鯖江藩 臼井氏

千葉氏 千葉介の歴代

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鯖江藩臼井家

 臼井城主・臼井左近久胤は臼井城を離れたあと、常陸国真壁郡下館の領主・水谷家に仕え、江戸時代に水谷家が備中松山城へうつると、これに従う。その後、久胤の曾孫・臼井秀胤の代に水谷家を辞して浪人。江戸に出た秀胤は甲府宰相松平綱豊の家臣・西田九右衛門清貞の知遇を得てその家臣となり、秀胤の子・臼井儀太夫安胤は清貞の子・間部詮房の重臣に抜擢される。その後は代々間部家に仕え、明治維新に至る。

 臼井久胤─+─臼井忠胤───臼井常数───臼井常慈───・・・
(左近将監)|(左近将監)
      |
      +─臼井良胤─+─子
      |(平十郎) |
      |      |
      |      +─子
      |
      |【鯖江藩士】                                                +─臼井胤興
      +─臼井村胤 +─臼井益胤─+─臼井秀胤─+─臼井安胤──臼井善胤─+─臼井右七        +─延    |(恒太郎)
       (右近)  |(平蔵)  |(信斎)  |(儀太夫) (儀太夫) |             | ∥    |
        ∥    |      |      |            |             | ∥────+─臼井胤相
        ∥────+─臼井嗣胤 +─貞笑尼  +─娘          +─臼井長胤─+─臼井彦胤─+=臼井綏胤  (角太)
       横田氏娘   (平介)          (嫁川島氏)       (儀太夫) |(儀兵衛)  (保)
                                               |
                                               +─臼井年胤───臼井銀治───臼井鐏之進
                                                (収蔵)

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臼井忠胤 (1569-????)

 二十二代当主。父は二十一代・臼井左近将監久胤。母は上野氏(『千葉臼井家譜』)。通称は左近将監。

 天正2(1574)年、父・久胤が没すると家督を相続。弟の良胤・村胤とともに下館城主・水谷家で養育されたという。領主の水谷出羽守正村(蟠竜斎)は兄弟の父・久胤に与えていた知行のうち、忠胤に相続を許したのはわずか二割であり、弟の良胤・村胤には少禄のみ与えた。

 忠胤が成長したあるとき、水谷家の重臣・平沢縫殿(前名は小田部伊予。平沢美作猶子となり家督相続)と席次の上下を争って行列の前後を争った事件があった。こうした事件につき、先祖の偉業に対する自らの没落ぶりを嘆き、さらに耳の病のために水谷家を辞し(『千葉臼井家譜』)、常陸国新治郡柿岡村(茨城県石岡市柿岡)に帰農したとも。彼には「有一子先卒無後也」とされるが(『千葉臼井家譜』)、嫡男・常数は名字帯刀を許され、子孫は牛久藩主・山口家、山城淀藩主・稲葉家に仕えていたという(ただし、これは仕官したのではなく柿岡周辺に牛久藩領や淀藩領があったための伝だろう。この地には名主としての臼井家が江戸時代を通じて残っていた)。忠胤の子孫と、発展した忠胤末弟・村胤の子、秀胤の子孫との交流がなかったために記載されなかった可能性がある。

 柿岡村に隣接する上曾村(茨城県石岡市上曽)に帰農した臼井家もあり、系譜を見ると臼井久胤の子を祖としていることから、忠胤系と同族と思われるが、こちらに伝わる系譜には久胤の子として「肥後二郎常■」との名があり、忠胤の名は見られない。

 臼井久胤─臼井常■──臼井了明──臼井常教──臼井宗悦──臼井常定──臼井常次─+
(左近) (肥後二郎)(越後)  (朱左衛門)(源右衛門)(源左衛門)(源左衛門)|
                                         |
+────────────────────────────────────────+
|
+─臼井常林─+─臼井■■────臼井■■
 (源左衛門)|(源左衛門)  (源左衛門)
       |
       +─小河原昌俊─+=小河原喜始
        (常右衛門) | ∥
               +─娘
               |
               +─娘
               |(臼井源左衛門妻か)
               |
               +─小河原常房
               |(縫殿之介)
               |
               +─臼井教美
                (千葉玄仙)

