清和天皇―貞純親王―源経基―――源満仲――――源頼信――――源頼義―+―源義家――+―源義親
(兵部卿)(大宰少弐)(鎮守府将軍)(鎮守府将軍)(伊予守)|(陸奥守) |(対馬守)
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+―源義綱 +―源義忠 +―源義重―――源義兼
|(美濃守) |(左衛門尉)|(大炊助) (大炊助)
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+―源義光 +―源義国――+―源義康―――源義兼
(甲斐守) |(加賀介) (陸奥守) (上総介)
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+―源為義――――源義朝―――源頼朝
(左衛門大尉)(下野守) (権大納言)
(???-997)
筑前守源経基の長男。通称は不明。母は橘繁藤(繁古)女(『尊卑分脉』)、武蔵守藤原敦有(敏有)女(『尊卑分脉』)だが、橘繁藤、藤原敦有の実在は系譜上確認できない(「敦、敏、繁」と「古、有」で混乱が生じているのだろう)。室は近江守源俊朝臣女(『尊卑分脉』)、左衛門権佐(陸奥守)藤原致忠女(『尊卑分脉』)。位は従五位下(『延喜式裏文書』)、正四位下(『尊卑分脉』)。官は左馬頭(『今昔物語集』十九、『日本紀略』)、武蔵権守(『扶桑略記』)、越前守(『日本紀略』『親信卿記』)、摂津守(『今昔物語集』十九、『勅撰作者部類』)。號は多田新発意。法名は満慶。歌人としても名を知られ、藤原公任の『拾遺抄』に清原元輔との贈答歌が残され、勅撰集『拾遺和歌集』にも撰ばれている。
●『拾遺抄』二二六(『新編国歌大観』)
延喜12(912)年4月10日に誕生(『尊卑分脉』)と伝わるが、父の経基の活動時期及び、実弟源満正の正暦5(994)年3月6日の盗賊追捕の活動時期を考えると、誕生は少なくとも延喜12(912)年よりも二十年程度は後となろう。承平8(938)年、父経基は武蔵武芝との騒擾で「皆率妻子、登於比企郡狭服山」(『将門記』)とあるように、妻子を連れて武蔵国に下向していたと想定されることや、寛和2(986)年8月時点で「既ニ六十ニ余ヌ」(『今昔物語集』)と見えることから、延喜ではなく延長年中(923~931)の生まれとするのが妥当であろう。
藤原敏有――女子 +―源満仲
(武蔵守) ∥ |(摂津守)
∥ |
∥――――+―源満正
∥ |(武蔵守)
∥ |
∥ +―源満季
∥ |(武蔵守)
∥ |
∥ +―源満実
∥ |(陸奥介)
∥ |
∥ +―源満頼
∥ (下野守)
∥
貞純親王――源経基――+―源満快
(兵部卿) (筑前守) |(下野守)
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+―源満生
|(上野掾)
|
+―源満重
(出羽介)
天徳4(960)年10月2日、「右大将藤原朝臣(藤原師尹)」の奏上として「近日人々曰、故平将門男入京事」があり、朝廷は「勅右衛門督朝忠朝臣」に仰て、検非違使に捜索させるとともに、延光に仰て、「満仲、義忠、春実等、同令伺求者」(『扶桑略記』)という。春実は征南海賊使として満仲父経基(次官)とともに純友追討に加わった大蔵春実(主典)である。
応和元(961)年5月10日夜、「前武蔵権守満仲之宅」に強盗が侵入した(『扶桑略記』)。満仲は賊の一人、倉橋弘重を射止め、ほかの下手人を聞き出すと、「中務卿親王第二男及宮内丞中臣良材、土佐権守蕃基男等所為也」という。満仲は検非違使庁にこの旨を訴えたため、検非違使が中務卿式明親王家へ向かったところ、「中務親王家人」が言うには「件孫王、今暁入親王家、其同類紀近輔、中臣良材等可有此家、親王仍令申云、男親繁日来重煩痢病、在此家内、不堪起居、待平復旨」という。この旨を左衛門志錦文明が参内して奏聞すると、皇親も関わっている事態を重く見た朝廷は、「使官人等令捜求、同類人親王家内、遂不捕獲」と、官吏(おそらく近衞将監であろう)を遣わして式明親王家を家宅捜索させたが、親繁王以下の賊はすでに逃亡したあとであった。その後、「成子内親王家」で紀近輔は捕縛された。近輔が言うには盗賊団は「親繁為首、入満仲家実也」といい、親繁王が賊首だったことが判明。盗んだものは「可有彼親繁孫王之許」という。こののち、勅で「依不進男、忽科親王家、猶伺親繁之出外、可召捕者」との勅命が下され、親繁王を召進めなかったのは式明親王の科であると断じ、今後も親繁王を捜索し召し捕るよう命じている(『扶桑略記』)。親王の子であっても官が得られなければ不遇を託ち、親繁王ばかりでなく、同じような境遇にあった人々は徒党を組んで俄か盗賊行為に及ぶことも多かったのではなかろうか。満仲邸を選んだのは、彼がすでに蓄財の人として知られていた可能性もあり、又従兄弟に当たる「土佐権守蕃基男(雅行カ)」がその選定に関わっていたのかもしれない。
