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千葉胤時(????-????)
白井氏初代。父は千葉介胤正。通称は八郎。
胤時は、千葉介頼胤(亀若丸)の幼少時代、頼胤の大叔父として、一族の長老として宗家代の立場にあった人物と思われる。千葉介胤綱、千葉介時胤がいずれも若くして亡くなり、「千葉八郎胤時」が幼少の惣領に代わって幕府に出仕し、放生会の供奉など千葉介の役を果たしていた。次第に頼胤の叔父にあたる千葉二郎泰胤が出仕するようになり、胤時は引退をしたようである。
『明月記』によれば、文暦2(1235)年6月21日夜、藤原定家の屋敷に子息為家が訪問した。それは、もともと小笠原某の妻だった「所縁之入道次女」の父(宇都宮頼綱入道。為家の岳父)が、娘が再嫁を固辞しているにも拘らず彼女を強いて「千葉八郎」に嫁がせることとしたが、その際、人々が「所縁之入道次女」を「可乗金吾車之由」と言い立てるので、為家は父定家に八葉車を借りに来たということだった。
●『明月記』(文暦二年六月廿一日条)
北条時政
(遠江守)
∥──────女子
∥ ∥─────+─宇都宮泰綱
∥ ∥ |(下野守)
∥ ∥ |
牧の方 宇都宮頼綱 +─女子 【二條】
(左衛門尉) | ∥──────藤原為氏
| ∥ (権大納言)
| 藤原為家
|(権大納言)
|
+─女子
∥
∥
千葉胤正────千葉胤時
(千葉介) (八郎)
嘉禎2(1236)年6月、千葉介時胤に香取社造営の宣旨が下され(『香取社造営次第案』)、担当所役が所領単位で割り振られた。寛元元(1243)年11月11日までに所役注文が作成され、「千葉八郎」は「匝瑳北條役」として「佐土殿社一宇」を請け負っている(『香取社造営所役注文』)。「匝瑳北條役」はほかに「飯高五郎跡」として「内院中門一宇」がみられる。このときの造替遷宮は宝治3(1249)年3月10日に行われている。胤時は嘉禎2(1236)年頃にはすでに「匝瑳北條」=香取郡鏑木郷(旭市鏑木)に所領を有していたことがうかがえる。胤時とともに匝瑳北條役を担った「飯高五郎跡」は鏑木郷の西隣の「匝瑳北條」=飯高郷(匝瑳市飯高)を領した飯高五郎高常の子(松崎高将、飯高胤高、飯高時胤らであろう)
平常兼──+─千葉常重─+─千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(下総権介)|(下総権介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
| | | |
| +─椎名胤光 +─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
| (八郎) |(上総介) |(九郎次郎)
| | |
| | | +─白井親胤
| | | |(孫太郎)
| | | |
| +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
| (八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
| | |
| | +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| | |(七郎) (孫八郎) |
| | | |
| | | +―白井胤継
| | | (孫九郎)
| | |
| | +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| | |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
| | | | |
| | +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
| | | | |
| | | | |
| | +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | | |(彦九郎)
| | | |
| | +─白井五郎 +─鏑木胤信
| | |(彦十郎)
| | |
| +─長吉信清 +─鏑木胤方
| (十郎) (余一)
|
+─白井常親─+─白井常実───白井胤秀
|(次郎) |(太郎) (三郎)
| |
| +─白井常高 +─白井胤長
| |(次郎) |(十郎)
| | |
| +─白井常泰─+─白井頼秀 +─小松河有忠───小松河盛時
| |(六郎) |(四郎) |(小太郎) (又太郎)
| | | |
| | +─白井胤家 | +─小松河次郎太郎
| | (六郎) | |
| | | |
| +─白井親忠─+─白井清忠 | +─白井胤長
| (八郎) |(八郎太郎) | |(左衛門尉)
| | | |
| +─小松河助忠─+─小松河吉忠─+─小松河清胤
| (八郎次郎) (次郎) (六郎)
|
+─匝瑳常広───飯高将胤─+─飯高親常────飯高胤親────飯高胤親─+─飯高助胤 +─道現 +─飯高重胤
(八郎) (次郎) |(次郎) (太郎) (太郎) |(六郎) | |(左衛門次郎)
| | | |
| +─飯高高重──+─飯高高信───+─飯高高益
| (七郎) (宮内左衛門尉)|(三郎)
| |
| +─松崎泰氏────松崎次郎 +─飯高高長
| |(次郎) |(五郎)
| | |
| +─松崎胤氏────松崎義氏 +─飯高高将
| |(五郎) (弥五郎) |(六郎)
| | |
| +─松崎泰氏────松崎次郎 +─飯高胤高
| |(次郎) |(新左衛門尉)
| | |
| +─政賀 +─飯高高家
| |(兵部) |(八郎)
| | |
| +─良胤 +─民部
| |(三位阿闍梨) |
| | |
+─飯高高常──+─松崎高将────松崎胤信─+─松崎胤村 +─僧
(五郎) |(太郎) (五郎) (九郎)
|
+─飯高胤高────飯高胤■─+─飯高胤員
|(次郎) (左衛門尉)|(左衛門次郎)
| |
| +─山倉泰高
| (兵衛次郎)
|
+─飯高時胤────飯高胤長─+─飯高胤光────飯高胤忠
(弥五郎) (又五郎) |(孫五郎) (彦五郎)
|
+─飯高胤盛────飯高高胤
|(中務) (又五郎)
|
+─飯高元胤
