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下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。
戦後、相馬家は徳川家康に召し出されて大坂の陣などで活躍して五千石の高禄を与えられ、子孫は旗本となった。しかし、江戸時代中期に故あって知行地を没収され、蔵米取にかわり幕末にいたった。一族では一橋徳川家に仕えた人物もあった。
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その他の 相馬家 |
◆下総相馬氏の当主たち◆
| 代数 | 当主 | 父 | 通称 | 同時代人物名 |
| 初代 | 相馬師常 | 千葉介常胤 | 相馬二郎 | |
| 2代 | 相馬義胤 | 相馬師常 | 相馬五郎兵衛尉 | |
| 3代 | 相馬胤綱 | 相馬義胤 | 相馬五郎兵衛尉 | |
| 4代 | 相馬胤村 | 相馬胤綱 | 相馬孫五郎左衛門尉 | |
| 5代 | 相馬泰胤 | 相馬胤継 | 相馬民部大夫 | 相馬胤氏・相馬師胤・相馬胤継・相馬胤顕 |
| 6代 | 相馬親胤 | 相馬泰胤 | 相馬民部次郎 | |
| 7代 | 相馬高胤 | 相馬親胤? | 相馬左衛門尉 | 相馬胤経・相馬胤村・相馬氏胤 |
| 8代 | 相馬胤基 | 相馬氏胤? | 相馬左衛門尉 | 相馬忠重 |
| 9代 | 相馬胤忠 | 相馬胤経? | 相馬上野介 | |
| 10代 | 相馬胤長 | 相馬胤忠? | 相馬小次郎 | |
| 11代 | 相馬胤宗 | 相馬胤長 | 相馬左衛門尉 | |
| 12代 | 相馬資胤 | 相馬胤宗 | 相馬上野介 | |
| 13代 | 相馬胤儀 | 相馬資胤 | 相馬左衛門尉 | |
| 14代 | 相馬胤高 | 相馬胤儀 | 相馬上野介 | |
| 15代 | 相馬胤実 | 相馬胤高 | 相馬左衛門尉 | |
| 16代 | 相馬徳誕蔵主 | 相馬胤実 | 相馬小次郎 | |
| 17代 | 相馬胤広 | 相馬徳誕蔵主 | 相馬因幡守 | 相馬胤行
相馬胤直…彦根藩士相馬氏の祖。 |
| 18代 | 相馬胤貞 | 相馬胤広 | 相馬小次郎 | |
| 19代 | 相馬胤晴 | 相馬胤貞 | 相馬小次郎 | |
| 20代 | 相馬整胤 | 相馬胤晴 | 相馬小次郎 | |
| 21代 | 相馬治胤 | 高井氏 | 相馬左近大夫 | 相馬胤房
相馬胤永…小田原藩客分相馬氏の祖。 相馬親胤 相馬因幡守…喜連川藩相馬家 |
◆旗本相馬氏◆
| 22代 | 相馬秀胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | 相馬師胤・相馬胤吉 |
| 23代 | 相馬胤信 | 相馬治胤 | 相馬小三郎 | |
| 24代 | 相馬盛胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | |
| 25代 | 相馬政胤 | 相馬治胤 | 相馬小次郎 | |
| 26代 | 相馬貞胤 | 大岡貞惟 | 相馬小次郎 | |
| 27代 | 相馬要胤 | 相馬貞胤 | 相馬小次郎 | |
| 28代 | 相馬信胤 | 小笠原貞信 | 相馬小平太 | |
| 29代 | 相馬重胤 | 相馬信胤 | 相馬小平太 | |
| 30代 | 相馬保胤 | 相馬信胤 | 相馬小源次 | |
| 31代 | 相馬矩胤 | 相馬保胤 | 相馬小太郎 | 相馬多宮正胤(一橋相馬家) |
| 32代 | 相馬是胤 | 相馬矩胤 | 相馬左兵衛 | |
| 33代 | 相馬敏胤 | 相馬是胤 | 相馬左近 | |
| 34代 | 相馬繋胤 | 相馬敏胤 | 相馬左近 | |
| 35代 | 相馬将枝 | 相馬繋胤 | 相馬邦三郎 | |
| 36代 | 相馬祚胤 | 相馬将枝 | 相馬左衛門 |
一橋相馬家
●一橋相馬家(『橋府分限帳』などより作成)
山口万之助――山口杢左衛門―+
|
+――+
⇒相馬保胤―+―相馬矩胤―+―相馬胤勝―――相馬胤恭======相馬靱負――――相馬貞之進
(小源次) |(左近) |(主水) (主税) (猪兵衛)
| |
| +―娘 前野利正
| ∥ (権之進)
| ∥ ∥
| 猪狩正倫 青木勘次郎―――――娘 +―さだ子
| (三郎左衛門) ∥ |
| ∥ ?
| +―相馬翁輔――+―娘
| | ∥
| | ∥
+―相馬正胤―――相馬春胤―+―相馬胤永――――+―相馬てつ子 林半蔵
(翁助) (文左衛門)|(右近) |
| |
+―相馬半蔵 +―相馬胤富
(鉦吉)
∥
みよ子
∥―――――――久保喜三郎
久保喜七郎――久保次郎右衛門―久保喜三郎――久保安次郎―――――久保喜三郎
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相馬正胤 (????-1787?)