桓武天皇―+―淳和天皇――仁明天皇―+―文徳天皇―――清和天皇―+―陽成天皇
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| | +―貞純親王――――源経基――――源満仲
| | |(兵部卿) (筑前守) (武蔵権守)
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| | +―貞真親王――――源蕃基――――源雅行
| | (常陸太守) (土佐権守)
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| +―光孝天皇 +―宇多天皇―+―醍醐天皇――+―村上天皇―――冷泉天皇
| ∥ | | |
| ∥ | | |
| ∥――――+ +―成子内親王 +―源高明
| ∥ | |(左大臣)
| ∥ | |
+―仲野親王―――――――――班子女王 | +―式明親王―――親繁王
| (中務卿)
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+―是忠親王―――忠望王―――――平偕行――――平元平――――院源僧正
(式部卿) (内膳正) (山城守) (陸奥守) (天台座主)
康保2(965)年5月28日、「従五位下源満仲」(『延喜式裏文書』主税寮解 申精精返却帳事)に、この日太政官符により、正税から穀頴で「当年位禄料貳佰拾肆斛柒斗肆升壱合(214石7斗4升1合)」が下されている。
7月21日、「以左馬助満仲、右近府生多公高兄右近将監公用譲、右近番長播磨貞理父右馬属陳平譲等並為御鷹飼」と見え、満仲らは御鷹飼に任じられた(『花鳥余情』桐壺)。
康保4(967)年5月25日、村上天皇が崩御。皇太子憲平親王が即位した(冷泉天皇)。これに伴い満仲及び藤原千晴(藤原秀郷長男)が鈴鹿関の固関使に任じられたが、両名共に病を理由に辞退を申し出た。しかし、6月14日「被定固伊世関使、左馬助源満仲申病由、并相模権介藤千晴等事、々々々々不被許、公家有大事間、追可被沙汰」(『本朝世紀』康保四年六月十四日条)として、辞退を認められなかった。
6月22日、左大臣実頼は詔関白により関白となり、故村上帝の子(新帝の異母弟)である大蔵卿源盛明が「為親王」(『日本紀略』康保四年六月廿二日条)、7月5日には「為四品」(『日本紀略』康保四年七月五日条)となった。
安和2(969)年3月25日、「左馬助源満仲、前武蔵介藤原善時等、密告中務少輔源連、橘繁延等謀反之由」(『日本紀略』安和二年三月廿五日条)とあるように、満仲と藤原善時は、中務少輔源連と橘繁延を「密(謀叛・謀反)」の疑惑で告訴した。なお、源連と橘繁延は「中務少輔橘朝臣敏延、左兵衛大尉源朝臣連」(『扶桑略記』』安和二年三月廿六日条)とも記される。
この告訴により「右大臣以下諸卿、忽以参入、被行諸陣三寮警固、々関等事、令参議文範、遣密告文於太政大臣職曹司、諸門禁出入」じるとともに、「検非違使捕進繁延、僧蓮茂等、仍参議文範、保光両大弁也、於左衛門府勘問、無所避伏其罪」(『日本紀略』安和二年三月廿五日条)と、源連と橘繁延の両名を左衛門府に移して勘問し、相違なければ罪に伏すよう決定された。
また、満仲の弟「検非違使源満季」は「捕進前相模介藤原千晴、男久頼及隨兵等禁獄」している。「召内記有勅符、木契約等事、禁中騒動、殆如天慶之大乱」という。
嵯峨天皇―――源唱―――+―源俊―――――女子
(右大弁) |(民部少輔) ∥―――――――源頼光
| ∥ (摂津守)
| 源経基――――源満仲
| (摂津守)
|
+―源泉―――+―源連
|(少納言) |(左兵衛大尉)
| |
+―源周子 +―――――――――女子
(近江更衣) ∥
∥ ∥
∥――――+―――――――――源 高 明 +―源俊賢
∥ | (左大臣) ∥ ∥ |(権大納言)
∥ | ∥ ∥ |
醍醐天皇 | ∥ ∥―――+―女子
∥ | ∥ ∥ ∥
∥ | ∥ ∥ ∥
∥――――――――――――――村上天皇 ∥ ∥ +―為平親王
+―藤原穏子 | ∥ ∥ ∥ |
| | ∥ ∥ ∥ |
| | ∥ ∥ ∥ +―冷泉天皇
| | ∥ ∥ ∥ |
| | ∥ ∥ ∥ |
| | ∥―――――――――――+―円融天皇
| | ∥ ∥ ∥
| | ∥ ∥ ∥
| | +―藤原安子 ∥ ∥―――+―源経房
| | | ∥ ∥ |(権中納言)
| | | ∥ ∥ |
| +―雅子内親王 +――――――女子 ∥ +―源明子
| ∥ | ∥ ∥
| ∥―――――――――――――――女子 ∥
| ∥ | ∥
+――――――――藤原師輔 | ∥
(右大臣) | ∥
∥―――――+―藤原兼家――――――――――藤原道長
