僧侶になった千葉一族 日蓮宗

僧侶の千葉氏

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【日蓮宗】

日昭 1236?-1323 六老僧筆頭 日蓮直弟子
日朗 1245-1320 長栄山本門寺開山 日蓮直弟子
日像 1269-1342 具足山妙顕寺開山 日朗弟子
日輪 1272-1359 長栄山本門寺三世 日朗弟子
日祐 1298-1374 中山法華寺本妙寺三世 千葉胤貞猶子
日胤 ????-???? 正東山日本寺三世 日祐弟子
日貞 ????-1361 西海総導師職 日祐弟子
日範 ????-???? 肥前国小城郡修善院主 金原又三郎有胤二男
朗源 1326-1378 具足山妙顕寺三世 千葉又一郎四男
日周 ????-???? 安房国保田妙本寺六世 木内氏
日靚 1489-1524 中山法華寺本妙寺九世  
日俒 1515-1598 中山法華寺本妙寺十世  
日侃 1525-1601 安房国保田妙本寺十五世 千葉六郎■頼ノ末
日円 1565-1605 東正山日本寺十五世 椎名五郎左衛門子

 

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日昭(1236?-1323)

 日蓮直弟子の六老僧筆頭昭門流(浜門流)の祖。はじめ成弁と号し、弁阿闍梨、不軽院と称された。下総国印東庄能戸の領主・印東治郎左衛門尉祐昭の次男。母は工藤左衛門尉祐経娘 (妙一尼公)。のち摂政・近衛兼経の猶子となり、法印に任じられた。

 兄・三郎左衛門尉祐信が印東家を継ぎ、次男の日昭が日蓮の直弟子となった。姉は池上左衛門大夫康光に嫁ぎ、池上宗長・宗仲の母となる。妹は下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国に嫁ぎ、日朗を生んだ。

●伝承上の系譜

      印東祐昭―――+―印東祐信
     (治郎左衛門尉)|(三郎左衛門尉) +―池上宗長
       ∥     |         |
       ∥     +―女       |
 工藤祐経――妙一    | ∥―――――――+―池上宗仲
(左衛門尉)       | 池上康光     (左衛門尉)
             |(左衛門大夫)
             |
             +―日昭――――――+―日祐
             |(弁阿闍梨)   |(智満丸)
             |         |
             |         +―日成
             | 平賀有国     (福満丸)    
             |(二郎)
             | ∥―――――――――日朗
             | ∥        (大国阿闍梨)
             +―妙朗尼
               ∥―――――――+―日像
               ∥       |(肥後阿闍梨)
              平賀忠治     |
             (左近将監)    +―日輪
                        (大教阿闍梨)

 嘉禎2(1236)年、下総国海上郡に生まれたとされるが、確実な生年は不明である。父の印東治郎左衛門尉祐昭は伊豆伊東氏の一族とされるが、「千葉介ノ一族ニ印東次郎左衛門尉ノ息」ともされる(『当門徒系図次第』)

材木座
材木座実相寺

 幼くして成弁と号して比叡山に登り、尊海阿闍梨を師と仰いで修行を重ねた。才能あふれる成弁を尊海から聞いた近衛兼経は彼を猶子に迎えたという。そして、この尊海の弟子の一人に若き日の日蓮もあり、尊海から日蓮のことを聞いていた成弁は建長5(1253)年、鎌倉に日蓮を訪ね、その弟子となったという。日昭についての伝承は詳しく伝わっていないものの、日昭は日蓮が亡くなるときには「上首」と定められるほど信頼の厚い人物であった。

 鎌倉においては幕府の弾圧に屈せず、弘安8(1258)年4月には幕府に陳情を提出するなど日朗とともに活躍。教団の基礎を固めることに尽力した。 また、御家人・工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立。現在の材木座・実相寺である。

 元亨3(1323)年3月26日入滅した。

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日朗(1245-1320)