一橋家臣相馬家初代。父は相馬小源太保胤。通称は多宮(『寛政重修諸家譜』『御附人御附切』)、茂之丞(『御附人御附切』)、半左衛門(『御附人御附切』)、翁助(『寛政重修諸家譜』)。号は左翁(『寛政重修諸家譜』)。
寛保元(1741)年12月19日、徳川吉宗の四男・徳川宗尹(一橋刑部卿)の「御小性」に新規に召し出され(『略譜』『御附人御附切』)、役料二百俵を給された(『寛政重修諸家譜』『略譜』)。ただ、この日宗尹は中野に鷹狩りに行っており、正胤が謁した記録は残っていない(『覚了院様御実録二』)。
正胤が一橋家へ召し出された理由ははっきりしないが、正胤の外祖父・筧新三郎正直が一橋徳川宗尹の近習だったことによるものか。享保11(1726)年6月9日、宗尹の祖母にあたる浄圓院(徳川吉宗生母。巨勢氏)が亡くなると、8月3日、浄圓院付用人だった筧新三郎正直、桜井九右衛門政英が宗尹の近習として出仕することとなった。この筧正直の母は相馬貞胤の娘(正胤曽祖父要胤妹)であり、さらに正直の娘が又従姉弟の相馬保胤に嫁ぎ、その末子が正胤である。
小笠原貞信――相馬信胤
(源四郎) (小次郎)
∥―――――相馬保胤
相馬貞胤―+―相馬要胤―――娘 (小源次)
(小次郎) |(小次郎) ∥―――――+―相馬矩胤【旗本相馬家】
| ∥ |(左近)
+―娘 ∥ |
∥――――――筧正直―――娘 +―相馬正胤【一橋相馬家】
∥ (新三郎) (多宮・翁助)
筧正興
(五右衛門)
延享3(1746)年10月3日、召抱えの形態がおそらく抱入から幕府直参の身分で専任となる「御附切」に切り替わっている(『略譜』)。実際に「御附切」への契約変更が仰せ付けられたのは10月15日のことと思われる(『御附人御附切』)。御三卿家が独自に召抱えた「抱入」の身分では役職に就くことができず、形式上でも直参となることで公儀からの許しも出たようだ。「御附切」の身分は公儀直参だが、幕府から出向している「御附人」よりも一橋家当主の裁量がはたらきやすかった。
翌延享4(1747)年の「徳川刑部卿様於附衆」の「御扈従衆」に「相馬半左衛門」の名が見える(『袖玉武鑑』)が、正胤が通称を「多宮」から「茂之丞」「半左衛門」へ改めたのは、この年のことだろう。寛延3(1750)年まで「御扈従衆」にとして名が見える(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。
隠居して左翁を号した。隠居時期は不明だが、天明7(1787)年2月7日当時、一橋家に御附切として仕えていた七人の一人に「相馬猶之丞」が見え、彼は次代の相馬文左衛門春胤と推測されることから、このころには隠居または亡くなっていたと思われる。没年不明。
相馬家の菩提寺・松源寺には天明7(1787)年7月10日に亡くなっている人物がかつて墓碑に刻まれており(『松源寺墓地検査願』 寺院移転に伴う調書で墓碑は現存せず)、この人物が相馬左翁正胤であるとすると、法名は一法了心居士。
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相馬春胤 (????-????)
一橋家臣相馬家二代。父は相馬翁助正胤。通称は猶之丞(カ)、文左衛門。屋敷は「うし込御かち丁(新宿区北町)」。
天明7(1787)年2月7日、一橋治済が家老の林肥後守忠篤に、我が家で働く者たちは多くが公儀からの御附人で、新規に召抱えて御附切とした者がわずか11名に過ぎず、清水家の31人よりもかなり少ない。しかも、11人のうち4人はすでに御附切ではなく、残りは7人で大変に手不足であることを訴えている(『一橋治済状』)。この七人の中に「相馬猶之丞」の名が見える。おそらくのちの文左衛門であろう。また、この年、子の相馬右近胤永が生まれている(『橋府分限帳』上)。
父・相馬翁助正胤の隠居時期は不明だが、正胤の隠居後、家督を相続したのち、おそらくいくつかの役職を歴任して、享和元(1801)年までに「徒頭」に昇った。いつごろ「徒頭」になったかはわからないが、寛政9(1797)年、従兄弟の相馬主水胤勝が「徒頭」を病免されているので、その後職になったのかもしれない。
●一橋相馬家周辺系図
相馬保胤―+―相馬矩胤―+―相馬是胤――相馬胤敏【旗本相馬家】
(小源次) |(左近) |(左兵衛) (左近)
| |
| +―相馬胤勝――相馬胤恭【一橋相馬家(二)】
| (主水) (主税)
|
+―相馬正胤―――相馬春胤――相馬胤永【一橋相馬家(一)】
(翁助) (文左衛門)(右近)
享和元(1801)年10月、一橋斉敦は家老・田沼能登守を通じて「徒頭 相馬文左衛門」を「目付助」とした(『相馬文左衛門御目付助可被仰付候儀』)。この書付には、「神田橋江も御相談申候」とあり、神田橋邸の隠居・徳川治済に人事についての相談をしていた様子がうかがえる。
享和3(1803)年には「御目付」となった相馬文左衛門がみえる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。彼が「御目付助」から「御目付」へ昇進したのは、享和元(1801)年10月から2年の間だったことになる。また、同年には「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門弟」の「相馬半蔵」が生まれている(『藤岡屋日記』より逆算)。この「相馬文右衛門」に比定できる人物は系譜や武鑑からはうかがえないが、年代から考えて、少なくとも文左衛門春胤ではない。実際はその子・右近胤永の弟が相馬半蔵ということになる。
文化5(1808)年から文化11(1814)年まで「相馬文左衛門」は「徳川民部卿斉敦卿様御附衆」の「御目付」(『文化武鑑』)にあり、文化12(1815)年に「御広敷御用人」となり(『江戸幕役職武鑑編年集成』)、禄高は四百石、御役料百俵を賜る。文化13(1816)年、斉敦が亡くなったため、寛政11(1799)年正月に隠居して神田橋邸にいた「一橋大納言治済卿様御附衆」の御用人「見習」となった(『橋府分限帳』上)。
文左衛門が亡くなった年は不明だが、 文政4(1821)年の治済付御用人としての記録(ただし、名はなく維駒紋のみ掲載)を最後に見られなくなる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。この頃に隠居したか亡くなったのだろう。
相馬主水胤勝
相馬左近矩胤の子・相馬主水胤勝も一橋家に仕えている。相馬文左衛門春胤の従兄弟にあたる。
相馬主水は宝暦9(1759)年9月4日、一橋御殿に一橋家嫡子・徳川豊之助(徳川治済)の「御相手」として召し出され、御合力金として「千五両」を賜った。
明和元(1764)年閏12月26日、「小性見習」となり、切米十七石三人扶持を給わる。明和7(1770)年9月15日、「小性」に昇り、天明元(1781)年4月28日、「小姓頭取」、天明7(1788)年3月4日、「頭役」となり二百俵高となる。
寛政元(1789)年3月24日には「徒頭」となった(『略譜』)。寛政4(1792)にも「相馬主水」が「御徒頭」として見える(『袖玉武鑑』)。「相馬主水」は寛政9(1797)年まで御徒頭として見え(『袖玉武鑑』)、それ以降の武鑑に名前が見えなくなるが、同年3月7日、病のため隠居が許され、閏7月14日に亡くなっている(『略譜』)。
相馬保胤――+―相馬矩胤――+―相馬是胤―――――相馬敏胤―――――相馬繋胤
(1683-1736)|(1710-1786)|(1739-1804) (????-1810) (????-1819)
| |
| +―相馬胤勝―――――相馬胤恭=====相馬靱負――――相馬貞之進
| (????-1797) (????-????) (1812-????) (1833-????)
