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【佐賀藩主】
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直―――鍋島光茂―+―鍋島網茂 +―鍋島宗教
(駿河守) |(信濃守) (肥前守) (丹後守) |(信濃守) |(丹後守)
∥ | | |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂 +―鍋島吉茂―――鍋島宗茂―+―鍋島重茂
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (丹後守) (飛騨守) |(信濃守)
(豊後守) | | |
+―娘 | +―鍋島治茂―――鍋島斉直――+
|(心月妙鏡)| (肥前守) (肥前守) |
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| ∥ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| ∥ | +―鍋島斉正―――鍋島直大
| ∥ | |(肥前守) (侯爵)
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| ∥ | +―鍋島茂快―――千葉胤廣
| ∥ | (播磨) (源六)
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| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞 【千葉頼母家】
| ∥ (忠右衛門)| ∥―――――+―千葉常成―――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以===千葉胤貞―+=千葉胤矩
| ∥ | ∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) |(舎人)
| 千葉介胤連 +―娘 | |
|(千葉介) (心光妙観) | +―千葉胤武――+
| | (順右衛門) |
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| | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| | +―千葉胤明―――千葉胤佐―――千葉胤清―――千葉胤脩
| | (三郎右衛門)(八左衛門) (内匠) (頼母)
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| |【千葉八助家】
| +―鍋島常治―+―鍋島常範===鍋島胤貞
| (玄蕃) |(玄蕃) (官右衛門)
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| +―鍋島常長―――鍋島常安===千葉常良―――千葉常庸――千葉胤繁==千葉胤廣
| (忠右衛門) (忠右衛門) (忠右衛門) (八助) (八助) (源六)
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
千葉胤繁 (1802-1872)
二十五代千葉氏当主。二十四代・千葉八助常庸の養嗣子。実は草場忠左衛門経正の次男。通称は八助。妻は千葉八助常庸嫡女(節操院貞林妙松大姉)。
安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば、「物成弐百石 八幡小路 千葉八助 五十五」とあり、享和2(1802)年の生まれとなり、妻の常庸娘と同年生まれである。その後、長男の千葉八太郎が生まれ、文政10(1827)年には次男・小次郎常清が生まれているため、縁組をしたのは少なくとも文政8(1825)年以前ということになる。
「千葉八助」は鍋島斉正代に大組頭の家柄の一家に数えられている。天保元(1830)年、「千葉八助」は鍋島大隅組に属していた(部類着到 十二)。
●鍋島斉正代の大組頭(『鍋島直正公伝』)
| 水町弥太右衛門 | 二百三十五石 | 「侍頭高頭」の家柄で番頭となる家柄ではないが、列記されている |
| 深堀官兵衛賢時 | 二百三十石 | 深堀右馬助茂賢の三男・頼母長賢の末裔 |
| 小山平五左衛門 | 二百十石 | 龍造寺家庶流 |
| 多久縫殿安美 | 二百石 | 多久美作茂辰の四男・安美の末裔 |
| 千葉八助 | 二百石 | 千葉家二男の系統ながら惣領家 |
| 成松万兵衛 | 二百石 | 成松遠江守信勝の末裔 |
| 生野織部時好 | 二百石 | 豊後浪人ののち鍋島光茂に召し出された家柄 |
| 犬塚惣兵衛 | 二百石 | 蒲池党犬塚家続の末裔 |
| 中野杢之助 | 二百石 | 龍造寺家家老土橋家の末裔 |
| 竹田八右衛門 | 二百石 | 中野家庶流 |
| 池田半九郎利睦 | 二百石 | 池田弥市左衛門正利の末裔 |
| 相良五兵衛 | 二百石 | 相良求馬及真の妻・鶴氏の末裔 |
天保9(1838)年頃、「千葉八助」は三根郡内において二百石を領している。
●千葉八助所領
| 所領 | 石高 | 現在地 |
| 三根郡東尾村 | 81.842 | 三養基郡みやき町大字東尾 |
| 三根郡西嶋村 | 88.158 | 三養基郡みやき町大字西島 |
| 三根郡大坂間村 | 30 | 三養基郡みやき町大字寄人 |
嘉永4(1852)年当時の『分限着到』によれば、「千葉八助」は鍋島左馬助組に属し、知行五百石、物成二百石を有していた。
長男の千葉八太郎の没年および活動は不明だが、弘化2(1845)年当時には、鍋島志摩組に「八助忰」として列しており(『弘化二年惣着到』)、亡くなったのはその後のこととなる。
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| 千葉胤繁夫妻・常清(奥)廟 |
次男の千葉小次郎常清は武芸に秀で、鉄砲術は相良氏に学び、剣術を室節氏を師としてタイ捨流剣術を極めた人物だった。「室節氏」の具体的な人名は記載がないものの、天保期にタイ捨流剣術師範として室節勘兵衛乗邦が見えることから(『諸芸師範家系図』)、おそらく常清が付いた師範は彼であろう。常清は池田氏娘を娶るも死別したため、深堀太夫娘を後妻に娶る。しかし子はなく、安政5(1858)年11月7日、若くして病死してしまった。法名は雄心院弧峰宗秀居士。安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば「千葉小次郎 三十」とあるため、文政10(1827)年の生まれとなる。享年は三十二となり、常清の墓碑と一致する。
常清没後、胤繁妻(常庸娘)は大田太夫(大田播磨茂快カ)の二男・源六を養子に迎え、孫娘(三浦氏)を妻とした。胤繁妻は延元元(1860)年11月27日に五十九歳で急死し、圓通寺に葬られている。
元治元(1864)年当時、「八助」は足軽二十五人与頭であった(『佐賀藩拾六組侍着到』)。慶応3(1867)年夏における『惣番秩禄』には「千葉八助」は物成二百石とある。
明治5(1872)年8月14日卒。享年七十一。千葉家菩提寺・小城の圓通寺に葬られた。