司千葉作兵衛胤正の子。通称は式部対馬と称した。子孫は代々、毎年1月6日の江戸城大広間にて行われる年賀惣礼の儀を勤めた。

鏑木勝豊(????-1708)

 四代鳥越神社宮司。式部の子。通称を対馬・飛騨守と称し、正六位上に叙された。

 延宝8(1680)年には江戸神職触頭役に就任した。寺社奉行支配の神職触頭役は寛政4(1792)年まで代々受け継がれた。

鏑木弘豊(????-1728)

 五代鳥越神社宮司勝豊の子。右近・民部少輔を称し、正六位上に叙された。神職触頭役。

鏑木対馬(????-1754)

 六代鳥越神社宮司。通称は左内・対馬正六位上に叙せられた。神職触頭役。

鏑木盛弘(????-1767)

 七代鳥越神社宮司。通称は飛騨・隼人正六位上に叙せられた。神職触頭役。

鏑木直方(????-1771)

 八代鳥越神社宮司。盛弘の跡を継いで宮司となった。通称は左門・土佐守。神職触頭役。

鏑木大内蔵(????-1773)

 九代鳥越神社宮司

鏑木織部(????-1774)

 十代鳥越神社宮司

鏑木秀邦(????-1783)

 十一代鳥越神社宮司。通称は式部。神職触頭役。

鏑木久方(????-1797)

 十二代鳥越神社宮司。通称は権守。神職触頭役。

鏑木豊郷(????-1805)

 十三代鳥越神社宮司。通称は求馬

鏑木豊喬(????-1828)

 十四代鳥越神社宮司。通称は一学

鏑木豊貞  (????-1864)

 十五代鳥越神社宮司。通称は靫負。幕府の御連歌衆に抜擢された。

鏑木豊秀(1833-1884)

 十六代鳥越神社宮司(詞掌)。通称は求馬。幕府の御連歌衆に抜擢された。江戸城大広間で行われた新年の儀を勤めた最後の宮司。

 天保12(1841)年2月から天保14(1843)年2月までの2年間、岩村田藩士「伊東玄之丞え従学」し(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)、天保14(1843)2月年から弘化4(1848)年11月までの五年間を泉藩士「阿部傳え転学」し、「筆額」は「寺澤友幸え従学修行」して学問を修めた(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)

 元治元(1864)年7月、嫡男鏑木鏺麿が誕生する(『大日本人物誌』)

 明治元(1868)年8月10日、新政府から「諸社廻達頭」に任命され、翌明治2(1869)年、高野山金剛三昧院末寺の長楽寺を分離させた。

 明治5(1873)年4月25日、「第五大区二ノ小区浅草元鳥越町四十六番拝借地」「家塾(塾名 別段無御坐)」を開塾する(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。習字(幼童教草、古今集序、国名歌、新古今集序、世界国尽、庭訓往来)と素読(本朝三字経、玉鉾百首、大統歌、古事記、孝経、大学、論語、易経)を教える塾で、生徒は六歳から十九歳まで「男三十二人 女十一人」を定員としている(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)

 明治18(1881)年1月、嫡子鏑木鏺麿に家督を譲って隠居する。

千葉介胤富系

千葉繁胤  (1552-1634)

 千葉介胤富の四男と伝わる。通称は但馬守

 千葉介邦胤は天文21(1557)年生まれであり、彼の兄ということになる。事歴は不明。寛永11(1634)年4月13日に亡くなった。法号は法阿弥陀仏。ただし、この法号は千葉権介俊胤と同様であり、繁胤の実在も含めて違和感がある。

千葉総胤 (1575-1650)

 千葉但馬守繁胤の子。通称は新介。慶安3(1650)年3月13日66歳で亡くなった。

千葉征胤  (1599-1680)

 千葉新介総胤の子。通称は但馬。延宝8(1680)年11月13日、82歳で亡くなった。法号は常阿弥陀仏

千葉叙胤  (1621-1680)

 千葉但馬征胤の子。通称は新介。延宝8(1680)年3月3日、60歳で亡くなった。

千葉貴胤  (1647-1733)

 千葉新介叙胤の子。通称は新介。享保18(1733)年8月9日、87歳で亡くなった。法号は長阿弥陀仏


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