∥ (関白) (関白)
藤原経邦―――藤原盛子
(武蔵守)
「謀反」には、源連(源高明家に出仕していたのだろう)の姉妹夫である左大臣源高明が関わっているとされ、翌3月26日(『公卿補任』)に「左大臣殿に検非違使打ち囲みて、宣命読みのゝしりて、朝廷を傾け奉らんと構ふる罪によりて、太宰権帥になして流し遣はす」(『栄花物語』)という宣命が読み上げられ、「以左大臣兼左近衛大将源高明、為大宰員外帥」(『日本紀略』安和二年三月廿五日条)に左遷された。高明は「即日入道」を希望するも「請留、不許」だったため、「准俗赴任所」という(『公卿補任』)。その赴任は即日であり、藤原道綱母は「廿五六のほどに、にしの宮の左おとゞながされたまふ、みたてまつらん」(『蜻蛉日記』)と、人々がその赴任を見に行くという事体もあったようだ。なお、このとき高明は「人にもみえ給はで、にげいでたまひにけり、あたごになん、きよしほになど、ゆずりて、つゐにたづねいでてながしたてまつるときく」(『蜻蛉日記』)という噂もあり、高明は秘かに愛宕山の清瀧(右京区清滝町)へ隠遁していたところを探し当てられて、大宰権帥として赴任させられたともいう。
●『栄花物語』巻一「月の宴」
●『蜻蛉日記』中
なお、高明自身が「謀反」に加担していた様子はなく、首謀者ともされずに量刑は「員外大宰帥(大宰権帥)」であった。ただ、高明室家の兄弟である左衛門大尉源連は守平親王への加害等の計画があった可能性があり、首謀者として後述の通り「五畿七道諸国可追討謀反党類」の官符が発せられている。告訴人の源満仲の妻は、陰謀の首班である源連とは従姉妹であり、こうした関係から源連は満仲にも「謀反」への協力を打診していたのではあるまいか。しかし、満仲はこの誘いに乗らず、官に訴え出たのだった。それは源連の与党に「前相模介藤原千晴」の存在があったからかもしれない。藤原千晴は安和元(968)年8月23日、「可勘問前相模権介藤原千晴、前武蔵権介平義盛之宣旨、仰弁史」(『日本紀略』安和元年八月廿三日条)とあるように、変の直前に武蔵国司との対立がみられる。これは告訴人の満仲が「武蔵権守」、藤原善時が「武蔵介」の経歴を持つように、彼等もまた藤原千晴とは対立関係にあったと考えてもおかしくはないだろう。
この「謀反」は、もともと二年前の康保4(967)年5月25日に即位した冷泉天皇の立太子の儀に当たり、冷泉天皇の同母弟である四宮為平親王を推す右大臣源高明(二年前の康保2年8月27日の為平親王元服に際して加冠し、娘を娶せる)と、同じく同母弟である五宮守平親王を推す大納言師尹らとの間に起こった対立に端を発したとされている。
立太子の儀は、康保4(967)年9月1日に「有立太子事守平親王御年九」とあるように、弟の守平親王に決定したが、内情は『大鏡』に記載があるように、皇后安子が兄宮の「式部卿の宮(為平親王)」を皇太子に希望し(兄弟の順からしても為平親王が順当である)、高明を含めた諸卿も当然そう想像してこの儀に列していたが、「御をぢたちの魂ふかく非道に、御弟をはひきこし申させ給へる」と、藤原師尹や、甥の伊尹、兼通、兼家ら親王の伯父(皇后安子の兄弟)は「次の宮(守平親王)」を東宮に据えるべく、藤原兼家が守平親王の御乳母に「若宮の御ぐしかいけづり給へ」(『大鏡』)と指示し、守平親王を御車に乗せて北の陣から立太子の儀に連れて行き、守平親王を皇太子に治定させたという。出し抜かれた「道理あるべき御かたの人たち(源高明やその係累)」は「いかゞは思されけむ」(『大鏡』)と、その悔しさを想像している。
●『大鏡』
為平親王と守平親王は同母兄弟であり、兼通、兼家らにとっては実甥にあたるが、為平親王は「西ノ宮殿(源高明)」の女婿だったため、師尹や伊尹・兼通・兼家兄弟は、為平親王が即位すれば「源氏の御栄えになりぬ」という考えにより、このことを企てたという。「その御事の乱れはこの小一條のおとゞのいひ出で給へるとぞ、世の人聞えし」(『大鏡』)、といい、小一條藤原師尹が主導して行ったものだという人々は噂したと伝える。
仁明天皇―+―光孝天皇―――宇多天皇―+―醍醐天皇―――――――――――――――+―源 高 明――――女子
| | |(左大臣) ∥ ∥
| | | ∥ ∥
| | +―村上天皇 ∥ +―為平親王
| | ∥ ∥ |(式部卿)
| | ∥ ∥ |
| | ∥――――――――+―円融天皇
| | ∥ ∥ |(守平親王)
| | ∥ ∥ |
| +――――源順子 +―藤原安子 ∥ +―冷泉天皇
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥
| ∥――藤原実頼 +――――――女子 ∥―――――花山天皇
| ∥ (関白) | ∥ (師貞親王)
| ∥ | ∥
| ∥ 藤原経邦―――藤原盛子 +―藤原伊尹―――――――藤原懐子