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+―相馬正胤――――相馬春胤―――+―相馬胤永―――+―相馬翁輔
(????-????) (????-1821頃)|(1787-1844頃)|(????-1868)
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+―相馬半蔵 +―相馬胤富
(1803-????) (1831-1896)
主水胤勝の跡は、相馬主税胤恭が継ぎ、一橋家大番となっている(『略譜』)。なお、天保8(1837)年の「御右筆助」に二十六歳の相馬靱負の名が見えるが、彼の養祖父は相馬栄五郎、養父は相馬主水(『橋府分限帳』下)となっている。「相馬栄五郎」の名は見えないが、「相馬主水」は胤勝の通称であることから、靱負の家は相馬主水胤勝の子孫と推定される。
系譜に当てはめると「養祖父相馬栄五郎」は「主水胤勝」、「養父相馬主水」は「主税胤恭」に相当するが、通称がそれぞれ一致せず、系譜に謎が残る。
天保13(1842)年、天保14(1843)年の武鑑に見える「御右筆」の「相馬猪兵衛」は靱負が改名したのちの名と思われる。俸禄は十七石三人扶持。祖の相馬主水胤勝と同じであり、これが相馬主水家の役高無しの俸禄だったのだろう。子は慶応3(1867)年に同禄高の御勘定所出役・相馬貞之進だろう(『銃隊御組合可相成人名取調書』)。
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相馬胤永 (1787-1844?)
一橋家臣相馬家三代。父は相馬文左衛門春胤。通称は右近。
天明8(1787)年におそらく牛込御徒丁の屋敷で誕生(『橋府分限帳』上)。文化11(1814)年、一橋徳川民部卿斉敦の御小姓衆として召し出された(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』)。住所は文左衛門と同様「うし込御かち丁」である。諱については、一橋徳川斉敦が描いた『打毬御巻双紙』に打毬に興じる斉敦側近の一人に「相馬右近胤永」の名が見えることから、諱は「胤永」だったことがわかる。
相馬右近は文化13(1816)年まで徳川斉敦の「御小姓」を勤め(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、9月4日に斉敦が亡くなると、跡を継いだ嫡子・徳川斉礼の「御小姓衆」に編入され(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、文化15(1818)年まで御小姓衆としてその名が見える。
文政2(1819)年からは隠居の一橋治済に仕えて御徒頭となった。屋敷は「わせた明神横丁」(『文政武鑑』)とあるが、この地は「相馬右近抱屋敷二段九畝十一歩」(『新編武蔵風土記稿 巻之十一』)とある抱屋敷であり、拝領屋敷である「うし込御かち丁」(『文政武鑑』)、「中御かち丁」「うし込御かち丁」とは異なる場所(新宿区北町19)である。この「抱屋敷」は「牛込早稲田町百姓町屋三ケ所同馬場下町同町屋弐ケ所」で、文化12(1815)年に胤永の父「一橋殿家来相馬文左衛門」が中山五郎左衛門抱屋敷を譲渡されたものである。その後、天保9(1838)年に後藤安次郎へ譲渡している(『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』)。
その後、一橋相馬家は武鑑にしばらく名が見えないが、文政7(1824)年に「御目付」として相馬右近の記載が現れる(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。その後、天保13(1842)年まで御目付を勤め(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、同年中に「御書院番頭」へ遷った。さらに翌天保14(1843)年、「御書院番頭」から「御物頭」へ遷った(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)。
天保6(1835)年7月27日、「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門」の弟で無役の「相馬半蔵」の名が見える(『藤岡屋日記』)。半蔵は日ごろから虚無僧となって所々を放浪していたが、7月27日、かねてから懇意にしていた目白台の御賄方・伊沢八十吉の続新屋敷に飼犬を連れて訪ねた。半蔵は犬を屋敷の外に繋いでいたが、同じ組屋敷内で飼われていた犬と半蔵の犬が喧嘩になった。このとき、この長屋に住む金子建蔵の子息・金子金次郎がたまたま長屋に来訪したが、長屋の飼犬が半蔵の犬に噛み伏せられているのを目撃、半蔵の犬めがけて石を投げつけた。これを見た半蔵は激怒して金次郎に襲いかかり、手に持っていた尺八で金次郎の脳天を殴りつけた。金次郎は昏倒し、手当ての甲斐なく同日夜に亡くなった。金子家の親類は牛込神明横町の相馬家へ押しかけ、掛け合いに及んでいる(『藤岡屋日記』)。半蔵がその後どうなったかは記載がないためわからないが、評定所預けになったと思われる。
天保8(1837)年時点で「相馬右近」が「御目付」であり、その2年前、天保6年に不始末を犯した相馬半蔵の兄「一ツ橋殿目付 相馬文右衛門」はおそらく相馬右近胤永だろう(『橋府分限帳』上)。
相馬右近は天保13(1842)年に「御書院番頭」、翌年には「御物頭」となるが、弘化元(1844)年以降、記録がなくなる。このころ隠居したか亡くなったのだろう。菩提寺の松源寺にあった墓碑には、天保15(1844)年2月28日に亡くなった人物が記載されており(『松源寺墓地検査願』)、相馬右近かもしれない。法名は大円院鏡山了智居士。
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相馬翁助 (????-1868)
一橋家臣相馬家四代。父は相馬右近胤永。通称は翁助。実名は不明。妻は八王子相原村郷士・青木勘次郎娘(『日記 番頭御用人』)。
弘化2(1845)年には一橋徳川家の御書院番・松倉平六組士として出仕している(『日記 番頭御用人』)。同年3月には「武州八王子相原村郷士 青木勘次郎娘」を娶った(『日記 番頭御用人』)。
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| 黒門に残る上野戦争の弾痕 |
しかし、嘉永5(1852)年12月2日にはすでに弟の相馬鉦吉胤富を養子としており、翌年までに家督を譲って隠居。その後は、弟の相馬鉦吉とともに「彰義隊」に加わった。
