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【佐賀藩主】
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直―――鍋島光茂―+―鍋島網茂 +―鍋島宗教
(駿河守) |(信濃守) (肥前守) (丹後守) |(信濃守) |(丹後守)
∥ | | |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂 +―鍋島吉茂―――鍋島宗茂―+―鍋島重茂
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (丹後守) (飛騨守) |(信濃守)
(豊後守) | | |
+―娘 | +―鍋島治茂―――鍋島斉直――+
|(心月妙鏡)| (肥前守) (肥前守) |
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| ∥ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| ∥ | +―鍋島斉正―――鍋島直大
| ∥ | |(肥前守) (侯爵)
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| ∥ | +―鍋島茂快―――千葉胤廣
| ∥ | (播磨) (源六)
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| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞 【千葉頼母家】
| ∥ (忠右衛門)| ∥―――――+―千葉常成―――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以===千葉胤貞―+=千葉胤矩
| ∥ | ∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) |(舎人)
| 千葉介胤連 +―娘 | |
|(千葉介) (心光妙観) | +―千葉胤武――+
| | (順右衛門) |
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| | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| | +―千葉胤明―――千葉胤佐―――千葉胤清―――千葉胤脩
| | (三郎右衛門)(八左衛門) (内匠) (頼母)
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| |【千葉八助家】
| +―鍋島常治―+―鍋島常範===鍋島胤貞
| (玄蕃) |(玄蕃) (官右衛門)
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| +―鍋島常長―――鍋島常安===千葉常良―――千葉常庸――千葉胤繁==千葉胤廣
| (忠右衛門) (忠右衛門) (忠右衛門) (八助) (八助) (源六)
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
千葉胤脩(1828-1870?)
千葉家十代。父は千葉内匠胤清。通称は頼母。
安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば、「物成弐百七十石 西御堀端 千葉頼母 二十九」とあり、文政11(1828)年の生まれと思われる。
天保9(1838)年頃、「千葉頼母」は物成高二百七十石(三根郡167.262石、小城郡102.738石)を知行し、大組頭(当時二十四家)で最後の佐賀藩主・鍋島肥前守斉直(のち直正)に仕えた。
●千葉頼母所領
| 所領 | 石高 | 現在地 |
| 三根郡田嶋村 | 132.262 | 三養基郡みやき町大字西島 |
| 三根郡中津隈村 | 35 | 三養基郡みやき町大字中津隈 |
| 小城郡黒原村 | 102.738 | 小城市小城町晴気大字黒原 |
嘉永4(1852)年当時の『分限着到』によれば、「千葉頼母」は鍋島十右衛門組に属し、知行六百七十五石、物成二百七十石を有していた。慶応3(1868)年夏における『惣番秩禄』においても物成二百七十石である。
元治元(1864)年の『座席帳』によれば、「千葉頼母」の藩内席次は三十三席となっている。また、同年6月13日当時、長崎戸町御番所におり(『胸秘録』)、この日、伊東次兵衛が頼母を訪問している。曽祖父・三郎左衛門胤明以来、千葉家当主が長崎へ赴任していた様子がうかがえる。なお、当時の胤脩は、鍋島監物組に属し、御小荷駄奉行と士組代を兼ねていた。
明治元(1868)年において「千葉頼母胤脩」は三十一席、のちの佐賀藩権大参事・中野数馬匡明の前席である。新政府による江戸攻めに加わるため、藩公・鍋島直大が出陣。直大の近衛衆として鍋島監物組があたり、胤脩は監物隊の侍組隊長を務めている。
没年等不明。光勝寺内千葉家廟所にある「千葉勝太郎」と胤脩の関わりは不明だが、「千葉勝太郎」は明治3(1870)年正月19日卒。法名は勝嶽院殿孝慮日全居士。
・『佐賀県近世資料』
・『大小配分石高帳』(鍋島報佼会)
・『部類着到 十二』(鍋島報佼会)
・『座席帳』(鍋島報佼会)
・『分限着到』(鍋島報佼会)
千葉常男(????-1903)
父は千葉頼母胤脩か? 明治期の佐賀県教育者として大成し、佐賀県尋常中学校長、私立成美女学校主を歴任している。
明治36(1903)年に亡くなり、追悼会が開かれた(『鍋島市佑家資料』鍋島報佼会)。