源経基 河内源氏の祖

河内源氏

清和天皇―貞純親王源経基―――源満仲――――源頼信――――源頼義―+―源義家――+―源義親
    (兵部卿)(大宰少弐)(鎮守府将軍)(鎮守府将軍)(伊予守)|(陸奥守) |(対馬守)
                                  |      |
                                  +―源義綱  +―源義忠  +―源義重―――源義兼
                                  |(美濃守) |(左衛門尉)|(大炊助) (大炊助)
                                  |      |      |
                                  +―源義光  +―源義国――+―源義康―――源義兼
                                   (甲斐守) |(加賀介)  (陸奥守) (上総介)
                                         |
                                         +―源為義――――源義朝―――源頼朝
                                          (左衛門大尉)(下野守) (権大納言)

 

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源経基 (914?-958?)

 貞純親王の子。母は右大臣源能有女子(『尊卑分脉』)。位階は従五位下(『貞信公記抄』)、正五位上(『倭歌作者部類』五位)。官は武蔵介(『貞信公記抄』『将門記』)、大宰権少弐(『本朝世紀』)、大宰少弐(『貞信公記抄』)、上野介(『倭歌作者部類』五位)、筑前守(『今昔物語集』)、鎮守府将軍(『倭歌作者部類』五位)、兵部少輔(『倭歌作者部類』五位)。勅撰歌人でもある。

 生年は、天徳2(958)年11月24日に四十五歳卒(『倭歌作者部類』五位)から逆算すると延喜14(914)年生まれとなる。父貞純親王は延喜16(916)年薨去とされており、いずれもが正しければ、父貞純親王薨去時は三歳だったことになる。

●『尊卑分脉』巻八

天性達弓馬長武略、歌人拾遺作者
鎮守府将軍
 
武蔵、下野介、信濃、伊予、武蔵等守、上野介
 左衛門佐、
大宰、正四位上 敍留 内蔵頭、兵部少輔
経基王
 母右大臣源能有公女 依為第六皇子號六孫王
 応和元也
 天徳五六十五始而賜源朝臣姓 同年十一月四日卒四十五歳
 此王為八尺龍住西八條池云々此所今為律院

 『尊卑分脉』における経基の官の記載は様々見られるが、史料上確認できないものも多い。源姓下賜の時期も天徳5(961)年6月15日とあるが、承平8(938)年2月の時点で武蔵介「源経基」(『将門記』)であり、別史料でも天慶2(939)年3月2日時点で「源経基」(『貞信公記抄』天慶二年三月三日条)とあるので、『尊卑分脉』の源姓下賜の時期は明らかな誤りである。この記述は経基は死の直前まで王氏だった、という清和源氏の公然の家伝が室町期に至って採用されたものだろう。そもそも経基は「天性達弓馬長武略」ことも怪しく、「母右大臣源能有公女」を含めて『尊卑分脉』の多くの部分で家伝等から引かれた創作があると考えられる(『尊卑分脉』巻八文徳源氏の源能有の女子・柄子は「清和御子室」とのみ記されており、貞純親王と指定されているわけではない)。もし経基の母が源能有女子であれば、経基は太政大臣忠平の義甥、となる。

●能有女子が経基母であった場合の系譜

      +―――源潔姫
      |   ∥――――――藤原明子
      |   ∥      ∥―――――清和天皇――――――――貞純親王
      |   ∥      ∥                (上野大守)
      |   ∥      ∥                 ∥
      | +―藤原良房=========藤原基経        ∥――――――源経基――――源満仲―+―源頼光
      | |(摂政)    ∥    (摂政)         ∥     (大宰少弐) (陸奥守)|(摂津守)
      | |        ∥     ∥           ∥                 |
      | +―藤原順子   ∥     ∥           ∥                 +―源頼信  
      |   ∥――――――文徳天皇  ∥           ∥                  (陸奥守)
      |   ∥      ∥――――――――――源能有――+―源柄子
      |   ∥      ∥     ∥   (右大臣) |
 嵯峨天皇―+―――仁明天皇   伴氏    ∥         |
          ∥            ∥         +―源昭子
          ∥            ∥           ∥――――――藤原師輔―――藤原兼家――藤原道長
          ∥            ∥           ∥     (右大臣)  (関白)  (関白)        
          ∥            ∥―――――――――+―藤原忠平
          ∥――――+―人康親王――女子        |(太政大臣)
          ∥    |(弾正尹)            | ∥――――――藤原実頼
          ∥    |                 | ∥     (太政大臣)
 藤原総継―――――藤原沢子 +―光孝天皇――宇多天皇―+――――――源順子    ∥――――――藤原頼忠
(紀伊守)                       |    |        ∥     (関白)
                            |    +―藤原時平―――女子     ∥
                            |    |(左大臣)          ∥―――――藤原公任
                            |    |               ∥    (権大納言)
                            |    +―藤原穏子 +―村上天皇   
                            |      ∥    |        ∥
                            |      ∥    |        ∥
                            |      ∥――――+―朱雀天皇   ∥
                            |      ∥             ∥
                            +――――――醍醐天皇―――代明親王―――女子
                                         (中務卿)

 ただし、歌人としての才は藤原公任の撰である『拾遺抄』に二首選ばれるほど高いものであった。のち、勅撰集『拾遺和歌集』としても採歌された。

●『拾遺抄』二四四(『新編国歌大観』)

     題不知          源経基
あはれとも君だにいはばこひわびてしなんいのちのをしからなくに

●『拾遺抄』二九九(『新編国歌大観』)

 とほき所におもひ侍りける人をおきて
                  経基
雲井なる人をはるかにこふる身は我がこころさへそらにこそなれ

 

源経基の官途

 経基は貞純親王子とあるように、王であれば初叙は選叙令蔭皇親條(『養老令』)が適用される。

凡蔭皇親者、親王子従四位下、諸王子従五位下、其五世王者従五位下、子降一階、庶子又降一階、唯別勅処分、不拘此令

 なお「蔭皇親條」は延暦15(796)年12月9日、桓武天皇の詔として若干の修正がなされている(『日本後紀』)

詔曰 皇親之蔭、事具令條、而宗室之胤、枝族已衆、欲加栄班、難可周及、是以進仕無階、白首不調、眷言於此、実合矜恕、宜其四世五世王、及五世王嫡子年満廿一者叙正六位上、但庶子者降一階叙、自今而後、永以為例

    【一世】      【二世】    【三世】   【四世】    【五世/除皇親、王號は許可】
天皇―+―親王――――――+―王―――――――王――――――王――――――王―――――――――――――+―王
   |  品位     |  従四位下    従五位下   正六位上   正六位上         |  正六位上
   |         |                                     |
   |         +―二世源氏                                +―王(庶子)
   |         |  従五位上                                  正六位下
   |         |
   |         +―二世源氏(庶子)
   |            正六位上
   | 
   +―一世源氏――――+―一世源氏子―――一世源氏孫
       従四位上  |  従五位下    正六位上
             |
             +―一世源氏(庶子)
                正六位上

 つまり経基が「王」であった場合且つ、王のときに叙爵されていれば「凡蔭皇親者、親王子従四位下」とあることから、本来的には初叙は従四位下となる。ただし「氏爵一世源氏従四位上、当君三位、二世孫王従四位下、自解依巡、預昇殿者超越、貞観孫王従五位下(『西宮記』正月叙位議条)という規定も存在しており、「貞観孫王(清和天皇の孫王)」に限っては初叙を「従五位下」とすると定められていた(ただし、清和天皇の子孫はすべて源姓を賜っているため「孫王」は存在しない)。

氏爵一世源氏従四位上、当君三位、二世孫王従四位下、自解依巡、預昇殿者超越、貞観孫王従五位下、王氏一親王挙、四世以上依巡、源氏長者挙、弘仁御後隔三年、藤氏同上有四門、 橘氏是定挙、受領自五位至従四位上、院宮爵自従五位下至正下、叙四位不通例、御即位、大嘗会、朔旦、此外有預叙位者、已上明大略、依外記勘文

 この貞観御後の例外は、「唯須其後一世早停王號、即賜朝臣」という清和天皇の勅条(『日本三代実録』貞観十五年四月廿一日条)に基づき、一世繰り上げる措置が取られていたためだろう。この詔勅は経基が生まれる数十年前に下されているものであることから、経基は生まれながらに「停王號」と源姓下賜が決定づけられていることになる。 

廿一日乙卯、勅曰、朕以凉徳、辱此守文、待化未孚於豚魚、用心徒形於、唯深蒼生為子之徳、不慊螽斯則百之福、而今心事養、男女繁昌、當分茅土之重、多致帑蔵之費、寤寐頽愁、心魂罔措、若渉洪水而无舟楫、但弘仁以降、載代遺跡、或作親王、或為朝臣、尤是損上益下之大義、屈躬利物之通規、朕之不徳仰慚前良、因願頗変旧章、惣為源氏、然而事當師古、義貴宜今、故其不獲已者、択之以為親王、唯須其後一世早停王號、即賜朝臣、以国家之経用、頗加公謙之篤情、又其號親王者、同母後産、並同畫一、尸鳩之深惠、欲一恩施、司牧之至公、猶従義株、但冀枝分若木、高下共春、派出天、浅深同潤、普告遐邇、令知朕意、
是日、定親王八人源氏四人皇子貞固、母橘氏治部大甫休蔭之女、皇子貞元、母藤原氏參議治部卿仲統之女、皇子貞保、母女御藤原氏、故中納言長良之女、皇子貞平、母藤原氏右中辨良近之女、皇子貞純、母王氏中務大甫棟貞之女、皇女孟子、母藤原氏、兵部大輔諸葛之女、皇女包子、母在原氏參議左衛門督行平之女、皇女敦子、与貞保同母並為親王、皇子長猷、母賀茂氏越中守岑雄之女、皇子長淵、母大野氏前石見守鷹取之女、皇子長鑒、母佐伯氏信濃権介子房之女、皇女載子、与貞長猷同母並為源氏、貫隷左京一條一坊

 経基が「賜姓源朝臣」された時期は不明ながら、父貞純親王の抗表があった場合は、貞純親王薨去と伝わる延喜16(916)年までに賜姓されたと考えられる。それ以降であれば、天慶2(939)年までの間となる。経基に限らず清和天皇孫の源姓王子は賜姓時期が不明であり、唯一参議まで陞った源兼忠も十七歳の叙爵時には源姓であった。本来父親王の抗表や父天皇の勅に基づき親王や王子女は賜姓されるが、彼らはいずれも父が異なり、「唯須其後一世早停王號、即賜朝臣」という清和天皇の勅条(『日本三代実録』貞観十五年四月廿一日条)に基づいて生まれながらに源氏とされた可能性があるのではなかろうか。

 天慶2(939)年3月2日時点で「源経基」(『貞信公記抄』天慶二年三月三日条)「朝臣」が付されていないこと、天慶3(940)年正月9日に「以武蔵介源経基、叙従五位下」(『日本紀略』天慶三年正月九日条)とあることから、経基の初叙は正六位上である。王氏で初叙を正六位上となるのは四世王以降(清和天皇の「勅」から「一世早停王號」としても三世王扱いである)であり、清和二世皇親として誕生した経基が当時も王氏だった場合は正六位上に叙されることはない初叙が「正六位上」の源氏は、一世源氏の庶子(例:源明の子・源頴)一世源氏の孫(例:源能有の孫・源忠相)二世源氏で庶子(例:仁明皇子の本康親王子・源朝憲)が散見されるが、経基はこのうち二世源氏(庶子)に該当しよう。経基の「母右大臣源能有公女」(『尊卑分脉』)も、後世創作の伝である可能性が高いだろう。なお、経基が称したとされる「六孫王」も日記等の史料で確認はできない(ただし、鎌倉期までには「六孫王」の呼称は経基末裔に共通の伝として成立していたこととなる)

 清和源氏の諸氏で初叙が判明しているのは、父を貞元親王、母を藤原基経女として生まれた源兼忠のみであるが、彼の初叙は従五位上(十七歳)で「源氏爵」によるものだった。母親が藤原基経女であったために、親王嫡子(二世源氏)としての蔭位が認められたと考えられる。

●清和源氏諸祖の位と官

初敍 (『尊卑分脉』) 父/母 (『尊卑分脉』) 備考
源国淵   ・延長5(927)年12月27日
 当時:従四位上
・天暦元(947)年12月20日当時:従四位上
貞固親王 ・延喜16(916)年10月22日
 中務大輔在任(『西宮記』)
・延長5(927)年12月27日
 中務大輔在任(『西宮記』)
・承平2(932)年10月25日
 中務大輔在任(『大嘗会御禊部類記』)
・天慶2(939)年6月29日
 中務大輔在任(『九條殿記』)
・天慶3(940)年2月27日
 中務大輔在任(『日本紀略』)
・天慶4(941)年12月29日
 中務大輔在任(『日本紀略』)
・天慶5(942)年3月10日
 中務大輔在任(『日本紀略』)
・天慶6(943)年12月24日
 左京大夫在任(『日本紀竟宴和歌』)
・天慶8(945)年12月20日
 左京大夫在任(『九條殿記』)
・天慶9(946)年10月28日
 右京大夫在任(大嘗会御禊部類記)
・天暦元(947)年12月20日
 (宇治荷前使)長官(『九條殿記』)
 
源兼忠
(901-958)
従五位下
(源氏爵)
・延喜17(917)年正月7日
 従五位下
・承平2(932)年正月7日
 従五位上
・承平8(938)年正月8日
 正五位下中宮御給
・天慶4(941)年正月7日
 従四位下
・天慶9(946)年4月28日
 正四位下前坊亮
貞元親王/
藤原基経女
・延喜21(921)年正月30日
 備中権守
・延長6(928)年正月29日
 参河権守
・延長6(928)年6月9日
 侍従
・延長8(930)年9月22日
 昇殿
・延長9(931)年3月13日
 左兵衛佐
・承平5(935)年2月23日
 大和権介
・承平6(936)年3月24日
 左衛門佐
・天慶3(940)年3月25日
 兼中宮亮
・天慶5(942)年3月29日
 近江権守
・天慶7(944)年4月22日
 兼春宮亮
・天慶8(945)年10月4日
 中宮権大夫亮如元
・天慶9(946)年7月17日
 兼左京権大夫
 天慶9(946)年9月16日
 右京権大夫左京大夫玉淵依有従父兄忌也
・天暦4(950)年7月23日
 「(朱雀院)別当兼忠朝臣」(『九暦逸文』)
・天暦5(951)年正月30日
 近江権守
・天暦8(954)年3月14日
 参議
・天暦9(955)年2月7日
 兼備前権守
・天暦10(956)年3月24日
 兼治部卿
・天徳2(958)年7月1日
 卒、五十八、在官五年
 参議治部卿正四位下源朝臣兼忠卒(『日本紀略』)
 