彰義隊はもともと徳川慶喜(もと一橋慶喜)の護衛のために、一橋家の武士を中心に結成された軍隊であったが、その後、幕府の旗本などを取り込むことによっていつしか過激な思想が生まれ、上野戦争という悲劇を生んだ。しかし、旧一橋家家臣の多くが、過激派と化した彰義隊に失望して、上野戦争以前に隊を去っていく。相馬兄弟のうち兄の翁輔は彰義隊に残っていることが確認できるが、弟の鉦吉の参戦は不明である。
幕末当時、結城藩主は二本松藩丹羽家から養子に入っていた水野日向守勝知であった。慶応3(1867)年10月14日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政奉還し、江戸幕府は終焉を迎えた。しかし、旧幕府は依然として諸役人によって運営されており、勝知は12月18日、「江戸半蔵口門番」の命が下る。一方で朝廷からの上洛すべしとの命令には「病気罷在候」として「暫時御猶予」を願い出ていた。そしてこの願書は受理され、勝知の上京は「不及」との沙汰が下った。
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| 上野寛永寺黒門(南千住円通寺移築) |
しかし、勝知は内々に幕府に対して「上野山内警衛並ニ彰義隊付属指揮役」を願い出ていたようで、慶応4(1868)年3月1日、幕府はその願いの通り両役を勝知に命じた。このことに藩内は動揺する。勝知の行動は明らかに朝廷への反逆行為とみなされる。しかも、すでに慶喜追討の官軍が江戸にほど近くまで進軍しており、時間の猶予もなかった。
このような中で、江戸詰家老の水野甚四郎をはじめとする佐幕派と、国元の執政・小川鈴之勝廉(勝知叔父)、家老・小場兵馬らを中心とする藩存続第一の新政府恭順派が対立していた。勝知が彰義隊指揮役を命じられたことを知った小場兵馬らは、幕府に「二職解任之願書」を提出し、勝知には帰国を懇願し続けたものの幕府からは音沙汰なく、勝知も帰国を無視したうえ、結城藩邸を出て実家の二本松藩邸へ移ってしまった。小場兵馬らは事ここに至っては、勝知を藩主としておくわけにはいかず、老君・水野摂津守勝進を藩主代行として擁立し、江戸藩邸に据えた。すると、勝知はにわかに藩邸に戻り、二本松藩士とともに結城藩邸を乗っ取り、佐幕派によって江戸藩邸はまとめ上げられた。
この報告を聞いた国元の佐幕派藩士たちは、ついに藩主の交代を決行。老公・水野勝進の末子、水野禊之助(勝寛)を担ぎ出して藩公・勝知に反旗を翻した。これを知った勝知は帰国することを決意し、彰義隊士らを率いて帰国の途についた。
3月17日、国元の小場兵馬らは勝知の側近・水野雅之助からの談判の申し出を受け、小山宿本陣(小山市中央町二丁目)へ出向いた。ここで小場兵馬、稲場三鶴、三岡多治見は彰義隊・小泉高之進と水野雅之助と会談するが、会談中、彰義隊士が本陣に押し寄せ、「種々強談王臣勤王抔ト申唱候者ハ此方共ノ所討也」などと声高に叫び、我々は勝知の頼みによって「結城鎮撫」のために罷り越しており、もし「不取用候節ハ大砲ヲ以テ一潰ニ可致」と脅した。そして、稲葉・三岡を結城へ差し戻して恭順派の執政・小川鈴之の謹慎と、三宅武兵衛ら十三名の逮捕を勝知の命として通達。さらに小場兵馬は本陣に監禁した。
藩公・勝知はこの日、間々田宿(小山市間々田)に着陣し、翌18日、小山宿本陣へ着いた。この報告を聞いた国元の藩士らは、勝知に「彰義隊ヲバ差戻候は為迎人数差出候間、早々入城致サレ候様申遣」したが、勝知からは「有無之返答無之」った。そして勝知は22日、自らの居城である結城城を攻め落とすための「兵器借用人数催促」を諸方に遣わした。
もともと勝知は「戦争之用意無之、且鎮撫之為相頼候彰義隊故、器械等モ持参不致」かったため、至急兵器が必要となていたようである(『戊辰藩情録』:「結城市史」所収)。3月23日、古河藩から兵器を借用するため、水野又四郎、有馬豊之助、坂本源四郎(会津藩士)を差し向け、「某老臣(郡奉行・三浦次郎右衛門元徳とされる)」から十二斤カノン砲一門、弾薬百発を借用した(『史談会速記録』二四七:「結城市史」所収)。
一方、結城城側では逸早く勝知の兵器借用の報告を手にしており、忍廻の者を諸方に手配していたところ、「脱走西山半三郎外一人市内ニ於テ見受、早速手配致シ」たが、西山半三郎は逃げてしまった。しかし「一人ハ取押遂糺問処、彰義隊相馬翁輔ト申者」であった(『太政官日誌』:「結城市史」所収)。
翁輔は「廿二日諸方へ兵器借用人数催促等ノ風聞有之候ニ付諸方へ忍ノ者差出候処、大町新田問屋ニテ脱走、西山半三郎外ニ壱人見受候ニ付、手配中半三郎ハ逃去リ壱人捕押連来リ候…彰義隊相馬翁輔ニテ…」(『戊辰藩情録』:「結城市史」所収)と、結城藩の偵察者によって、脱藩した中小姓・西山半三郎とともに「市内」で発見されており、半三郎は偵察者が藩に捕縛の手配をしている間にうまく逃げ延びたが、翁輔は捕えられてしまった。捕縛されたところは「(結城)市内」と思われる。翁輔がどこへ遣わされる予定だったかは不明ながら、宛名の宇都宮藩「坂本平馬」は「人数等ノ義宜敷英断之程頼入」られるように、人数の手配ができる地位の人物と推測される。
翁輔は逮捕時に暴行を受けたようで、結城藩は翁輔が「打身ニテ難義ノ様子ニ付、早速医療申付」た。そして姓名を訪ねたところ「彰義隊相馬翁輔」であると明かし「巨細之次第相咄シ」た。懐中からは「織田主膳ヨリ坂本平馬ヘノ書状懐中致居」り、その文には「此方我々共御内命蒙リ、且水野日向守ヨリ頼モ有之傍以出張候間、人数等ノ義宜敷英断之程頼入候」とあった(『太政官日誌』:「結城市史」所収)。
一方、江戸藩邸にいた恭順派の三宅武兵衛は、両派対立の解決を図るべく尾張藩の水野彦三郎邸を訪ねた。彦三郎の弟・水野仲四郎が同族・結城藩の藩校(秉彝館)の校長を務めていた関係で、結城藩と関わりを持っていたためと思われる。このとき二本松藩儒者・山田次郎八が当の仲四郎と会談中で、計らずも対面することになった。二本松藩は藩公・勝知の出身藩であり、武兵衛と次郎八は旧知の間柄であったのだろう。次郎八は結城藩士・高橋剛蔵から結城での事件を聞いて心配のあまり尾張水野家を訪問し「彰義隊ヲバ江戸表ヘ引揚候」ことを条件に戦争を回避させようと、仲四郎とともに結城へ行こうとしていた。そこに三宅武兵衛が訪ねてきたため三宅と結城へ行くこととし、24日、結城へ着いた。
山田次郎八は結城城下の江戸屋に宿を取ったところ、たまたま小川鈴之(勝知叔父)らが江戸屋に出張してきたため対談となった。ここで次郎八は「彰義隊差戻シ早々入城有之候様致度旨一向ニ相頼」み、鈴之もこれを受け入れたようだ。
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| 相馬翁輔君之碑(円通寺) |