+―文徳天皇―+―清和天皇 ∥ (武蔵守) ∥ |(摂政)
| | ∥ ∥ |
| | ∥ ∥―――――+―藤原兼通
| +―源能有――――源昭子∥ ∥ |(関白)
| (右大臣) ∥ ∥ ∥ |
| ∥――――――――――+―藤原師輔 +―藤原兼家
| ∥ ∥ |(関白) (関白)
+―人康親王―――女子 ∥ ∥ |
(弾正尹) ∥――――――藤原忠平 +―藤原師尹
∥ (関白) (小一條殿)
∥
藤原基経
(関白)
高明失脚後、左大臣には藤原師尹(前右大臣)、右大臣には藤原在衡(前大納言)が就任している。3月27日、「密告賞叙位、正五位下源満仲、従五位下藤原善時等也」と、満仲らは謀叛計画を察知して告した賞によりそれぞれ昇進している(『日本紀略』安和二年三月廿七日条)。この謀反の騒動は尾を引き「謀反之輩父母兄弟所当罪可勘申之由」(『日本紀略』安和二年三月廿八日条)が明法博士に命じられ、翌3月29日には「有大索事」(『日本紀略』安和二年三月廿九日条)、3月30日には「近江国進固関覆奏解文」と不破関の固関がについての解文が覆奏されている。
そして師尹らは高明が大宰府へ赴任して半年以上が経過した安和2(969)年11月15日の円融天皇即位の儀に際して、「宮達あまたおはせしかど、ことしもあれ、威儀の親王をさへさせ給へり」と、親王は多くあったにも拘らず、事もあろうに為平親王を「威儀の親王」として侍らせるという暴挙に出た。「威儀の親王」は「当時第一皇子可奉仕歟」(『権記』寛弘八年九月十日条)という役であるが、当時十一歳の天皇に皇子はなく、無品以外の親王から選定されることとなるが、その威儀親王を為平親王に担わせることで、旧高明派の人々に藤氏の安泰を目の当たりにさせる意味があったのであろう。
前述の通り、この隠謀自体には高明が関与していた具体的な証拠はなく、皇嗣に関わる隠謀と首謀者とその関係する上卿を大宰権帥へ左遷する人事は、まさに昌泰4(901)年の「昌泰の変」と軌を一にしていた。そして、高明失脚の首謀者と噂されていた左大臣藤原師尹は、高明が大在府へ流されて半年余りのちの10月15日ににわかに薨じたことで、高明の怨念(まだ生きているので生霊か)によるものと巷間の噂となっている。そのためか、高明はわずか二年後の天禄2(971)年10月29日に赦免され帰京を命じられている。
4月1日には「員外帥西宮家焼亡」して「残雑舎両三也」(『日本紀略』安和二年四月一日条)という不自然な源高明邸の火災があり(高明実姉の都子内親王、敏子内親王も同居)、同日には「橘繁延配流土佐国」、翌4月2日には藤原千晴が隠岐国に、僧蓮茂は佐渡国にそれぞれ流された(『日本紀略』安和二年四月二日条)。
4月3日には逃亡した源連、平貞節の追討を命じる「五畿七道諸国可追討謀反党類」の官符と、「下野国可加教喩、故藤原秀郷子孫」の官符が下されている。下野国衙からの「故藤原秀郷子孫」への教喩は、秀郷長男である藤原千晴の配流に反発することがないようにする措置とみられ、下野国における秀郷子の影響力が大きくなっていることがうかがえる。
天禄4(974)年4月24日夜、「越前守源満仲宅、強盗繞囲放火、于時越後守宮道弘氏相闘之間、中盗人矢卒去、余煙及三百家、今夜殊有宣旨、堪武芸之輩可召候陣頭者」(『日本紀略』天禄四年四月廿四日条)と伝える。満仲邸の襲撃に対して越後守宮道弘氏が自ら賊と渡り合い、賊の矢に当たって討死を遂げるという激しい戦闘があったようだ。この当時の具体的な情報も伝わっており、実際に「火出前越■守橋守満仲宅」したのは「亥子刻許」で、「延及数百家東限土代小路、南限陽明門、西限西洞院大路、北限東上東門南半町、但古代小道与陽明門角南三家脱此災、安親朝臣家等也」という広大な範囲が焼失する。「件火災放火云々」とあるように、満仲邸は放火されたと見え、先年の火災と同様に満仲は盗賊などから恨みを買っていたのだろう。結局、被害に遭ったのは「惣所焼五百余烟云々」といい、満仲の弟である「右衛門少尉満季朝臣、捕獲嫌疑人」(『親信卿記』天延元年四月廿三日条)という。
天元6(978)年3月25日の除目で満仲は「還任摂津守」(『勅撰作者部類』)した。
寛和2(986)年正月の除目(『三十六人歌仙伝』)で清原元輔が肥後守に補任されると、その任国赴任に際して、清原元輔と贈答歌を行っている(『拾遺抄』)。そして同年、満仲は出家する。
寛和2(986)年、満仲は「摂津ノ国ノ豊島ノ郡ニ多々ト云フ所ニ家ヲ造テ籠居タリケリ」(『今昔物語集』「摂津守源満仲出家語第四」)と、摂津国豊島郡の多田に籠居した。
満仲には「数ノ子共有ケリ、皆兵ノ道ニ達レリ」と、頼光、頼親、頼信らの武芸に達した子が数名あったが、その中に「一人ノ僧有ケリ、名ヲハ源賢ト云フ」という法体の子があった。彼は「比叡ノ山ノ僧トシテ飯室ノ深禅僧正ノ弟子也」だった。深禅(尋禅)僧正は右大臣師輔の子である。源賢は「父ノ許ニ多々ニ行タリケルニ、父ノ殺生ノ罪ヲ見テ歎キ悲テ、横川ニ返リ上」って、横川の「源信僧都ノ許ニ詣テ」て(なお、当時の源信はまだ僧都ではない)、