源兼信   従五位下 貞元親王 ・「散位従五位下源朝臣重之参議兼忠三男、実者従五位下兼信男、為伯父子(『三十六人歌仙伝』)
・侍従、参河守(『尊卑分脉』)
 
源国忠 従五位下 貞保親王    
源国珍
(国珎)
  従四位下
従四位上(『本朝皇胤紹運録』)
貞保親王 ・天慶4(941)年9月10日
 「(左馬)助国珍朝臣」(『本朝世紀』)
・天慶5(942)年4月17日
 「左馬助源朝臣国珍」(『本朝世紀』)
・天慶7(944)年5月3日
 「左衛門佐源国珎」(『九條殿記』)
・天慶7(944)年閏12月2日
 「国珎朝臣」(『九條殿記』)
・天暦3(949)年11月1日
 「左衛門佐国珎」(『北山抄』)
・春宮大進、内蔵頭(『本朝皇胤紹運録』)
天慶5(942)年4月17日当時「住寮曹司」
源経基正六位上 ・天慶3(940)年正月9日   
 従五位下
・天暦8(954)年5月15日 
 正五位下(『倭歌作者部類』)
貞純親王 ・承平8(938)年2月当時
 「武蔵介」(『将門記』)
・天慶3(940)年正月9日当時
 「武蔵介源経基」(『貞信公記抄』)
・天慶4(941)年9月6日当時
 「権少弐源朝臣経基」(『本朝世紀』)
・天慶9(946)年11月21日当時
 「少弐経基」(『貞信公記抄』)
 
源経生  従五位上 貞純親王 ・越後守  
源為善  従四位下 貞数親王 ・承平7(937)年11月23日
 「右兵衛佐為善」(『九暦逸文』)
・天慶4(941)年8月23日
 「左近少将源朝臣為善」(『本朝世紀』)
・天慶5(942)年7月27日
 「従四位下…左近少将源朝臣為善」(『本朝世紀』)
・天慶7(944)年3月7日
 「左近衛次将…為善」(『九條殿記』)
・天慶7(944)年5月5日
 「左少将源朝臣為善」(『九條殿記』)
 「少将源朝臣為善」(『九暦逸文』)
・天慶7(944)年正月11日
 「左少将為善朝臣」(『北山抄』『貞信公記抄』)
・天慶9(946)年5月27日
 「少将為善」(『貞信公記抄』)
・天慶9(946)年7月28日
 「左少将為善」(『九暦逸文』)
・天慶9(946)年9月5日
 「賜勅答、使為善朝臣来」(『貞信公記抄』)
・天慶9(946)年11月8日
 「左少将為善」(『九暦逸文』)
・天暦元(947)年3月29日
 「前少将為善」(『西宮記』)
妻定方女
源蕃基  従五位下 貞真親王 ・応和元(961)年5月10日
 「土佐権守蕃基」(『扶桑略記』『尊卑分脉』)
 
源蕃平  従五位下 貞真親王 ・天徳4(960)年3月30日
 「雅楽頭しけひら、さうのこと」(『内裡歌合』)
・天禄4(973)年5月20日
 「(宇佐使)安芸守源蕃平」(『日本紀略』)
・天元3(975)年12月16日
 「宇佐使蕃平、帰参延引事」(『小記目録』)
・某年
 刑部卿
 「山城守為堯刑部卿源蕃平男、貞真親王孫(『秦箏相承血脈』)
・大膳大夫(『尊卑分脉』)
使安芸守蕃平男為堯、依番平申、給暇令従父、亦路次并大宰府、給所御牒、依殿上人也
源蕃固  従五位下 貞真親王 ・加賀権守(『尊卑分脉』)  
源元亮  従五位下 貞真親王   妻源経基女
為満仲子/
源孝道清和玄孫、満仲子

 経基の官は、承平8(938)年2月時点で武蔵介だが、それ以前は不明である。ただし、他の人々の経歴を考えると、経基も国司となる前は何らかの京官に就いていた可能性は高い。

●九世紀の武蔵介(六国史より)

補任 官位 同時補任の武蔵守
大同元(806)年
正月26日
従五位下 桑田真人甘南備 藤原朝臣内麻呂(中納言、従三位)
弘仁元(810)年
9月15日
従五位上 大中臣朝臣智治麻呂  
弘仁2(811)年
5月14日
従五位下 藤原朝臣賀祐麻呂  
天長10(833)年
5月16日(在任)
従五位下 當宗宿禰家主 文室朝臣秋津(参議、左大弁、左近衛中將、春宮大夫、従四位上)
天長10(833)年2月29日在任中
承和6(839)年
正月11日
外従五位下 出雲朝臣全嗣  
承和10(843)年
正月12日
従五位下 林朝臣常継  
承和12(845)年
7月3日
従五位上 惟良宿禰貞道 丹治真人門成(従五位上)
承和13(846)年2月11日補任
承和13(846)年
正月13日
従五位下 橘朝臣本継  
嘉祥2(849)年
2月27日
従五位下 紀朝臣興我業  
仁寿2(852)年
正月15日
従五位下 橘朝臣岑範  
齊衡3(856)年
正月12日
従五位下 藤原朝臣大瀧  
齊衡3(856)年
8月28日
従五位下 伴宿禰春世  
貞観2(860)年
正月16日
従五位上 平朝臣春香  
貞観4(862)年
正月13日
従五位下 坂上大宿禰瀧守 藤原朝臣忠雄(従五位下)
貞観4(862)年
4月7日
従五位下 安倍朝臣比高  
貞観14(872)年
9月4日
従五位下(在任) 藤原朝臣房守  
元慶4(880)年
5月13日
従五位下 藤原朝臣統行  
元慶8(884)年
3月9日
外従五位下 新田部宿禰安河  
仁和2(886)年
6月13日
従五位下 山口朝臣連松  

 また、経基とともに武蔵国の国司として下向してきた興世王は、その出自も不明で、位も記されない。九世紀の武蔵権守(判明分)の傾向から見てみると、そのほとんどが王氏や賜姓皇胤が占めている。王氏の賜姓政策が進む中、いまだ王号を持つ興世王は三、四世王だろう。なお、武蔵権守の位階は「従五位下」(『日本紀略』天慶二年十二月十九日条)とある。

●九世紀の武蔵権守(『六国史』諸書)

補任

離任
名前 在任時の
武蔵守
初叙 武蔵権守補任時の官位 没年 備考
承和12(845)年6月8日

承和13(846)年
2月11日
(武蔵守)
丹治門成     従五位下 仁寿3(853)年
3月22日
承和13(846)年2月11日、為武蔵守
嘉祥3(850)年4月2日当時、散位
嘉祥3(850)年5月17日、為大和守
仁寿3(853)年正月7日、正五位下
・従五位下内蔵助兼右衛士佐豊長之子
・天長3(826)年、従五位下
天安2(858)年
2月5日

天安2(858)年
3月8日
(越中権守)
房世王
(平房世)
天安2(858)年
正月16日任
従五位上
良岑朝臣長松
従四位下 従四位下 元慶7(883)年
8月21日
●承和13(846)年正月7日
 无位→従四位下
・仲野親王子(二世王)
・姉妹の班子女王は光孝天皇女御で宇多天皇(源定省)生母。
貞観3(861)年
2月16日

貞観5(863)年
4月7日以前
(侍従)
平春香 貞観4(862)年
正月13日任
従五位下
藤原朝臣忠雄
正六位上 従五位上   ●貞観3(861)年2月16日
 従五位上行武蔵介平朝臣春香為権守
 従五位下行武蔵権介佐伯宿祢子房為介
・父母不詳。蔭位から桓武天皇孫(三世王)の庶子
貞観6(864)年
正月16日
平有世   正六位上 従五位上   ・父母不詳。蔭位から桓武天皇孫(三世王)の庶子か
元慶2(878)年
12月11日以降元慶4(880)年
2月4日
までの間
弘道王   正六位上 従五位上   ●貞観9(867)年正月7日:
 正六位上→従五位下
●元慶元(877)年11月21日:
 従五位下→従五位上
・父母不詳、三・四世王庶子または五世王嫡子
貞観17(875)年
正月13日以降
元慶8(884)年
2月5日
までの間

仁和元(885)年
正月16日
(大宰大弐)
源行有   従四位上
(22歳)
従四位上 仁和3(887)年
6月20日
34歳
●貞観3(861)年4月25日、文徳天皇皇子、男二人女三人、未定名號、是日、或為親王、或為朝臣
・親王宣下:母藤原朝臣氏
 ・惟恒親王
 ・禮子内親王
・源朝臣賜姓:母諸氏
 ・源行有(母布勢氏)
 ・源富子(母菅原氏)
 ・源淵子(母滋野氏)
●貞観17(875)年春:
 授従四位上
●貞観17(875)年正月13日:
従四位上源朝臣行有為美作守
仁和元(885)年2月20日 源長淵 仁和元(885)年
正月16日
従五位上
藤原朝臣貞幹
従五位上 従四位上   ●元慶7(883)年正月7日:
 无位→従五位上
・清和天皇子(一世源氏)
仁和3(887)年
5月13日
棟貞王   従四位上 従四位上   ●齊衡元(856)年正月7日:
 无位→従四位下
葛井親王子(二世王)

                            +―葛原親王――高見王―――平高望―+―平国香―――平貞盛
                            |(式部卿)       (上総介)|(常陸大掾)(陸奥守)
                            |                 |
                            |                 +―女子
                            |                   ∥―――――藤原為憲
                            |                   ∥    (木工助)
                       桓武天皇―+―万多親王――正行王―――女子    ∥
                             (大宰帥) (弾正大弼) ∥―――――藤原維幾
                                          ∥    (常陸介)
                                          ∥
        +―藤原乙麿――藤原是公―――藤原雄友―――藤原弟河――藤原高扶――藤原清夏
        |(治部卿) (右大臣)  (民部卿)  (伊賀守) (上総介) (上総介)
        |
+―藤原武智麿―+―藤原豊成――藤原良因―――藤原長道―――藤原助継――藤原道成――藤原清瀬
|(左大臣)   (右大臣) (伯耆守)  (右衛門権佐)(陰陽助)       (伊予守) 
|                                         ∥
|                           +―藤原長良――藤原基経  ∥―――――藤原善方
|                           |(権中納言)(摂政)   ∥    (武蔵守)
|                           |             ∥
+―藤原房前――+―藤原真楯――藤原内麿―+―藤原冬嗣―+―藤原良房==藤原基経  ∥
 (参議)   |(中務卿) (右大臣) |(左大臣)  (摂政)  (摂政)   ∥
        |            |                    ∥
        |            +―藤原長岡―――――――――――――――女子
        |             (大和守)
        |
        +―藤原魚名―+―藤原藤成――藤原豊澤―――藤原村雄――藤原秀郷
         (左大臣) |(伊勢守) (下野権守) (下野大掾)(武蔵守)
               |
               +―藤原鷲取――藤原藤子
               |(中務大輔) ∥――――――万多親王
               |       ∥     (大宰帥)
               |       ∥
               |       桓武天皇―――嵯峨天皇――仁明天皇
               |                    ∥              
               |                    ∥―――――光孝天皇
               |                    ∥
               |            +―――――――女子
               |            |
               |            +―女子
               |            | ∥―――――藤原基経
               |            | ∥    (摂政)
               |            | 藤原長良
               |            |(権中納言)
               |            |
               +―藤原末茂――藤原総繼―+―藤原直道――藤原連松――藤原茂実
                (美作守) (紀伊守)  (少納言) (薩摩守) (内匠頭)

足立郡司武芝の正税未進の疑い

 武蔵国は延長3(925)年以降、正倉には規定量に満たない正税(荒廃、不作、洪水などを理由としたと思われるが、国衙運営の要である出挙本稲が利権に絡んで利稲とならずに流出することで漸減)しか納入されない事態が続いており、承平5(935)年12月13日、武蔵国は「例減省外、重減省」により正税の出挙本稲、穀が「交替欠正税卌一万七千三百廿束二把」(「武蔵国重減省解文」『西宮記』巻七)という解文を奏上し、諸卿が陣定に於いてこれを議している。「交替欠」とあるため、任期中に病死した武蔵守藤原善方に替わって、藤原維幾が新たに武蔵守に補任され、武蔵国衙に下向したのちに出された解文であろう。

●承平5(935)年12月13日「武蔵国重減省解文」(『西宮記』巻七)

奏文十枚
可定申文
 武蔵国申請、被一任間、例減省外、重減省、延長三年以後、交替欠正税雑稲卌一万七千三百廿束二把事、代々減省、不載正税、而初申重減省、多載正税、其許否令諸卿定申

右奏了右中弁藤、承平五年十二月十三日、左大史張言鑑
 今検奏報例、減省仰詞不可似、新申重減省云、仰詞已称例減省、可依当国先々仰詞也、

 承平6(936)年、新司の藤原維幾は、令に基づき検交替使の派遣を要請し、検交替使として藤原茂実が武蔵国に発遣された。

●承平6(936)年「勘解由使勘判抄」(『政事要略』五十七 交替雑事十五 雑公文事)

 課闕遇死并異損御馬
  武蔵 前司藤善方卒
非常赦判云、御馬无実、適会鴻恩、須従原、紛失者、依法令不見、若限満不獲、亦従原免
     承平六年判 

●承平6(936)年「勘解由使勘判抄」(『政事要略』五十三 交替雑事十七 雑公文事)

 武蔵 前司藤善方卒 新司同維幾
    使同茂実
非常赦判云、通三宝布施、失由不明、事渉盗犯、然而適会鴻恩、須従免原
     承平六年判 

 このとき、使藤原茂実の検帳により、死去した前司藤原善方は公文に見える官牧からの貢馬の事実がなく、さらに国衙の寺院用途予算である通三宝布施料稲が「失由不明」となっていることが発覚している。これらは本来であれば前司弁済の義務が生じるが、前司善方が卒去のためか、いずれも「非常赦」として処理されている。

 この藤原善方や藤原維幾が武蔵守在任中には国衙判官代として国政実務を執っていた一人が、国衙雑色人の「足立郡司判官代武蔵武芝」である。彼はおそらく武蔵宿禰姓を賜った足立郡の丈部直氏の末裔とみられる。

