源頼義 河内源氏の祖

河内源氏

清和天皇―貞純親王源経基―――源満仲――――源頼信――――源頼義―+―源義家――+―源義親
    (兵部卿)(大宰少弐)(鎮守府将軍)(鎮守府将軍)(伊予守)|(陸奥守) |(対馬守)
                                  |      |
                                  +―源義綱  +―源義忠  +―源義重―――源義兼
                                  |(美濃守) |(左衛門尉)|(大炊助) (大炊助)
                                  |      |      |
                                  +―源義光  +―源義国――+―源義康―――源義兼
                                   (甲斐守) |(加賀介)  (陸奥守) (上総介)
                                         |
                                         +―源為義――――源義朝―――源頼朝
                                          (左衛門大尉)(下野守) (権大納言)

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源頼義 (988-1075)

 鎮守府将軍源頼信の長男。永延2(988)年誕生(『尊卑分脉』から逆算)。通称は太郎(『中外抄』)か。母は「修理命婦」(『尊卑分脉』)。妻は「上野介平直方女」(『尊卑分脉』『中外抄』)

 母の「修理命婦」はおそらく父が修理職を務めた宮中女官である。彼女は仁平4(1151)年3月29日、大外記中原師元が関白藤原忠実邸に祇候した際に「御物語之次仰云」ったことに見える(『中外抄』)

●『中外抄』下五十三「久安四年記」

頼義ト随身兼武トハ一腹也、母宮仕者也、件女ヲ頼信愛之令産頼義了、其後兼武父、件女ノ許ナリケル半物ヲ愛ケルニ、ソノ主ノ女我ニアハセヨト云テ、如案婚了、其後生兼武了、頼義後ニ聞此旨テ、ユゝシキコトナリトテ、七騎ノ度乗タリケル大葦毛、忌日ナムトヲハシケレドモ、母忌日ハ一切勧修サリケリ、義家母者直方女也、為義母ハ有綱女也、已華族也(頼義と随身兼武とは一腹の兄弟である。頼義母は宮仕えの者で頼信が愛して頼義を産ませた。その後、随身兼武の父は、この女に仕える半物を愛したが、半物の主の女(頼義母)は、(半物に)『(兼武を)我に会わせよ』と言って、兼武の父と予想通りに婚姻し、その後兼武が誕生した。頼義はのちにこの事を聞いて『忌まわしい事だ』と感じ、奥州戦役で大敗して七騎で退却した際の乗馬大葦毛は忌日に修法するが、母の忌日には一切勧修することはなかった。義家の母は平直方女、為義の母は藤原有網女である。いずれも堂上出身である)

 源頼信
(美濃守)
 ∥
 ∥――――――源頼義
 ∥     (鎮守府将軍)
 修理命婦
 ∥
 ∥――――――中臣兼武―――中臣近友
 ∥     (左番長)  (1034頃-1093)
 中臣某

 中臣兼武(大中臣兼武)は永承7(1052)年4月22日、賀茂祭に際して「関白随身左番長大中臣兼武、右府随身下毛野公長以上皆着制物…」(『春記』永承七年四月廿二日條)と見える。

 頼義の為人は、『中外抄』に康治2(1143)年4月18日に藤原忠実が語った内容がある。源為義が関白邸に呼ばれて夜に訪問した。これに中原師元が忠実からの指示を取り次いだが、その後、忠実の所へ戻ってきた師元に、忠実が昔ばなしを語った。おそらく為義への指示という事で、その祖である頼信と三人の子の説話を思い出したのだろう。頼信には三人の子がいたが、頼信が宇治殿頼通に語ったところでは、太郎頼義は武者に、次郎頼清は蔵人に、三郎(頼季)は使い物にならないので用いないように、と伝えたというものである。なお、この話がいつのことかは不明。

●『中外抄』下五十一

夜為義参入、条々仰師元申次畢、其次仰云、如為義ハ強不可執廷尉也、天下ノ固ニテ候ヘバ、時々出来受領ナドニ可任也、頼信之子三人、太郎頼義ヲバ武者ニ仕御ヲ、次郎頼清ヲバ蔵人ニ成給、三郎■入道、不用者テ候之由、申宇治殿了、如申請頼義ヲバ武者ニ令仕御天、貞任宗任ヲ打遣、頼清ヲバ蔵人ニ成給、三郞ヲバ不用者申ケル気ニヤ、不令叙用給ザリケリ、義家ハイミジカリケル物ニコソ有ケレ、山大衆ノヲコリタリケル時ニ、衣冠ヲシテ内ニ參ジタリケルニハ、衣冠ノハコシノ上ニ、胡籙ノ緒ヲワタシテ負タリケレバ、吉シタリトテ、時人ノゝシリケリ

 長元9(1036)年10月14日、相模守に補任(『範国記』長元九年十月十四日条)されるが、これ以前に国司補任の記録はなく、おそらく初任である。

前九年の役

 天喜4(1056)年は頼義の陸奥守の「任終之年」(『陸奥話記』)であり、「為行府務、入鎮守府」り、さらに奥州諸郡を「数十日経廻間」に、安倍頼時は頼義に随従して給仕し、「駿馬、金宝之類、悉献幕下兼給士卒」した。そして国府へ帰る道すがら「阿久利河辺」に野営していると、「有人竊相語、権守藤原朝臣説貞之子光貞元貞等野宿殺傷人馬」という。阿久利川は現在の七北田川に該当するとみられ、国府とは指呼の距離での事件であった。