(余五郎)
●嘉禎2(1236)年6月「香取社造営所役注文」(『香取文書』)
| 担当役所 (当国諸御家人勤仕役所) |
造替諸社役所 | 雑掌 | 雑掌人名 |
| 正神殿 | 千葉介 | 千葉介時胤 | |
| 大床 舞殿 |
幸嶋役所 | ||
| 火御子社 | 萱田郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 於岐栖社 | 吉橋郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 楼門 | 埴生印西所役 | ||
| 一鳥居 | 印東庄役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 勢至殿 | 神保郷役 | 千葉介 | 千葉介時胤 |
| 不開殿 | 小見郷役 | 木内下総前司 | 木内胤朝 |
| 佐土殿 | 匝瑳北條役 | 千葉八郎 | 千葉胤時 |
| [女盛]殿 大床 舞殿 仮[女盛]殿 |
大戸郷 神崎郷 |
国分小次郎跡 千葉七郎跡 |
国分常通跡 千葉師胤跡 |
| 東廻廊 | 風早郷役 | ※風早胤康か | |
| 中殿 | 埴生西役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 北庁屋 | 大須賀所役 | 胤信跡 | 大須賀胤信跡 |
| 瞻男社 | 埴生西内 富谷郷役 | ※金沢実時か | |
| 忍男社 | 下野方 | ||
| 二鳥居 | 下葛西役 | 同跡(壱岐入道跡か) | ※葛西清重入道跡か |
| 三鳥居 | 大方郷役 | 関左衛門尉 | |
| 祭殿 | 結城郡役 | 上野入道 | 結城朝光入道 |
| 火王子 | 下野方 | ||
| 内院中門 | 匝瑳北條役 | 飯高五郎跡 | 飯高五郎跡 |
| 西廻廊 | 矢木郷所役 | ※矢木胤家か | |
| 若宮 | 千葉介 | ||
| 酒殿 | 遠山方所役 | ※千葉師胤跡か | |
| 渡殿 | 上野方所役 | ||
| 外院中門 | 印西所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 東脇門 | 平塚郷所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 西脇門 | 平塚郷所役 | 掃部助殿 | 金沢実時 |
| 宝殿 | 猿俣所役 | 壱岐入道跡 | 葛西清重入道跡 |
嘉禎3(1237)年4月19日、鎌倉の大倉新御堂上棟式に際し、将軍・頼経は夜まで続けられた足利義氏(左馬頭)邸での酒宴から御所へ帰還するにあたり、隨兵十騎の中に「千葉八郎」の名が見える。嘉禎4(1238)年6月5日、将軍家春日社御参に隨兵一番として、三浦光村(河内守)、梶原景俊(右衛門尉)と並んで「千葉八郎胤時」の名が見える。その二年後の仁治元(1240)年8月2日、将軍・頼継の二所詣の先陣隨兵十二騎の一騎に「千葉八郎」が見える。
寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突如御出する際に、供奉する御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていたのを、この日、月の上旬・中旬・下旬で当番制とした。その中旬の担当に「千葉八郎」が見える。さらに寛元4(1246)年8月15日の放生会の後陣の隨兵として「千葉八郎胤時」の名が見える。
宝治元(1247)年5月14日、前日に亡くなった将軍頼嗣御台所(北条修理亮時氏娘)の葬送の儀が執り行われ、前執権北条経時(武蔵守)の佐々目谷墳丘墓の傍らに埋葬された。この葬儀に列した人物として「千葉八郎」が見える。
『千葉大系図』によれば、八郎胤時は宝治元(1247)年の「宝治合戦」に連座して白井庄を没収されたとされ、千葉宗家(千葉介頼胤か?)に預けられたとされるが、実際にはそれから二十年ものちの文永2(1265)年7月19日の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」とあるように、白井胤時の子・九郎胤定は「白井」を称しており、白井庄を収公された事実はないことがわかる。ただし、前述の通り白井八郎胤時は嘉禎2(1236)年時点ですでに下総国香取郡鏑木郷(旭市鏑木)に所領を得ており、胤時嫡子の胤定以降、鏑木郷に移住している。そして、その子孫が「白井」を称することはなかったと推測される。
白井胤定(1205-1273)
白井氏二代。鏑木氏初代。父は千葉八郎胤時。通称は九郎。法名は胤定院在阿弥陀仏。熱心な浄土宗信者であった。胤定は香取郡鏑木郷(旭市鏑木)を拠点として子孫は「鏑木氏」となる。元久2(1205)年誕生(『光明寺縁起』より逆算)。
某年7月19日の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」であるが、この「白井九郎」は胤定とみられる。書状の背景は不明だが、僧了尊が自白供述した「夜討」に関し、ほかの容疑者との供述内容と異なっていることから、どちらが正しいのか判断できず、ひとまず鎌倉に上裁したことを千葉介頼胤が九郎胤定に報告したものである。千葉介頼胤は仁治2(1241)年に三歳で家督を継承し、胤定父・千葉八郎胤時が頼胤に代わって御所に出仕するなど千葉介代を勤めている。その後、後見役は次世代の千葉次郎泰胤や上総権介秀胤が胤時と交代するが、この報告を見ると、おそらく九郎胤定も後見人だったのだろう。
●某年7月19日「平某書状」
胤定は大須賀胤信の曾孫にあたる荒見弥四郎泰朝とともに香取郡における浄土宗の有力壇越として知られ、浄土宗三祖・良忠を庇護し、延応元(1239)年、鏑木城内に良忠を開山として鏑木山胤定院光明寺(旭市鏑木)を建立。「寄附田畑、山林等奉供敬」した。その後出家して在阿弥陀仏と号す。『吾妻鏡』に胤定入道の記録はなく、出家後は鎌倉から離れて鏑木に定住したものと思われる。胤定子孫は『吾妻鏡』が文永3(1266)年を最終年に失われているため、「白井小次郎胤資」「白井弾正忠行胤」以外に公的な史料に現れることはない。
●『浄土宗三祖言行録』
●『記主禅師行状絵詞伝』