しかし翌25日早朝、彰義隊は「城下へ不意ニ押寄セ城内ヘモ脱人共彰義隊引連乱入、一時ニ発砲放火致サレ候」と、結城城に奇襲を仕掛けたが、城内の結城藩士たちによって排撃されてしまう。そして、城内の獄につながれていた相馬翁輔は、彰義隊の奇襲に怒った結城藩士・酒寄源内によっ引き出され、処刑された。享年不明。
結城城下の合戦では午後過ぎまで結城藩が優勢だったが、「日向守出馬」が風聞されると、藩公と直接事を構えることはできないと衆議が決し、結城城は開城された。しかし、4月5日には新政府軍により結城城は攻め落とされ、水野禊之助の手に渡されることとなった。
翁輔の遺体はその後、相馬家の菩提寺・牛込松源寺に葬られた。法名は長性院殿徳岸義昌居士(「松源寺墓地検査願」)。彰義隊士の荒川区南千住の圓通寺にも墓標がある。
相馬翁輔には娘がおり、彰義隊士・林半蔵の妻になっている(林半蔵は上野戦争で戦死している)。翁輔は弘化2(1845)年3月24日に「武州八王子相原村郷士」の「青木勘次郎娘」と婚姻が許されており、その間に生まれた娘か(『日記 番頭御用人』)。
翁輔は武芸に長じており、義弟の「青木正太郎(青木勘次郎長男。明治31年衆議院議員、明治40年に東京米穀商品取引所理事長、その後は横浜鉄道取締役、京急電鉄取締役、横浜倉庫監査役)」に「弓(砲)槍馬術」を教授している。
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相馬胤富 (1831-1896)
一橋家臣相馬家五代。父は相馬右近胤永。通称は鉦吉。
弘化2(1845)年当時、鉦吉は小普請組に属し、山口仲次の馬術の弟子として、一橋邸の外庭馬場において乗馬を行い、当主・一橋慶壽がこれを「御覧被遊」っている(『日記 番頭御用人』)。
嘉永5(1852)年12月2日の時点で胤富は兄・相馬翁助の養子となっており(『日記 番頭御用人』)、翌嘉永6(1853)年12月21日には小十人組士・櫛渕弥市の剣術の弟子として当主・一橋慶喜が実見している。このとき鉦吉は小普請に属しており、嘉永6(1853)年中には兄の相馬翁助より家督を譲られていたことがわかる。安政5(1858)年正月14日の段階では小普請支配黒田兵庫組に配属されていた(『日記 番頭御用人』)。
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| 黒門に残る上野戦争の弾痕 |
慶応3(1867)年、御書院番士として名が見え(『銃隊御組合可相成人名取調書』)、同族の相馬貞之進胤房は御勘定所出役に列している(『銃隊御組合可相成人名取調書』)。慶応4(1868)年当時も御書院番となっており(『日記 番頭御用人』)、鉦吉は御書院番士として幕末を迎えた。
その後、鉦吉は兄で義父の先代・相馬翁助とともに「彰義隊」に加わった。彰義隊はもともと徳川慶喜(もと一橋慶喜)の護衛のために、一橋家の武士を中心に結成された軍隊であったが、その後、幕府の旗本などを取り込むことによっていつしか過激な思想が生まれ、上野戦争という悲劇を生んだ。しかし、旧一橋家家臣の多くが、過激派と化した彰義隊に失望して、上野戦争以前に隊を去っていく。相馬兄弟のうち兄の翁助は彰義隊に残っていることが確認できるが、弟の鉦吉の参戦は不明である。
その後、相馬鉦吉がどのように幕末を迎えたかは不明。ただし、明治3(1870)年、一橋家解体後の旧臣禄高として「現米拾三石一斗」が与えられていた記録があり(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)、性格の変わってしまった新しい彰義隊と決別して一橋家に戻った一人だったのかもしれない。その翌年の明治4(1871)年には、「高現米拾六石宛」に加増されている(『九等割内訳姓名帳』)。
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| 多門信治屋敷跡(神宮外苑内) |
なお、相馬鉦吉は戊辰戦争を生き延び、明治初期の居住地は「青山西三筋町内藤駒次郎触下多門信治敷地之内(港区北青山1丁目)」で、義理の息子と思われる久保喜三郎(元彰義隊士)とともに住んでいた(『元一橋家来名札』)。
久保喜三郎は一橋慶喜の御奥詰小姓で、慶喜が宗家を相続したのちも一橋家に仕えている。鉦吉の妻・相馬みよ子の子であるため、連れ子ということになる。ただし、鉦吉と喜三郎の年の差はわずかに五歳という義理の父子である。戊辰戦争当時は宇都宮藩などへの使者を務め、慶応4(1868)年には振武隊士として多摩地方で薩長勢と戦い、この頃「一橋殿奥詰 久保泰輔喜三郎事」と名を改めている(『復古外記』東海道戦記第四十二 明治元年九月十八日条)。明治元年には咸臨丸に乗船して蝦夷行きを図るも咸臨丸が拿捕されたため静岡府中の四足門内元定番屋敷に謹慎を命じられた。
弘化4(1847)年11月の徳川七郎麿(一橋慶喜)の「御稽古定日」で「二、七」の日に定められた「御素読」稽古の師として「久保喜三郎」が見えるが(『徳川慶喜公伝』)、彰義隊士久保喜三郎の実父か。
●久保喜三郎系譜(『橋府分限帳』)
久保喜七郎―久保次郎右衛門――久保喜三郎
∥
∥―――――久保安次郎―――久保喜三郎―――久保喜三郎
【水戸藩士】 ∥
小瀬氏―+―姉
|
+―小瀬助蔵
(天保6年7月12日卒)
一橋家臣の久保左十郎勝茂と久保喜三郎家との系譜上のつながりは不明。久保勝茂は享保13(1728)年2月11日に一橋宗尹の「近習番」となり、延享2(1744)年10月24日に四十三歳で亡くなったという(『寛政重修諸家譜』)。妻は佐脇伝十郎某の娘。おそらく享保10(1725)年11月1日に宗尹の近習番となった佐脇伝十郎安住の娘だろう。ただ、勝茂は延享4(1747)年に「久保左十郎」が「御近習番衆」として名が見える資料もあり(『橋府分限帳』)、一橋家臣久保家がその後どうなったかは不明。
文化12(1815)年の「一橋家奥詰御儒者」として「久保喜三郎」が見え(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、以降、久保家は代々奥詰の右筆として仕えた。屋敷は「牛込王世多」とあり(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)、一橋家の屋敷があった牛込早稲田町(新宿区早稲田町)に住んでいたと思われる。