 臼井教美は宝暦12(1762)年に小河原昌俊の子として誕生。幼少から学問好きで、水戸の医師・原南陽の弟子となり、さらに立原翠軒に文学を学んだ。なお、立原翠軒の孫娘は千葉周作嫡子・千葉道三郎光胤の妻となっている。教美は水戸から帰郷後、上曽村で医師となり、さらに臼井周造(同族か?)方で「素樸亭」という私塾をつくり、国学などを教えた名士。文化元(1804)年に四十三歳で亡くなった。

 明治15(1882)年10月24日、「茨城県士族」の「臼井胤宣」が「浅草区役所雇」となっているが、常陸臼井家の末裔と思われる。また、昭和10(1935)年5月7日に臼井田の稲荷山常楽寺に臼井竹若丸(興胤)の危機を救った乳母阿辰と岩戸胤安の碑を建てた「第四子 臼井直胤」「五子 臼井平胤」(『佐倉市誌資料』)の祖は不明ながら、「絶家臼井家を再興」した臼井義胤(確井龍治弟)の子で、確井氏は下総臼井氏に繋がる人物と想定される。

      +─確井龍治
      |
      |(再興)
      +─臼井義胤─+─臼井胤明
        ∥    |
        ∥    +─臼井直胤
        ∥    |
        ∥    +─臼井公胤(分家)
        ∥    |
        ∥    +─臼井平胤(分家)
        ∥    
        ∥      辻兵吉─────叔子    +─臼井年胤
        ∥              ∥     |
        ∥──────臼井泰胤    ∥─────+─臼井英胤
 鏑木祚胤───やす     ∥       ∥     |
               ∥─────+─臼井知胤  +─清子
               ∥     |
        紅林某──+─アサ    +─淡河登美
             |       | 
             +─紅林七五郎 +─糟谷登美
                     |
                     +─鏑木弘胤(分家)
                     |
                     +─山県良子
                       ∥
       【公爵】   【公爵】     ∥
 山県有稔─+─山県有朋===山県伊三郎─+─山県七郎
(三郎)  |(内閣総理大臣)      |
      |              |【公爵】
      +─寿子           +─山県有道
        ∥             
        ∥──────山県伊三郎
        勝津兼亮
       (善之丞)

 忠胤の次弟・臼井平十郎良胤も天正の末に水谷家を辞して大坂に赴き、甥の臼井秀胤に一度だけ書状を送った(『千葉臼井家譜』)。いずれかの家中に仕えて男女二人の子を残したが、その後の乱世の央で秀胤と音信不通となり、以降どうなったかは不明という。

◆臼井氏略系図◆

 臼井久胤─+─忠胤─────常数───常慈───・・・
(左近将監)|(左近将監)
      |
      +─良胤───+─男子
      |(平十郎) |
      |      |
      |      +─女子
      |
      +─村胤   +─益胤─+─秀胤───安胤
       (右近)  |(平蔵)|(信斎) (儀太夫)
        ∥    |    |
        ∥────+─嗣胤 +─貞笑尼
       横田氏娘   (平介)

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臼井村胤 (1573-1655)

 二十三代当主。臼井左近将監久胤の三男。母は上野氏(『千葉臼井家譜』)。通称は右近。妻は横田筑後娘(『千葉臼井家譜』)。諱の「村胤」は水谷正村からの偏諱か?

 天正2(1574)年、父・久胤が没すると、兄の忠胤、良胤とともに主君の水谷出羽守正村(蟠竜斎)に引き取られ、おそらく正村の弟で常陸国真壁郡下館城主の水谷兵部大輔勝俊に預けられたのだろう。その後、兄の忠胤(左近将監)・良胤(平十郎)が水谷家を辞してしまったため、末弟の村胤が家を継いだと思われる。