翌仁治元(1240)年2月、良忠は四十二歳で「始めて相州鎌倉にいり」た。これは「依平副帥経時請」による招聘で、13年後の建長5(1253)年にふたたび鏑木光明寺に戻った。
翌建長6(1254)年8月上旬、良忠は鏑木光明寺に住寺している際に「九郎入道請」により『選択伝弘決疑鈔』五巻を著し胤定入道へ与えている(『増上寺史料集』『記主禅師行状絵詞伝』)。また、「有人の請(胤定であろう)」により8月15日前後の放生会を光明寺で挙行。このとき池の鯉の額に朱墨で梵字を書いて放ったという。
●『記主禅師行状絵詞伝』
康元2(1257)年正月17日、良忠は「下総福岡の草庵に居し給」いていた。良忠は鏑木光明寺と近接の「下総国匝瑳飯塚庄内松崎郷福岡村」の草庵(匝瑳市八日市場ホ)に拠点を有し「談処」となっていた(『定善義聞書』)。もともとこの地は千葉介常胤の弟・椎名六郎胤光(宝蓮)の末子・椎名八郎入道(福岡胤成)が地頭職を有する地であり、八郎入道は良忠を招くにあたり、福岡村に「坊一宇、田一町奉進」めており(『受決鈔』)、これが福岡村の談処のもとになったと思われる。椎名八郎入道は、胤定祖父・千葉介胤正の従兄弟となる。
千葉常重─+─千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤
(下総権介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介)
| |
| +─千葉常秀
| |(上総介)
| |
+―椎名胤光─+─椎名有光 +─千葉胤時───白井胤定
(六郎) |(太郎) (八郎) (九郎)
|
+─松山胤平──+─松山胤澄─+─松山胤村────松山胤継
|(次郎) |(小次郎) |(小次郎太郎) (又太郎)
| | |
| | +─松山泰胤──+─平木彦太郎
| | (又次郎) |
| | |
| | +─三与川彦次郎
| |
| |
| +─松山信胤───■■■■────飯塚弥四郎
|
|
+─椎名時胤──+─椎名胤家
|(四郎) |(四郎太郎)
| |
| +─椎名胤朝
| |(弥次郎)
| |
| +─山桑胤益─+─山桑重胤
| |(四郎) |(太郎)
| | |
| | +─侍従 +─荒野泰胤───■■■■
| | |(孫五郎) (弥五郎)
| | |
| +─長岡行胤─+─長岡胤貞──+─井戸野景胤──■■■■
| (五郎) |(又五郎) (孫六) (又五郎)
| |
| +─長岡胤直────■■■■─+─大浦■■
| | (六郎太郎)|(又太郎)
| | |
| +─長岡行村 +─■■■■
| (七郎) |(六郎次郎)
| |
| +─■■■■
| (六郎三郎)
|
+─野手胤茂────野手胤義───野手義成────野手■■───野手■■─+─野手胤倫
|(五郎) (彦三郎) (次郎) (弥五郎) |(孫太郎)
| |
+─椎名胤高──+─飯倉胤秀───飯倉胤春──+─■■■■───■■■■ +─長江実胤
|(六郎) |(太郎) (十郎) |(次郎) (十郎) |(孫次郎)
| | | |
| +─尾岳胤方─+─尾岳盛胤 +─■■■■ +─吉崎■■
| |(次郎) |(六郎) (五郎) (孫三郎)
| | |
| | +─尾岳胤員
| | |(弥次郎)
| | |
| | +─尾岳光胤
| | |(七郎)
| | |
| | +─尾岳胤■
| | |(八郎)
| | |
| | +─尾岳師胤────尾岳胤長
| | (九郎) (孫九郎)
| |
| +─堀河胤次───堀河清胤
| (四郎) (又四郎)
|
+─福岡胤成──+─泉川頼胤───泉川光時
(八郎) |(次郎) (弥五郎)
|
+─福岡胤泰─+─■■■■────■■■■
|(四郎) |(四郎太郎) (小四郎)
| |
| +─福岡胤頼────■■■■
| |(八郎左衛門)
| |
| +─富谷■■──+─■■■■
| |(弥四郎) |(平四郎)
| | |
| +─■■■■ +─■■■■
| (五郎) (七郎)
|
+─岩室資胤─+─岩室直胤──+─岩室胤長───岩室胤信
|(五郎) |(彦五郎) |(又四郎) (弥四郎)
| | |
| | +─■■■■
| | (五郎)
| |
| +─岩室台■■─+─宮下■■
| |(八郎)
| |
+─芝崎胤忠──+─芝崎■■ +─台■■
|(弥八郎) |
| |
+─芝崎■■ +─■■■■
|(九郎) |(与次)
| |
+─芝崎■■ +─空性
(十郎) |
|
+─式部
この日「上総周東の在阿弥陀仏」が良忠の「庵室に尋詣」して「手に手印の疑問を捧け、口に口伝の決答を請しけり」という(『記主禅師行状絵詞伝』)。なお、この在阿弥陀仏は鏑木胤定入道在阿弥陀仏ではなく、比叡山で名の知られた学僧在阿弥である。故郷の上総周東郡に草庵を営んでいたが、建長中から病に侵され吐血を繰り返しており、自らの死期を悟ったため、浄土思想を求めて法然房の教えに共感し、鎮西上人聖光の『授手印』を手にするが、自らが学んだ解釈とは異なっていた。そのため、法然から直に教えを受けた人々からその解釈を聞くための旅に出た。しかし、すでに直弟子はほとんど生存しておらず、たとえ面会してもすでに在阿弥を満足させるだけの答えは出せなかった。そして最後に嘉禄の法難で法然の遺骸を守った一人「秩父禅門道弁(渋谷七郎入道道遍)」を「相州石川」に訪問した。彼は渋谷庄司重国の末子「渋谷七郎重近」で、二代将軍頼家の代に将軍家御家人となった人物である。彼は幼少時、ほぼ同年配の宇都宮頼綱と仲が良かったのか、その出家のきっかけを「発心因縁者、幼少之時聞沙弥蓮生之念仏」(『決答鈔』)と述べている。出家の時期は「生年二十五之時出家師事上人」とあるように、若年より法然房の給仕の門人として仕えた。当時は八十歳前後と推測される。道遍は下総国鏑木に住む良忠が聖光上人の正統と伝えたのだろう。在阿弥はここから一路鏑木へ向かい、福岡の草庵を訪れたのである。在阿弥はここで良忠から疑問点を払拭する所説を聴き、三十日ほどをこの草庵に過ごし、良忠から在阿弥へ『決答授手印疑問鈔』二巻が渡されたのであった(『増上寺史料集』第五巻)。在阿弥は押し頂いて周東郡の草庵に戻ると、数日後の2月24日に寂した。草庵のあった場所には現在、補陀洛院三経寺(君津市市宿)がある。
●『記主禅師行状絵詞伝』