 日蓮直弟子の六老僧の一人。朗門流(池上門流)の祖。幼名は吉祥丸筑後房と号し、大国阿闍梨と称された。父は平賀二郎有国。母は印東治郎左衛門尉祐昭娘。六老僧の一人・弁阿闍梨日昭は俗伯父にあたり、日像、日輪は異父弟にあたる。

本土寺
本土寺山門(平賀氏屋敷跡)

 寛元3(1245)年4月8日、下総国葛飾郡平賀村に生まれた。あるとき日蓮は「我三千大世界ニ響ク程ノ名誉アル弟子ヲ可儲」という夢を見る。するとその翌朝、印東次郎左衛門が日蓮のもとを訪れて、吉祥丸を託した(『当門徒系図次第』)。ただ、日朗は平賀二郎有国の子で母方の祖父が印東次郎左衛門である。日昭の伝記と混同されているか。

 十六歳の年、日蓮を師として得度して筑後房と称し、のちに大国阿闍梨日朗と称した。その後、日蓮が伊豆国伊東へ流罪になった際には、子弟が同所に流罪になることは罷りならずとして鎌倉由比ガ浜の牢屋に押し込めとなる。また、日蓮が文永8(1271)年に佐渡国へ再び流罪になった際には、由比ガ浜の重罪人の牢屋に四年にわたって首かせして押し込められた。

 その後、赦免された日朗は佐渡に八回も渡っており、ついに八度目の文永11(1274)年、幕府よりの2月24日付の赦免状を首に懸けて師に面会した。

妙本寺
比企谷妙本寺

 鎌倉に戻った日朗は、比企が谷の長興寺妙本寺(日蓮の弟子・比企大学三郎能本が創建)に拠点を置き、教義をひろめて行った。そして、建治3(1277)年正月1日、平賀に本土寺を開創。開山として弟子の大円阿闍梨日伝を遣わした。また、弘安5(1282)年10月13日、日蓮が庇護者である、武蔵国千束郷池上左衛門尉宗仲の屋敷で入滅したのち、池上宗仲は寺地を寄進し、池上長栄山本門寺が建立された。この寺と比企谷妙本寺主は兼任する制度となっていく。

 永仁2(1294)年春、中山本妙寺開山・常修院日常(富木五郎常忍)が病のとき、日昭と日朗は鎌倉から中山に赴いて見舞いをし、七日間にわたって看病を続けた。

 その後、日朗は下総国に戻り、平賀村の妙泉院に隠居。そしてまた鎌倉に戻り、鎌倉名越谷の猿畠で元応2(1320)年1月21日入寂。七十六歳。 鎌倉松葉が谷(現在の安国論寺)にて荼毘に付された。

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日像 (1269-1342) 

 日蓮直弟子の九老僧の一人四條門流の祖肥後房と号し、肥後阿闍梨と称された。父は下総国葛飾郡風早庄平賀村領主平賀左近将監忠晴。また、「日像ハ千葉ノ庶子千田名字ノ人ナリ」(『與中山浄光院書』)とも。母は「千葉次郎殿息女」(『竜華秘書』)とも印東治郎左衛門尉祐昭娘(妙朗)とも。祖母は妙一尼公(『穏書略註』)。幼名は経一丸。弟の日輪とともに異父兄・日朗の弟子となる。 

本土寺
本土寺山門(平賀氏屋敷跡)

 文永6(1269)年8月10日、下総国葛飾郡平賀村の平賀屋敷に誕生した。現在の長谷寺本土寺がその屋敷跡と伝わり、境内には日像の産湯の井戸が遺されている。

 建治元(1275)年春、七歳の日像は父の平賀忠晴に連れられて日朗を訪ね、日朗の弟子として入門することとなった。日朗はこの異父弟の入門に大いに喜び、堅く契約を交わした。そして2月12日、日像はふたたび忠晴に連れられて日朗を訪ね、正式に入門を果たした。