 村胤は水谷勝俊の跡を継いだ水谷伊勢守勝隆に仕えたが、勝隆は村胤に高い礼遇を与える代わりに、禄高は少ないままであった。その後、村胤は横田筑後の娘を娶り、益胤(平蔵)・嗣胤(平介)の二人の子をもうけている。なお、二人の通称に用いられた「平」については、「家運しばらく衰へ、子孫遂に其の姓をも忘れんことを恐る故に二子に字するに平字を以ってせり」とする村胤の配慮がうかがえる。

 寛永19(1642)年、主君・水谷勝隆が備中国成羽、次いで松山に移封されると、村胤も随従して松山に移った(『千葉臼井家譜』)。

 明暦元(1655)年10月28日、松山において八十七歳で没し(『千葉臼井家譜』)、浄土宗寿覚院に埋葬された(『臼井氏正記』)。法名は西誉常方(『千葉臼井家譜』)。寿覚院は光明山と号し本尊は阿弥陀如来(『松山村誌』)。天正3(1575)年に成羽藩祖山崎志摩守片家母(寿覚院殿)によって成羽に建立された。

◆臼井氏略系図◆

 臼井久胤─+─臼井忠胤─────臼井常数───臼井常慈───・・・
(左近将監)|(左近将監)
      |
      +─臼井良胤───+─男子
      |(平十郎)   |
      |        |
      |        +─女子
      |                        
      +─臼井村胤   +─臼井益胤─+─臼井秀胤──+─臼井安胤────…→鯖江藩間部候家臣
       (右近)    |(平蔵)  |(信斎)   |(儀太夫)
        ∥      |      |       |
        ∥──────+─臼井嗣胤 +─貞笑尼   +─娘
        横田氏娘    (平介)           (嫁川島氏)

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臼井益胤 (????-????)

 二十三代当主。臼井右近村胤の長男。母は横田氏。通称は平蔵。

 通称の「平蔵」は父・村胤が「家運しばらく衰へ、子孫遂に其の姓をも忘れんことを恐る故に二子に字するに平字を以ってせり」との願いを込めて名づけたものである。弟・臼井嗣胤も「平介」という通称を名乗っている(『千葉臼井家譜』)。

 主君の水谷伊勢守勝隆が備中成羽城(松山)へ移されると、父・村胤とともに松山へ移り、父の死後も水谷家へ仕えた。一方、先祖の菩提寺・下総国臼井の瑞湖山円応寺には娘・貞笑尼の墓石が遺されていることや、嫡男・臼井秀胤も隠居してからは臼井に戻っていることから、臼井との関係は持ち続けていたことが察せられる。

 没年や菩提寺は不明。

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臼井秀胤 (1630-1702)

 臼井家二十五代当主。臼井平蔵益胤の嫡男。母は不明。

 寛永7(1630)年、常陸国下館に生まれ、父祖とともに備中国松山に移った。秀胤は頭脳明晰で器量も衆をぬきんでていたが、禄高が低く才能を発揮できないことを歎き、ついに水谷家を辞して浪人となって江戸へのぼったという。ここで新しく仕官すべき家を探したのだろう。このとき、たまたま甲府藩主・松平綱重の家臣だった西田久右衛門清貞(間部詮房の父)の知遇を得、三百石を以って召抱えられることとなる。

 しかしその後、西田家を退いて「信斎」と号して「吟詠を事として歳月を送」り、さらに晩年には先祖の地・下総国臼井城下にある臼井家菩提寺・瑞湖山円応寺(臼井興胤の子が開山)の郭外に草庵を営み、ここで臼井家の伝承を著した『千葉臼井家譜』を撰し、円応寺に納めた。

 元禄11(1698)年、信斎と円応寺住職・宗的は、中国は北宋の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に倣い、印旛沼湖畔の風光明媚な地として「臼井八景」を選した。

【臼井八景】

■城嶺夕照(じょうれいせきしょう) 佐倉市臼井田の臼井城跡
■州崎晴嵐(すざきせいらん) 佐倉市臼井田の州崎台
■舟戸夜雨(ふなとやう) 佐倉市臼井田の舟戸
■光勝晩鐘(こうしょうばんしょう) 佐倉市臼井の光勝寺
■遠部落雁(とおべらくがん) 佐倉市飯野ふるさと広場あたりの砂州
■飯野暮雪(いいのぼせつ) 佐倉市飯野の草ぶえの丘あたり
■瀬戸秋月(せとしゅうげつ) 佐倉市土浮から対岸の瀬戸を眺める
■師戸帰帆(もろときはん) 印旛郡印旛村師戸へ夕日の中、舟が帰帆する情景