●武蔵宿禰氏

任官日等 官位 住人 賜姓、任官等 備考
神護景雲元(767)年
12月6日
丈部直不破麻呂 外従五位下 武蔵国足立郡人 武蔵宿禰 六人賜姓武蔵宿禰
神護景雲元(767)年
12月8日
武蔵宿禰不破麻呂
(丈部不破麻呂同人)
外従五位下   武蔵国国造 補任
神護景雲3(769)年
6月9日
外従五位下   上総員外介 補任
神護景雲3(769)年 従五位上     叙位
宝亀元(770)年
10月25日
武蔵宿禰家刀自
(女性)
外従五位下     叙位
延暦2(783)年
2月5日
正五位下     叙位
延暦4(785)年
正月9日
正五位上     叙位
延暦5(786)年
正月14日
従四位下     叙位
延暦6(787)年
4月11日
従四位下   足立郡采女掌侍兼典掃
延暦7(788)年
6月25日
武蔵宿禰弟総 外従五位下     外従六位下より
延暦14(795)年
12月15日
外從五位下   国造 武蔵国足立郡大領

 そして「武蔵守(権守)」「武蔵介」としてそれぞれ武蔵国に下向した興世王と源経基が対立したのが、その武蔵武芝であった(『将門記』)。当時の源経基は二十四、五歳の若者である。

承平八年春二月中、武蔵(権)守興世王、介源経基与足立郡司判官代武蔵武芝、共各争不治之由
→承平8(938)年2月、武蔵権守興世王、武蔵介源経基と、足立郡司武芝との間で「不治」について争った

 ここに言う「不治」とは「既而天皇悔之不治神祟、而亡皇妃」(『日本書紀』履中天皇五年十月甲子)とあるように、行政の不徳、濫政、悪政などを意味する。具体的には、権守興世王、介源経基による足立郡の検注を指すのであろう。

 彼らが国衙に着任した時期は定かではないが、受領の交替限は「諸国長官百廿日」(『延喜式』十八式部「進解由日限」)である一方で「任用六十日」であることから、任用である興世王らは正任国司よりも早く武蔵国衙に着任したと考えられ、着任早々に権守興世王と介源経基は税帳関連の調査を行ったのだろう。

●「進解由日限」(『延喜式』十八式部)

凡諸司諸国進解由者、諸司長官六十日、次官以下及史生三十日為限、諸国長官百廿日、任用六十日為限、但長官任用同時解任者、交替了後、与長官共言上其与不之状、其諸国除装束行程之日、若任他司者、依日始計、限内聴釐務、其季禄位禄、皆依給例、亦聴預諸節会、若限満未得解由者、具状申官…

●『延喜交代式』

任用之人、国司除装束行程之後六十日、京官除目之後卅日之内、依帳勘知、若有欠損、傍官共署、限内言上、解由与不之状亦同、但受領任用、同時去任者、交替畢後、相共言上、

 その過程で足立郡の正税未進を確認したことから、郡司武芝に足立郡の検注を通達したのではなかろうか。令で「巡検諸郡精監穀頴及雑官舎、五行器等、若有不動穀者、依丈尺高勘之、其動用穀者、繁土石、以実受領」(『朝野群載』「国務之事」)があるように、「巡検諸郡、精監穀頴及雑官舎、五行器等」という正税(穀および出挙稲)、諸官舎、設備や備品の確認・調査は国司が行うべき責務と規定されていたためである。

 ところが、これに対して足立郡司武芝は、

(1)代々国宰、不求郡中之欠負、往々刺史更无達期之譴責
→代々の国司は郡中の未貢進を求めず、期日を違えても咎めることはまったくなかった

と主張し、正税未進も遅滞も許されているのが代々の慣例であると、未進を正当化しているのである。

 本来は、『延喜交替式』には「凡倉蔵受納、於後出給、若有欠者、均徴給納之人、已経分付、徴後人」(『延喜交代式』)と明記されている通り、交代政で欠負が発覚すれば、現任国司が欠負分を弁済したのち、後任国司に分付する必要があった(完済されなければ、前任国司は後任国司から解由状が渡されず、前任国司は次の官に就くことは不可能となる)。また、欠負が分付の後に発覚すれば後任国司が補填しなければならず、いずれにしても国司の大きな不利益となる。そのため、本来的には欠負が発生したとしても前司または新司による補填によって、(4)「代々国宰、不求郡中之欠負、往々刺史更无達期之譴責」という事態にはなり得ない。しかし、現実的には先述の通り、郡司が管轄する正倉の出挙本稲が利権に絡んで利用されることで、相当な出挙本稲の欠損が計上されることとなった。しかも「代々減省」「例減省外、重減省」とあるように、交替政に際して減省の申請(不作や天変などを理由とするのだろう)を繰り返す有様であった。

 以上の状況から見ると、武蔵国においては国司も統制が難しくなるほど、郡司勢力が強大化していたのではないか。彼らが実際に国司に対する「威嚇」も行い得たことを示すものが、次の(2)(3)であろう。武芝は、

(2)而件権守、正任未到之間、推擬入部者
→この権守興世王は、正任国司が到着していないにも拘らず入部しようと試みている
(3)武芝検案內、此国為承前之例、正任以前輙不入
→武芝が公文を調べたところ、武蔵国ではこのような場合は、正任着任以前には軽々しく入部しない、とある

を主張して、強く抵抗したのである。これらは武蔵国においては「正任以前輙不入」であり、「正任未到之間」は権任興世王に検注する資格はない、という強いメッセージとなっている。なお、武芝の主張を見ると、承平8(938)年2月時点では正任武蔵守が国衙に着任していないこととなる。承平6(936)年補任の藤原維幾は、承平6(936)年「勘解由使勘判抄」に見るように国衙着任が確認できることから、維幾がこの時点で武蔵国司だった場合には、武芝の(2)「正任未到」(3)「正任以前」という条件に合わず、承平8(938)年2月時点で維幾は武蔵守を辞退していたこととなる。

 郡司武芝のこの態度に、興世王と源経基の両国司は「称郡司之无例」し、「恣発兵仗、押而入部矣」(『将門記』)た。ただし、興世王も経基も下中級貴族でこれまで受領の経験もなく、経済的に私兵を蓄える余裕があったとは考えにくく、彼らが率いた「兵仗」は国衙兵であろう。つまり、郡司武芝の正税未納の発覚に対して検注を行うための動員であったとすると、武芝がこれに対捍することは大罪に問われるため、「公事(検注)」を恐れて「暫匿山野」たのだろう。そして、権守興世王と介源経基は「如案襲来、所遺之舎宅、武芝之所々舎宅、縁辺之民家掃底搜取、所遺之舎宅、検封弃去也」(『将門記』)とあるように、武芝の拠点に入ると武芝の所々の舎宅等をはじめとして、付近の民家まで家宅捜索し、その財産を没収した上、家々には「検封」の措置を取った(『将門記』)

 これらの興世王、経基の所業を『将門記』では、

(1)如聞、国司者、无道為宗、郡司者、正理為力
→聞くところによれば、国司側が「無道」を行っており、郡司武芝が「正理」である、という

とする。その理由は、

(2)郡司武芝、年来恪慬公務、有誉无謗
→郡司武芝は、年来公務を怠りなく務め、賞賛はあっても謗る人はない
(3)苟、武芝治郡之名頗聴、国内撫育之方、普在民家
→誠に武芝の治郡の評判は大変高く、武蔵国内の善政は人々に知れ渡っていた

のためだという。

 この国司興世王らの行動をみた国衙在庁(国衙の役人)らの一部は武芝に同調したのだろう。彼らは国司興世王らを「仲和者為太守、重賦、貪財、漁国内之也」(『将門記』)と、古代中国の暴太守を例に挙げて非難するとともに、彼らの家人に対しても「従則懐草竊之心、如箸之主、合眼而成破骨出膏之計、如蟻之従、分手而励盗財、隠運之思」(『将門記』)と中傷し、「粗見国内凋弊、平民可損」との考えから、在庁の書生が「尋越後国風、新造不治悔過一巻、落於庁前、事皆分明於此国郡也」(『将門記』)とあるように「不治悔過」一巻を作成して国庁前に掲示し、人々に国司らの行いを国郡に知らしめたという。そして、

(4)武芝、已雖帯郡司之職、本自無公損之聆、所被虜掠之私物可返請之由、屢令覧挙、而曽无弁糺之政、頻致合戦之構
→武芝は「以前より郡司職に就いているが、今まで公損を出したことはない。先に慮掠された私物は返済すべきである」と、しばしば請求したが、国司側からはまったくその沙汰はなく、さらに合戦の構えまで見せている

とあるように、武芝は「本自無公損之聆」と自分の潔白を主張し、先日の検注で没収された私物の返還を求めている。

 しかし、武芝は前述の通り「郡中之欠負」や「无達期」を犯していたとみられ、当然興世王らが応じるはずもなかった。また「頻致合戦之構」という点に関しては、興世王や経基が郡司を凌ぐ私兵を蓄えていたとは考えられず、国司側から合戦を企てることも考えにくい。興世王と経基が「皆率妻子、登於比企郡狭服山」(『将門記』)と、わざわざ妻子を伴って「狭服山」へ登っていることからみても、興世王と経基が国府から脱出したと考えるのが妥当であろう。つまり「頻致合戦之構」「一向整兵革」は国司側ではなく、武芝ら在庁側が企てたことと考えるのが自然であろう。「狭服山」は遺称地が不明のため現在地の比定が困難であるが、国府から比企郡への官道沿いと考えれば、東松山市高坂あたりとも考えられるが、その後、権守興世王は国府へ戻り、武芝の後陣が「狭服山」の経基を取り囲んでいることから、国府から程近い狭山丘陵の官道沿いと考えるほうが妥当か。なお、経基が妻子を伴っていたとすれば、まだ幼い嫡子の満仲を伴っていたと推測される。

 興世王らによる検注が行われたのは承平8(938)年2月以前と思われるが、興世王らと武芝の軍事的対立が起こったのは天慶元(939)年末頃であり、約二年の空白がある。この二年間で対立が大きくなったものか。

 郡司武芝と国司の騒動を聞いた下総国の平将門は、従類の前で「彼武芝等、非我近親之中、又彼守介、非我兄弟之胤、然而為鎮彼此之乱、欲向相武蔵国」(『将門記』)と、仲裁のために武蔵国へみずから出兵した。ここに武芝が合流し、武蔵国府へと向かっている。これに先立って権守興世王は「先立而出於府衙」と、狭服山を下って国府に戻っている。おそらく将門から何らかの提案があり、それに同意したものだろう。しかし「介経基、未離山陰」(『将門記』)とあるように、源経基は狭服山から下りてくることはなかった。つまり、狭服山で興世王と経基は意見の相違を見たということになる。

 興世王と武芝は「興世王与武芝、令和此事之間、名傾数坏、迭披栄花」と、将門を介して酒を酌み交わして和議が成立した。

 ところが、武芝の後陣の兵は「而間、武芝之後陣等、无故而囲彼経基之営所」と、「狭服山」の経基を包囲した。当然「无故」取り囲むことなど考えにくく、これは武芝の命によるものだろう。ただ、国司に対捍した上、これを討てば当然重罪となることから、包囲するに留めたのだろう。この包囲に対して『将門記』では「介経基、未練兵道、驚愕分散」したといい「権守、将門、被催郡司武芝、抱擬誅経基之疑、即乍含深恨」んで「遁上京都」ったとする。この情報はすぐに国府の将門のもとに届き、将門は「鎮濫悪之本意、既以相違」と、この騒擾の完全な解決に至らなかったことを悔やみ、権介興世王に武蔵国衙を任せると「将門等帰於本郷」ったという(『将門記』)

平将門、戦いに巻き込まれる

 平将門は承平5(935)年2月、伯父・平国香とその岳父・前常陸大掾源護に攻められた(『将門合戦状』)。この合戦はもともと源護と対立していた平真樹という常陸国の豪族から仲介を求められたことから始まっている。具体的な対立内容は不明だが、筑波山西麓周辺における土地を巡る争いであろうか。

 平高望―+――――――――――――――――――――平国香――――平貞盛
(上総介)|                   (鎮守府将軍)(鎮守府将軍)
     |                    ∥      ∥
     +―――――――平良持          ∥      ∥
     |      (鎮守府将軍)       ∥      ∥
     |        ∥――――――平将門  ∥      ∥
     | 県犬養春枝?―娘           ∥      ∥
     |                    ∥      ∥
     | 源護―――+―――――――――――――娘      ∥ 
     |(常陸大掾)|                    ∥
     |      +――――――――――――――――――――娘
     |      |
     |      +―――――――――娘
     |      |         ∥
     |      +―――――娘   ∥
     |      |     ∥   ∥
     |      +―扶   ∥   ∥
     |      |     ∥   ∥
     |      |     ∥   ∥
     |      +―隆   ∥   ∥
     |      |     ∥   ∥
     |      |     ∥   ∥
     |      +―繁   ∥   ∥
     |            ∥   ∥
     +―――――――――――平良兼  ∥
     |          (下総介) ∥
     |                ∥
     +―平良文            ∥
     |(村岡五郎)          ∥
     |                ∥
     +―――――――――――――――平良正
                    (水守六郎)

 前掾源護の出自は不明ながら、一字名からみて嵯峨源氏または仁明源氏であろう。また、平真樹の出自も不明ながら、仁明平氏の祖・平隨時、希世兄弟はこの時点で三十代であるため、桓武平氏の流れ(三~四世平氏)となろう。

●諸源氏、諸平氏系図(『尊卑分脉』)