また、相馬胤富が明治に入って身を寄せた多門信治が、胤富とどのような関係だったのかは不明だが信治の祖・多門正方は一橋徳川宗尹の御用人であり、さらに多門氏と久保氏には血縁関係があり、これがきっかけだった可能性もある。多門信治はもともと「青山権田原三筋町」に二百坪の屋敷地を有する二百俵の旗本であった。信治はその後、麹町区二番町五番地へ移り、警視庁に入庁。警部補まで昇進し、明治10(1877)年に西南戦争で鹿児島へ警視隊士として出兵する。しかし、この戦いで負傷して亡くなった。明治12(1879)年5月24日、信治の母・たかよへ恩給が下され、信治は7月2日、靖国神社へ合祀された(『
海軍省日誌』明治十二年 自十七号至三十六号)。
●久保氏・多門氏系譜(『寛政重修諸家譜』)
【一橋宗尹御用人】 【青山西三筋町拝領屋敷】
多門正泰―+=多門正方 +―多門正包―――多門正長――多門正長――多門正清
(孫右衛門)|(孫七郎) |(平兵衛) (平兵衛) (平兵衛) (源吉郎)
| ∥―――――――+
+―娘 |
+―久保勝見
久保勝正―+―久保勝行―――久保勝宗―――久保勝政―――久保勝友=====(金蔵)
(平左衛門)|(甚五左衛門)(源左衛門) (権之助) (頼母)
|
+―久保勝房―+―久保勝時―――久保政周―+―久保勝里======久保芳勝
(平左衛門)|(和泉守) (勘次郎) |(平左衛門) (勘次郎)
| |
| +―久保勝峯――――+―久保勝交===久保勝徴
| |(平三郎) |(金三郎) (喜三郎)
| | |
| +―久保芳勝 +―久保勝徴―――久保勝祥
| (勘次郎) |(喜三郎) (勝五郎)
| |
| +――――――――――――――娘
| ∥―――――久保勝範
+―久保勝重―+―久保勝忠―+―娘 松平昌剛 ∥ (半次郎)
(杢右衛門)|(七左衛門)| ∥ (藤蔵) ∥
| | ∥ ∥――――――久保成勝 ∥
| | ∥―――――――+―娘 (七左衛門) ∥
| +―久保正秀 | ∥――――久保勝達
| (伝左衛門) | ∥ (伝左衛門)
| |【一橋宗尹近習番】∥
| +―久保勝茂――――娘
| (左十郎)
|
+―久保勝親―――久保勝庸――――――久保勝意―――久保勝長
(喜三郎) (十兵衛) (弥太郎) (十兵衛)
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| 相馬胤富他寄進灯篭(谷中) |
相馬胤富は明治時代には商業の道を選んでいる。「浅草医王町三番地」に住み、博物館掛の「雇」となり、明治7(1874)年7月31日、「博覧会事務局」から東京府へ相馬胤富ほか三名が翌8月1日に「礼服着用」の上で出頭する旨が伝えられている。博覧会に関わる仕事を行ったと思われる。その後、蛎殻町一ノ二の「東京米穀取引所仲買人」(『仲買人雑誌』明治29年9月号)となっている。
明治17(1884)年、一橋家の旧臣有志が旧主家の一橋徳川茂徳(顕樹院殿)の墓所に燈籠を寄進することを計画し、その発起人として一橋家旧臣の秦武充、間野秀俊、大串保、櫛渕宣秀、内川義備、伊藤好之、安藤正幹が名を連ね、9月に内規を作成した(『献燈発起人申合内規』)。
彼らは、一橋家旧臣に対して燈籠寄進の寄付を募り、明治18(1885)年、谷中一橋家墓所に燈籠二基が建てられた。胤富も一橋家「旧藩」の「有志」として寄付者に名を連ねている。胤富のほかに柴山正富、柴田義広、糸賀従忠、鈴木鉄三郎、大井昌虎、三宅為勇、鈴木政正、井上正良、福田修身、大河内重恭らが見える。12月、発起人が寄付者について文書にまとめて一橋家へ納めた(『献燈事略并皆納受取証費用決算表配達請取帳』)。ここに胤富の名も見られるが、当時、胤富は「浅草区亀岡町七番地」へ移っている。なお、彼とともに灯篭を寄進した柴山正富は南多は南多摩郡東大久保村に生まれた一橋家家臣。明治18年当時も東大久保村二三六番地に住んでいて、園芸家としても名が知られた人物である。
明治29(1896)年9月4日に亡くなった。法名は本性院実相真空居士。胤富は「氏は一橋家直参の士にして幕府の末、造彰義隊に与みし、薩藩の兵と闘ふ、軍利あらす且つ時勢の変遷を大悟し、遂に剣を擲て商界に入る。平素氏の昻々乎として気概ある以て推知すべし。此人、今や亡し行年六十六歳」とある(『仲買人雑誌』明治29年9月号)。
胤富の「東京米穀取引所仲買人」(『仲買人雑誌』明治29年9月号)の職は、「相続人」として養嗣子の「相馬輔五郎」が継承している(『仲買人雑誌』明治29年9月号)。相馬輔五郎は相原村豪農の青木勘次郎(天然理心流「近藤周助」や「周助養子勇」、「日野宿彦五郎」とも親交があった)の二男で明治5(1872)年8月生まれ。「京浜電気鉄道、海岸電気軌道、蒲郡臨港線、帝国美衛各(株)社長、横浜新港倉庫、東京電力、湘南電鉄、横浜倉庫各(株)監査、社団法人鉄道同志会理事」でもと衆議院議員の「青木正太郎」の弟にあたる(『帝国人事大鑑』昭和九年版)。青木正太郎は安政3(1854)年3月18日に生まれ(『人事興信録』大正四年)、漢学を円山巧隆、武術を近藤勇、西村一平、弓(砲)槍馬術を胤富兄の相馬翁輔(正太郎姉夫)について学んでおり(『成功模範録』)、輔五郎が胤富養子となった背景にはこうしたものがあったのだろう。
青木勘次郎―+―青木正太郎
|(東京米穀商品取引所理事長)
|
+―相馬輔五郎
|
+―女子
∥
相馬胤永――+―相馬翁輔
(右近) |
|
+―相馬胤富====相馬輔五郎
(鉦吉)
輔五郎は明治5(1872)年に相原村に誕生し、のちに胤富の養子となった。明治28(1895)年11月9日、明治27、28年の日清戦争で「陸軍輜重輸卒」としての勲功により勲八等瑞宝章を受けている(明治二十八年十一月九日『官報』)。
姪(相馬翁輔娘)は彰義隊第一赤隊副長・林半蔵の妻になっているが、同隊伍長・前野権之進利正の妻・さだ子も相馬鉦吉の姪に当たる。慶応4(1868)年5月15日の上野戦争で林半蔵は山王台に戦死を遂げ、翌16日、鉦吉の姉・相馬てつ子と鉦吉の妻・相馬みよ子はともに上野の山の戦場跡を訪ね、戦死していた林半蔵を発見。頭髪を切り取って、寛永寺塔頭護国院に葬り、碑を建てたという(『彰義隊戦史』)。
●一橋相馬家の編年
寛保元(1741)年:一橋徳川宗尹仕官「相馬多宮正胤」(『寛政重修諸家譜』)
延享3(1746)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
延享4(1747)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『袖玉武鑑』)
寛延3(1750)年:御扈従衆「相馬半左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
【39年間不明】
天明7(1787)年:「相馬右近」誕生(『橋府分限帳』上より逆算)