 その年、日朗は日像を伴って身延山にのぼり、日蓮に日像に対する御教誨について依頼した。日蓮は日像を見て、

「遂可花洛乃弘通之仁体也」

 と、日像は将来は京都にも日蓮宗の教えを広げることができる人格として密かに思い、玄旨伝法本尊を認めると、「経一丸」の名を授けた。

 弘安5(1282)年10月13日、日像十四歳のとき日蓮が遷化した。それまで身延山で修行をしていた日像だったが、日蓮遷化とともに、師の日朗につくこととなり、勉学に励んだ。

 永仁元(1293)年、日像二十五歳のとき、翌年の日蓮十三回忌にあわせて必ず上京して日蓮宗の布教に努めようと決心を固め、翌永仁2(1294)年3月5日、東国を発って3月20日、比叡山のふもと、坂本の油屋太郎兵衛の家の前に来た。ここで太郎兵衛は「客僧いづくの人や」と問うたため、日像は「吾東国者也、為比叡山一見来」と答えると、太郎兵衛は日像を三日もの間泊めてくれた上に、比叡山の案内まで引き受けてくれた。さらに太郎兵衛は日像の人柄にほれ込んだか、彼の弟子となっている。

 4月2日、太郎兵衛とともに入洛した日像は、おそらく太郎兵衛の案内で五条の大工・藤右衛門のもとに通され、太郎兵衛は坂本に帰っていった。一方、日像は藤右衛門の案内で洛中洛外の諸寺、南都の七大寺を見物し、24日にわたって藤右衛門の世話になった。この大工藤右衛門も日像を崇め、ついには兄弟をはじめ家中十七人とともに弟子入りした。

 4月28日朝、内裏に向かった日像は、東門前に着くと朝日に向かって立ち、法華経の題目を一日中となえ続けたという。続けて5月13日、5月21日にも法華経を唱え、22日からは毎日この修行を続けた。綾小路法華堂を建立して布教活動を続け、その甲斐あって次第に入門を申し出る者が増えていったが、日像は天皇を法華経に帰依させ奉ることこそ肝要であると、たびたび巻物を内裏に捧げ奉り、法華経の法理を説いた。

 しかし、この方法は当時あっては僭上の沙汰と思われたか、徳治2(1307)年から元亨元(1321)年の間に、三度にわたって京を追われ、鶏冠井や鞍馬などで赦免を嘆願し続けた。このとき鶏冠井で行っていた法談のさなか、深草の律宗寺院極楽寺良桂の一行が通りかかり、その法談を聞いていたが、その話が終わると日像を茶屋に招き、三日三晩にわたって法論を戦わせたという。その結果、良桂は日像を徳とし、極楽寺の宗旨を律宗から日蓮宗へと改めて帰依した。このとき日像は極楽寺の寺名を改めることはせず、日像の死後、彼の廟所となった際に深草山鶴林院と改められた。現在の七面山宝塔寺(伏見区深草宝塔山町)である。

 元亨元(1321)年、罪を許されて京都に戻った日像は布教の勅許を得、綾小路の法華堂今小路に移し、具足山妙顕寺と改めた。その後、妙顕寺は元弘3(1333)年、幕府に配流にされた後醍醐天皇の還幸祈願を密かに託されるなど、天皇の信頼を得る。そして建武元(1334)年4月14日、後醍醐天皇の召しを奉じて宮中に参内。法華経についての講義を行い、感嘆した天皇より「妙顕寺為勅願寺」とする宗号綸旨(国重要文化財)を賜り、勅願寺に定められ、迫害の日々を過ごしてきた日蓮の法華宗が日像の努力により公にも認められることとなる。

 その後、妙顕寺は将軍足利家の祈願寺になるなど、現在に至るまで繁栄している。

 康永元(1342)年11月13日寅刻、日像は妙顕寺において遷化。七十四歳。遺骸は深草の極楽寺に運ばれて荼毘に付された。

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日輪 (1272-1359)