 桓武天皇―+―葛原親王―+―平高棟――+―平実範         +―平珍材
      |(一品)  |(正三位) |(式部少輔)       |(従四位上)
      |      |      |             |
      |      |      +―平正範  +―平時望――+―平直材
      |      |      |(従四位上)|(従三位)  (従四位下)
      |      |      |      |
      |      |      +―平惟範――+―平伊望――+―平統理
      |      |      |(従三位)  (従三位) |(従五位下)
      |      |      |             |
      |      |      +―平季長――――平中興  +―平善理
      |      |       (従四位下) (正五位下) (従四位下)
      |      |                    
      |      +―高見王――――平高望――+―平国香――――平貞盛
      |       (無位)   (従五位下)|(鎮守府将軍)(鎮守府将軍)
      |                    |
      +―万多親王―+―正躬王――+―平住世  +―平良持――――平将門
      |(二品)  |(正四位下)|(従五位上)|(鎮守府将軍)
      |      |      |      |
      |      +―平保世  +―平基世  +―平良兼――――平公雅
      |      |      |(従五位下)|(上総介)  (武蔵権大掾)
      |      |      |      |
      |      +―平継世  +―平助世  +―平良文――――平経明――――平忠常
      |      |      |(従五位下)|(村岡五郎)        
      |      |      |      |
      |      +―平家世  +―平尚世  +―平良正
      |      |              (水守六郎)   
      |      |
      |      +―平益世
      |      |
      |      |
      |      +―平是世
      |      |
      |      |
      |      +―平経世
      |      |
      |      |
      |      +―平並世
      |      |
      |      |
      |      +―平行世
      |      
      +―仲野親王―+―平茂世――――平好風――――平貞文―――+―安快
      |(二品)  |(従四位下) (従四位上) (従五位下) |(元興寺僧)
      |      |                     |      
      |      +―輔世王――――平安興          +―平兼時
      |      |(従四位上) (従五位下)        |(従五位下)
      |      |                     |
      |      +―季世王                 +―平時経――――平保遠
      |      |(従四位下)               |(従五位下) (従五位上)
      |      |                     |
      |      +―房世王                 +―平信臣
      |      |(従四位上)               
      |      |     
      |      +―秀世王
      |      |(従四位上)
      |      |
      |      +―当世王
      |      |(従四位下) 
      |      |   
      |      +―基世王    
      |      |(従四位下)
      |      |      
      |      +―潔世王      
      |      |(従四位上)
      |      |      
      |      +―実世王      
      |      |(従四位上)
      |      |      
      |      +―班子女王
      |      | ∥――――――宇多天皇
      |      | ∥
      |      | 光孝天皇      
      |      |      
      |      +―十世王――――時清王
      |      |(従三位)  (従五位下)
      |      | 834-916
      |      +―在世王
      |      |(従四位上)
      |      |      
      |      +―康世王      
      |      |(従四位上)
      |      |      
      |      +―平則世
      |      |(従五位下)
      |      |      
      |      +―惟世王
      |      
      +―伊予親王―――高枝王      
      |(四品)   (従三位)      
      |      
      +―賀陽親王―+―忠貞王
      |(二品)  |(正四位下)      
      |      |      
      |      +―利基王      
      |       (従四位上)      
      |      
      |      +―仁明天皇―+―文徳天皇―――清和天皇―――陽成天皇
      |      |      | 
      |      |      |      
      |      |      +―源多―――+―源淵
      |      |      |(正二位) |(正五位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源進
      |      |      |      |(従四位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源任
      |      |      |      |(従五位上)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源漑
      |      |      |      |(従五位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源清
      |      |      |       (従五位下)
      |      |      |      
      |      |      +―源冷―――+―源通
      |      |      |(従三位) |(従五位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源備
      |      |      |       (従五位下)
      |      |      |      
      |      |      +―源光―――+―源静
      |      |      |(従三位) |(正五位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源浄
      |      |      |      |(左少将)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源興
      |      |      |      |(従五位下)
      |      |      |      |
      |      |      |      +―源賢―――――源敦―――+―源昵
      |      |      |       (左少将)  (源次)  |
      |      |      |               ∥    |
      |      |      |        源満仲――――女子   +=渡辺綱
      |      |      |
      |      |      +―源覚―――+―源済
      |      |      |(正四位下)|(従五位下)
      |      |      |      |
      |      |      +―源効   +―源脩
      |      |      |(従四位下)|(従五位下)
      |      |      |      |
      | 橘嘉智子 |      +―源登   +―源都
      |(皇后)  |      
      | ∥    |      
      | ∥――――+―正子内親王
      | ∥      ∥
      | ∥ 藤原旅子 ∥――――――恒貞親王
      | ∥ ∥    ∥     (恒寂入道親王)
      | ∥ ∥――――淳和天皇
      | ∥ ∥      
      +―嵯峨天皇―+―源信―――+―源叶
             |(正二位) |(従五位下)
             |      |
             |      +―源平
             |      |(従四位上)
             |      |
             |      +―源謹
             |      |(正五位下)
             |      |  
             |      +―源有
             |      |(従四位上)
             |      |  
             |      +―源好                 +―源萌
             |      |(従四位上)              |
             |      |                    |  
             |      +―源保―――――源播―――――源固―――+―源文
             |      |(従五位下) (従五位下)    
             |      |  
             |      +―源任
             |      |(従五位下)
             |      |  
             |      +―源昌―――――源諧―――――源計
             |       (従五位下) (従五位上) (従五位下)
             |  
             +―源弘―――+―源同
             |(正二位) |(従五位下)
             |      |  
             |      +―源撰―――――源平
             |      |(従五位上)
             |      |  
             |      +―源双   +―源忠―――――源洽
             |      |(従五位下)|(正五位下) (従五位下)
             |      |      |
             |      |      +―源弼―――+―大輔
             |      |      |(従五位下) 
             |      |      |  
             |      +―源道   +―源號―――――源都
             |      |(従五位下)|(従五位下)
             |      |      |
             |      +―源希―――+―源等―――+―源齋―――――源識
             |      |(従三位)  (従四位上)|       (従五位下)
             |      |             |  
             |      |             +―源済―――+―源撰
             |      |             |(従五位上)|
             |      |             |      |
             |      |             +―源学   +―源治
             |      |             |(従五位上) 
             |      |             |
             |      |             +―源憗
             |      |              (従五位下)
             |      |
             |      +―源悦―――+―源沿―――+―源揚
             |      |(従三位) |(従四位上)|(従五位下)
             |      |      |      |
             |      |      +―源鑒   +―源守
             |      |       (従五位上)|(従五位下)
             |      |             |
             |      |             +―源任
             |      |              
             |      |
             |      +―源愗―――――源渡―――――源撰
             |      |(従五位下) (従五位下) (従五位下)
             |      |
             |      +―源就―――――源致
             |      |(従五位下) (従五位上)
             |      |
             |      +―源近
             |       (従五位上)
             |
             +―源常―――+―源興―――――源教
             |(正二位) |(従四位上) (従五位下)
             |      |
             |      +―源頴
             |      |(従五位下)
             |      |
             |      +―源直―――――源同
             |      |(従三位)  (従五位下)
             |      |
             |      +―源相
             |      |(従五位下)
             |      |
             |      +―源備―――――源増―――――源超―――――源聞
             |       (従五位下) (従五位下) (従五位下) (従五位下)
             |       
             +―源定―――+―源包―――――源同
             |(正三位) |(従四位下) (正四位下)
             |      |
             |      +―源宥   
             |      |(従五位下)
             |      |      
             |      +―源至―――+―源挙―――+―源順―――――源貞――――源教
             |      |(従四位上)|(九百二卒)|(従五位上)       (従五位下)
             |      |      |      |
             |      |      |      +―源頼
             |      |      |       
             |      |      |
             |      |      +―源尚―――――源趁
             |      |              (日向掾)
             |      |
             |      |
             |      +―源精―――+―源浮―――――寛静
             |      |(従五位下)|(従五位下) (東寺長者)
             |      |      |
             |      |      +―源浮子
             |      |       (従五位上)
             |      |
             |      +―源唱―――+―源洪
             |       (従四位下)|(従五位下)
             |             |
             |             +―源俊―――+―源把
             |             |(従四位上)|(従五位下)
             |             |      |
             |             |      +―源沃
             |             |      |
             |             |      |
             |             |      +―女子
             |             |        ∥――――――源頼光
             |             |        ∥     (摂津守)
             |             | 源経基――――源満仲
             |             |       (摂津守)
             |             |
             |             +―源泉―――+―源連
             |             |(正五位下)|
             |             |      |
             |             |      +―源比
             |             |      |(従五位下)
             |             |      |
             |             |      +―源加
             |             |      |(従五位下)
             |             |      |
             |             +―源周子  +――――――――女子
             |              (近江更衣)         ∥
             |               ∥             ∥
             |               ∥――――+――――――――源高明
             |               ∥    |       (正二位)
             |               ∥    |        ∥――――+―源経房
             |               醍醐天皇 +―雅子内親王  ∥    |(権中納言)
             |                      ∥      ∥    |
             |                      ∥――――――女子   +―源明子
             |                      ∥             ∥
             |                      藤原師輔          ∥
             |                     (右大臣)          ∥
             |                      ∥――――――藤原兼家―――藤原道長
             |                      ∥     (関白)   (関白)
             |               藤原経邦―――藤原盛子
             |              (武蔵守)
             |       
             +―源明―――+―源舒―――+―源善―――+―源義―――+―源類―――――源正
             |(正四位下)|(正四位下)|(従四位下)|(従五位下)|(従五位下) (従五位下)
             |      |      |      |      |
             |      +―源建   +―源元   |      +―源廣
             |      |(従五位下)|(従五位下)|      |(従五位下)
             |      |      |      |      |
             |      +―源頴   +―源実   |      +―源泰
             |      |(従五位下)|(従五位上)|       
             |      |      |      |
             |      +―源遠   +―源嚴   +―源超―――――源学
             |       (従五位下) (従五位下)|(従五位下)
             |                    |
             +―源生―――+―源加―――――源浮   +―源勧―――――源廣
             |(正四位下)|(従五位下)        (従五位下)
             |      |
             |      +―源見
             |       (従五位下)
             |       
             +―源寛―――+―源矜
             |(正三位) |(従五位下)
             |      |
             +―源鎮   +―源宥
             |(従四位上) (従五位下)
             |       
             +―源澄―――+―源治―――+―源揚―――――源施
             |(無位)  |(従四位上)|(従五位上) (従五位下)
             |      |      |
             |      +―源蔭   +―源認
             |      |(従五位下) (従五位下)
             |      |   
             |      +―源堪
             |      |(従五位下) 
             |      |
             |      +―源潤
             |       (従五位下)
             |      
             +―源安―――――源来
             |(従四位下) (従五位下)
             |
             +―源清
             |(正四位下)
             |      
             +―源融―――+―源湛―――+―源寄   +―源散
             |(従一位) |(従三位) |      |(従五位下)
             |      |      |      |
             |      +―源泊   +―源准―――+―寛算
             |      |(正三位) |(従三位)
             |      |      |
             |      |      +―源若
             |      |      |(従五位下)
             |      |      |
             |      |      +―源添
             |      |
             |      |             
             |      +―源昇―――+―源適―――+―源済―――――源官―――+―源趁―――――女子
             |      |(正三位) |(従五位下)|(陸奥掾)        |       (新古今作者)
             |      |      |      |             |
             |      |      +―藤顕忠母 +―源憩          +―源貞子
             |      |      |(後撰作者)               (後撰作者)
             |      |      |
             |      |      +―女子
             |      |      |(小八条御息所)
             |      |      | ∥――――――依子内親王
             |      |      | ∥
             |      |      | 宇多天皇
             |      |      | 
             |      |      +―源仕―――――箕田宛――――渡辺綱――――渡辺久
             |      |      |(従五位下) (源次)   (正五位下) (源次)
             |      |      |      
             |      |      +―源後 
             |      |      |(従五位上)
             |      |      |
             |      |      +――――――――源是茂
             |      |      |        ↓
             |      |      | 光孝天皇―+=源是茂――――源師世――――源貞清
             |      |      |      |
             |      |      |      +―源是恒====源衆望
             |      |      |       (従四位下) (従四位下)
             |      |      |               ↑
             |      |      +―――――――――――――――源衆望
             |      |
             |      +―源望―――――源尚
             |      |       (従五位下)       
             |      |
             |      +―源副―――+―源添―――――源元
             |      |(従四位下)|(従五位下) (従五位下)
             |      |      |
             |      |      +―源運―――――源増
             |      |      |(下野掾)  (従五位下)
             |      |      |
             |      +―源温   +―源占―――――兼芸法師
             |      |(従五位下)               
             |      |
             +―源勤―――+―源激―――+―源襲―――――源海―――――源涼
             |(従三位) |(従五位下)|       (従五位下)
             |      |      |
             |      |      +―淳祐内供
             |      |       (石山寺三世)
             |      |      
             |      +―源浣―――+―源高
             |      |(従四位上)|(従五位下)
             |      |      |
             |      |      +―源名―――――源紀
             |      |              (従五位下)
             |      |       
             |      +―源凝―――――源伊―――――源摩
             |       (従五位下)        (従五位下)
             |
             +―源勝―――――源良―――――源隠
             |(従三位)  (従五位下) (従五位下)
             |
             +―源賢   +―源記―――+―源講―――+―源合
             |      |(従五位下)|(従五位下)|(従五位下)
             |      |      |      |
             +―源啓―――+―源尋   +―源救   +―源隣―――――源令
             |(従四位上) (従五位下)        (従五位下)
             |
             +―源継―――――源生
              (従三位)  (正四位下)

 承平5(935)年2月2日、源護の子の源扶、源隆、源繁平真樹と結んだ将門を討とうと、「野本」に陣を張って将門を待ち受けたが、将門側に散々に矢を射られて大敗。「護は常に息子扶、隆、繁等が将門の為に害さるるの由を嘆く」(『将門記』)とあり、この戦いで源氏兄弟はいずれも戦死したとみられる。

 2月4日、将門勢は源氏方の「筑波、真壁、新治三箇郡の伴類の舍宅五百余家」を焼き払った。さらに「野本、石田、大串、取木等の宅より始めて、与力の人々の小宅に至るまで、皆悉く焼き巡」った。この「野本、石田、大串、取木」の比定地は、

・野本(不明)
・石田筑西市東石田
・大串下妻市大串
・取木(不明)

であり、源護の主な拠点がこの四か所だったのだろう。とくに「石田」は国香の屋形があった地であり、「国香の舎宅、皆悉く殄び滅しぬ、其身も死去しぬる者なり」と、国香はこの平将門・平真樹と前掾護との戦乱に巻き込まれて焼死した感があり、国香が積極的に戦いに参加した形跡が見られない。京都で左馬允として働いていた国香の嫡子・平貞盛の述懐として、

「未だ身与力せず、偏に其の縁坐に編らる」(『将門記』)

とあることから、国香は「前大掾源護并に其諸子等、皆同党之者」として巻き添えになった可能性が高い。

 貞盛は国もとから国香焼死の急報を受けて、急ぎ左馬寮に休暇願を提出して常陸国へ帰国しているが、ここで貞盛は手にした情報を分析したのであろう。その結果、

「つらつら案内を検するに、凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり」

と、国香の死は将門の直接的な攻撃によるものではなく、源護と将門(または平真樹)の戦いの中で起こった偶発的な事故と判断した。さらに貞盛は「苟くも貞盛は守器の職に在り、須く官都に帰りて官勇を増」すため、早々に帰京しなければならず、

「孀母堂に在り、子に非ずは誰か養はむ、田地数有り、我に非ずは誰か領せむ、将門に睦びて芳操を花夷に通じ、比翼を国家に流へむ。仍って具に此の由を挙げ、慇に斯く可」

と、将門との間を「慇」にすべきだと、将門と「乃ち対面」しようとした。しかし、国香の異母弟・平良正(源護女婿)が「偏に外縁の愁ひに就き、内親の道を卒忘」して、反将門の急先鋒として介入してきたため、対面は果たせず、坂東は再び戦乱の巷に巻き込まれることとなる(『将門記』)

将門との戦い一(下野国府での敗戦)

 平将門には、平国香平良兼、平良文、平良正らの伯叔父がいたが、父の鎮守府将軍良持はすでに亡く、末叔父の平良文武蔵国村岡郷熊谷市村岡にあって、他の兄弟とは一線を画していたようだ。