寛政元(1789)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政2(1790)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政3(1791)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政4(1792)年:頭役「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
寛政5(1793)年:御徒頭「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
寛政6(1794)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政7(1795)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政8(1796)年:御徒頭「相馬主水」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
寛政9(1797)年:御徒頭「相馬主水」(『袖玉武鑑』)
享和元(1801)年:御徒頭→御目付助「相馬文左衛門」就任(『相馬文左衛門御目付助可被仰付候儀』)
享和3(1803)年:「相馬半蔵(相馬文右衛門弟)」誕生(『藤岡屋日記』より逆算)
〃 :斉敦付御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
享和4(1804)年:斉敦付御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化元(1804)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』)
文化2(1805)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化3(1806)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』)
文化5(1808)年:御目付「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化6(1809)年:御目付、組頭「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化7(1810)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化9(1812)年:御目付「相馬文左衛門」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :「相馬靱負」誕生(『橋府分限帳』下)
文化10(1813)年:御目付「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化11(1814)年:斉敦御広敷御用人「相馬文左衛門」(『江戸幕役職武鑑編年集成』)
〃 :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』)
― :「相馬右近胤永」(『打毬御巻双紙』)
文化12(1815)年:斉敦御広敷御用人「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化13(1816)年:治済付御用人見習「相馬文左衛門」(『橋府分限帳』上)
〃 :斉敦御小姓衆「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化14(1817)年:治済付御用人「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :斉礼付御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文化15(1818)年:治済付御用人「相馬文左衛門」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :斉礼付御小姓衆「相馬右近」(『橋府分限帳』上、『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政3(1820)年:治済付御用人…維駒紋のみ掲載(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政4(1821)年:治済付御用人…維駒紋のみ掲載(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政7(1824)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政10(1827)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
文政13(1831)年:「相馬鉦吉」誕生(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』より逆算)
天保3(1832)年:御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』)
天保4(1833)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :「相馬貞之進」誕生(『一橋元家来目見以上士族俸給録』より逆算)
天保5(1834)年:御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保6(1835)年:御目付「相馬文右衛門」(『藤岡屋日記』)
〃 :「相馬半蔵(相馬文右衛門弟) 三十三歳」(『藤岡屋日記』)
天保7(1836)年:斉位付御目付、御番頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保8(1837)年:御目付「相馬右近 酉五十一歳」(『橋府分限帳』上)
〃 :御右筆、御右筆助「相馬靱負 酉二十六歳」(『橋府分限帳』下『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保9(1838)年:御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保10(1839)年:慶壽付御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬靱負」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保11(1840)年:御目付「相馬右近」(『袖玉武鑑』)
