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【佐賀藩主】
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直―――鍋島光茂―+―鍋島網茂 +―鍋島宗教
(駿河守) |(信濃守) (肥前守) (丹後守) |(信濃守) |(丹後守)
∥ | | |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂 +―鍋島吉茂―――鍋島宗茂―+―鍋島重茂
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (丹後守) (飛騨守) |(信濃守)
(豊後守) | | |
+―娘 | +―鍋島治茂―――鍋島斉直――+
|(心月妙鏡)| (肥前守) (肥前守) |
| ∥ | |
| ∥ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| ∥ | |
| ∥ | +―鍋島斉正―――鍋島直大
| ∥ | |(肥前守) (侯爵)
| ∥ | |
| ∥ | +―鍋島茂快―――千葉胤廣
| ∥ | (播磨) (源六)
| ∥ |
| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞 【千葉頼母家】
| ∥ (忠右衛門)| ∥―――――+―千葉常成―――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以===千葉胤貞―+=千葉胤矩
| ∥ | ∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) |(舎人)
| 千葉介胤連 +―娘 | |
|(千葉介) (心光妙観) | +―千葉胤武――+
| | (順右衛門) |
| | |
| | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| | |
| | +―千葉胤明―――千葉胤佐―――千葉胤清―――千葉胤脩
| | (三郎右衛門)(八左衛門) (内匠) (頼母)
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| |【千葉八助家】
| +―鍋島常治―+―鍋島常範===鍋島胤貞
| (玄蕃) |(玄蕃) (官右衛門)
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| +―鍋島常長―――鍋島常安===千葉常良―――千葉常庸――千葉胤繁==千葉胤廣
| (忠右衛門) (忠右衛門) (忠右衛門) (八助) (八助) (源六)
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
千葉胤明(1763-1808)
千葉家八代。七代・千葉太郎助胤武の嫡子。通称は勝太郎、三郎右衛門。初名は胤連(『坂部家系図』)。妻は坂部次郎左衛門広明娘、のち石井縫殿孝知娘八重、のち須古宮内信清次女。佐賀藩長崎番所番頭。知行高は千石、物成四百石。藩祖・鍋島直茂の六代の孫にあたる。
【佐賀藩主】
+―鍋島勝茂―――鍋島光茂―+―鍋島宗茂―――鍋島重茂――鍋島治茂―――鍋島斉直――鍋島斉正
| |(飛騨守) (信濃守) (肥前守) (肥前守) (肥前守)
| |
| +―娘
| | ∥
| | 水野忠直――――――――――――――――鍋島直弼
| |(隼人正) (内匠)
| | ↓
| +――――――――――――――鍋島長行 +=鍋島直弼
| (内匠) |(内匠)
| 【旗本鍋島家】 ↓ | ∥―――――鍋島直益
| +―鍋島正茂―――鍋島正恭―――鍋島直旨==鍋島長行―+―娘 (帯刀)
| |(孫平太) (帯刀) (帯刀) (内匠)
| |
| | 岡部重師―――娘 千葉胤武
| | (善左衛門) ∥ (太郎助)
| | ∥ ∥――――――千葉胤明
鍋島直茂―+―鍋島忠茂―+―佐野茂久―――佐野茂貫―+―佐野種近――娘 (三郎右衛門)
(加賀守) (和泉守) (右衛門) (右京) |(太郎兵衛) ∥
| ∥―――――千葉胤佐―――千葉胤清
| 石井孝知―+―八重 (八左衛門) (内匠)
| (縫殿) |
| |
| +――――――――――――――佐野種員
| (九郎左衛門)
| ↓
+―佐野種政――佐野種恭―――佐野種恒――佐野種房===佐野種員
(右衛門) (幸兵衛) (孫太郎) (又四郎) (九郎左衛門)
安永元(1772)年10月、江戸藩邸の焼失につき、藩が藩士や領民から寄付を募った際、「千葉勝太郎被官 宮崎庄助」が銀三匁を寄付している(『泰國院様御年譜地取』)。また、「千葉太郎助跡」ともあることから、父・千葉太郎助胤武は永蟄居を赦されたのち、隠居したものと思われる。胤明が家督を継いだのは翌安永2(1773)年、治茂の代である(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。そしてその頃、二歳年下の坂部広明娘を娶ったのだろう。