文永10(1273)年2月16日に亡くなったという(『鏑木山胤定院光明寺過去帳』)。享年六十九(『光明寺縁起』)。法名は胤定院殿在阿弥陀仏。
弟の十郎信清は「長吉」(『神代本千葉系図』)と見えるので、武射郡長吉郷(茂原市下永吉、上永吉)に移ったとみられる。
胤定入道のあとの白井氏は、『神代本千葉系図』に諱が見られる白井六郎行定が継いだとみられ、その孫にあたる白井行胤(孫次郎)は、観応3(1352)年3月24日に尊氏が円覚寺正続院へ寄進した「相模国毛利庄厚木郷半分」の「沙汰付下地」のために厚木郷へ派遣された両使の一人・白井弾正忠行胤であろう(観応三年四月八日『弾正忠行胤打渡状』『円覚寺文書』)。
●『神代本千葉系図』
千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
| |
+─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
|(上総介) |(九郎次郎)
| |
| | +─白井親胤
| | |(孫太郎)
| | |
+─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
(八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
| |
| +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| |(七郎) (孫八郎) |
| | |
| | +―白井胤継
| | (孫九郎)
| |
| +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
| | | |
| +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
| | | |
| | | |
| +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | |(彦九郎)
| | |
| +─白井五郎 +─鏑木胤信
| |(彦十郎)
| |
+─長吉信清 +─鏑木胤方
(十郎) (余一)
伝によれば、胤定入道の跡の鏑木郷は、胤定姉妹の夫(義兄弟)にあたる金田小大夫成常の子・孫八郎胤泰が継いだとされている。八郎胤時、九郎胤定が継承していた本領は下総国白井庄であり、鏑木郷は胤時遺領のひとつで胤定入道が引退後に移り住んだ地であるため、本領白井庄の地頭職は実子に継承され、隠居所の鏑木郷は胤泰へ継承された可能性があろう。
弟の十郎信清が移り住んだ武射郡長吉郷(茂原市下永吉、上永吉)もまた千葉八郎胤時の遺領地とみられるが、胤定・信清の義兄弟・金田小大夫成常の本貫・長柄郡金田郷(長生郡長生村金田)とは一宮川を挟んで隣接しており、千葉胤時と金田成常は鎌倉において知己だった可能性があろう。
鏑木郷を継承した胤泰以降の鏑木氏については「鏑木氏」を参照。
白井行定(????-????)
白井氏三代。父は白井九郎胤定。通称は六郎(『神代本千葉系図』)。
鎌倉期の白井氏は『神代本千葉系図』に見える名が実在の人物とみられ、行定の孫に当たる「行胤孫次郎」は足利尊氏の被官として見える白井弾正少弼行胤と想定される。そしてこの行胤の所領が安芸国阿南郡にあることから、中国地方の白井氏は行胤の子孫と推測される。
下総白井氏もおそらく胤定の子孫が継承したとみられるが、実名が伝わる六郎行定系か弟の七郎胤国系であるかは不明。このほか、千葉介常重の弟・白井次郎常親の子孫もまた「胤」字を持つ白井氏として存続しており、中でも常親四代の孫・白井左衛門尉胤長は、胤泰父・白井九郎胤定と同世代となるが、彼は鎌倉中頃(13世紀中頃)において白井氏中で唯一「左衛門尉」に任じられている人物であることから、白井次郎常親の系統が下総白井氏惣領である可能性も否定できない。
●『神代本千葉系図』
平常兼──+─千葉常重─+─千葉常胤───千葉胤正──+─千葉成胤 +─白井次郎太郎
(下総権介)|(下総権介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介) |
| | | |
| +─椎名胤光 +─千葉常秀 +─白井定氏──+─白井四郎
| (六郎) |(上総介) |(九郎次郎)
| | |
| | | +─白井親胤
| | | |(孫太郎)
| |【胤時流白井氏】 | |
| +─千葉胤時──+─白井胤定─+─白井行定──+─白井胤継───白井行胤───白井太郎丸
| (八郎) |(九郎) |(六郎) (孫次郎)
| | |
| | +─白井胤国────白井胤幹─+─白井彦八
| | |(七郎) (孫八郎) |
| | | |
| | | +―白井胤継
| | | (孫九郎)
| | |
| | +―鳴矢木胤泰─+─鏑木胤朝─+─鏑木胤高
| | |(八郎入道) |(彦八郎) |(弥八郎)
| | | | |
| | +─白井十郎 +―円仁 +―鏑木小八郎
| | | | |
| | | | |
| | +─理胤 +─鏑木胤鑑 +─鏑木余次
| | | |(彦九郎)
| | | |
| | +─白井五郎 +─鏑木胤信
| | |(彦十郎)
| | |
| +─長吉信清 +─鏑木胤方
| (十郎) (余一)
|【常親流白井氏】
+─白井常親─+─白井常実───白井胤秀
|(次郎) |(太郎) (三郎)
| |
| +─白井常高 +─白井胤長
| |(次郎) |(十郎)
| | |
| +─白井常泰─+─白井頼秀 +─小松河有忠───小松河盛時
| |(六郎) |(四郎) |(小太郎) (又太郎)
| | | |
| | +─白井胤家 | +─小松河次郎太郎
| | (六郎) | |
| | | |
| +─白井親忠─+─白井清忠 | +─白井胤長
| (八郎) |(八郎太郎) | |(左衛門尉)
| | | |
| +─小松河助忠─+─小松河吉忠─+─小松河清胤
| (八郎次郎) (次郎) (六郎)
|
+─匝瑳常広───飯高将胤─…飯高氏
(八郎) (次郎)
白井胤継(????-????)
白井氏四代。父は白井六郎行定。通称は不明(『神代本千葉系図』)。
胤継の叔父・白井七郎胤国の孫に「胤継孫九郎」が見え、彼と同一人物の可能性もあるか。伝は不祥。
白井行胤(????-????)