〃 :御右筆「相馬靱負」(『袖玉武鑑』)
〃 :御右筆「相馬猪兵衛」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保12(1841)年:慶壽付御目付「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬猪兵衛」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保13(1842)年:御目付、御書院番頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬猪兵衛」(『袖玉武鑑』)
天保14(1843)年:御書院番頭、御物頭「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
〃 :御右筆「相馬猪兵衛」(『袖玉武鑑』『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
天保15(1844)年:御物頭「相馬右近」(『江戸幕府役職武鑑編年集成』)
弘化元(1844)年:御物頭「相馬右近」(『袖玉武鑑』)
弘化2(1845)年:御書院番松倉平六組「相馬翁輔」(『日記 番頭御用人』)
〃 :山口仲次馬術弟子「翁輔弟 相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
〃 :御書院番並「相馬翁輔」武州八王子相原村郷士青木勘次郎娘と縁組(『日記 番頭御用人』)
【7年間不明】
嘉永5(1852)年:御書院番「翁輔」養子「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
嘉永6(1853)年:櫛渕孫市剣術弟子「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
安政2(1855)年(編纂か):御目付「相馬右近」←高二百俵(『神門分限帳』)
安政4(1857)年:「相馬熊三郎」(『尾張屋清七版』)
安政5(1858)年:小普請組黒田兵庫支配「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
【6年間不明】
元治元(1864)年:御書院番並■人鉦吉父隠居「相馬翁輔」(『日記 番頭御用人』)
慶応3(1867)年:御書院番「相馬鉦吉」(『銃隊御組合可相成人名取調書』)
慶応3(1867)年:御勘定所出役「相馬貞之進」(『銃隊御組合可相成人名取調書』)
慶応4(1868)年:御書院番「相馬鉦吉」(『日記 番頭御用人』)
明治元(1868)年:「相馬翁輔」結城で殺害(『太政官日誌)
明治3(1870)年:「相馬鉦吉」←現米十三石一斗(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)
明治3(1870)年:「相馬貞之進」←現米十一石五斗(『元一橋家来士族卒禄高名面帳』)
明治4(1871)年:「相馬鉦吉」←現米十六石(『九等割内訳姓名帳』)
明治39(1906)年:「相馬輔五郎」←日本橋区村松町三十九(『旧一橋藩士血統出征人名調』)
●保胤までの系譜●
⇒相馬治胤――娘 +=信胤――――重胤(保胤の異母兄)
(左近太夫) ∥――――貞胤 | ∥
∥ (小次郎) | ∥
∥ ∥ | ∥―――――保胤――――正胤【一橋徳川宗尹側近】
大岡貞惟 ∥―――+―要胤―――+=娘 (小源次) (多宮)
(権兵衛) ∥ |(小次郎) ∥
∥ | ∥―――――矩胤――+―相馬是胤
某氏 +―娘 ∥ (左近) |(左兵衛)
|(要胤養女) ∥ |
| ∥ +―相馬胤勝【一橋徳川治済に仕える】
+―娘 ∥ (主水)
∥――――――筧正直―――娘
筧正興 (新三郎)
(五右衛門)
●徳川御三卿略系図(■:一橋家当主、■:田安家当主、■:将軍家・德川宗家、■:老中または政治総裁職)
【八代将軍】 【九代将軍】 【十代将軍】
⇒徳川吉宗―+―家重―――+―家治――――家基
| |
| |【清水家】
| +―重好
| (宮内卿)
|
|【田安家】
+―宗武―――+―治察====斉匡―――――――慶頼
|(右衛門督)|(大蔵卿) (右衛門督) (右衛門督)
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| +―松平定信――定永―――――+―定和
| (越中守) (越中守) |(越中守)
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| +―板倉勝静
| (伊賀守)
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|【一橋家】 【十一代将軍】 【十二代将軍】 【十三代将軍】
+―宗尹―――――治済――+―家斉―――――+―家慶――――+―家定
(刑部卿) (民部卿)| | |
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| | +―慶昌
| | (刑部卿)
| |【尾張徳川家】
| +―斉荘――――――昌丸=======慶喜
| |(権大納言)
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| |【紀伊徳川家】 【十四代将軍】 【十五代将軍】
| +―斉順――――――家茂=======慶喜
| (大納言)
|【田安家へ】
+―斉匡―――――+―斉位
|(右衛門督) |(民部卿)
| | 【徳川宗家】
| +―慶頼――――――家達
| |(右衛門督)
| |
| +―慶寿
| |(民部卿)
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| |【越前松平家】
| +―松平慶永
| (越前守)
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+―斉敦―――――――斉礼
(民部卿) (兵部卿)
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●ご協力
茨城県在住の方
あさくらゆう様
●おもな参考資料●
『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
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