●安永元年十月江戸屋敷延焼につき千葉家被官寄付者
| 千葉八助被官 (千葉常良?) |
今泉和太郎 |
| 井上庄五郎 | |
| 千葉太郎助跡被官 (千葉胤武) |
大塚利十 |
| 山崎喜右衛門 | |
| 菊地市郎兵衛 | |
| 千葉勝太郎被官 (千葉胤明) |
宮崎庄助 |
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| 光勝寺の坂部氏墓 |
天明元(1781)年11月25日、寿綱院(宗教室)の中陰払につき、圓諦院(重茂室。田安宗武長女)の名代として「千葉三郎右衛門」が参堂した(『泰國院様御年譜地取』)。
天明2(1782)年8月14日、妻の坂部氏が亡くなった。享年十八。法名は真月院妙心日照大姉。光勝寺の千葉家墓所に埋葬された。
天明4(1784)年12月28日、山中で飢えていた者を助け、朝夕十日にわたり粥を与えて介抱した人物として「千葉三郎左衛門(ママ)被官 中村貞右衛門 中村与右衛門、大木勝右衛門被官 小池長右衛門 松本三左衛門」の名が見える。その賞として五百文が下された。
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| 千葉胤明等寄進灯籠 |
文化2(1805)年正月10日、藩公・鍋島肥前守治茂が亡くなった。享年六十一。法名は泰国院殿教学良化大居士。これに際し、成富源之丞、岡部才一郎、多久織部、坂部八郎大夫、岩村右近、大木内匠、江副忠兵衛、江副金兵衛、蒲原次右衛門、相良内記、岡部宮内、竹田文右衛門らとともに「千葉三郎右衛門」が石灯籠を奉納している。
この年、「千葉三郎右衛門 忰勝之助」の両名が鍋島帯刀組に属していることがわかる(『部類着到』十)。11月4日、子の兵五郎が亡くなった。法名は覚明院青碧童子。さらに翌文化3(1807)年正月9日、後妻の石井氏が亡くなっている。法名は纏絡院殿妙昭日麗。その後、須古宮内信清の次女を娶った。須古家は竜造寺隆信の弟・竜造寺安房守信周を祖とする「御親類同格」の家だが、信清の家は須古家の分家にあたる(家祖の龍造寺家俊は本来長男だが、弟・信昭とともに文禄の役に従軍して客死したため、弟・信昭が須古家を継承して本家となった)。
文化5(1808)年8月15日、英国フリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきた。当時、イギリスは敵国フランスに併合されたオランダとは対立関係にあり、フェートン号はオランダ船を拿捕するために長崎五島列島沖に停泊していた。しかしオランダ船は現れず、薪や食料などが不足してきたため、フェートン号のペリュー艦長は日本を騙してそれらを手に入れることにした。
フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎港に入港してきたが、ここでイギリス船と知らずに出迎えに出たオランダ商館の商館員二名を捕虜とし、さらに食料、水、薪などの提供を求めた。応じなければ長崎を焼き尽くすという、イギリス側の強引な申し出であった。俗に「フェートン号事件」という。17日、フェートン号が長崎を離れていったその日、幕府の長崎奉行・松平図書頭康英は自刃して果てた。
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| 小城光勝寺の千葉胤明墓 |
一方、このとき佐賀藩が長崎千人番の当番であったが、佐賀藩は本来藩兵を千人置くべきところ、財政難のため、わずかに百五十人しか置いていないという不手際を犯していた。当番ではない大村藩や島原藩などの藩兵は応援のためにすでに到着していたにも関わらず、当の佐賀藩からの兵が一向に現れる気配はなく、フェートン号が長崎を発した後に佐賀藩兵千名が長崎に現れた。この後手後手の行動に佐賀藩には批判が集中。藩の面目を潰したとして、番頭の胤明と蒲原次右衛門孝古が責任を取って、9月26日夜、それぞれ自宅において自刃した。享年四十六(『エゲレス船長崎入津之一通』)。法名は彗岳院殿徹玄日熈居士。
「千葉は従容と死に就きしが、蒲原は先代より緊要の地に当りゐしにも似ず、頗る度を失ひたりといふ」(『鍋島直正公伝』)とあり、胤明の立派な最期をうかがい知ることができる。また、この一件では、藩主・鍋島斉直も幕府より逼塞を命じられている。
胤明の遺骸は菩提寺の小城光勝寺に埋葬された。光勝寺の千葉家墓所にある胤明の墓は、円通寺の千葉家歴代の墓よりはだいぶ小ぶりではあるが、石扉のついた立派なものである。
妻の須古氏は文化9(1812)年5月28日、三十四歳で亡くなった(『須古家系図』)。法名は恵門院徹如日静大姉。胤明墓所の前に葬られている。
・『佐賀県近世資料』
・『部類着到 十』(鍋島報佼会)
・『エゲレス船長崎入津之一通』(鍋島報佼会)
・『鍋島直正公伝』
・『須古家系図』(鍋島報佼会)