白井氏五代。父は白井胤継。通称は孫次郎(『神代本千葉系図』)。官途は弾正忠、左衛門尉。
観応3(1352)年3月24日に尊氏が円覚寺正続院へ寄進した「相模国毛利庄厚木郷半分」の「沙汰付下地」のために厚木郷へ派遣された両使の一人に「白井弾正忠」「弾正忠行胤」が見え(観応三年四月八日『弾正忠行胤打渡状』『円覚寺文書』)、白井定氏子孫の行胤と想定される。この「白井弾正忠」が知行したのが、のちの安芸白井氏の本拠となる「安藝国阿南郡府中内」(弘治2(1556)年10月23日『大内義長知行安堵状』)であることから、安芸白井氏は白井弾正忠行胤の末裔であろう。
●観応3(1352)年3月29日『沙弥心省奉書写』(『古簡雑篇』所収)
●観応3(1352)年4月8日『弾正忠行胤打渡状』(『円覚寺文書』所収)
文和4(1355)年2月25日、足利尊氏の馬廻衆が相互に助け合う旨の一揆契状を作成し署判しているが、ここに「白井弾正左衛門尉 行胤」の名が見える(文和四年二月二十五日「足利尊氏近習馬廻一揆契状」『越前島津家文書』)。
●文和4(1355)年2月25日『足利尊氏近習馬廻衆一揆契約状』(『越前島津家文書』)
●上記一揆の人名
| 名前 | 人物 | 『永享以来御番帳』 (1429~1441周辺) |
『文安年中御番帳』 (1444~1448) |
『長享元年在陣』 (1487) |
| かすやの越前 了義 | 糟屋越前了義 | |||
| はん四郎 助長 | 伴四郎助長 | |||
| こまさハの新蔵人 義員 | 駒沢新蔵人義員 | |||
| 嶋津薩摩守 忠春 | 島津薩摩守忠春 | 島津四郎 | 島津周防守 | |
| いつミの五郎さへもん 師忠 | 和泉五郎左衛門師忠 | |||
| さすのさへもんの大夫 道幸 | (さす)左衛門大夫道幸 | |||
| 松岡弾正さ衛門尉 盛時 | 松岡弾正左衛門尉盛時 | |||
| 三浦越中二郎左衛門尉 忠連 | 三浦越中二郎左衛門尉忠連 | 三浦平次郎 三浦平次 三浦遠江守 |
三浦遠江守 | 三浦駿河守貞連 三浦鶴寿 三浦兵庫介 |
| ふくのへ 氏重 | 福能部氏重 | |||
| むらかミかうち 貞頼 | 村上河内守貞頼 | 村上左京亮入道 村上彦三郎 村上弥四郎 |
村上左京入道 村上掃部助 |
|
| しまつ 忠兼 | 島津周防守忠兼 | 島津四郎 | 島津周防守 | |
| やまと 氏政 | 大和氏政 | 大和佐渡守 大和二郎 |
大和治部少輔孝宗 | |
| うつき 師重 | 宇津木師重 | 佐々木宇津木平次郎 | 宇津木平次郎 | |
| 大くさ 持継 | 大草三郎左衛門尉持継 | 大草孫次郎 大草三郎左衛門尉 |
||
| むらかミのかもんのすけ 氏頼 | 村上掃部助氏頼 | 村上左京入道 村上彦三郎 |
村上弥四郎 | 村上三河守頼房 |
| 山口のたんしやう 氏衡 | 山口弾正氏衡 | |||
| 山下のさきやうのすけ 氏秀 | 山下左京亮氏秀 | 山下中務少輔 山下辰法師 山下兵庫助 |
山下中務少輔 山下兵庫助 |
山下孫三郎 |
| うちかしま 泰連 | 内ヶ島泰連 | 内嶋又五郎 | ||
| 小笠原のミんふのせう 氏長 | 小笠原民部少輔氏長 | 小笠原備前入道 小笠原民部少輔 小笠原刑部大輔 小笠原山城入道 |
小笠原備前入道 小笠原刑部大輔 小笠原民部少輔 |
|
| 嶋津二郎さへもん 範忠 | 島津二郎左衛門範忠 | 島津四郎 | 島津周防守 | |
| ふくのへしやうけん 貞治 | 福能部将監貞治 | |||
| もりもと 顕景 | 森本顕景 | |||
| にへとみ 政元 | 新富政元 | |||
| 山口のかけゆさへもん 高衡 | 山口勘解由左衛門高衡 | |||
| やまとの弥太郎 政行 | 大和弥太郎政行 | 大和二郎 | 大和佐渡守邦永 大和兵庫介元継 大和三重左京亮 |
|
| たけたの兵庫助 信春 | 武田兵庫助信春 | 武田遠江守 武田又三郎 武田下条甲斐守 武田兵庫頭入道 武田中務大輔 武田五郎 |
下条甲斐守 武田兵庫頭入道 |
武田下条彦三郎 武田民部少輔尚信 武田小三郎信明 武田下条甲斐入道 |
| 小林五郎二郎 久信 | 小林五郎二郎久信 | 小林小太郎 | ||
| おう屋三郎入道 性善 | 大屋三郎入道性善 | 大屋修理亮 | 大屋伊豆守 | |
| たさきの三郎さ衛門尉 頼重 | 田崎三郎左衛門尉頼重 | |||
| いち 行明 | 市行明 | 市千六郎 市千夜叉丸 |
市弥太郎 市千夜叉丸 |
市次郎 |
| かけひのひやうこ 通保 | 筧兵庫通保 | |||
| 山下四郎さへもん 氏郷 | 山下四郎左衛門氏郷 | 山下中務少輔 山下辰法師 山下兵庫助 |
山下中務少輔 山下兵庫助 山下左近将監 |
山下孫三郎 |
| いちのたんしゃう 朝明 | 市弾正朝明 | 市千六郎 市千夜叉丸 |
市弥太郎 市千夜叉丸 |
市次郎 |
| いち四郎さへもん 信明 | 市四郎左衛門尉信明 | 市千六郎 市千夜叉丸 |
市弥太郎 市千夜叉丸 |
市次郎 |
| 市の九郎さへもん 春明 | 市九郎左衛門尉春明 | 市千六郎 市千夜叉丸 |
市弥太郎 市千夜叉丸 |
市次郎 |
| 市の大郎左衛門尉 氏明 | 市太郎左衛門尉氏明 | 市千六郎 市千夜叉丸 |
市弥太郎 市千夜叉丸 |
市次郎 |
| 薬師寺かけゆさへもん 義治 | 薬師寺勘解由左衛門尉義治 | |||
