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【佐賀藩主】
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直―――鍋島光茂―+―鍋島網茂 +―鍋島宗教
(駿河守) |(信濃守) (肥前守) (丹後守) |(信濃守) |(丹後守)
∥ | | |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂 +―鍋島吉茂―――鍋島宗茂―+―鍋島重茂
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (丹後守) (飛騨守) |(信濃守)
(豊後守) | | |
+―娘 | +―鍋島治茂―――鍋島斉直――+
|(心月妙鏡)| (肥前守) (肥前守) |
| ∥ | |
| ∥ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
| ∥ | |
| ∥ | +―鍋島斉正―――鍋島直大
| ∥ | |(肥前守) (侯爵)
| ∥ | |
| ∥ | +―鍋島茂快―――千葉胤廣
| ∥ | (播磨) (源六)
| ∥ |
| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞 【千葉頼母家】
| ∥ (忠右衛門)| ∥―――――+―千葉常成―――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以===千葉胤貞―+=千葉胤矩
| ∥ | ∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) |(舎人)
| 千葉介胤連 +―娘 | |
|(千葉介) (心光妙観) | +―千葉胤武――+
| | (順右衛門) |
| | |
| | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| | +―千葉胤明―――千葉胤佐―――千葉胤清―――千葉胤脩
| | (三郎右衛門)(八左衛門) (内匠) (頼母)
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| |【千葉八助家】
| +―鍋島常治―+―鍋島常範===鍋島胤貞
| (玄蕃) |(玄蕃) (官右衛門)
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| +―鍋島常長―――鍋島常安===千葉常良―――千葉常庸――千葉胤繁==千葉胤廣
| (忠右衛門) (忠右衛門) (忠右衛門) (八助) (八助) (源六)
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
千葉常良 (1750-????)
二十三代千葉氏当主。二十二代・千葉忠右衛門常安の養嗣子。通称は八助、忠右衛門。実は岡部善左衛門利旨の三男。妻は横尾長健娘。寛延3(1750)年に誕生。鍋島肥前守治茂の代に名跡を継いだ(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。妹は池田寛蔵利安妻(『池田家系譜』)。
千葉介胤連―――鍋島胤信===鍋島常貞――――鍋島常治―――鍋島常長――――千葉常安==========+―千葉常良
(右京大夫) (忠右衛門) (玄蕃) (玄蕃) (玄蕃) (忠右衛門) |(忠右衛門)
∥ |
∥―――――――娘 |
鍋島茂春―――娘 ∥ |
(志摩) ∥ |
【徳美藩主】 ∥ |
伊丹康直 +―伊丹康勝 +―岡部重政=+―岡部重師 |
(大隅守) |(播磨守) |(七之助) |(善左衛門) |
∥ | | | |
∥――――+―伊丹重好――+―岡部重利―+―岡部利政====岡部利紀―?――岡部利旨――+―岡部利宣
∥ (長作) (宮内) |(治左衛門) (宮内) (善左衛門) (十右衛門)
岡部正綱――+―娘 |
(次郎右衛門)| +―岡部利紀
|【大垣藩主】 【岸和田藩主】 (宮内)
+―岡部長盛―+―岡部宣勝
(内膳正) |(美濃守)
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徳川家康=+―菊姫
(内大臣) (高源院)