 元禄15(1702)年5月12日、七十三歳で没し、円応寺に葬られた。娘は川島氏に嫁した。

 弟の臼井平左衛門則胤は、兄・秀胤編纂の『千葉臼井家譜』をしたためた。法名は池月道秋信士(『千葉臼井家譜』)。

 

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臼井安胤 (????-1734)

 臼井家二十六代。臼井信斎秀胤の嫡男。通称は保、儀太夫。号は露水(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 安胤は宝永3(1706)年2月28日、間部越前守詮房の給人として召し出された(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。これはこの前月正月に詮房が知行一万石を超えて大名となったことで、所縁のある人物を藩士として召抱えたものと思われ、安胤の父・臼井信斎秀胤が詮房の父・西田久右衛門清貞に仕えていた伝手によるものであろう。

 その翌年の宝永4(1707)年9月、八十石を新たに与えられて知行取りとなり、御取次を仰せ付けられる(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 間部詮房は、六代将軍・徳川家宣(前甲府藩主松平綱豊)の側近として、新井白石とともに政局にあたり、宝永7(1710)年5月23日、上野国高崎に五万石で入封した。

 宝永5(1708)年9月、安胤は御徒頭に昇進。宝永6(1709)年10月、七十石の加増があり、あわせて百五十石を知行し、御物頭となった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 しかし、こののち安胤は「過失」のために「永蟄居」を命じられてしまう。ただ、この蟄居は宝永7(1710)年閏8月18日、なんらかの大役を滞りなくつとめた功績が認められて遠慮御免となっている。同年に詮房が高崎藩主となっていて、高崎城の請取りに安胤は御持弓頭として行列に参加しているので、この入封での大役によって赦免された可能性がある。

一、臼井儀太夫事、永遠慮も可被仰付候へ共、其節之致方神妙之儀二思召候、殊此度大役無滞相勤候ニ付、早速遠慮御免被遊、昨十八日御目見迄被仰付不存寄難有之旨、儀大夫申事二御座候、此段市右、喜兵へも御申聞可有候、以上

 正徳4(1714)年2月18日時点での分限帳『間部家上州高崎居城代家臣録』(『間部家文書』第二巻)の中の臼井氏として、

・臼井儀太夫(江戸御留守居・百五十石)
・臼井冨之進(御中小姓・八両三人扶持)
・臼井伊兵衛(御供徒・四両二人扶持)

の三名が見える。「臼井儀太夫」は臼井安胤、「臼井富之進」は安胤養嗣子・臼井善胤である。「臼井伊兵衛」については不明。また、臼井氏の一族と思われる臼井有右衛門は享保3(1718)年、江戸藩邸下目付の役職にあったが、一昨年来の病のために、五歳になる嫡男に家督相続の願書を提出し、認可された。

 享保元(1716)年5月、儀太夫は御留守居役に任じられ、役料として十人扶持が下された。さらに享保8(1723)年正月11日、御用人・御旗奉行を兼帯。こうして高崎藩の重臣となった儀太夫は、享保10(1725)年3月2日、御用人・御旗奉行の御役御免を願い出て許され、御用人次之席に任じられたが、3月9日、隠居を願い出て翌10日に許され、「数年無滞相勤候」によって、隠居料三人扶持が下された。

 享保19(1734)年5月3日に亡くなった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

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臼井善胤 (????-1777)