 一方、良兼良正は国香と同様に、源護の娘を娶っていて、互いに密接な関係があった。良兼は「下総介」であり、「上総国武射郡」の館山武郡横芝光町周辺か)に在住していた。良正は「故上総介高望王之妾子」とあり、国香や良持、良兼とも母を異にする兄弟と思われるが、国香の屋敷から南へわずか五キロの筑波郡水守郷つくば市水守に住んでいた。彼も国香同様、護の女婿としてその勢力下にあり、源氏の軍事力の一端を担っていたのだろう。良正は国香亡きあとも、ひとり岳父・護の側に立って将門を討とうと常陸国を走り回った。「良正、偏に外縁の愁に就て、卒かに内親の道を忘れぬ」と、完全に婚家に取り込まれていたことがうかがえる。これは、国香や良正が常陸国に地盤を持っていなかった当時、受領として確固たる地盤と勢力を持っていた源氏を外護者としていたと思われることから、彼らが源氏の側に加担するのは当然の成り行きであったと思われる。

 承平5(935)年10月21日、良正と将門は常陸国新治郡川曲村結城郡八千代町周辺?)で合戦し、良正は敗北した。将門は深追いせず、翌22日、本拠地の豊田郡鎌輪之宿千代川村鎌庭周辺)へ帰還する。敗れた良正は、「大兄之介(良兼)」への援軍を依頼し、良兼はこれを受け入れた(『将門記』)

 一方、常陸前大掾源護は平将門、平真樹の濫妨についての「前大掾源護之告状」(『将門記』)を朝廷に奉じ、これを受けた朝廷は承平5(935)年12月29日、「件護并犯人平将門及真樹等可召進之由官符」を発出されている(ただし、この太政官符は翌承平6(936)年9月7日になって「差左近衛番長正六位上英保純行、同姓氏立、宇自加支興等、被下常陸下毛下総等之国」(『将門記』)されており、発出から8か月間、国衙へ届けられなかった理由は不明)

 水守平良正の依頼を受けた兄の平良兼は、承平6(936)年6月26日、常陸を目ざして上総国を出立し、上総国武射郡の小道を通って、下総国香取郡神前香取郡神崎町に集結。神前の津から船出して対岸の常陸国信太郡江前津稲敷市江戸崎へ渡り、翌27日早朝に水守営所つくば市水守に着陣した。良正は良兼を訪ねると、まず「述不審具」べている。この「不審」は後述の平貞盛の態度であると考えられる。すると、件の平貞盛(平国香嫡子)が「依有疇昔之志」って「彼介(良兼)」と対面した。

 ここで良兼は、「如聞、我寄人与将門等、慇懃也者、斯非其兵者、兵名以尤為先、何令虜領若干之財物、令殺害若干之親類、可媚其敵哉、今須与被合力、将定是非」(『将門記』)と語り、将門とは親しい関係にあった貞盛もこの良兼の言葉を受けて、本意ではなかったが暗に良兼らの同類となり、良兼と同道して下野国へ進軍した。

 この良兼の動きを知った将門は事実を確認するために、承平6(936)年10月26日、百騎ばかりで下野国の境に進軍したという。なお、承平6年「十月廿六日」は将門が火急に上洛した「十月十七日」以降となるため、日にちに矛盾が生じている。平良兼の上総国からの出兵の日時から考えても、おそらく「十月廿六日」は「七月廿六日」の誤記であろう。

 将門を攻めんとする良兼の軍勢は「数千許」あり、将門は「略見景色、敢不可敵対」として退却しようとした。これは良兼勢はまだ合戦による疲労も武具の損失もないが、将門勢は度々の合戦で消耗していたためである。ところが良兼勢はこの将門勢を見て戦いを挑んだ。将門勢には援勢もなかったが少数ながら練兵であり、歩兵に弓を打たせてたちまち良兼勢「人馬八十余人」を射殺。「彼介、大驚、皆焼楯逃去」ったが、将門は「揚鞭称名追討之時、敵失為方、偪仄府下、伝曰、偪仄者倭言、伊利古萬留」と良兼らを執拗に追撃し、良兼らは為す術なく下野国府に逃げ込んだ。

 下野国府を取り囲んだ将門は「凡雖在常夜之敵、尋脉不疎、建氏骨肉也、所云夫婦者親而等五。親戚者疎而喩葦。若終致殺害者、若物譏在遠近歟、仍欲逃彼介独許之身」と述べて、「便、開国庁西方之陣」いて「令出彼介之次、千餘人之兵皆免、免鷹前之鷄命、畏急成出籠之鳥歓」 と、良兼を脱出させるために国庁の西方の陣を開いた。良兼はここから脱出し、良兼に従っていた千名余の兵も助命された。良正や貞盛がこれらの戦いに参加していたかは定かではないが、将門は良兼を逃がすと「件介無道合戦之由、触於在地国、日記己了」と、良兼の道理に合わない合戦を近国の国に報じた上で、国衙の日記に記載させて「以其明日、帰於本堵」した。

 9月7日、平将門、平真樹の濫妨について「前大掾源護之告状」(『将門記』)に基づいた「件護并犯人平将門及真樹等可召進之由官符」が常陸国、下野国、下総国の国衙に到着した。これは承平5(935)年2月に発生した、平真樹と前掾源護との紛争に将門が介入し、前掾護の子三人が将門を攻めようとして逆に討たれた事件についての官符である。

 10月17日、将門は「告人(源護)以前」「火急上道」したところ、「便参公庭、具奏事由、幸蒙天判」り、「検非違使所被略問、允雖不堪理務、仏神有感相論、如理何況一天恤上、有百官顧」で、「而犯准軽、罪過不重、振兵名於畿内絶面目於京中」(『将門記』)と、訴人の源護が上洛する以前に上洛し、つぶさに事の次第を奏上。検非違使所での審理でも罪は軽いとされ、却って武名を京都に広めるに至ったという。そして、翌承平7(937)年4月7日に恩詔によって罪を許され、5月11日、京都を出立して下総国へ帰った。

将門との戦い二(平氏一族の壊滅)

 しかし、将門が帰国したことを知った良兼は、ふたたび将門を討つべく兵を挙げた。

 承平7(937)年8月6日には、良兼は一族の祖「故上総介高茂王」と将門の父「故陸奥将軍平良茂」の神像(画像)を陣前に押し出して戦いを挑み、怯む将門を破って将門の本拠地の一つ、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩に乱入して焼き討ちする(『将門記』)

 続けて8月17日、良兼は豊田郡大方郷で将門軍を破り、翌18日に上総国へ帰国の途に就いている。この途路、良兼は将門の妻を捕えて20日に上総国へ渡った。将門の妻は良兼のもとで嘆き悲しんでいたが、

「妾之舍弟等成謀、以九月十日、竊令還向於豐田郡、既背同気之中属本夫家、譬若遼東之女随夫、令討父国、件妻背同気之中、迯帰於夫家」

とあることから(『将門記』)良兼の娘が将門の妻となっており、将門妻の脱出に彼女の弟たち(公雅、公連)が加担した様子が見える。

 9月19日、良兼は再度常陸国へ出陣した。将門も真壁郡へ兵を進め、たびたび合戦を重ねた。10月に入って互いに兵を引いたが、11月5日には「介良兼、掾源護并掾平貞盛、公雅、公連、秦清文凡常陸国等可追捕将門官符」が下され、「武蔵、安房、上総、常陸、下毛野等之国」にも下されている(『将門記』)。貞盛については「掾平貞盛」とあることから、貞盛はこのころ常陸掾となっていたことがわかる。『将門純友東西軍記』によれば、貞盛が「常陸大掾」に任じられたのは天慶3(940)年とあるので(『将門純友東西軍記』)、この説話が正しいとすれば、当時の貞盛は「常陸少掾」か。なお、この官符の対象に水守六郎良正が入っていないことから、すでに亡くなっていたのだろう。

 しかし、この太政官符を受けた「諸国之宰」「乍抱官符、慥不張行、好不堀求」という態度を取る。ただ、良兼は「尚銜忿怒之毒、未停殺害之意(『将門記』)もあり、将門の駈使・丈部子春丸を秘かに寝返らせて間諜に仕立て、将門の石井営所の動きを逐一連絡させ、夜討ちを試みた。しかし、すでに察していた将門によって良兼は返り討ちにあい、上兵の多治良利を討たれるなど大敗を喫して、命からがら戦陣を離脱した。また、間諜となった丈部子春丸も承平8(938)年正月3日、将門に殺害されている。平氏長老だった平良兼はその後動向が見られないことから、雌伏したのだろう。

 平良兼、平良正、源護ら一門が力を失い、良兼の「寄人」だった「掾貞盛」一人の力ではもはやどうすることもできなくなる。貞盛はふと振り返り、

「身を立てて徳を修むるには、忠行より過ぎたるは莫し、名を損じ利を失ふは、邪悪より甚だしきは無し、清廉の比、蚫室に宿らば、羶奎の名を同烈に取る、然も本文に云ふは『前生の貧報を憂へず、但悪名の後に流るる者を吟ふ』てへり、遂に濫悪の地に巡らば、必ず不善の名有るべし、しかじ、花門に出でて以て遂に花城に上り、以て身を達せしむ、之に加えて、一生は只の隙の如し、千歳誰か栄えむ、猶直生を争ひて、盜跡を辞すべし、苟も貞盛は身を公に奉じ、幸ひにして司馬の烈に預かれり、況や労を朝家に積み、弥朱紫の衣を拝すべし、其に次ひでに快く身の愁等を奏し畢む」(『将門記』)

と、戦乱渦巻き、都の評判も芳しくない東国を捨て、都の官吏として立身を目指すという当初の「志」を思い出し、承平8(938)年2月中旬、東山道を通って京都を目指した。本来は交誼を結ぼうとしていた将門とも「非本意」とはいえ戦いに及ぶことになったことに対し、後ろめたさもあったのだろう。

 しかし、将門は貞盛の上洛行を察知すると、

「今、件の貞盛、将門が会稽未だ遂げず、報ひんと欲すも忘れ難し、若し官都に上り、将門の身を讒せむか」(『将門記』)

と誤解した将門に追撃され、2月29日、信濃国小県郡の国分寺あたりで追いつかれてしまった。この時点で貞盛は千曲川を渡っており、川を挟んで合戦となった。ここで貞盛の上兵・他田真樹が矢に当たって死亡し、将門も上兵・文屋好立が矢に当たって負傷している。この戦いはなかなか勝負がつかなかった模様だが、結局、貞盛は山中に逃れており、将門の勝利に終わった。ただ、貞盛は将門に捕われることなく逃げ延び、極寒の信濃国の山奥から何とか上洛を果たす(『将門記』)

 京都にたどり着いた貞盛は、太政官に将門の行状を訴え出たことで、天慶元(938)年6月中旬、貞盛は「京下之後、懐官符雖相糺而」したが、「件将門、弥施逆心倍為暴悪」(『将門記』)という有様で、官符も意味をなさず、貞盛は下野国に雌伏したのであろう。

経基、将門謀反を告密する

 天慶2(939)年3月2日、「遁上京都」った経基は、「東国凶賊平将門謀反之由」(『日本紀略』天慶三年正月九日条)を「源経基、告事武蔵事」(『貞信公記抄』天慶二年三月三日条)した。この知らせは「因之京中大驚、城邑併囂」という状況を招き、3月4日、忠平は「令斎主祈申、坂東兵事、神社数在祈文、六衛府官人、舎人等、不別当直、他直可候之條、令右大将仰」た(『貞信公記抄』天慶二年三月四日条)

 3月9日には「祈祷十一社、又台山二壇法始、座主、義海等為阿闍梨」(『貞信公記抄』天慶二年三月九日条)とあるように、「経基告事」(『貞信公記抄』天慶二年三月九日条)に基づいて鎮撫の祈祷が続けられた。これは「是縁経基告言也」(『貞信公記抄』天慶二年三月九日条)という。この頃、地震が頻発していたこともあり、京都の混乱に拍車がかかっている。

 源経基が奏上しているように、武芝が平将門と合流して武蔵国衙に入ったことで、国司に叛した武芝の背後には将門がいると見做し、そこに権守興世王が加わったとみたのであろう。経基は「仍為報興世王、将門等之会稽、巧虚言於心中、奏謀叛之由於太官」(『将門記』)した。

 一方で、「将門之私君太政大臣家(藤原忠平)」は独自に「可挙実否之由御教書、以天慶二年三月廿五日、寄於中宮少進多治真人助真所、被下之状」ている(『将門記』)。この摂政忠平の御教書は3月28日に将門のもとに届いているため、「三月廿五日」は「三月十五日」の誤記であろう。この御教書を受けた将門は「将門取常陸、下総、下毛野、武蔵、上毛野五箇国之解文、謀叛无実之由、以同年五月二日言上」(『将門記』)したという。このうち「武蔵」は権守興世王の国解であろう。将門が仲裁した詳細は各国解に記されていたとみられ、「抑依諸国之善状、為将門可有功課之由、被議於宮中、幸沐恩浚於海内、須満威勢於外国」(『将門記』)と、将門の功課として認めるべきだろうと陣定で議論された。これは将門の私君の忠文が主導したものと思われる。

 天慶2(939)年5月17日、「令任武蔵守等」が補任された(結局、維幾ののちの正任国司は1年程度欠員だったか)。このとき補任されたのは、上総国に在国中の「前上総介従五位下百済王貞運(貞連)」であった。

●天慶2(939)年5月17日宣旨「応武蔵守百済王貞運任符不待本任上総介放還請印事」(『類聚符宣抄』第八)

前上総介従五位下百済王貞運在国
右、中納言藤原朝臣実頼宣、奉勅、件人交替未終、任武蔵守、宜符待本任放還請印任符
 天慶二年五月十七日    大外記三統宿禰公忠

 百済王貞運は上総国においては後任国司との交替政を行わず、早々に武蔵守の任符に請印するよう命じられており、武蔵守の補任は緊急だったことがわかる。新任国司を補任して京都から下向させるとすると、交替限百二十日の規定となり、最大四か月程度となる。上総国は武蔵国との距離も近いうえに、新司百済王貞連と見任の権守興世王は「姻婭之中」(『将門記』)であり、移動日数も考慮されて、異例の見任国司の転任になったのであろう。 

 上総介から武蔵守へ転じて武蔵国府に入った百済王貞連だったが、姻戚関係にある武蔵権守興世王との関係は芳しくなく、「更不令庁坐矣」と、興世王が国務に携わることを許さなかったようである(『将門記』)。この理由は不明ながら、騒擾の当事者として実務を外された可能性があろう。同様にもう一方の当事者である武蔵武芝もまた「与国司守興世王、介源経基不和争論、依此事郡家退、不預氷川祭事」(『西角井系図』)と見えるように、郡司職を解かれた様子がうかがえる。このことに「興世王、恨世」んで武蔵国府を出奔し、「有寄宿於下総国」と将門のもとへ奔った。