∥――――――鍋島忠直――――鍋島光茂――――鍋島吉茂――――鍋島宗茂――――鍋島斉直
鍋島直茂―――鍋島勝茂 (肥前守) (丹後守) (丹後守) (飛騨守) (肥前守)
(加賀守) (信濃守)
実父・岡部善左衛門利旨は明和4(1767)年に浪人したが、子の十郎右衛門利宣は明和7(1770)年に帰参して二百五十石を与えられた。利宣は常良の兄である。
明和7(1770)年、「千葉八助」は鍋島弥平左衛門組に属している(『部類着到』九)。「千葉八助」は常良の子・常庸の通称であるが、彼はこのときわずか二歳であり、この「千葉八助」は当時二十一歳の常良であろう。常良の通称として伝わっているのは忠右衛門のみだが、それ以前は八助を称していたと思われる。これを傍証するのが、明和8(1771)年4月、「鍋嶋玄蕃…同人孫弥平左衛門組当主千葉八助」へ譲られた中ノ小路屋敷地の沽券状である(『明和八年佐賀城下 屋鋪御帳扣』)。なお、舅の「横尾長健」は明和8(1771)年5月、父(と思われる)の「横尾元求」から八幡小路の屋敷地を継承している(『明和八年佐賀城下 屋鋪御帳扣』)。この横尾元求と、常良養母常安妻(横尾元忠女)との関係は不明。
同年7月、鹿児島藩主・島津薩摩守重豪が参勤交代の途次、佐賀藩領内を通過した際、治茂は重豪が旅宿とした轟木、神埼、牛津、小田、塚崎、栄昌、矢上の各宿場に各役人を派遣して接待しているが、このとき神埼宿を差配したのが「千葉八助」であった。
安永元(1772)年9月、治茂の藩政改革につき、定法改正が藩重役に示されることとなり、小城、蓮池、鹿島の三家以下、御親類、同格、御家老中、大組頭、外様諸役侍中にいたるまで残らず登城すべき命が下った。しかし、すでに手元不如意であったにもかかわらず藩政改革に後ろ向きな支藩主の鍋島加賀守直愈(小城藩主)、鍋島摂津守直寛(蓮池藩主)は病気と称して登城せず、鍋島守三郎直宜(鹿島藩主)は参勤交代で江戸にいたため登城不可であった。さらに、御親類、同格なども不快を称して名代派遣に留まる者がほとんどであった。その中で「千葉八助」は「御目附」として列している。
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| 千葉忠右衛門奉納灯籠(右奥) |
安永9(1780)年2月2日、前藩公・鍋島丹後守宗教が六十三歳で亡くなった。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。これにつき、高伝寺の墓前に「千葉忠右衛門」が石川清九郎らとともに石灯籠を寄進している。
天明5(1785)年8月12日、海量院殿(鍋島宗茂)の二男・鍋島主膳直良が亡くなった。8月28日に葬礼が行なわれ、29日の御中陰払につき、「圓諦院様(田安宗武長女。鍋島重茂室)」の名代として「千葉忠右衛門」が参堂している。
天明7(1787)年4月末より長崎御番として鍋島志摩を筆頭に、番頭として多久弾右衛門、千葉忠右衛門らが派遣されることとなった。文化5(1808)年当時には、別家の千葉三郎右衛門胤明が番頭であったが、これは忠右衛門との血縁関係によるものかは不明。
寛政2(1790)年4月6日、藩主・鍋島治茂が参勤交代で佐賀へ帰城。留守居の千葉忠右衛門が江戸へ御帰国御礼の使者として差し向けられた(『泰國院様御年譜地取』)。
池田利安
(寛蔵)
∥―――――池田利睦―――池田利紀―?―娘
千葉常安―+―妹 (半九郎) (伸一郎) ∥
(忠右衛門)| ∥ ∥
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+=千葉常良――千葉常庸―+―娘 +―千葉常清[次男]
(忠右衛門)(八助) | |(小次郎)
+―娘 |
| ∥――――+―千葉八太郎[長男]
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| ∥ |
+=千葉胤繁 +==========千葉胤廣
(八助) | (源六)
+―娘 ∥
∥――――――――娘
∥
三浦深堀鍋島氏
墓碑の比定ができないが、おそらく常長墓碑の後ろ側にある墓石群の右から二つ目が常良夫妻のものと思われる。
・『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』(鍋島報效会)
・『池田家系譜』(鍋島報佼会)
・『岡部家系譜』(鍋島報佼会)
・『泰國院様御年譜地取』(鍋島報佼会)
・『明和八年佐賀城下 屋鋪御帳扣』(鍋島報效会)