| 三村まこ七 為成 | 三村孫七為成 | |||
| 薬師寺しゆりのしん 義夏 | 薬師寺修理進義夏 | |||
| きたむらのさこんの大夫 守忠 | 北村左近大夫守忠 | |||
| くらさハの三郎左へもん尉 盛氏 | 倉沢三郎左衛門尉盛氏 | |||
| 井上 請広 | 井上請広 | 井上餘八 | 井上掃部助 | |
| かさわらの新さへもん 氏匡 | 笠原新左衛門氏匡 | |||
| 松浦十郎左衛門尉 源持 | 松浦十郎左衛門尉源持 | |||
| 山下左衛門大夫 政秀 | 山下左衛門大夫政秀 | 山下中務少輔 山下辰法師 山下兵庫助 |
山下中務少輔 山下兵庫助 |
山下孫三郎 |
| とうミふの五郎さゑもん 盛幸 | 藤民部五郎左衛門盛幸 | 藤民部又三郎 藤民部兵庫助 |
藤民部又三郎 藤民部兵庫助 |
藤民部又三郎政兼 藤民部中務少輔 |
| こほやの新五郎 経光 | 古尾谷新五郎経光 | |||
| とうミんふの新さゑもん 盛信 | 藤民部新左衛門盛信 | 藤民部又三郎 藤民部兵庫助 |
藤民部又三郎 藤民部兵庫助 |
藤民部又三郎政兼 藤民部中務少輔 |
| 志水 光宗 | 志水光宗 | |||
| 中村 時光 | 中村時光 | 中村河内入道 中村弾正忠 |
||
| 白井弾正左衛門尉 行胤 | 白井弾正左衛門尉行胤 | 白井太郎 | ||
| 笠原中務入道 匡蓮 | 笠原中務入道匡蓮 | |||
| 佐貫 宗綱 | 佐貫宗綱 |
その後の白井氏の子孫は定かではないが、『永享以来御番帳』では「一番」に「白井太郎」が載る。
白井弾正忠行胤以降、下総白井氏の記録は百年程途絶える。この百年の間に、白井氏は安芸国、若狭国に国人領主としての地位を築く。
室町時代後期、白井九郎胤定の養子・鏑木孫八郎胤泰の子孫とされる鏑木駿河守公永が、姉聟の真壁新七義成の子・白井三郎幹成を鏑木家に養嗣子として迎えた(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。公永は「千葉介康胤(康胤は「千葉陸奥守入道」とあるように千葉介に就いたことはない)」に、故地白井庄を給わるよう願い出て許されたのち、公永に実子・胤元が誕生。胤元に鏑木家を継承させるとともに、幹成には下総国白井庄を譲って下総白井氏を再興させたとする(『鏑木長泉寺系図』)。
白井幹成(????-????)
再興白井氏初代。鏑木駿河守公永の養子。実父は真壁新七郎義成。母は鏑木八郎四郎察胤娘。通称は三郎。「常陸国真壁郡白井地頭」という。胤時流白井氏を再興したと伝わる。
叔父の鏑木駿河守公永の養子となり鏑木幹成を称するが、養父公永が馬加康胤から給わった下総国白井庄(佐倉市飯塚・内田・岩富・西御門等)に派遣される。その後、養父公永に実子胤元が誕生したことから、幹成は下総国白井庄を正式に継承し、胤時流白井氏を再興して白井三郎幹成を称したという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
文明年中の太田道灌、二階堂某により下総国臼井城攻めに岩橋輔胤の指示を受けて臼井城の援軍に駆けつけ、「幹成先登力戦」したという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
白井胤永(????-????)
再興白井氏二代。父は白井三郎幹成。通称は三郎太郎。
永正・大永年間、下総国小弓城の「原次郎友幸」と「上総国真里谷三河守武田豊三」が累々合戦に及び、千葉介勝胤が小弓救援に出兵。真里谷武田氏と干戈を交えるが、このとき「胤永毎度突戦」ったという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
白井胤治(????-????)
再興白井氏三代。父は白井三郎太郎胤永。通称は下野入道。
千葉介利胤・親胤・胤富の三代に仕えた人物で、永禄7(1564)年春、越後の上杉輝虎が「来于下総臼井城」たとき、「千葉介胤富、使諸城主出援兵而討謙信」た(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。このとき「此時胤治能見機運、謀励味方之気、先登旧戦」と、胤治は兵を鼓舞し、上杉勢が撤退したのちは「胤治認跡討之」ったという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
『異本小田原記』によれば、「…無双の軍配の名人白井入道、折節弓箭修行に来りて、此城にありしが、敵陣を勘へ見て申しけるは、今度大敵発向すといへども更に恐るべからず、敵陣の上に立つ気、何れも殺気にして、田老に消ゆる、味方の陣中に立つ軍気、皆律気にして王相に消ゆる間、敵敗軍疑いなしと申しければ、皆頼もしくぞ思ひける、果して打勝ちけるぞ不思議なる…」とあり、白井入道は修行の身として臼井城に在城していたと記載されている。
胤治には嗣子がなく「故追幹成之例、養真壁下総守幹吉弟道務入道男宗幹為家督」としたという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。なお、宗幹は『水府志料』では真壁下総守幹吉の子となっている(『水府志料』)。
●『鏑木長泉寺系図』
+─真壁幹吉
|(下総守)
|
+─真壁家幹──────白井宗幹
(安芸守道務入道) (治部少輔)
白井宗幹(????-????)