「己カ父ノ有様ヲ見給フルニ、極ク悲キ也、年ハ既ニ六十ニ余ヌ、残ノ命幾ニ非ス、見レハ鷹四五十ヲ繋テ夏飼セサスルニ、殺生量リ无シ、鷹ノ夏飼ト云フハ、生命ヲ断ツ第一ノ事也、亦河共ニ簗ヲ令打テ多ノ魚ヲ捕リ、亦多ノ鷲ヲ飼テ生類ヲ令食シメ、亦常ニ海ニ網ヲ令曳メ、数ノ郎等ヲ山ニ遣テ、鹿ヲ令狩ル事隙无シ、此レハ我カ居所ニシテ、為ル所ノ殺生也、其ノ外ニ遠ク知ル所々ニ宛テ、令殺ル所ノ物ノ員計ヘ可尽キニ非ス、亦我ガ心ニ違フ者有レバ虫ナドヲ殺ス様ニ殺シツ、少シ宜シト思フ罪ニハ足手ヲ切ル、此ル罪ヲ造リ積テハ、後ノ世モ何許ナル苦ヲ受ヌラント思給フルニ、極テ悲ク思へ候フソ、此レ何テ法師ニ成ラムト思フ心付ケムト思給フレト、怖ロシク申シ可出クモ无キニ、此レ構テ出家ノ心付サセ給レテムヤ、此ク鬼ノ様ナル心ニテハ候ヘトモ、止事无キ聖人ナトノ宣ハム事ヲハ、可信キ様ニナム見エ候フ(我が父の行いを見るに、極めて悲しくてなりません。年はすでに六十を超え、残りの命もそれほどありません。ところが、屋敷に行ってみれば、鷹を四、五十羽も繋いで狩猟のために夏飼し、その殺生の量は計り知れません。鷹の夏飼いは生命を絶つ最も悪い行為です。さらに川には簗を打って多くの魚を捕り、多くの鷲を飼って生物を食わせたり、常に海に網を仕掛けて曳かせたり、多くの郎等を山に入れて鹿を狩らせるなど、まったく隙なく罪業を行っているのです。これは多田の居所近くで行う殺生ですが、そのほかにも遠くの知行地所々で殺生させる数は数知れません。また、自分の意見に反する者はまるで虫を殺すように殺害しますし、少しは許せる部分があれば手足を斬ってしまいます。このような罪作りを重ねては、来世で父はいったいどのような苦難を受けるのだろうと思うと、極めて悲しく思われます。これは何としても法師になろうと思わせるようにしたいものの、恐ろしくて申し出ることもできませんが、なんとか出家したいと思わせることはできませんでしょうか。このような鬼のような心の父ではありますが、尊い聖人などの仰ることは聞くように思うのです)」(『今昔物語集』「摂津守源満仲出家語第四」)
と語った。これに源信は、
「実ニ極テ糸惜キ事ニコソ侍ナレ、然様ノ人ヲ勧テ令出家シメタラムハ出家ノ功徳ノミニ非ス、多ノ生類ヲ殺ス事ノ止タラムハ无限リ功德ナルヘシ、然レハ己レ搆へ試ム、但シ己レ一人シテハ難搆シ、覚雲阿闍梨、院源君ナトシテ、共ニ可ニキ搆キ事コソ有ツレ、其ハ前立テ多々ニ御シテ居給タレ、己ハ此ノ二人ノ人ヲ倡テ修行スル次ニ、和君ノ御スルヲ尋ネテ行タル様ニテ其へ行カム、其ノ時ニ君騒テ、然々ノ止事无キ聖人達ナム修行ノ次ニ己レ問ヒニ坐シタルト守ニ宣へ、然リトモ己等ヲバ聞テ渡タラバ、其レニ驚キ畏ル気色有ラハ、君ノ宣ハム様ハ、此ノ聖人達ハ公ケノ召スタニ速ニ山ヲ下ヌ人共也、其レニ修行ノ次ニ此ニ御シタルハ希有ノ事也、然レバ此ル次ニ聊ノ功徳造テ、法ヲ令説テ聞キ給へ、此ノ人達ノ説キ給ハムヲ聞キ給テコソ、若干ノ罪ヲモ滅シ、命ヲモ長ク成給ハムト勧メヨ、然ラハ其ノ説経ノ次ニ可出家キ事ヲ説キ令聞ム、只物語ニモ守ノ身ニ染ム許云ヒ令聞メ進ラムヤ(本当に大変気の毒な事でありますね。このような人を勧めて出家させれば、出家の功徳だけではなく、多くの生類を殺すことも止めれば、限りない功徳となりましょう。それでは私が試してみましょう。ただし、私一人では難しいので、覚運阿闍梨や院源とも諮りながら事を進めましょう。あなたは先に多田に行っていてください。私は同門(故天台座主良源門弟)の覚運や院源を伴って、修行のついでにあなたの居所を訪ねるような素振りで多田を訪問しましょう。その時、あなたは大声で『このような尊い聖人たちが修行の道すがら、私を訪ねていらした!』と父君に言いなさい。さすがに我らの事はご存じでしょうから、そのことに父君が驚いた様子が見えたら、あなたは『この聖人たちは朝廷が召したとしてもすぐには山を降りない方々です。それなのに修行の道すがら、ここにお出でになることはまったく希有なことです。ですから、この機会に少しでも功徳を造り、説経をお聞きなさい。この方達の説経をお聞きになることこそ、少しでも滅罪し、命をも長くすることができるでしょう』と勧めなさい。さすればその説経のついでに出家するよう説いて聞かせましょう。ただの会話の中でも、父君の心に染みるよう、言い聞かせましょう)」(『今昔物語集』「摂津守源満仲出家語第四」)と伝えた。
●源信以下の履歴
| 名 | 師 | 生年 | 出身 | 備考 |
| 源信 | 良源座主 | 天慶5(942)年 (当時46歳) |
大和国葛城郡 父:卜部正親 母:清原氏 |
