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【佐賀藩主】
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直―――鍋島光茂―+―鍋島網茂 +―鍋島宗教
(駿河守) |(信濃守) (肥前守) (丹後守) |(信濃守) |(丹後守)
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∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂 +―鍋島吉茂―――鍋島宗茂―+―鍋島重茂
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (丹後守) (飛騨守) |(信濃守)
(豊後守) | | |
+―娘 | +―鍋島治茂―――鍋島斉直――+
|(心月妙鏡)| (肥前守) (肥前守) |
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| ∥ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| ∥ | +―鍋島斉正―――鍋島直大
| ∥ | |(肥前守) (侯爵)
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| ∥ | +―鍋島茂快―――千葉胤廣
| ∥ | (播磨) (源六)
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| ∥――――+―鍋島胤信―+=鍋島常貞 【千葉頼母家】
| ∥ (忠右衛門)| ∥―――――+―千葉常成―――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以===千葉胤貞―+=千葉胤矩
| ∥ | ∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) |(舎人)
| 千葉介胤連 +―娘 | |
|(千葉介) (心光妙観) | +―千葉胤武――+
| | (順右衛門) |
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| | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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| | +―千葉胤明―――千葉胤佐―――千葉胤清―――千葉胤脩
| | (三郎右衛門)(八左衛門) (内匠) (頼母)
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| |【千葉八助家】
| +―鍋島常治―+―鍋島常範===鍋島胤貞
| (玄蕃) |(玄蕃) (官右衛門)
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| +―鍋島常長―――鍋島常安===千葉常良―――千葉常庸――千葉胤繁==千葉胤廣
| (忠右衛門) (忠右衛門) (忠右衛門) (八助) (八助) (源六)
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
千葉常成(????-1697)
千葉鍋島家の分家・千葉家初代当主。十八代・鍋島玄蕃常貞の長男。妻は勝屋勘右衛門娘(松寒院節窓紹貞大姉)。母は千葉鍋島氏(心光妙観大禅定尼)(『千葉頼母親族帳』)。通称は右京、大学、太郎助。佐賀藩小馬廻、着座。
藩公・鍋島丹後守光茂の代、常成は部屋住ながら御供番を務めていたが、正保4(1647)年、白石御狩の節に供を怠った「無調法」を犯して出奔したため、弟の玄蕃常治が鍋島玄蕃家を継ぐこととなった。その後、常成は再び召し出され、寛文元(1661)年閏8月8日、鍋島光茂より知行地についての判物が発給され、父・鍋島玄蕃常貞の本知の内より晴気村に物成百石を与えられ、都合千石の知行を得る。出奔の過去によって兄の家ながら幕末に至るまで千葉家の分家であったが、惣領家(千葉八助家)と同格の着座家として幕末を迎える。
●『鍋島光茂判物』(「御判物差出」)
その後、寛文3(1663)年ごろまでに弟・鍋島八左衛門常治組を継承して大組頭を命じられた。ただし「鍋島」の名字は許されず「千葉」に改めている。同じく寛文3(1663)年、小馬廻に就任。寛文7(1667)年には鍋島監物正純組を継承して大組頭となった。その後、寛文9(1669)年頃に大組は生野織部孝祖へ継承される。
寛文11(1671)年9月14日、鍋島茂治ら四十名が藩主・鍋島光茂・綱茂に対して忠節を誓い、他家に仕官することや徒党を組むことなどを禁じる旨の血判起請文を提出した。その中に「鍋島玄蕃(常治)」、「千葉大学(常成)」とその子「千葉頼母(常輝)」の名が見える。
●「鍋島志摩茂治外四十名連署起請文」
| 鍋島杢助 | 山崎久太夫 | 石井市佑 | 小川作兵衛 | 千葉頼母 | 大木左助 | 鍋島左太夫 |
| 鍋島源右衛門 | 木下五兵衛 | 多久勘助 | 百武伊織 | 中野九郎兵衛 | 多久縫殿 | 喜多嶋外記 |
| 小国十郎右衛門 | 山崎勘解由 | 石井修理 | 小川舎人 | 千葉大学 | 大木兵部 | 鍋島内記 |
| 中野数馬 | 鍋島采女 | 佐野主膳 | 鍋島十太夫 | 生野織部 | 多久兵庫 | 岡部七之助 |
| 有田内匠 | 鍋島喜左衛門 | 鍋島将監 | 鍋島玄蕃 | 岡部宮内 | 鍋島監物 | 有田主計 |
| 成富十右衛門 | 相良求馬 | 鍋島式部 | 鍋島主税 | 鍋島志摩 |
その後、長崎御番頭の大役に抜擢され、天和2(1682)年4月9日、長崎を訪れた藩主・光茂は、長崎戸町御番所において、供の鍋島主水直朗・鍋島官左衛門茂春、そして千葉太郎介へ御番の大意を語っている。このとき同道していた鍋島官左衛門茂春の娘は常成の弟で宗家を継いだ玄蕃常治に嫁いでいる。
光茂は人を遠ざけると、この三人に対し、将軍・綱吉から長崎の番について勤め上げることを命じられた旨を告げ、「長崎ハ異国江対、日本之恥をかゝぬ所か肝要之目当也、自然御制禁船着岸一戦及時は、我等一番ニ討死スル覚悟也、是日本之恥をかゝぬ根本也、我等討死之跡ニハ右衛門佐殿手柄をイタサルニテ有之ヘシ、長崎御番我等覚悟之大意トハ此儀也」と申し聞かせた。
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| 円通寺の千葉常成墓(右端) |
そして関が原の陣で西軍についたことは豊臣家の恩を思ってのことで、人は皆西方についたことは誤りというが私としてはまったく取り違えたとは思っていないとし、さらに西軍についた鍋島家を取り潰さずに安堵してくれた「権現様御恩難申尽」く、「長崎御番被仰付置候こそ幸候」とし、「一番ニ命を捨、御恩報シ奉る図也」との意思を吐露した。人を遠ざけて密かに話していたのだが、光茂はいつしか昂ぶり、声高に話していたので外に控えていた人々にも聞こえ、これを聞いていた人々はみな感動して涙を流したという。
貞享2(1685)年9月25日、隠居を許され、嫡男・頼母常輝が大組頭を継承し、元禄10(1697)年10月26日、亡くなった。法名は月明院雲巖宗雪大居士。妻の勝屋氏(松寒院節窓紹貞大姉)は、常成が亡くなるわずか半月前の10月11日に亡くなっており、小城の円通寺に常成とともに葬られている。娘は石井伝兵衛宗明に嫁ぎ、その死後は常成養女(大木弥右衛門知武娘)が継室となった。
・『千葉氏研究』4:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」渕上登美氏著
・『九州近代史料叢書』: 九州産業史料研究会著
・『佐賀県近世資料』