 頼義はこの報告を受けると、光貞を呼び出して嫌疑人について尋問した。これに光貞は「頼時長男貞任、以先年欲娉光貞妹、而賤其家族不許之貞任深為恥、推之貞任所為矣、此外無仇(頼時の長男の貞任は、先年に光貞の妹を娶りたいと言ってきましたが、安倍家の家柄が低いため許可しなかったことを貞任が深く恥じました。察するに人馬殺傷は貞任の行いでしょう。この外に恨む人物はありません)(『陸奥話記』)と答えたという。これに頼義は怒り、貞任を召して罪科に問おうとした。これを聞いた頼時は子息一族を前に「人倫在世、皆為妻子也、貞任雖愚父子之愛不能棄忘、一旦伏誅吾何忍哉、不如閉関不聞、甘来攻況乎吾衆亦足拒戦、未以為憂、縦戦不利吾儕等死、不亦可哉(人倫が世にあるのは、皆妻子のためだ。貞任は愚かであるが、父子の愛をどうして棄てようか。貞任の伏誅などどうして堪え忍ぶものか。衣川の関を閉じ、将軍の命は拒絶する。甘んじて攻撃を受け抗戦しようともなんら後悔はない。たとえ戦いが不利になり我ら一党が死んでもまたよいではないか)(『陸奥話記』)と述べると、一同も「公言是也、請以一丸泥封衣川関、誰敢有破者乎(仰ることはもっともです。衣川の関を閉じれば誰が破れましょう)と賛成し、こうして安倍一族は陸奥守頼義に反旗を翻して「遂閉道不通」(『陸奥話記』)た。

 この一連の事件は、頼義が平穏無事に任期最後の巡検を行い、国府に到着する直前で起こった事件ということもあり、安倍氏と婚姻問題をめぐって対立していたと思われる権守藤原説貞が、秩満前の最後の機会に、齢六十九歳の陸奥守頼義を唆して安倍氏追討を企図した謀略であろう。

 この衣川の関を封じた安倍頼時の行動を知った頼義は当然ながら激怒して追討の軍勢を発し、頼義に従う「坂東猛士」「雲集雨来歩騎数万、輜人戦具重畳、蔽野国内震惧、莫不響応」と、東国武士を中心とする軍勢に輜重や武具の輸送隊が続き、その大軍は人の目を驚かせるほどだったという。

 また、「于時頼聟散位藤原朝臣経清、平永衡等、皆叛舅以私兵従将軍、引軍漸進将到衣川之間、永衡被銀冑」と、頼時の女婿である散位藤原経清、平永衡は頼時方ではなく陸奥守頼義に付き、衣川の関に進軍。ここで平永衡は銀の甲冑を被ったが、ある者が頼義に「永衡、為前司登任朝臣郎従下向当国、厚被養顧勢領一郡、而娉頼時女以後貳于太守、合戦之時与于頼時、不属旧主不忠不義者也、今雖外示帰服、而内挟姧謀、恐陰通使告示軍士動静、謀略所出歟、又所著冑与群不同、是必欲合戦時、使頼時軍兵不射已也、黄巾赤眉豈不別軍之故乎、不如早斬之、断其内応矣(永衡は前司登任朝臣の郎従として京都から陸奥国へ下向した人物で、その厚い恩顧によって一郡(伊具郡か)を領するほどになりました。ところが頼時の娘を娶って以降は前司登任朝臣に二心を持ち、前司と頼時の合戦(永承6(1051)年の鬼切部合戦か)時には頼時に与し、旧主登任に属さなかった不義不忠の者です。今は表向き帰服していますが、奸謀を企て、恐らく陰で通じて軍士の動静や謀略について報告しているのでしょう。また、軍勢と異なる冑を被っているのも、合戦の時に頼時勢から射られないための策に違いないでしょう。これは黄巾や赤眉と同様の事です。早々に斬り、内応の憂いを断つべきです)」と進言した。これを是とした頼義は「勤兵収、永衡及其随兵中委腹心者四人責、以其罪立斬之(兵を遣わして永衡とその腹心四名を捕らえて拷問し、その罪を仕立てて斬首した)った。こうして、齢七十に及ぶ頼義は部下に利用され、このことが後述の通り頼時女婿のひとり藤原経清の背反、奥州の人心離反を招いて大規模な奥州騒乱に発展。頼義自身も命の危機に見舞われるような大敗を喫するなど、事態の収拾にはその後七年もの期間を費やすこととなった。

頼義入道卒去

 承保2(1075)年7月13日、「頼義入道卒去」(『水左記』承保二年七月十三日条)した。八十八歳(『尊卑分脉』)。『国史大系』本の『尊卑分脉』によれば永保2(1082)年の出家と卒去とあるが、頼義卒去は承保2年7月13日であることは間違いないため、「永」と「承」の誤読である。「永保二十十三出家、永保二十三卒」とある部分から、「十」は「七」の誤読で、出家当日に卒去したと想定される。


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