再興白井氏四代。義父は白井下総守入道胤治。実父は真壁下総守幹吉(幹吉入道弥仙)。母は小山秀綱娘。室は千葉介胤富女子。通称は治部少輔。
千葉介胤富─+─千葉介邦胤─+─千葉重胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉新介)
| |
+─娘 +─鏑木俊胤
∥ (千葉権介)
∥ ∥
∥ +─女子 +─波留
∥ | |(仕神君・芳春院)
∥ | |
∥─────+─白井胤幹 +─娘
∥ |(備後守) |(豊島忠次妻)
∥ | |
∥ +─白井幹時──+─白井伊信
∥ |(民部少輔) (忠左衛門)
∥ |
∥ +─鶴牧信幹────高覚院様
∥ (茂右衛門) ∥───────陽春院様
∥ ∥ (瑞春院?)
白井胤永────白井胤治====白井宗幹 小谷忠栄 ∥──────徳松
(三郎太郎) (下総守) +─(治部少輔) (将監) ∥
| 徳川綱吉
小山秀綱────娘 |
(弾正少弼) ∥────+
∥
真壁幹吉
(下総守)
白井胤治には跡を継ぐ男子がなかったために、真壁下総守幹吉の子・宗幹を養子として迎えていたが、永禄9(1566)年に実子の平蔵胤隆が生まれた。しかし胤治はあえて実子・胤隆を嫡子とはせず、養子の宗幹に跡を継がせたというが、水戸藩に伝わる藩士譜『水府系纂』には、白井胤隆・胤邑兄弟の名は見えない。
天正10(1582)年、北条氏直は「催千葉介邦胤等之諸将士兵於若御子表」のとき、宗幹は千葉介邦胤の軍勢に属して若御子城に在陣したという。天正13(1585)年、北条勢による皆川山城守の長沼城攻めに際しては、千葉介邦胤も出陣要請を受けていたものの、「当時罹病」であったため、「遣麾下家臣等使宗幹為一手将軍発向焉」(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)という。「罹病」については、邦胤は天正13(1585)年5月7日に被官の「一鍬田五郎狂乱シ御額ヲキリツケ逝去」(『本土寺過去帳』『千学集抜粋』)しており、この事件を指しているとみられる。
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めにおいては、「千葉介重胤後改長胤及俊胤等率兵援北條氏、于湯本口宗幹従焉」と、宗幹は重胤・俊胤に従って小田原湯本口に入ったという(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。その後、小田原北条氏は豊臣秀吉に降伏し、北条氏政と氏照は自刃。当主の氏直は高野山へ追放となり、戦国大名小田原北条氏は滅んだ。これに伴い重胤・俊胤も改易となり、鎌倉時代より四百年にわたり下総国に反映した千葉惣領家もまた滅亡する。千葉惣領家の被官も土地を失い、帰農したり新たに入部した徳川家康の被官や陪臣となる道を選ぶことになる。白井宗幹もまた例に漏れず領地を失った(『鏑木長泉寺系図』写鏑木清春氏)。
以降は豊臣秀次家老の白江氏(白井氏)と意図的な混同がみられることや、小田原合戦前から宗幹嫡子の豊臣方への仕官という矛盾から、信憑性はないが「参考」として記載する。
『鏑木長泉寺系図』や『水府志料』によれば、小田原合戦が起こるより以前に宗幹嫡子・胤幹は所縁があって関白秀吉に仕え、扶持を得ていた。これにより、所領を失っていた宗幹もまた秀吉に召し出され、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の軍役にも従軍したという。その後の伝はない。
宗幹の末子・茂右衛門信幹は、「為鶴牧氏養子、結城氏族也」とあるように、結城氏庶流の鶴牧家の養子に入り「彼氏ノ族、増山五郎左衛門尚政女ヲ娶」ったという(『水府史料』)。そして、茂右衛門信幹の女子(高覚院)は小谷将監忠栄に嫁ぎ、のち徳川綱吉嫡子・徳松の母となる於伝ノ方(瑞春院)を産んだ。
鶴牧茂右衛門については、千葉介邦胤の次男・鏑木権之助俊胤の末裔と称して、江戸時代に千葉家復権活動を行った一人「千葉権之助(千葉祥胤)」が増上寺へ提出した『千葉権之助願書』にも「瑞春院様御母公、高覚院様御父、靍牧茂右衛門様、千葉一族ニ而御座候」とある。享保11(1726)年時点には瑞春院は存世であることから、鶴牧茂右衛門が千葉氏血胤であることは公然と認められていたことがわかる。
●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』
なお、下野国都賀郡下高島村(栃木市大平町下高島)の宝蔵寺には「靏牧茂右衛門」以下の系譜が伝わっている(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)。それによると茂右衛門は「本多大隅守正純家来、高島村ノ人」であるという。どのような伝手で下総白井家と宇都宮鶴牧家が繋がったのかは不明だが、『水府系纂』によれば「為鶴牧氏養子」という。鶴牧氏は「此鶴牧家の事、上高嶋村名主にとひみれども、今は退転せしにや、村内にたへたりとこたふ」(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)とあるように、上高嶋村の名主だったようである。また、宇都宮藩士にも名が見え、文久年中の鶴牧半吾は六十石取の御役人並席・御制度方、鶴牧守衛は六両二分二人扶持で御供徒平・勤番方(『宇都宮郷土史』)と記録される。
●宝蔵寺蔵系図(『古河市史資料別巻』所収)をもとに作成
鶴牧茂右衛門──+─長女(高島村出生)
本多正純被官 | 崇心院
|
+─二女(高島村出生)
| 栗山伝右衛門妻
|