・内供奉十禅師 ・長保2(1000)年3月19日:法橋(行幸仁王会賞) ・寛弘元(1004)年5月24日:権少僧都 ・寛弘3(1006)年12月16日:権少僧都辞退 ・寛仁元(1017)年6月10日:入滅 七十六歳 ・號恵心僧都 ・楞厳院三昧院主 |
| 覚運 | 良源座主 興良僧都 |
天暦7(953)年 (当34歳) |
父:藤原貞雅 (春宮少進) |
・内供奉十禅師 ・長保2(1000)年8月29日:法橋(行幸仁王会賞) ・長保5(1003)年12月30日:権少僧都 ・寛弘2(1005)年8月26日:権大僧都 ・寛弘4(1007)年11月1日:入滅 五十五歳 ・號檀那院僧都 |
| 院源 | 良源座主 覚慶座主 |
天暦5(951)年 (当時36歳) |
父:平元平 (陸奥守) |
・寛和元(985)年10月5日:延暦寺延命院七禅師 ・永延元(987)年3月10日:慈徳寺最初阿闍梨 ・長徳4(998)年10月30日:法性寺座主 ・長保3(1001)年10月17日:権律師 ・長保4(1002)年10月26日:権少僧都 ・寛弘7(1010)年3月18日:権大僧都 ・寛弘8(1011)年4月27日:権大僧都辞退 ・長和5(1016)年12月16日:法印 ・寛仁4(1020)年7月17日(12月16日):天台座主宣命 ・寛仁4(1020)年12月30日:権僧正 ・万寿5(1028)年5月24日:入滅 七十五歳 ・號西方院座主 |
これを聞いた源賢は喜んで多田へ戻った。その後、源信は覚運と院源に会って「然々ノ事搆ムカ為ニ、摂津ノ国ニ可行シ、諸共ニ御セ」と話すと、両名とも「極テ善キ事也」と言って賛成したため、覚運と院源を伴って翌々日の午の刻、三人は多田の辺りに着いた。ここで源信は多田の源賢のもとに人を遣わして「然々ノ人共ナム参タル、箕面ノ御山ニ参タルニ、此ル便リニ何テカ不参テ有ラムト思テ参タル也」と伝えたところ、「疾ク令入給ヘ」と伝えるとともに父の満仲のもとに走り、「横川ヨリ然々ノ聖人達ナム御シタル」と言うと、満仲は不意のことに驚き「何ニ何ニ」と聞き返し、
「糸止事无ク貴キ人達ト我モ聞ク、必ス対面シテ礼ミ奉ラム、極テ喜キ事也、御儲吉セヨ、所吉ク■へ(たいそう尊い方々と自分も聞いている。必ずお目にかかり拝礼させていただく。この上なく喜ばしいことだ。お持て成しせよ。部屋も片づけておくように)」
と伝えると、満仲はそわそわして落ち着かない様子である。これを見た源賢は「心ノ内ニ喜」と思い、源信以下三人の聖人達を「微妙ク面白ク造タル」部屋に案内した。満仲は源賢を呼んで源信らのもとへ遣わすと、
「急キテ其方ニ可参キニ、御シ極シタラムニ、参タラムモ无心ナルヘケレハ、今日ハ吉ク息マセ給テ、夕サリ御湯ナト浴ミセサセ給テ、明日参テ、自ラ申サムト思給フ、何テ返ラセ可給キ(本来急いでそちらへ参るべき所ですが、皆様はたいそうお疲れでしょうから、今参じることも失礼と思われますので、皆様には今日はゆっくり休まれて、夕方には湯浴みなどなされてください。私は明日参上いたし、自ら御礼申上げようと思っております。本日は是非お帰りにならずにお留まりいただけますか)」
と満仲の心情を伝えさせた。これに聖人たちは、
「箕面ノ山ニ参テ候ツル次ナレハ、今日ニテモ罷返ナムト思給レトモ、此ク仰セ有レハ、対面給ハリテコソハ罷返ラメ(箕面山への参詣のついでに訪問したまでなので、今日帰路に就こうと思っておりましたが、このように仰せいただきましたので、対面させていただいてから帰ることにしましょう)」
と答え、これを源賢は満仲に伝えた。これを聞いた満仲は大変喜び、「糸喜キ事也(なんと嬉しいことだ)」と語った。これに源賢が満仲に「此ノ御シタル三人ノ聖人達ハ、公ノ召ニタニ不参ヌ人共也、而ルニ思ノ外ニ此ク来リ給ヘリ、此ノ次テニ仏経ヲコソ令供養シメ給ハメ(今般おいでになられた三人の聖人達は、帝の御召しですら参内しない人達です。それなのに思いがけず、しかもこの多田に立ち寄られました。まさに仏縁とも言えましょう。この機会に、仏経供養を願ったらいかがでしょう)」
と、先日、源信と話し合った通り、満仲に彼らの説経を聞くよう勧めたのだった。これに満仲は、
「汝チ糸吉ク云タリ、現ニ然コソ可為カリツレ(汝、なんと素晴らしいことをいう。まさにその通りであろう)」
と言って、「忽ニ阿弥陀仏ヲ令図絵メ奉ル、亦法花経ヲ始メツ(すぐに阿弥陀仏の仏画を描かせ奉り、さらに自ら法華経の写経を始めた)」という。満仲は聖人たちに、
「此ノ次ニ此ル事ヲナム思給ツル、明日許ハ御足息メカテラ留リ給ヘ(この折に仏教供養を思いつきました。明日だけは御足をお休めがてらお留まりください)」
と伝えたため、聖人たちも、
「此ク参ヌ、只仰ニ隨ヒテ罷リ可返キ也(このように参りましたからには、ただ仰せに従って帰ることにしましょう)」
と返答したため、満仲は「其ノ夜、湯沸シタリ(その夜、湯を沸かした)」という。その湯の建物は「湯ノ有様、微妙ク物浄キ事云ヒ可尽クモ无ク造タリ(湯殿のすばらしく美しい事、言い尽くすこともない造りであった)」という。「聖人達終夜湯浴テ」と、一晩中湯浴みするほどのすばらしい湯殿であったようである。
