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本庄海上氏
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海上胤栄性宗の子。官途は伊豆守。金剛授寺九世住持・円覚法印の供侍。
彼の五世・本庄図書助胤知は妙見宮御番の事として、好寂坊と相番として「深山図書之助 円覚御供 本庄五世孫也」とある。本庄図書助胤知が「深山図書助」を称した理由は不明だが、円覚の供となった「本庄」の五世の孫ということとなり、彼の五代前は、鎌倉奉公衆だった海上頼胤の孫と思われる本庄伊豆守胤定となる。「円覚」は金剛授寺九世住持・法印円覚(麻里四郎満胤の子とされるが、時代的に千葉介満胤の子?)のことと思われる。
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本庄伊豆守胤定の子か。通称は刑部丞。
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本庄刑部丞胤友の子か。通称は伊賀守。
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本庄伊賀守胤光の子か。法名は成範。
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本庄胤広成範の子か。通称は新六郎、官途は刑部少輔。
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本庄刑部少輔胤守の子か。通称は図書助。北斗山金剛授寺妙見宮御番。
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| 千葉神社(北斗山金剛授寺尊光院) |
永正2(1505)年11月15日、千葉介勝胤の子・昌胤が千葉金剛授寺にて元服式を挙げることとなり、まず佐倉より高篠城(高品城)へ入城した。この城より西が千葉とされていたようである。この元服式の金剛授寺側の奉行が胤知だった感がある。
住持の権少僧都範覺の御使として「本庄図書助胤知」が出迎えに参上し、昌胤に拝顔ののち、木村出雲守とともに高篠城にて諱の一字の三案を請け取り、木村出雲守とともに金剛授寺へ戻ると、神前にて籤を引き「昌」の一字を引き当てて御字と定められた。これを木村出雲守が請け取って高篠まで戻り、「昌胤」と名乗ることとなった若き千葉家嫡子は金剛授寺へと向かった。先陣は原孫七、後陣は幡谷加賀守が務め、二騎の供騎馬、若侍二十騎を従えての行程であった。高篠城から千葉までの警固の面々はみな裸足、馬上はただ三騎のみであった。
昌胤は堀内の南門(金剛授寺南門?)で馬を降り境内へと入る。惣代七社大明神の御前には注連縄が引かれ、妙見参詣の道から庭までは新菰が敷かれ、昌胤は藺草履を履いて進んだ。庭に着くと今度は沓を履き、出迎えに出ていた権少僧都範覺に迎えられた。そして妙見の神前にて昌胤は御酒七献を済ませた。
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| 亥鼻城址 |
永正13(1516)年8月23日、上総国真名城主・三上但馬守が千葉に攻め寄せた。このときの金剛授寺の住持は十二世・権少僧都範覺(原胤隆子)だったが、金剛授寺は亥鼻一帯も領していて、三上但馬守が押し寄せた際には住持・範覺自ら軍を率いて亥鼻で戦ったようである。しかし二千騎という大軍で押し寄せた三上勢に攻め落とされてしまった。亥鼻城址の発掘によってこの地からは、かわらけや狛犬、宝篋印塔などが発掘されるなど宗教的な場所であったことがわかっており、城砦ではなく金剛授寺の関連施設が建てられていたのだろう。
この三上氏との戦い以前は妙見宮を二人番としていたという(『千学集抜粋』)。胤知は「守殿」に変わり、好寂坊とともに相番としてこれを務めていた。このときの記録では胤知は「深山図書之助 円覚御供 本庄五世孫也」とある。戦いののちは、侍番は廃止され、「供分の御番」のみとされた。
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本庄図書頭胤知の子。通称は内匠助、伊豆守。法名は玉意。北斗山金剛授寺妙見宮供番。
●天文19年11月23日妙見御遷宮式の寄進衆(『千学集抜粋』)
| 寄進者 | 持参供 | 寄進物 | 請取 |
| 千葉新介親胤 | 馬場又四郎胤平 | 御馬 | 本庄新六郎胤里 |
| 原大蔵丞胤安 | 御太刀 | ||
| 原式部太夫胤清 | 原九郎左衛門尉胤行 | 神馬 | 金親兵庫政能 |
| 牛尾左京助胤道 | 太刀 | ||
| 牛尾孫次郎胤貞 | 原隼人佐胤次 | 神馬 | 小河外記助政俊 |
| 齋藤源太左衛門尉清家 | 太刀 | ||
| 椎崎 | 小河大膳 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 宍倉与三郎 | 太刀 | ||
| 成戸 | 三谷下野守 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 小河新蔵 | 太刀 | ||