+─三女(高島村出生)─+─長女
高覚院殿 | 小谷武左衛門妻
|
+─二女
| 五ノ御丸 今三之御丸殿、御若名おてん様
|
+─三女
白須才兵衛妻 小石川御新造様へ申シ三千石
後ニ光政院様御事
●『寛政重修諸家譜』
小谷忠栄─+─瑞春院殿 西尾重行──────女子
(権兵衛) |(徳川綱吉室) (甚之助) ∥
| ∥
+=小谷守栄──+=小谷郡栄 +─小谷栄久 +─小谷守敬──+─女子 +=小谷忠英
|(武左衛門) (甚四郎) |(助九郎) |(幸之丞) | ∥ |(源三郎)
| ∥ | | | ∥ | ∥
| ∥───────+─女子 +─三浦定矩 +=小谷栄澄─+=女子
| ∥ |(忠右衛門) (武左衛門)
| ∥ |
| 一色定儀────女子 +─小谷久芳
|(九左衛門) |(八十八)
| |
+─女子 +─女子
∥ ∥
∥───────遠藤胤親 飯河盛篤
∥ (但馬守) (新右衛門)
白須政休
(才兵衛)
小谷忠栄
通称は太郎右衛門、将監、権兵衛。雑事従事者の黒鍬者という俗説があるが、明確にその出自を記した文献はない。瑞春院御方との所縁(瑞春院の父)があったことから、甲府宰相綱吉の神田館に仕えるようになった。延宝8(1680)年、将軍家綱(厳有院殿)が薨じたことから、綱吉が「本城にいらせたまふにより」、忠栄は「御家人江列し廩米三百俵をたまひ、牧野備前守成貞の支配」となった。延宝9(1681)年7月17日(7月27日とも)に亡くなった。法名は円珠。忠栄の実際の葬所は不祥。元禄8(1695)年、徳川綱吉は忠栄追善のために駒込村に覚了山清浄寺世尊院を新たに建立。寛永寺の明王院快堂恵宏大僧都を開山とした。以降、小谷家の菩提寺となる(『寛政徴収所家譜』)。山号の「覚了院」は忠栄の法名「覚了院殿」から付けられたものだが、死去時の忠栄は三百俵取りの旗本に過ぎず「院殿」號は用いないため、世尊院建立の追善として送られた法号と思われる。法号は覚了院殿真岸円珠居士。
高覚院殿
父は鶴牧茂右衛門信幹。母は増山五郎左衛門尚政(結城氏族)女か(『水府史料』)。於伝ノ方の生母。
元禄9(1696)年9月10日に亡くなった。法号は高覚院殿月峯圓智大姉。世尊院に葬られた。
瑞春院殿
小谷将監忠栄の長女。母は某氏(実際は高覚院殿)。於伝ノ方。当初は桂昌院御方に仕えるが、のち館林宰相綱吉の御側に仕え、延宝5(1677)年4月8日に長女鶴姫、延宝7(1679)年5月6日に徳松を産んだ。延宝8(1680)年に綱吉が江戸城西の丸へ入ると五ノ丸と称する。宝永6(1709)年に綱吉が薨じたことから(常憲院殿)、剃髪して「瑞春院御方」と称し、三ノ丸に居住した。元文3(1738)年6月9日逝去。享年八十一。法名は到誉清月涼池瑞春院。芝増上寺に葬られた。
姉は「小屋武左衛門妻」(「宝蔵寺蔵系図」『古河市史資料別巻』)とあるが、これは父・忠栄の子は三姉妹で男子がなく、金井氏の男子を婿養子とし、武左衛門守栄と称して小谷家を継承している。妹は「白須才兵衛」の妻となり、その子は三上藩初代藩主遠藤但馬守胤親となる。
白井胤幹(????-????)
再興白井氏五代。父は白井治部少輔宗幹。母は千葉介胤富女子。通称は備後守。
『鏑木長泉寺系図』や『水府志料』などの白井氏系譜は、豊臣政権時代の歴代については、豊臣秀次の家老となった白江備後守成次に仮託した伝を採用しているため、千葉家流白井氏の胤幹についての事績は伝わらない。
『鏑木長泉寺系図』『水府志料』『水府系纂』等の所説によれば、白井治部少輔宗幹の子の胤幹、白井民部少輔幹時は「仕関白秀次」(『鏑木長泉寺系図』『水府系纂』といい、胤幹は文禄4(1595)年7月14日に「坐秀次之事、伏誅於京都四條龍池山西光寺」(『鏑木長泉寺系図』)とされている。ただし、前述の通りこの事績は、実際に秀次の家老となった「白井備後」「白江備後」「白江備後守成定」(『常山記談』)、「白井備後守範秀」(『古今武家盛衰記』)のものである。『古今武家盛衰記』によれば「白井備後守範秀」は「秀次の乳父にて、三好譜代の士なり」とあり、胤幹とは別人である。いつどのような経緯で胤幹が白江備後守に仮託されたのかは不明である。
●秀次「御附衆」(『大武鑑』)
| 中村式部少輔 | 中村一氏。 |
| 田中兵部少輔 | 田中吉政。 |
| 木村常陸介 | 木村重玆。山崎大門寺で自害 |
| 前野但馬守 | 前野長康。中村一氏邸で自害 |
| 粟野木工頭 | 粟野秀用。粟田口で自害 |
| 一柳左近将監 | 一柳直末。天正18年小田原陣で討死 |
| 服部采女正 | 服部一忠。上杉景勝邸で自害 |
| 熊谷内膳 | 熊谷直澄。嵯峨野二尊院で自害 |
| 白江備後守 | 白井成定。東山大雲院で自害 |
| 渡世左衛門佐 | 渡瀬繁詮。 |
| 山内伊右衛門 | 山内一豊。 |
| 堀尾茂助 | 堀尾吉晴。 |
実際に秀次の家老となった「白江(白井)備後守成定」は、天正12(1584)年の長久手合戦において、徳川家康旗下の水野藤十郎勝成と戦い、敗れて秀次とともに逃れた。そして文禄4(1595)年、秀次が太閤秀吉から謀反の疑いをかけられて高野山で自害した際、秀次の家老であった木村常陸介、粟野木工頭秀用、白江備後守成定、熊谷大膳亮直澄いずれもが自刃して果てた。また、『古今武家盛衰記』によれば、秀次が関白に就任すると白江備後守は六万石を知行したとある。秀次が謀反の嫌疑をかけられた際には秀次助命のために奔走したが報われず、秀次は自刃を命じられた。成定は秀次の自刃を覚悟しており、秀次とともに生活していた高野山を下ってひっそり京都に帰ると、懇意にしていた四条東山の大雲院に一切を語り殉死した。