 6月7日、太政大臣忠平は「呼兼忠朝臣」び、「告示左閣」として「今日、可定問密告使事」ことを左大臣仲平(忠平兄)へ告げるよう指示した。「密」とは謀叛以上を意味し、「問密告使」は将門の謀叛が事実かを確認する使節である。このとき忠平の使者を務めた源兼忠は経基の父方従兄弟で、母は太政大臣忠平の姉妹であり、忠平・仲平の実甥でもあった。忠平の指示を受けた仲平は「諸卿参宜陽殿」じるよう召集し、実務官の「被定任武蔵国密告使主典阿蘇広遠(『貞信公記抄』天慶二年六月七日条)が決定されている。実際は阿蘇広遠は使判官で、官途が勘解由主典である。

 桓武天皇―+―――淳和天皇―――仁明天皇―+―――文徳天皇
      |               |   ∥―――――清和天皇――+―貞純親王――――源経基
      |               |   ∥           |(四品)    (武蔵介)
      |               |   ∥           |
      |               | +―藤原明子        +―貞元親王
      |               | |              (四品)
      | +―藤原長良―+――――――|―|―――――――藤原国経    ∥―――――――源兼忠
      | |(権中納言)|      | |       ↓       ∥      (左衛門佐)
      | |      |      | |       ↓       ∥
 藤原冬嗣―――+―藤原良房―|――――――|―+=======藤原基経――――女子
      |  (摂政)  |      |        (関白)
      |        |      |         ∥
      |        |      +―光孝天皇――――――宇多天皇――醍醐天皇  +―朱雀天皇
      |        |      |         ∥       ∥     |
      |        |      |         ∥       ∥     |
      |        |      |         ∥       ∥―――――+―村上天皇
      |        |      |         ∥―――――+―藤原穏子
      |        |      |         ∥     |(中宮)
      |        |      |         ∥     |     
      |        |      +―人康親王――+―女子    +―藤原仲平
      |        |       (四品)   |       |(左大臣)
      |        |              |       |
      |        +―藤原有子         +―女子    +―藤原忠平
      |          ∥              ∥      (太政大臣)
      |          ∥              ∥
      |          ∥              ∥―――――――平伊望
      |          ∥              ∥      (大納言)
      |          ∥――――――――――――――平惟範
      +―――葛原親王―――高棟王           (中納言)
         (一品)   (大納言)

 6月9日、忠平は邸に「大納言(平伊望)」を呼ぶと、獄令の告密條(または告言人罪條)に基づき、「可禁告人忠明勘文」を見せ、「可令禁経基、左衛門府事」(『貞信公記抄』天慶二年六月九日条)と、経基を左衛門府への禁固を命じた。

第卅二條 告言人罪條
凡告言人罪、非謀叛以上者、皆令三審、応受辞牒官司、並具曉示虚得反坐之状、毎審皆別日、受辞官人、於審後署記、審訖、然後推断、若事有切害者、不在此例、切害、謂殺人、盗賊、迯亡、若強奸、及有急速之類、其前人合禁、告人亦禁、辨定放之

獄令卅三 告密條
凡告密人、皆経当處長官告、長官有事、経次官告、若長官次官俱有密者、任経比界論告、受告官司、准法示語、確言有実、即禁身拠状検校、若須掩捕者、則掩捕、応与余国相知者、所在国司、准状収掩、事当謀叛以上、雖検校仍馳駅奏聞、捐斥乗輿及妖言惑衆者、検校訖総奏、承告掩捕者、若無別状、不須別奏、其有雖称告密、示語確不肯噵、仍云事須面奏者、受告官司、更分明示語虚得無密反坐之罪、又不肯噵事状者、禁身馳駅奏聞、若直称是謀叛以上、不吐事状者、給駅差使部領送京、若勘問、不噵事状、因失事機者、与知而不告同、其犯死罪囚、及配流人、告密者、並不在送限、応須検校及奏聞者、准前例

  一方で武蔵国へ「諸興、最茂等、可為押領使」を指示(ただし、五位を以ってこの任に充てた例があるか調査も命じている)し、「推問使官符可令早」ことも指示した(『貞信公記抄』天慶二年六月九日条)。推問使の人選は6月7日の陣定で、実務官となる推問使判官の勘解由主典阿蘇広遠のみ決定されているが、その後、長官と次官もまた決定されている。なお、このとき忠平亭を訪れた平伊望は、忠平とは母同士が姉妹の従弟である。

推問東国使
(武蔵国問密告使)
長官 源俊 右衛門権佐
次官 高階良臣 左衛門尉
判官 阿蘇広遠 勘解由主典

 

常陸国の擾乱

 天慶2(939)年6月上旬、関東平氏の長老であった「介良兼朝臣」が「以六月上旬逝去」した(『将門記』)。平貞盛は良兼亡き後、寄る辺を失い、10月に陸奥国へ赴任する「陸奥守平維扶朝臣」が下野国府に到着すると、同道を試みている。貞盛は「彼太守」維扶と「知音之心」があり、貞盛が「相共欲入、於彼奥州令聞事由」を聞いた維扶も「甚以可也」と同道を喜んだ。

 しかし、貞盛が出立しようと準備をしていると、貞盛の動きを知った将門が山狩りをして貞盛の身を追ってきた。貞盛はこれを知ると身をくらませて追撃を免れることができたが、陸奥守平維扶は「思ひ煩」った結果、貞盛を待つことなく任地へ旅立った。受領の交替限は百二十日と規定されていることや、風雪を避けるためか、やむなく貞盛を置いて下向することを選んだのだろう。

 平維扶は承平7(937)年8月15日当時「左馬頭」の官にあり(『九条殿記』)、おそらく承平5(935)年当時左馬允だった貞盛の上官だったと思われ、旧知の間柄だったのだろう。太政大臣藤原忠平は天慶2(939)年8月17日、「白河家」で維扶の奥州赴任に餞別の管弦の宴を催しており(『貞信公記抄』)、維扶は忠平とも深く関わる人物であった。

●天慶2(939)年8月17日『貞信公記抄』

往白河家、餞陸奥守惟扶朝臣、聊有管絃之興、又賜禄有差

 天慶2(939)年8月28日には、忠平は外記三統公忠宿禰を橘実利のもとへ遣わし、宇治の惟扶朝臣宅を訪ねて庭立奏を受け習い、10月1日の庭立奏に必ず奉仕するよう指示している。維扶は延喜22(922)年8月5日当時ですでに十年以上も少納言として実務官を経験しており、忠平は惟扶を信頼していた様子がうかがえる。

●天慶2(939)年9月29日『貞信公記抄』

八月廿二日、令公忠宿禰仰実利云、惟扶朝臣在宇治、須向彼宅、受習庭立奏、必奉仕十月朔日

 その後も将門の厳しい追捕を受けた貞盛は雌伏を余儀なくされ、なんとか常陸介藤原維幾の庇護を受けるに至った。維幾は貞盛の義叔父にあたり、当時「常陸国居住藤原玄明」と争っていた。維幾は常陸介に補任されて間もなく、6月4日に「少忠藤原定遠、為常陸交替使者」(『日本紀略』天慶二年六月四日条)と交替使(詔使)が任じられたばかりで、その後、交替使定遠は常陸国に入っている。

 この藤原玄明は出自不明ながら「素為国乱人、為民之毒害也、望農節、則貪町満之歩数、至官物、則先束把之弁済、動浚轢国使之来責、兼劫略庸民之弱身、見其行、則甚於夷狄、聞其操、則伴於盗賊」という、国衙側からの誇張表現が多数見受けられるが(玄明を捕えようとする稿は、常陸国衙の文書を引いたものであろう)、この内容から見ると、玄明は正税管理を行う立場にある事から郡司と推測でき、のちに平将門与党となる常陸掾藤原玄茂の親族であろう。収穫期においては管轄内田の歩数を少なく申告し、正税も滞納分または不足分の弁済を行わず、新任国司による国使検注にあってはこれを妨害したと評され、これに対し「長官藤原維幾朝臣」は「為令弁済官物、雖送度々移牒、対捍為宗、敢不府向、背公恣施猛悪、居私而強寃部内也」とあるように、官物の弁済を命じる「移牒」を度々送ったとする。ところが玄明はこれを無視して国府に出仕せず、自分の営所に居座り続けた。武蔵国における興世王・経基と武芝の騒擾とまったく同じ観がある。ただし、これには後述の通り、維幾の子・為憲(工藤氏の祖)の「偏仮公威、只好寃枉」による讒言が強く疑われる。

 これに国司維幾は「長官、稍集度々過、依官符旨、擬追捕之」と玄明の追捕を決定すると、玄明は「急提妻子、遁渡於下総国豊田郡之次、所盗渡行方河内両郡不動倉穀糒等」と、妻子を伴って下総国豊田郡に逃亡した。この際、行方郡、河内郡の不動倉から「穀糒等」を盗んでいったといい、その盗まれた「其数」は「在郡司所進之日記也」という。これらは常陸国府から下総国へ至る道筋にあり、玄明は路次の糧を民家に押し入らず、官衙の出挙稲に頼ったのだろう。

 これに常陸介維幾は「仍可捕送之由移牒、送於下総国并将門」った。下総国衙と平将門の両名に「移牒」を送っていることは、平将門は下総国衙と公的な繋がりを持つ存在として認識されていたと推測される。ところが彼らは「而常称逃亡之由、曽无捕渡之心」とあるように、玄明を捕えようとしても常に逃亡して追捕ができないと称して捕えようとしなかった。どういった理由で下総国衙と将門が玄明を捕えなかったのかは不明だが、玄明の言い分に理があったのだろう。

 玄明は将門と対面すると「為彼守維幾朝臣、常懐狼戻之心、深含馳飲之毒、或時隠身欲誅戮、或時出力欲合戦」ことを試しに将門に告げた。これに将門は「乃有可被合力之様」と伝え、玄明は「弥成跋驅之猛、悉構合戦之方、内議已訖」という。そして「集部内之干戈、発堺外之兵類」し、天慶2(939)年11月21日に「渉於常陸国」った。ただし、これはのちに将門が太政大臣忠平に宛てた書状には、将門は戦いのために常陸国に赴いたのではなく、「常陸介維幾朝臣息為憲、偏仮公威、只好寃枉、爰依将門従兵藤原玄明之愁、将門為聞其事、発向彼国」と、国司維幾の子・為憲が国司の威を借りて人を冤罪に陥れることを好む男であり、将門は為憲に陥れられた藤原玄明の愁訴を受けて、国司維幾から話を聞くために常陸国へ渡った、と主張している。常陸国衙側、将門側両方の言い分は互いにまったく容れられないが、これらを総じて見れば、維幾の子・為憲と玄明の間に起こった何らかの対立に起因する騒擾だったと考えられる(『尊卑分脉』では為憲母は高望王の女子であることから、事実であれば将門とは従兄弟となる)

 桓武天皇――葛原親王――高見王――平高望―+―平国香―――――平貞盛
(上総介) (式部卿)      (上総介)|(鎮守府将軍) (陸奥守)
                      |
                      +―平良持―――――平将門
                      |(鎮守府将軍)
                      |
                      +―女子
                        ∥―――――――藤原為憲
                        ∥      (木工助)
                        藤原維幾
                       (常陸介)

 将門は「件玄明等、令住国土、不可追捕之牒」を常陸国衙に奉じたが、国衙側は「不承引、可合戦之由」の返事を将門に送達すると、将門勢に攻め入ったという。このときの軍勢は、将門の上申書によれば、維幾の子・為憲が平貞盛と同心して集めた三千余の精兵で、国衙の兵庫から武器防具を勝手に持ち出して武装。将門一向に攻め懸ったということであった。これに将門も応戦し「励士、楽起意気」した結果、「討伏為憲軍兵」と、為憲率いる軍勢を攻めつぶしたという。この戦いにより為憲勢は「滅亡者不知其数幾許、況乎存命黎庶、尽為将門虜獲也」と、多くは討たれ、存命の者も将門の捕虜となったという。一方で、国衙側の文書を引いているとみられる『将門記』の部分では「国軍三千人」が将門勢に「如負被討取也」といい、将門は「随兵僅千余人」だったが、「押塘府下、便不令東西」と、常陸国府を押し包んで封鎖した上で常陸国府に入ったとみられ、「介維幾、不教息男為憲、令及兵乱之由、伏弁過状、已了」と、国司維幾は子息為憲の行動が兵乱を招いたことを陳謝する文書を将門に渡したという。この「長官既伏於過契」に加えて、「詔使復伏弁敬屈」とあるように、交替使も。将門の上申書においては、この騒擾は解決されたという。ただし、玄明の処遇については記録が残っていない。

 しかし、この戦いで将門が戦った為憲勢は「国軍」であったためか、「因之候朝議之間、且虜掠坂東諸国了」と、朝議が行われ決定を見るまで、坂東諸国を占領する、という行動に出たという。常陸介藤原維幾と「詔使(交替使)」定遠は将門に拉致され、11月29日、将門の本拠地である下総国豊田郡鎌輪宿に連れ帰っている。維幾らは「令住一家」と丁重に扱われたが、彼らは「寝食不穏」だったという。12月2日、「常陸国言上、平将門興世王等、損害官私雑物等状」(『日本紀略』天慶二年十二月二日条)が朝廷に届いている。維幾が国府を占拠される前に伝達したものか。

 将門は常陸国府を占領したのち、続けて12月11日に下野国へ侵攻した。この勢いに呑まれた下野守藤原弘雅、前司大中臣定行は国権の象徴である「印鎰」を将門に献じ、京都に追われた(『扶桑略記』)。さらに12月15日には上野介藤原尚範もまた「印鎰」を奪われ、12月19日に都へ追放された(『扶桑略記』)。この尚範は瀬戸内で「天慶の乱」を起こした伊予掾藤原純友の叔父にあたる。

                清和天皇
                ∥――――――陽成天皇
                ∥
 藤原冬嗣―+―藤原長良――+―藤原高子
(左大臣) |(権中納言) |
      |       +―藤原遠経―+―藤原良範―――藤原純友
      |       |(右大弁) |(太宰少弐) (伊予掾)
      |       |      |
      |       |      +―藤原尚範
      |       |       (上野介)
      |       |      
      |       +――藤原有子
      |       |  ∥
      |       |+―平高棟
      |       ||(権大納言)
      |       ||
      |       |+―高見王―――平高望――+―平国香―――――平貞盛
      |       |       (上総介) |(鎮守府将軍) (鎮守府将軍)
      |       |             |
      |       +―藤原基経        +―平良持―――――平将門
      |         ↓            (鎮守府将軍) 
      |         ↓     【平将門私君】
      +―藤原良房――+=藤原基経―――藤原忠平―――藤原師氏
       (太政大臣) |(太政大臣) (太政大臣) (左近衛少将)
              |
              +―明子
                ∥――――――清和天皇
                ∥
                文徳天皇