 臼井家二十七代。臼井儀太夫安胤の養嗣子。初名は留之進(富之進)。通称は儀太夫。妻は曾我氏娘・梅。号は潤斎(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 正徳5(1715)年3月15日、七両三人扶持の御中小姓として出仕した。ただし、この前年の正徳4(1714)年2月18日時点での分限帳『間部家上州高崎居城代家臣録』の中に「御中小姓」として「臼井富之進」が見えることから、正徳4(1714)年にはすでに出仕していたことがうかがえる。二年後の享保2(1717)年7月、御小姓を仰せ付けられた(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 享保10(1725)年3月9日、養父・臼井儀太夫安胤が隠居を願い出たことから家督を相続。家禄百五十石が相違なく相続され、御使者番を仰せ付けられた(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 享保15(1730)年7月21日、父と同様に御取次役に就任。七年後の元文2(1737)年4月15日、御徒頭に就任した(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 元文5(1740)年11月11日には御物頭に就任。

 寛保2(1742)年秋、大雨により下総国相馬郡の新利根川大堤が決壊し多くの被害が出た。この大堤の修補を「越州鯖江候兼若狭守間部詮方」に命じられ、鯖江藩は「候遣陪臣植田左仲命純」を総督とし、「里見権七郎義孝」を副総督、「臼井儀太夫善胤、金子八左エ門公忠、辛島善兵エ見平、諏方又左エ門勝為」を佐として、11月から翌寛保3(1743)年3月にかけて執り行った。

 延享元(1744)年10月21日、御留守居添役を兼帯する。

 延享2(1745)年3月、遠祖臼井氏の菩提所である臼井円応寺に梵鐘を奉納している(『佐倉市誌資料』)。同年7月2日、御前において添役の御役金七両が下賜された。

 延享3(1746)年8月23日、御留守居添役を辞任し、御役金は返納されている(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 宝暦6(1756)年3月11日、御用人を仰せ付けられ、宝暦12(1762)年正月21日、十石が加増されて百六十石の知行となり、御役料として二十俵が下された。さらに翌宝暦13(1763)年正月11日、御旗奉行を兼帯。明和8(1771)年8月8日には、御番頭・御用人兼帯が仰せ付けられ、翌明和9(1772)年5月15日には二十石が加増されて百八十石となった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 安永4(1775)年9月11日、御役・兼帯役を辞し、10月9日に隠居が認められて嫡男・臼井富弥長胤に家督を譲り、初代・詮房より五代にわたって精勤した臼井家の功績が賞され、隠居料として五人扶持を与えられた(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 安永6(1777)年12月18日に亡くなった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

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臼井長胤 (????-1811)

 臼井家二十八代。臼井儀太夫善胤の次男。通称は富弥、縫殿右衛門、富之進、儀太夫。妻は麻田藩士・松井氏の娘。のち徳島藩士・武谷市左衛門栄以三女。鯖江藩番頭・中老。知行は二百石。

 宝暦2(1752)年4月19日、兄の臼井右七(保志之助)亡きあと臼井家の嫡男となり、宝暦12(1762)年正月21日、御小姓として召し出され、五両二人扶持を下された(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 明和2(1765)年7月19日には御加金一両が宛がわれ、兄と同様六両二人扶持となる(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 明和8(1771)年8月8日、払方御納戸に就任。御加金一両が下され、御長印掛を兼ね、翌明和9(1772)年5月15日、御加扶持一人扶持が下され、七両三人扶持となった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 安永3(1774)年6月15日、御側取次に就任し、元方御納戸を兼帯して七人扶持を下され七両十人扶持となり、御鈴掛を仰せ付けられる(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 安永4(1775)年10月2日、上納物掛に就任。10月9日には父・臼井儀太夫善胤の隠居願の許可がおり、正式に臼井家の家督を継承した。その2年後の安永6(1777)年9月1日、御勘定奉行席内御用人手伝を仰せ付けられ、御用所に詰めることとなり、御中台所掛は御免となる。

 安永7(1778)年4月24日、御近習頭を仰せ付けられ、御側取次と兼帯、11月28日には御権門様方掛となった。

 安永9(1780)年正月11日、御用人格に昇進。内御用人を仰せ付けられ、さらに御側御物頭・御側取次の兼帯、御権門様方・御鈴掛・御納戸御用掛・御近習頭元方・御納戸を歴任した。