翌日朝の巳の刻あたりになると、仏画も法華経もみなでき上り、以前から「等身釈迦仏」もお造りしていたものの「先ヅ罪ノ方ノ事共念ギテ于今供養シ不奉ザリケル(まず罪業を重ねることばかり行っていたため、今に至るまで供養奉らない)」という状況であった。そのため満仲は釈迦如来像についても「此ノ次ニ供養セム(この折に供養したい)」として、午未刻ほどには寝殿の南面に仏画、法華経、釈迦如来像を懸け並べると、
「然ラバ、此方ニ御シテ此レヲ申シ上ゲ奉リ給ヘ(それでは、皆様にはこちらにお越しいただけますように)」
と伝えると、源信以下三名の聖人が寝殿に渡り、院源を講師としてこれら仏経供養を執り行った。院源(のち天台座主)は仁明天皇六代後胤、源満仲は五代後胤で遠縁となる。
供養ののちの説経に際し、仏縁があったと感じられたのだろう。満仲は説経を聞きながら大声で泣き出した。満仲ばかりでなく、館に住まう郎等など、鬼のような荒んだ心を持った武者共も皆泣いた。説経が終わると、満仲は聖人たちのもとへ詣でて対面し、
「可然キ縁ニ依テ、此ク俄ニ来リ給ヒテ、无限キ功徳ヲ令修メ給ヘレバ、期ノ来ルニコソ候メレ、年罷リ老ヌ、罪ハ員モ不知造リ積テ候フ、今ハ法師ニ成ナムト思給ルヲ、今一両日御シテ、同クハ仏道ニ入レ畢サセ給ヘ(運命の縁によりこのように俄かに多田へおいでいただき、この上ない功徳を修していただきましたことは、出家の時期が来たのだということなのでしょう。年も老いて罪業はその数も知らぬほど積み重ねています。今は法体にならんと思っておりますが、今一両日ご逗留いただき、いっそ私を仏道に導いていただきたい)」
と伝えた。これに源信は、
「極テ貴キ事也、仰ノ如ク何ニモ侍ラム、但シ明日コソ吉日ニ侍レ、然レバ明日御出家候ラハムコソ吉カラメ、明日過ナバ、久ク吉日不侍ズ(すばらしく貴いお考えです。仰せのようにどのようにでもいたしましょう。ただし、明日は吉日でございますから、明日御出家されることがよいでしょうが、明日を過ぎれば当分吉日はございません)」
と言う。源信の本心は、
「此ル者ハ説経ヲ聞タル時ナレバ、道心ヲ発シテ此ク云ニコソ有レ、日来ニ成ナバ、定メテ思ヒ返ナムト思テ云ナルベシ(このような者は説経を聞いたばかりであるので、仏道を修めんとする心を発してこのように言っているのであり、日数を経れば必ず考え直すと思って、このように言ったのだ)」
というものだった。
満仲は、
「然ラバ、只今日也ト云トモ疾ク令成メ給ヘ(それであれば、今日でもよいので急ぎ出家させてください)」
と願った。これに源信は、
「今日ハ出家ノ日ニハ悪ク侍リ、今日許念ジテ明日ノ早旦ニ令出家メ給ヘ」
という。満仲は、
「喜ク貴キ事也」
と言って感謝の意を表すと、自分の部屋へと戻り「宗ト有ル郞等共ヲ召シテ」、
「我レハ明日出家シナムトス、我レ年来兵ノ方ニ付テ聊ニ恙无カリツ、而ルニ兵ノ道ヲ立ム事、只今夜許也、汝等其ノ心ヲ得テ、今夜許我レヲ吉ク可護シ(私は明日出家しようと思う。私は長い間、武の道については聊かも後れを取ったことは無かったが、これをもって身を立てるのは今夜で終わりだ。汝らもそのことを理解し、今夜を最後としてよく警固せよ)」
と伝えた。すると、郎等らはこれを聞き、みな涙を流して部屋を後にした。その後、郎等らは各々武装して四五百人ばかりで館を三重、四重に囲み、終夜篝を焚いて、多くの配下に館の周囲を廻らせて緩みなく警固を行った。
満仲は夜明けを待つ間も待ち遠しく思い、夜明けとともに湯浴みをして、
「疾ク可出家キ(早く出家を致したく思います)」
と聖人らに告げた。すると、源信以下の聖人は、大変貴い言葉で満仲を出家させた。『古事談』によれば、満仲の戒師は「恵心僧都(源信)」(『古事談』四 勇士)である。受戒に際して戒律を伝えるが、「第一不殺生戒、眠而不称保由」と、寝たふりを決め込んだ。そして「自第二戒皆称保由」という。その夜、新発満仲はただ一人で源信のもとを訪ねると、密かに、
「第一戒の時、心中には深雖存保由、家人以下あなづりもぞし侍るとて候、眠る体不称保由、定御不審候ひつらんとて、為令申仔細所参会也(第一戒のとき、心中は深く感じていたのですが、家人以下に侮られることもあろうかと思い、眠っている体で過ごしました。きっと訝しく思われたでしょう。仔細をお話しするべく参上いたしました」(『古事談』四 勇士)
と語っている。
『尊卑分脉』の伝によれば、「寛和二年八十五出家、法名満慶、七十五才」(『尊卑分脉』)とあり、この『今昔物語集』の説話は寛和2(986)年8月15日の話となる。その出家の儀の間に、満仲は放生し、業深き武具を焼き払ったという。
(1)「鷹屋ニ籠タル多クノ鷹共、皆足ヲ切リ放タル烏ノ如クニ飛ビ行ク」
(2)「所々ニ有ル簗ニ人遣テ破ツ」