 下野国府を占領すると、将門は「新皇」を称し、除目を行った(『扶桑略記』)

●平将門が行った除目

官職 人物 備考
下野守 平将頼 将門舎弟
上野介 多治経明 常羽御厩之別当
上総介 興世王 武蔵権守
下総守 平将為 将門舎弟
常陸介 藤原玄茂 常陸掾
相模守 平将文 将門舎弟
伊豆守 平将武 将門舎弟
安房守 文屋好立  

 そして同日、「太政大殿少将閣賀」へ宛てて、国府占領の報告状を認めることになる。「太政大殿」は将門が私君として伺候した太政大臣藤原忠平、「少将閣賀」とは忠平の子・左近衛少将藤原師氏のことである。師氏も宛名の一人としているのは、当時の将門が師氏の「臣」だったのかもしれない。

 12月22日には信濃国からも将門反乱の飛駅使が到着し、27日には「平将門并武蔵権守従五位下興世王等謀反」の報が奏上され、29日に朝廷で対策が練られることとなった。ここに来て、平将門・興世王を正式に謀反人として追討することが決定する。

平将門の乱

 天慶2(939)年12月2日、京都に「常陸国言上、平将門、興世王等、損害官私雑物等状」(『日本紀略』天慶二年十二月二日条)という国解が届けられた。これは常陸介維幾が常陸国府を取り囲まれる前に送達した国解か。

 続報として、12月27日には「下総国豊田郡武夫」から「奉於平将門并武蔵権守従五位下興世王等謀反、虜掠東国」が伝えられた(『日本紀略』天慶二年十二月廿七日条)。そして12月29日には信濃国解として「平将門附兵士等、追上上野介藤原尚範、下野守藤原弘雅、前守大中臣定行等由」が報告されたことから、同日中に「賜勅符、於信濃国、応徴発軍兵、備守境内事、警固諸陣三関国々及東山東海道諸国要害」ことが命じられた(『日本紀略』天慶二年十二月廿九日条)。その夜には「武蔵守貞連、入京」し、「召殿上前、被問軍兵事起」されている(『日本紀略』天慶二年十二月廿九日条)。これらの情報から、関東における平将門らによる叛乱は疑う余地のないものとなり、朝廷は瀬戸内の「前伊予掾藤原純友」だけでなく、関東への対応も行う必要に迫られた。

 天慶3(940)年正月1日、「宴会、無音楽、依東国兵乱也」(『日本紀略』天慶三年正月一日条)という中で、「任東海東山山陽道等追捕使以下十五人」が任命され、東国及び瀬戸内の兵乱鎮撫が本格化した。

●「東海東山山陽道等追捕使」(『日本紀略』天慶三年正月一日条)

追捕使 位階 備考
東海道使 藤原忠舒 従四位上 平将門追討の征東大将軍藤原忠文の弟
東山道使 小野維幹 従五位下  
山陽道使 小野好古 正五位下  

 将門による叛乱が確定したことにより、正月9日、経基は「依申東国凶賊平将門謀反之由也」(『日本紀略』天慶三年正月九日条)の功績によって「以武蔵介源経基、叙従五位下」された。一方、同日付で前年6月に決定されながら、「屢申障、不発向之」った推問東国使(問密告使)の「右衛門権佐源俊、左衛門尉高階良臣、勘解由主典阿蘇広遠」の三人は推問東国使を解却されている(『日本紀略』天慶三年正月九日条)

 正月11日、「賜官符東海東山道、応抜有殊功輩、加不次賞事」(『日本紀略』天慶三年正月十一日条、『将門記』)と定められ、正月14日には「任追捕凶賊使」じられ、正月19日、「参議修理大夫藤原朝臣忠文」「任右衛門督、為征東大将軍」に任じられ、陣容が固められた。

●藤原忠文周辺系図

                                                      +―平国香――――平貞盛
                                                      |(鎮守府将軍)(常陸大掾) 
                                                      |
                                                      +―平良持――――平将門
                                                      |(鎮守府将軍)(新皇)
                                                      |
 藤原不比等―+―藤原武智麿―+―藤原仲麿                            平高望――+―女
(右大臣)  |(左大臣)  |(太師)                            (上総介)   ∥
       |       |                                        ∥――――――藤原為憲
       |       +―藤原乙麿――藤原是公――藤原雄友―――藤原弟河―――藤原高扶――藤原清夏―――藤原維幾  (遠江権守)
       |        (治部卿) (右大臣) (宮内卿)  (伊賀守)  (陸奥守) (上総介)  (常陸大掾)
       |
       |                          +―藤原長良―+―藤原遠経――藤原良範―――藤原純友
       |                          |(権中納言)|(右大弁) (大宰少弐) (伊予掾)
       |                          |      |
       |                          |      +―藤原基経
       |                          |       (太政大臣)
       |                          |        ↓
       +―藤原房前――+―藤原真楯――藤原内麿――藤原冬嗣―+―藤原良房===藤原基経――藤原忠平
       |(民部卿)  |(大納言) (右大臣) (左大臣)  (太政大臣) (太政大臣)(太政大臣)
       |       |
       |       +―藤原魚名――藤原藤成――藤原豊沢―――藤原村雄―――藤原秀郷
       |        (左大臣) (伊勢守) (下野大掾) (下野少掾) (押領使)
       |
       +―藤原宇合――――藤原百川――藤原緒嗣――藤原春津―――藤原枝良―+―藤原忠文
       |(式部卿)   (式部卿) (左大臣) (刑部卿)  (修理大輔)|(右衛門督)
       |                                 |
       +―藤原麻呂                            +―藤原忠舒
        (兵部卿)                             (刑部大輔)

 正月25日には「遠江伊豆等国連署解状来」て伝えることには、「官符使卜部松見」が「於駿河国、為群賊被奪取了」(『日本紀略』天慶三年正月廿五日条)といい、「駿河国」では「岫崎関為凶党被打破、又兵来囲国分寺、奪取雑物、射殺人民」(『日本紀略』天慶三年正月廿五日条)と、駿河国において群賊が暴れる様子が見えている。 

 そして2月8日辰の刻、「主上、出御南殿、賜征夷大将軍右衛門督藤原忠文節刀、下遣於坂東国、即以参議修理大夫兼右衛門督藤原忠文為大将軍」と、朱雀天皇は平将門追討のため、征夷大将軍忠文に節刀し、「刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国幹、大監物平清基、散位源就国、同経基等、為副将軍」と、経基も副将軍の一人として東下することが決定した。このほか「下総権少掾平公連、藤原遠方等、下遣」たという(『扶桑略記』)

 しかし、追討軍下向前の2月1日、「下野国押領使藤原秀郷、常陸掾平貞盛等、率四千余人兵、於下野国与将門合戦之間、将門之陣已被討靡、迷于三兵手遁身四方、中矢死者数百人」(『扶桑略記』)と、下野国では将門勢と藤原秀郷、平貞盛の軍勢がぶつかり、将門勢は敗走。さらに2月13日には「貞盛、秀郷等」が「至下総国征襲将門」して、またしても将門勢は敗走。「而将門、率兵隠島広山」れ、貞盛・秀郷勢は「始自将門之館、至士卒之宅悉焼廻」った。その翌日2月14日未剋、「於同国貞盛、為憲、秀郷等、棄身忘命馳向射合、于時将門忘風飛之歩、失梨老之術、即中貞盛之矢落馬、秀郷馳至其所、斬将門之頸以属士卒、貞盛下馬到秀郷前、其日将門伴類被射殺者一百九十人云々」(『扶桑略記』)といい、将門は貞盛・秀郷勢によって討ち取られた。なお、2月25日に京都へ届けられた「信濃国馳駅来奏」(『日本紀略』天慶三年二月廿五日条)によれば、「凶賊平将門、今月十三日、於下総国幸嶋合戦之間、為下野陸奥軍士平貞盛、藤原秀郷等、被討殺之由」と見え、10月13日の下総国幸嶋の合戦坂東市山で討たれたという。

 将門の頸は「(二月)廿五日庚申、将門之頸於洛都」(『扶桑略記』「已上、将門誅害日記」)といい、2月25日に将門の頸が入洛したことがわかる。なお、3月18日に興世王も上総国で「藤原公雅(平公雅)」に「被殺」されている(『将門記』『日本紀略』)

 2月29日早朝、「奏将門誅殺之由」せられた。これに基づき、「三月五日、秀郷等功可賞事」(『貞信公記抄』天慶三年三月五日条)が論ぜられ、「九日、叙位、秀郷、貞盛、又賜国々報符」(『貞信公記抄』天慶三年三月九日条)った。具体的には、3月9日に「即賞藤原秀郷敍従四位下、兼賜功田、永伝子孫、更追兼任下野武蔵両国守、又平貞盛敍従五位上、任右馬助、又告人源経基敍従五位下、兼任太宰少弐」(『扶桑略記』)という。『日本紀略』では「下野掾藤原秀郷、敍従四位下、以常陸掾平貞盛、敍従五位下、是依討平将門之功也」(『日本紀略』天慶三年三月九日条)、『貞信公記抄』『日本紀略』によれば秀郷及び貞盛には勲功により位階がのぼったが、官については触れられておらず、この時点ではそれぞれ下野掾、常陸掾のママであった可能性が高い。藤原秀郷はその後、下野守、武蔵守への補任があったのだろう(同時期ではない)。なお、彼らのもともとの位階は「源頼朝、敍正四位下本従五位下、天慶秀郷、自六位敍四位之例也」(『百錬抄』元暦元年三月廿七日条)とあるように、六位とみられる。源経基はこれ以前の正月9日に叙爵していること及び、『貞信公記抄』では「秀郷、貞盛」のみ語られ、経基に言及していないことから、『扶桑略記』に見える「告人源経基敍従五位下、兼任太宰少弐」の叙爵は、秀郷の「下野武蔵両国守」と同様に将門の叛乱鎮定に関わった勲功としてまとめて記されたものであろう。

 3月18日、「征東大将軍解状」により、将門追討の征東大将軍藤原忠文が職を解かれ、4月15日、「征東大将軍参議右衛門督藤原朝臣忠文」が入洛。「返上節刀」し(『日本紀略』天慶三年四月十五日条)、国家的な将門追討軍は終了した。

 11月16日、除目があり「任人数数住人、其中従四位下藤原秀郷、任下野守、依軍功也」(『日本紀略』天慶三年十一月十六日条)とあり、藤原秀郷は将門追討の功績により下野守に補任された。

前伊予掾藤原純友の叛乱

 関東で平将門ら関東平氏による騒擾が勃発していた時期と重なる、承平6(936)年5月26日、紀淑人が「依為追捕南海道使、任伊予守兼左衛門権佐」して、伊予国に赴任した。「紀淑人任伊予守、令兼行追捕事」(『日本紀略』)であり、追捕南海道使として海賊追捕の任を受けたものであった。新司紀淑人は「寛仁」であると聞いた瀬戸内の賊徒は「二千五百余人、悔過就刑」き、さらに「魁帥小野氏彦、紀秋茂、津時成等合丗余人、束手進交名帰参」という。この三十余名の海賊には「即給衣食田畠、行種子、令勧農業、号之前海賊」と、田畠を与えて「前海賊」の号を与えて国衙の支配下に収めるなど、懐柔策に成功している。そして伊予国「前掾藤純友」も「可追捕海賊之由、蒙宣旨」っており(『本朝世紀』天慶二年十二月廿一日条)、紀淑人と同時の国司補任だった可能性もあろう。藤原純友は伊予掾として国衙兵を率いて海賊追捕を行う責任者だったとみられる。

 その後、天慶2(939)年11月までの三年間は純友の動向は不明であるが、この間に伊予掾の任期が終わっている。そして天慶2(939)年12月初旬、「前掾藤純友」は突如「率隨兵等、欲出巨海」する。理由は定かではないが、純友の出奔は「部内之騒、人民驚」くほどで、「紀淑人朝臣」をしても「雖加制止、不承引」とあるように、純友を押しとどめることはできなかった。紀淑人はこの「而近来有相驚事」を制止するべく、12月初頭に京都へ「早被召上純友、鎮国郡之騒」という国解を発し、12月17日には太政大臣忠平が「伊予国申、純友乗船欲出海上、被早召上」(『貞信公記抄』天慶二年十二月十七日条)を確認している。これを受けて12月19日、内裏では陣定が開かれ「諸卿於陣頭、定申藤原純友乱悪事」(『日本紀略』天慶二年十二月十九日条)が話し合われ、12月21日に「相職朝臣、将来依純友事、給国々之官符、蒙使仰明方、彦真、安生等、可早進遣事」(『貞信公記抄』天慶二年十二月十七日条)の指示をしている。官符は「可召件純友官符等、請内外印、下摂津、丹波、但馬、播磨、備前、備中、備後国等」(『本朝世紀』天慶二年十二月廿一日条)とあるように、瀬戸内近接の国に発出されたようである。

 この騒動の中、12月25日の事と思われるが、備前介藤原「子高」が「於摂津国、為純友兵士被虜」(『貞信公記抄』天慶二年十二月廿六日条)となり、12月26日に京都へ「子高朝臣従者馳来」って発覚した。詳細は「備前介子高、於摂津国須岐駅、為前伊予掾藤原純友為海賊首、被圍」り、子高は「放矢合戦」するも「隨兵員少、子高乞降、即縛子高」た。そして「子高太郎、為賊被殺了」、「播磨介島田惟幹朝臣、為件兵被虜掠」という(『日本紀略』天慶二年十二月廿六日条)。藤原子高は閏7月5日の小除目で「備前介」に補されており(『本朝世紀』天慶二年閏七月五日条)、交替限六十日を考えると九月には備前国府に着任していた。その三か月後に播磨介島田惟幹とともに「摂津国須岐駅西宮市宮西町辺か」にいたところ見ると、何らかの理由により子を伴って上洛を目指していたことがわかる。純友勢が子高が滞在する須岐駅を襲撃攻囲していることから、純友と子高の間に何らかの確執があった可能性もあろう。純友と子高の間に血縁関係はなく、海賊追捕に関する対立であろうか。