 天明元(1781)年6月15日、御側御用人となり、内御用人を兼帯し、翌天明2(1782)年6月15日、大奥掛に就任。天明5(1785)年5月10日には御留守居見習に就任。このとき、長胤の御用が多すぎたことへの配慮から、御物頭兼帯、御納戸御用掛の御役御免とされ、御役料十俵が下された(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 翌天明6(1786)年5月15日、御留守居に就任し、御側御用人・御勝手御用人を兼帯。翌天明7(1787)年6月22日、御番頭を仰せ付けられ、御用人・御留守居を兼帯。寛政4(1793)年6月14日、御勝手頭に昇進して御役料として二十石が下された(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 享和3(1803)年正月11日、御中老格に昇進し、その8年後の文化8(1811)年6月11日、御中老席となるが、五か月後の11月4日に亡くなった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

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臼井彦胤 (1784-1824)

 臼井家二十九代。臼井儀太夫長胤の嫡男。初名は多太三郎。通称は登美之進、富弥、儀兵衛。前名は天胤。妻は島原藩士・笹田氏。

 文化11(1814)年、「城使・臼井登美之進」と見え(『文化武鑑』)、江戸留守居役を勤めていたことがわかる。なお、文化10(1813)年では「臼井儀太夫」が「城使」とあるが(『文化武鑑』)、父の臼井儀太夫長胤はその二年前、文化8(1811)年に亡くなっているため、この臼井儀太夫は登美之進の誤りだろう。文化12(1815)年10月27日、鯖江へ戻った(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 寛政12(1800)年7月1日、御中小姓として出仕し、五両二人扶持が宛がわれた。享和3(1803)年7月2日には御取次に就任して七人扶持が下され、文化4(1807)年6月21日、御留守居添役・御取次加リ勤となり、非番の際には表御用所に詰めることが定められた。11月24日、御役料として十俵が下されている(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 文化8(1811)年3月1日、御物頭席・留守居本役を仰せ付けられ、御役料として二十俵が与えられた。同年11月4日には父・臼井儀太夫長胤が亡くなったことから、12月24日、臼井家の家督を相続。知行・二百石は相違なく継承され、御権門様方掛となった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 文化9(1812)年11月9日、御勝手御用所へ詰め、御勝手向見習となる(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 しかし、文化12(1815)年2月4日、御留守居勤役中に「兎角行状不宜」、「甚不届之儀」があったために「思召有之ニ付差控被仰付、急度慎可罷在候」とされ、「本知」二百石は召上げとなってしまう。しかし、父・儀太夫長胤の精勤に免じ、「別段之以思召」って召上げた二百石のうち八十石を儀兵衛彦胤に下され、五十石が弟・衛助年胤へ下し置かれた(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 文政7(1824)年4月7日に亡くなった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。享年四十一。

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臼井綏胤 (????-1861)

 臼井家三十代。臼井儀兵衛彦胤の養嗣子。通称は保。実父は丸岡藩士・有馬清大夫。妻は臼井儀兵衛彦胤長女・延。

 文政7(1824)年4月7日、養父・臼井儀兵衛彦胤が亡くなったが、彦胤はすでに保を養嗣子とする旨を藩庁へ届け出ており、5月29日、彦胤長女・延を妻として臼井家家督を継ぎ、八十石を継承した。給人席、御広間詰を仰せ付けられ、6月3日には御番頭支配の御番に入った(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 文政13(1830)年5月1日、御広間詰を仰せ付けられ、5日から御番に入った。そして天保7(1836)年12月7日、御使者番を仰せ付けられ、天保9(1838)年正月11日には御取次格、さらに天保13(1842)年正月11日、御取次席となり、御徒頭に就任した(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 弘化3(1846)年11月22日、「不束之儀」があったために差控となるが、「格別之以御憐憫」って差控は赦され、弘化5(1848)年正月11日には御取次御番に、安政2(1855)年正月11日、御取次となった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 万延元(1860)年7月11日、隠居願いの通り隠居が許可され、嫡男・臼井角太胤相が家督を継承した(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 文久元(1861)年3月12日に亡くなった(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

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臼井胤相 (1845-1938)

 臼井家三十一代。臼井保綏胤の次男。通称は角太。母は臼井彦胤長女・延。妻は本多興之助娘・りき。

臼井角太
臼井角太胤相(山本家蔵)