(3)「鷲屋ニ有ル鷲共皆放ツ」
(4)「長明ニ有ル大網共皆取ニ遣テ、前ニシテ切ツ」
(5)「倉ニ有ル甲冑弓箭兵杖、皆取リ出シテ前ニ積ミ焼ツ」
そして、長年満仲に仕えてきた親しい郎等五十余人もともに出家を遂げ、彼らの妻子はともに泣き騒ぐことこの上もなかった。なお、「前摂津守満仲、於多田宅出家之日、同出家者男十六人、女三十余人」(『古事談』四 勇士)ともされる。満仲は、
「出家ノ功徳、極テ貴キ事ト云ヒ乍ラ、此ノ出家ハ仏殊ニ喜ビ給ラムト思ユ(出家の功徳は極めて貴いことではあるが、この出家は仏陀は殊の外お喜びになるであろうと思う)」
と言う。
満仲入道(新発)が出家したあと、聖人たちはさらに貴き事を物語して聞かせると、新発満仲入道はいよいよ感謝の意を呈して泣いた。聖人たちも今回の出家の件は「極キ功徳ヲモ勧メ得ツルカナ(すばらしい功徳をも勧めることができたものだ)」と思い、「今少シ道心付ケテ返ラム(もう少し彼に仏道の心を植え付けてから帰ろう)」と思い、
「明日許ハ此クテ候ヒテ、明後日ニ罷返ラム(明日までは逗留いたし、明後日に比叡山へ帰ります)」
と満仲入道に伝えると、大変喜んで、部屋へ戻っていった。
その日は暮れたので、翌日に三人の聖人らが相談するには、
「此ク道心発シタル時ハ、狂フ様ニ何ニ盛ニ発タラム、此ノ次ニ今少シ令発(このように仏心を発したときは、狂ったように盛りに気持ちが高揚していることだろう。この折にもう少し仏心を発せさせてみよう)」
と、源信らは「若シ信ズル事モヤ有(もしかすると満仲が仏心を信じることがあるかもしれない)」と思って、予め用意していた「菩薩ノ装束ヲナム十具許」を持ち出し、笛や笙を吹く楽人を少々雇って菩薩の装束を着させると館の蔭に隠した上で、
「新発ノ出来テ道心ノ事共云フ程ニ、池ノ西ニ有ル山ノ後ヨリ、笛笙ナド吹テ面白ク楽ヲ調ベテ来レ(満仲新入道が出来し、仏心の事などを話す時、あなた方は池の西にある築山の後ろから、笛や笙を美しく吹きなさい)」。
と指示した。そこで音楽を奏でていると、すぐに満仲新入道が歩いてきて、
「此レハ、何ノ楽ゾ」
と訝しんで源信らに問うと、源信らは素知らぬ態で、
「何ゾノ楽ニヤ有ラム、極楽ノ迎ヘナドノ来ルハ此様ニヤ聞ユラム、念仏唱ヘム(何の楽でしょうか。極楽のお迎えなどが来る際には、このように聞こえるのでしょうか。念仏を唱えましょう)」
と言い、源信、覚運、院源の三聖人のほか弟子僧十人ほどが一斉に念仏を唱えたので、満仲新入道は感激で貴く感じることこの上なかった。
そして、満仲新入道がいるところの障子を引き開けてみると、「金色ノ菩薩、金蓮華ヲ捧テ漸ク寄リ御」してくる姿が見えた。これを見た満仲入道は大声で泣くと、板敷から転がり下りてこれを拝んだ。聖人たちもこれに貴礼した。菩薩は音楽を引き調べて帰っていった。その後、満仲新入道は板敷に上がると、
「極タル功徳ノ限ヲモ令造メ給ツルカナ、己ハ量モ无ク生類ヲ殺シタル人也、其ノ罪ヲ滅セムガ為ニ、今ハ堂ヲ造テ自ノ罪ヲモ滅シ、彼等ヲモ救ヒ侍ラム(この上ない功徳の限りをも造らせていただきました。私は数えきれない殺生をした人ですが、その滅罪のために今は御堂を建立して自らの罪を滅するとともに、私が殺生したものたちをも救いたく思います)」
と言って、すぐさま御堂の造営を始めた。源信ら聖人たちはその翌日早朝に多田を出発して、比叡山へ帰っていった。その後、その御堂が完成すると、満仲新入道は供養を行い、いわゆる多田の寺として始めて造営された御堂となったという。
寛和2(986)年8月15日に出家を遂げて「新発」「新発意」と称された満仲入道満慶は、その後の説話は伝わっておらず、長徳3(997)年8月27日、八十八歳で卒去した(『尊卑分脉』『系図纂要』)。ただし、この没年齢には疑問がある。
文明4(1472)年8月17日、贈従二位。元禄9(1696)年8月26日、贈正一位。号は多田大権現(『系図纂要』)。
頼尋
父は源満仲(『尊卑分脉』『系図纂要』)。母は不明。真言密教僧。
仁和寺性信法親王に随い、伝法灌頂を受け阿闍梨位を授かる(『本朝高僧伝』五十感進四之五)。僧綱になることを嫌い、僧位僧官を受けず、終生阿闍梨であった。のちに洛中に釈王寺を開き、第一世となる。その学識は「博綜密乗、事相違缼」であり、「持不動尊、常修護摩、至八千枚、見明王両足云」という。號は釈迦院阿闍梨(『系図纂要』)。
源賢(945-988)
父は源満仲。母は近江守源俊朝臣女(『尊卑分脉』)。號は多田法源(『尊卑分脉』)。勅撰集『後拾遺和歌集』に二歌選歌された歌人である。『樹下集二十巻』を撰した。『源賢法眼集』も残されている。
天慶8(945)年生まれ(『系図纂要』)。幼名は美丈丸(『系図纂要』)。応和2(962)年出家し、恵心僧都源信の弟子となった。寛和4(988)年6月18日入滅(『系図纂要』)。四十四歳。號は多田法眼、摂津法眼。