 藤原武智麿――藤原巨勢麿――藤原真作―+―藤原村田―――藤原敏行―――藤原伊衡―――女子
(左大臣)  (参議)   (阿波守) |(讃岐守)  (右兵衛督) (左兵衛督) (中将御息所)
                    |                      ∥――――――源為明
                    |                      ∥     (刑部卿)
                    |                      醍醐天皇
                    |                    
                    +―藤原三守―――藤原有統―+―藤原諸葛―――藤原玄上
                     (右大臣)  (侍従)  |(中納言)  (少納言)
                                  |                   
                                  +―藤原末業―+―藤原子高―+―藤原長忠
                                  |(少納言) |(讃岐守) |
                                  |      |      |
                                  |      +―藤原子成 +―藤原為政
                                  |       (式部少丞)|(大学助)
                                  |             |
                                  +―藤原諸房        +―藤原長範
                                   (少納言)         (散位)
                                    ∥
                                    ∥――――+―藤原恒秋
                             藤原忠平―――女子   |(左兵衛権佐)
                            (太政大臣)       |        
                                         +―藤原恒尚
                                          (左馬頭)

 この純友による国司襲撃という重大事件は、忠平は「因之招公卿、令定所行之事」(『貞信公記抄』天慶二年十二月廿六日条)、「左大臣已下諸卿、於太政大臣家、被議件事」(『本朝世紀』天慶二年十二月廿六日条)と、急遽、実兄である左大臣仲平以下の諸卿を招集して純友への対応を協議している。

 翌天慶3(940)年正月、近江権介小野好古を「追捕凶賊使」(『尊卑分脈』)に補任して純友追討に備えるとともに、正月30日、太政大臣忠平邸を実兄の左大臣仲平が訪問し、「左丞相来議、奏可敍純友五位事」(『貞信公記抄』天慶三年正月丗日条)と、純友への対応を相談。純友を従五位下に叙爵することで、純友の懐柔を図ったとみられる。忠平は仲平に純友の叙爵の奏上を依頼している。

 その後、天慶3(940)年2月、関東において平将門が討ち取られ、2月25日にその首級が京都へ入った。これを契機にするものか、南海の海賊追捕が本格化することになる。天慶3(940)年8月22日には「於近江国、応徴発兵士百人、為討阿波国也」(『日本紀略』天慶三年八月廿二日条)と阿波国の海賊衆追討のため、近江国で兵士を徴発している。8月26日には「讃岐国飛駅使来」て「讃岐国、伊予国、為賊被慮掠、備後国舟、為賊被焼之由」(『日本紀略』天慶三年八月廿六日条)が報告され、10月22日には「安芸国、周防国飛駅来」て「申大宰府追捕使左衛門尉相安等兵、為賊被打破由」」(『日本紀略』天慶三年十月廿二日条)が報告された。

 天慶4(941)年正月16日、「追捕南海賊使解文」が京都に到来。2月9日には「讃岐国飛駅」の報告によれば「兵庫允宮道忠用、藤原恒利等、向伊予国、頗撃賊類」(『日本紀略』天慶四年二月九日条)という。この「藤原恒利」は純友の腹心ながら、官軍に寝返った人物である。さらに、朝廷は藤原純友追討の征南海賊使として「右近衛少将小野好古為長官、以源経基為次官、以右衛門尉藤原慶幸為判官、以左衛門志大蔵春実為主典」とする軍勢を「即向播磨讃岐等二国」わせるとともに「作二百余艘船、指賊地伊予国艤向」った(『扶桑略記』)

●「征南海賊使」(『扶桑略記』)

追捕使
長官 小野好古 右近衛少将
次官 源経基 散位か
判官 藤原慶幸 右衛門尉
主典 大蔵春実 左衛門志

 3月28日には大宰大弐に参議源清平が補任されている。ただし、清平は瀬戸内から大宰府にかけて続く騒擾のため、この時点では赴任していないであろう。

 仁明天皇―+―文徳天皇―――清和天皇―+―陽成天皇
      |             |
      |             +―貞純親王―――源経基
      |              (四品)   (大宰少弐)
      |
      +―光孝天皇―+―宇多天皇―+―醍醐天皇―+―村上天皇―+―冷泉天皇
             |      |      |      |
             |      |      |      +―具平親王―――源師房
             |      |      |       (中務卿)  (左大臣)
             |      |      |
             |      |      +―源高明
             |      |       (左大臣)
             |      |
             |      +―敦実親王―+―源雅信
             |       (式部卿) |(左大臣)
             |             |      
             |             +―源重信
             |              (左大臣)
             |
             +―是忠親王―+―源清平
              (式部卿) |(大宰大弐)
                    |
                    +―源宗于
                     (右京大夫)

 そして5月5日、純友勢は「使右近衛少将小野好古朝臣等」により「於太宰博多津」いて討ち散らされ、伊予国に逃げ、5月19日、「征南海賊使小野好古」の「飛駅」が「賊徒虜掠大宰府内」(『日本紀略』天慶四年五月十九日条)を京都に伝えた。これを受けた朝廷は公的な海賊追討軍を編成することと決定し、「参議右衛門督藤原朝臣忠文」を「任西征大将軍」じ、「任副将軍、軍監以下」じて西へ下向させた(『日本紀略』天慶四年五月十九日条)

 6月6日の「追捕使等飛駅」によれば「言賊徒被撃破之由」があり、伊予国警固使橘遠保が「斬獲純友并男重太丸」し、7月7日に「進其頭」した(『本朝世紀』天慶四年七月七日条)。これに関し、7月29日に伊予国から「去月廿日、討純友之由解文」が朝廷に届けられている。

 この戦いでは、純友賊党の「次将藤原文元、佐伯是本」「三善文公」「桑原生行」らは「討滅之日率類遁去、未就誅戮、近日又潜入伊予国海辺郡致害聞食事在」(『本朝世紀』天慶四年八月九日条)とあるように戦場から逃亡し、伊予沿岸部への襲撃を繰り返しているという報告があり、天皇は石清水八幡宮寺および加茂社へ凶賊追捕の幣帛と勅旨願文を納めている。藤原文元、三善文公はその姓から京出身者、佐伯是本は豊後国佐伯院の豪族であろう。延喜2(902)年8月に右中弁となった三善文江(『二中歴』儒職歴)、天慶8(945)年12月7日当時大学頭だった三善文明は、海賊三善文公の親族であろうか。

大宰権少弐経基、純友残党を滅ぼす

 天慶4(941)年8月7日、純友を追討した「征討使右近衛少将小野朝臣好古」(『日本紀略』天慶四年八月七日条)、「山陽南海両道追捕使右近衛少将小野好古朝臣」(『本朝世紀』天慶四年八月七日条)が入京する。好古は追捕使の解除にあたり、「自山崎津申上」ているが、「去年征東使大将軍藤原忠文朝臣入京時、公家遣神祇官等、相迎使河辺、行解除事、今般好古入京日、若准彼例、可有解除歟」と問い合わせている。これを受けた右大弁藤原在衡が太政大臣忠平に取り次ぐと、忠平は大外記三統公忠宿禰に「先年道々追捕使等帰洛時例」を勘申するよう指示している。これに公忠は「大将軍者、依法条已有解除事、至于追捕使、無解除例」とのことで、右大弁在衡からこの旨を伝えられた忠平は「然者、不可有解除之由、可仰遣」と返答し、好古は追捕使解除の儀は執り行わず、そのまま帰洛した。このとき、追捕使次将の源経基は小野好古に同道せず、大宰府に駐屯して大宰権少弐に補任され、海賊対応の事実上の首将となったと思われる(当時の大宰大弐は参議源清平だが在京)。

 8月17、18日の両日、大宰府管内の日向国に「賊徒襲来」して国軍との間で合戦となった(『本朝世紀』天慶四年十一月廿九日条)。この戦いでは「官軍有利、討殺凶賊」したが、この海賊を率いていたのが故純友腹心の「佐伯是基」で、官軍は「生獲件是基」(『本朝世紀』天慶四年十一月廿九日条)した。このとき官軍を率いていたのは経基と思われる。

 9月6日にはこれも純友腹心の「桑原生行」率いる賊党が「襲来当国海部郡佐伯院」し、これに「追討凶賊使権少弐源朝臣経基」が応戦。「始従申時、至于酉刻合戦」し、「生獲件生行、并撃殺賊徒及討取馬船絹綿戎具雑物」した。桑原生行は生け捕られるも「合戦之日、数處被疵、生獲之後、僅存其命」だったが、経基が戦場から「爰為進府、令禁候之間、今月八日、遂以死去」(『本朝世紀』天慶四年十一月廿九日条)した。そのため経基は豊後国へ「即斬其首、進送大宰府、国宜承知早速進官者、進上如件者、須件賊首着府之日、即以進上、而日向国合戦之日、生行捕獲佐伯是基、為進官」という下文を発し、その指示に基づいて9月13日に豊後国解が作成され、9月16日に大宰府に到来した。

 「警固使権少弐源朝臣経基」は、捕らえた是基を先に大宰府へ送らず「身随帰之由、頻有申送」ったため、桑原生行の首と合せて京都に送るために、経基の大宰府帰還を待ち、その後佐伯是基の身柄と桑原生行の首級を京都へ送達した。これらの身柄と大宰府解文は11月29日に京都へ着し、佐伯是基は左衛門府に拘禁されたのち検非違使に渡され、左獄所に下された。また、もはや原形を止めていないであろう桑原生行の首級も副えられたが、その後の行方は不明である(『本朝世紀』天慶四年十一月廿九日条)

 一方、経基と桑原生行の豊後佐伯院での合戦と同時期の9月、「備前国馳駅使」として健児の「額田、弘則」が備前国解が京都に参着した(『本朝世紀』天慶四年九月条)。それによれば「凶賊藤原文元、其弟文用、三善文公等、到着部下邑久郡桑浜、各帯弓箭、率従一人并六人、罷登陸地、国宰且移送播磨美作備中等国、且徴発人兵、警固要害、捜求山野」といい、藤原文元ら主だった賊三人が各々従者一人を従えた六名で邑久郡桑浜(瀬戸内市の海岸)に上陸したとの情報があり、播磨・美作・備中国守はそれぞれ要害を警固し、山野の捜索を行った。さらに9月22日、京都に「播磨国馳駅使、山吉蔭、飯高主丸」が持参した播磨国解では「賊徒藤原文元、同文茂、三善文公等、自備前国邑久郡桑浜下、越来播磨国之由、以今月十七日移文持来也、爰国驚移文捜求之間、於部下赤穂郡八野郷石窟山合戦之間、殺三善文公、但文元文用等未捕獲、仍言上其由」」(『本朝世紀』天慶四年九月廿二日条)という。文元らが桑浜から播磨へ越境したという備前国からの移文を受けた播磨国は文元等を捜索。赤穂郡八野郷石窟山相生市矢野町瓜生か)で合戦となり、三善文公を討ち取ったが、文元、文用兄弟は逃亡している。翌9月23日、「播磨国飛駅使山吉陰等、給官符返遣」(『本朝世紀』天慶四年九月廿三日条)た。

 そして10月18日、但馬国朝来郡朝来郷の「蔭孫賀茂貞行」の私宅門に「法師二人来」て「欲相逢貞行」と取次を頼んだ。賀茂貞行が垣根の間から伺い見ると、追捕対象の藤原文元とその弟文用だった。貞行は藤原文元とは知己であった。これは貞行が「蔭孫(三位、四位の孫で蔭位対象者)」であり、文元は貞行とはかつて京都で交流があった可能性が高いだろう(ただし、当時四位以上の賀茂姓の人名は見えない)。

 貞行は彼らを出迎えると、まず従者三名を付けて彼らを当山の寺でもてなし、その後、貞行が寺へ行って静かに事情を聞いた。すると文元は「文元、凌官軍之中、尋来此處、以汝一顧、欲遂我思慮、若不忘旧意、相加衣粮数足沓并従者一人、可送北陸道、指坂東国々逃去、若達本意所、汝之恩必以相報」と貞行に告げた。貞行は一々これを承諾し、衣服や食料等を調えさせる一方で、「左方袴中有隠兵、以方便伺取、得太刀一柄」と、文元が僧衣の中に隠し持っていた太刀を方便を使って取り上げ、深夜「丑時許還却中」した。その足で数百名の兵を集めると、翌10月19日未剋、兵を率いて寺を包囲した。謀られたと察した文元は太刀を抜いて貞行に襲いかかるが、貞元は両名を射殺。その首を刎ねて事の次第を但馬国に注進し、10月21日、貞行は国府へ解文を請いに参上。「凶賊藤原文元、弟文用等頭」は国解とともに貞行の随兵が京都へ持参し、10月26日「留置於右兵衛馬場」れた(『本朝世紀』天慶四年十月廿六日条)

 この藤原文元・文用兄弟の誅殺により、故純友の主だった腹心は討滅されたこととなり、藤原純友の乱は収束した。しかし、その後も瀬戸内から九州にかけての海賊の蠢動は収まるところを知らず、天慶7(944)年2月6日夕刻、「美濃介橘朝臣遠保、還宅間、於途中被斬殺」(『日本紀略』天慶七年二月六日条)という事件が起こる。橘遠保は純友とその子・重太丸を討った人物であることから、純友遺臣の報復であろう。また、藤原文元・文用兄弟が「指坂東国々逃去」とあるように、東国もまた朝廷の手の届きにくい地であるとの認識は強く、その後も国府を襲撃するような叛乱が幾度も発生することとなる。

 天慶8(945)年正月13日、大宰府で「参議正四位下行大宰大弐源朝臣清平薨」(『日本紀略』天慶八年正月十三日条)し、その後任として10月14日に大宰大弐に補任(『公卿補任』)されたのが、征南海賊使長官として経基とともに藤原純友と戦った小野好古であった。その頃、源経基は海賊追討の賞により大宰権少弐から大宰少弐へと昇格していたと考えられる。

 天慶9(946)年11月21日、関白忠平のもとに「大弐来」て「令見少弐経基書」(『貞信公記抄』天慶九年十一月廿一日条)という。在京の大宰大弐小野好古は、大宰府在中の少弐経基から届いた書状を緊急性があるものとして持参したのだろう。経基の書状には「大船二来、著対馬嶋云々、未知何国船云々」という。その後、「好古朝臣参入、令奏経基書」と、好古は参内して経基の書状を奏上したという。この奏上を勅使「中使頭朝臣」が忠平に報告に訪れ、「為之何如」と問い合わせている(『貞信公記抄』天慶九年十一月廿一日条)。この対応のためか、大弐好古は大宰府への赴任が決定され、天慶10(947)年正月9日、村上天皇より赴任の餞別が贈られている(『日本紀略』天慶十年正月九日条)。経基の史書による記録はこれ以降残されていない。

 天暦8(954)年5月15日、「上野介源経基」は正五位下に叙されたという(『倭歌作者部類』)

 原典は不明ながら、天徳2(958)年11月24日に四十五歳で亡くなったとされている(『倭歌作者部類』五位)。法号等不明。


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