 無刀柔術、居合術、宝蔵院流槍術、砲術、小具足術、火術、馬術、弓術、薙刀術、真景流剣術、書道、漢学など文武両道に通じた幕末の名士。

 万延元(1860)年7月11日、臼井保綏胤の家督を継承して八十石を知行し、給人席・御広間詰を仰せ付けられた(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。

 江戸では間部家上屋敷に出仕し、水戸家より預かりの「御老人」の碁や将棋などの相手を務めていたという。この「御老人」がいかなる人物かは不明だが、のちに水戸家よりお迎えの使者が来て、立派な駕籠に召されて水戸家へ戻っていったという。その出立の様態はまるで大名行列のようであったと伝わる。角太胤相はこの「御老人」と別れるにあたり、寂寥の思いで涙を流したという。

 元治元(1864)年、胤相は「京都表御警衛」として京都へ派遣された。藩公・間部下総守詮道の護衛ということか。

 元治2(1865)年11月24日、水戸の尊皇攘夷志士・天狗党の軍勢が敦賀へ向ったため、幕府は藩公・間部詮道に「敦賀御警固」のために人数を派遣するよう命じた。詮道は早速軍勢を手配し、臼井角太は又従兄弟の臼井鐏之進とともに砲隊士として出陣した。

 慶応3(1867)年12月25日の幕府勢力による薩摩藩邸焼き討ちに際しては、江戸市中見廻りをしていた角太胤相の槍の師・松本縫殿が加勢を頼まれ、十三名の藩士を率いて薩摩藩邸へ向かった。しかし薩摩藩側の抵抗は激しく、松本縫殿も負傷した。さらに薩摩藩士はみずから藩邸を焼いて密かに軍艦に乗り込み、品川沖へ遁れてしまった。このとき角太胤相は越前鯖江にいたため、急飛脚をもって江戸への出府を命じられている。

 明治元(1868)年の『分限帳』には「御側御取次」に「臼井穀蔵(加勤・百石)」、「給人広間詰御番頭支配」に「臼井角太(八十石)」が記されている。しかし明治に入ると、それまで藩士が受けていた家禄や賞典禄が廃され(秩禄処分)たことで士族の生活は急激に困窮し、生きる糧を得るために商売を始める者が増えた。しかし、慣れない仕事に失敗が続出していく。

 明治2(1869)年4月2日、「兵隊入被仰付」る(「寛政改御家人帳」 一之下 『鯖江市史』史料編 第五巻)。翌明治3(1870)年3月3日、「現米弐拾石三斗ニ相直」り、3月11日「依内願兵隊入被成御免」されるが、3月25日に改めて「兵隊入被仰付」た。

 こうした時勢の中で、角太胤相は明治21(1888)年、鯖江から福井市足羽山上へ居を移し、翌明治22(1889)年に遊戯室内射的・大弓場の経営を始め、これが成功。明治26(1893)年9月21日には足羽山西南に「実弾狭窄射撃場」の建設許可を得て臼井射撃場を開き、大弓場とともに大変栄えた。しかし、日中戦争によって火薬の入手が困難になったため、惜しまれつつも臼井射撃場は閉園となった。

●鯖江藩・臼井家嫡流の山本氏の家に伝わる臼井家ゆかりの大黒様(山本祐義氏 ご提供)

臼井家妙見菩薩 木彫りの大黒様 臼井家蔵妙見菩薩と亀
鯖江臼井家妙見菩薩 木彫りの大黒様 鯖江臼井家蔵妙見菩薩と亀

鯖江藩臼井家の分家

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臼井右七 (????-1752)

 臼井儀太夫善胤の嫡男。通称は保志之助、右七。

 延享2(1745)年正月28日、御小姓として召し出され、六両二人扶持を下された。

 寛延3(1750)年2月23日には御納戸見習となり、臼井家の嫡男として着実に昇進したが、宝暦2(1752)年4月19日、家督を継ぐことなく亡くなった。

 

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臼井胤興 (1834-1855)