| 公津 | 円城寺源五郎 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 湯浅源三郎 | 太刀 | ||
| 寺台 | 高千代大膳亮 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 瀬村惣九郎 | 太刀 | ||
| 鹿島 | 三谷右馬助 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 宍倉惣九郎 | 太刀 | ||
| 牛尾右近太夫 | 牛尾平右衛門 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 |
| 牛尾兵部少輔 | 太刀 | ||
| 大須賀、助崎(大須賀氏)、小見川(粟飯原氏)、海上殿、相馬殿、府馬、鏑木、米井(木内氏)、井田、山室、三谷、椎名、粟飯原、三幡谷、神崎殿、野手、押田、神能 | 御馬 | 本庄伊豆守胤村 | |
天文16(1547)年7月、千葉新介親胤、原式部大夫胤清を旦那として千葉の北斗山金剛授寺尊光院(千葉神社)に妙見宮が建立された。その際の妙見寺住持は千葉介勝胤の九男・法印覺胤。本庄伊豆守胤村は法印覺胤の供侍を務めていた。建立の式典に際して、胤村は直垂烏帽子姿にて、先代住持の法印常覺(千葉介勝胤六男・現住持の兄)に御馬と太刀を披露したのち、「屋形様(千葉新介親胤)」「胤清(原式部大夫胤清)」、千葉六党の「御一門」、家臣たちへ次々に披露した。その後、三頭の黒馬は大工(白張烏帽子)、住持・覺胤、旦那・千葉新介親胤にそれぞれ下され、ほかの馬は番匠らに与えられた。
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| 千葉神社(北斗山金剛授寺尊光院) |
天文19(1550)年11月23日、遷宮式が執り行われた。胤村は小屋奉行への代物のほか、遷宮の棟上、遷宮までの一切を取り仕切った。
大檀那・千葉新介親胤は、馬場又四郎胤平に御馬を、原大蔵丞胤安に御太刀を持たせて臨席し、原式部大夫胤清は原九郎左衛門尉胤行に神馬を曳かせ、牛尾左京亮胤道に太刀を持たせ、胤清の子・牛尾孫次郎胤貞(原孫次郎胤貞)は原隼人佐胤次に神馬を曳かせ、齋藤源太左衛門尉清家に太刀を持たせて列した。
彼らが曳いてきた馬や太刀は、金剛授寺の寺侍が請け取ることとなり、千葉新介親胤の寄進した神馬は本庄胤村の子・本庄新六郎胤里が、原式部大夫胤清の神馬は金親兵庫政能が、牛尾孫次郎胤貞の神馬は小河外記助政俊がそれぞれ受け取り、その他国中諸侍衆の馬など馬数百八十三頭は胤村が受け取った。
弘治元(1555)年12月23日、千葉新介親胤の元服が金剛授寺にて執り行われた。10月10日には、安房里見家の正木大膳亮が千葉に乱入して放火を繰り返したため、11月満月の日の元服式が日延となり、今日の挙式となった。妙見神への進物や賽銭は先代の千葉介利胤と同様とした。本来は供騎馬は粟飯原と幡谷の二騎であったが、彼らが口論となったために罷免され、原左京亮一騎が供に選ばれた。諸社への御使いは安藤左衛門が任じられ、賽銭は神主へ渡された。また御神前への使いは木村左京亮が選ばれた。
金剛授寺住持・法印覚胤の使者として本庄内匠助胤村が佐倉から千葉へと向かってくる親胤一行を途中まで迎えに行き、親胤の供・原大蔵丞胤安とともに千葉への入口の城・高篠城(高品城)に入り、諱の候補三案を請け取ると金剛授寺に戻った。そして、神前にて籤を引いて「親」の字が選ばれ、御神前への使い・木村左京亮へ渡された。
胤村は上記の「千葉御家御元服儀式の事」を「内膳亮胤里、新六郎胤保、孫子にみせ候ハん為に、こまかに書して仮名を付おきし、某文字に拙くて、かきもちかひて候、当寺の事とも一々にかき」遺していたようである。時期はわからないが胤村が七十七歳のときに書き記したものである。これは金剛授寺の寺侍だった胤村が金剛授寺に遺したのだろう。『千学集』が編纂された際に取り込まれていったのかもしれない(『千学集抜粋』)。胤村の没年は不明である。
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本庄伊豆守胤村の子。通称は伊豆守、内膳亮。
天文19(1550)年11月23日、遷宮式が執り行われた。父の胤村が小屋奉行への代物のほか、遷宮の棟上、遷宮までの一切を取り仕切った。
大檀那・千葉新介親胤は、馬場又四郎胤平に御馬を、原大蔵丞胤安に御太刀を持たせて臨席し、原式部大夫胤清は原九郎左衛門尉胤行に神馬を曳かせ、牛尾左京亮胤道に太刀を持たせ、胤清の子・牛尾孫次郎胤貞(原孫次郎胤貞)は原隼人佐胤次に神馬を曳かせ、齋藤源太左衛門尉清家に太刀を持たせて列した。
彼らが曳いてきた馬や太刀は、金剛授寺の寺侍が請け取ることとなり、千葉新介親胤の寄進した神馬を胤里が請けとって奉納した。
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本庄内膳亮胤里の子。通称は新六郎、内膳亮。