 臼井保綏胤の嫡男。通称は三太郎、のち恒太郎。母は臼井彦胤長女・延。

 安政2(1855)年、二十二歳の若さで亡くなったため、家督は継承していない。

 

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臼井年胤 (????-1844)

 臼井儀太夫長胤の次男。通称は鼎、恒八郎、佐吉、左吉、衛助、収蔵。

 文化元(1804)年7月15日、「若殿様」の御伽衆となり、御鼻紙代として年間金三両が下賜された。文化3(1806)年11月8日、小寄合席・若殿様御小姓として出仕。五両三人扶持が宛がわれ、御家老支配となる。

 文化4(1807)年6月8日、若殿様御櫛方見習となり、文化12(1815)年2月25日、御小納戸見習となる。10月27日、兄・富弥彦胤が不届の段によって所領召上げとなった後、年胤へ「別段之以思召」って臼井家二百石のうち五十石が下され、さらに新知として八十五石となるが、兄・富弥彦胤の知行召上げにともない、彦胤は知行地の屋敷を引き払うよう命じられ、屋敷に住んでいた老母は、老年につき在所を引越すことが辛いであろうから、年胤が引き受けて孝養を尽くすよう命じられている。

 文化15(1818)年4月1日、御納戸役・御櫛方、文政元(1818)年12月20日、給人席に昇進。翌文政2(1819)年には御刀番供目付を兼務し、翌文政3(1820)年4月29日、御供方をも兼務するが、御櫛方は免ぜられた。12月10日、御小納戸本席に昇進。

 文政5(1822)年7月18日、御取次格に就任し、御供頭を兼帯した。9月28日には御用取次となり、御側目付・御小姓頭・大御納戸を兼帯した。

 文政8(1825)年正月11日、御用取次本席に就任したが、その矢先の11月28日、「酒狂」の儀は不束として差控とされるところ、過ちは酒狂のみであることにより、「以御憐憫」って御側目付兼帯を免じられたのみで、差控は免ぜられた。こののち年胤の行動は改まったようで、着実に昇進を重ねていく。

 その後は、寺社役、御持頭、公用人、御用人格に就任。天保9(1838)年正月11日、御用人格役、4月11日、藩主・間部下総守詮勝が京都所司代を拝命すると、14日、藩主・詮勝の上洛に公用人として従い、以降は京都に在住するが、天保11(1840)年1月13日、詮勝の所司代職が免ぜられると、詮勝に従って江戸へ戻り、2月2日に江戸藩邸へ到着した。

 5月23日、十五石が加増され、それまでの八十五石とあわせて都合百石の知行となる。天保14(1843)年閏9月21日には御用人を仰せ付けられ、十五石の役料が下された。

 弘化4(1844)年12月30日に亡くなった。

 家督は嫡男・臼井穀蔵(銀治・鐏之進)が継ぎ、幕末維新時には、嫡男・臼井鐏之進が宗家の臼井角太胤相とともに活躍している。

■間部家中臼井家(『文化武鑑』『文政武鑑』『大武鑑』ほか):千葉江州さんご協力

年代 名前 役職 藩主
宝永7(1710)年 臼井儀大夫 中老か? 間部詮房
享保3(1718)年 臼井茂太夫
臼井有右衛門
城使
江戸藩邸下目付
〃
: : : :
安永2(1773)年 臼井儀太夫 番頭 間部詮堅
寛政2(1790)年 臼井儀太夫 番頭 間部詮熈
享和3(1803)年 臼井儀太夫 番頭  
文化元(1804)年 臼井儀太夫 番頭・城使 間部詮充
文化2(1805)年 臼井儀太夫 番頭・城使 〃
文化3(1806)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化4(1807)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化5(1808)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化6(1809)年 臼井儀太夫 番頭 〃
文化7(1810)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化8(1811)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化9(1812)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化10(1813)年 臼井儀太夫 中老・城使 〃
文化11(1814)年 臼井登美之進 城使 間部鉞之助
文化12(1815)年 臼井登美之進 城使 〃
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弘化4(1847)年 臼井収蔵 用人 間部詮勝

●ご協力者:

●参考文献:


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