 池上長栄山本門寺三世。日蓮直弟子の九老僧の一人。父は平賀左近将監忠晴。母は印東治郎左衛門尉祐昭娘治部公大教阿闍梨。兄の日像とともに異父兄・日朗の弟子となる。下総国葛飾郡風早庄平賀村に誕生した。

本土寺
本土寺山門(平賀氏屋敷跡)

 七歳まで平賀村に住み、その後、兄の日像とともに異父兄・日朗の弟子となり、元応2(1320)年1月21日の日朗入滅後、本門寺三世となる。平賀本土寺の大円阿闍梨日伝をはじめとして、八人の老僧は日朗のときと同じく本門寺を以って本寺と仰ぐことを定めた。

 しかし、比企谷妙本寺の摩訶一房日印は妙本寺に納められていた釈迦如来坐像、日蓮御赦免状、日蓮から日朗への譲状などの重宝を悉く持ち去り、さらにその重宝を越後国能ノ浦で紛失。日印の弟子・日静の代に至り、京都六条堀川本国寺を建立したが、日印の重宝持ち出しおよび紛失を咎め、本国寺は「義絶」となった。しかし、日静は足利尊氏の親族であったことから繁栄し、今に至るまで大寺として続いている。

 延文4(1359)年4月4日遷化。八十八歳。

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日祐 (1298-1374)

 千葉大隅守胤貞猶子浄行院大輔公。日蓮宗の名僧で下総国八幡庄の法華寺・本妙寺三代住持

法華経寺
正中山法華経寺 祖師堂

 永仁6(1298)年誕生。日祐の実父は不明だが、おそらく千葉宗家に近い立場の人物で、八幡庄周辺に住む日蓮宗の重要な庇護者の出身であろうと思われる。一書には「曽谷氏之子」とある。また、「姓千葉氏、常胤七代之孫宗胤之子也」との記述もある(『正東山古文書』)

 曽谷氏は鎌倉幕府の御家人で八幡庄曽谷村を本拠とした豪族であり、千葉宗家と所縁の深かった一族である。特に千葉大隅守胤貞の妻・妙林院曽谷次郎兵衛尉教信(法蓮日礼)の娘であり、日祐もその所縁とも考えられる。ほかに千葉氏と関係の深かった八幡庄周辺の豪族としては、本土寺の開祖となった日像日朗などが出た平賀氏、中山法華経寺の根本を作った富木五郎常忍大田左衛門尉乗明などがいた。

日常
日常上人

 元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞譲状」によれば「自幼少養子」とあり、幼くして胤貞の養子になった。そして、正和3(1314)年、十七歳で法華寺・本妙寺の三世となった。

 法華寺千葉太郎宗胤守護所(市川市国分)にあったころの被官・富木常忍(常修院日常)が、屋敷の法華堂を寺院としたものである。その後、義父の千葉胤貞の寺領寄進など手厚い庇護を受けて、経済的な基盤を安定させ、千田庄・八幡庄の各地に弘通所(教義を広めるための施設)を設置して、教団の発展に尽力した。特に元応元(1319)年、千田庄内に千田庄内の教団の中心ともいうべき正東山日本寺をはじめとして、各地に寺院を建立。さらに既存の他宗派寺院を説いて日蓮宗へと改修させるなど、精力的に布教活動を行った。

 さらに建武元(1334)年と暦応3(1340)年の二回にわたり上洛。他宗との法論を行い、中山門流の基礎を固めた。さらに義弟で弟子の日貞千葉胤貞猶子)を伴なって肥前国小城郡に下り、義父・胤貞を開基とする松尾山光勝寺の開山となっている。

 延文4(1359)年、延文6(1361)年、応安4(1371)年の三回にわたって、弟子の弁阿闍梨日尊へ若宮法華寺、中山本妙寺ほか塔頭諸寺、本尊・聖教、寺領・私領を譲り渡し、応安7(1374)年5月19日、入寂した。七十七歳。

祐師山
祐師山の石塔

 日祐の遺体は、師の日高が葬られた法華経寺の裏田の小山に葬られた。『江戸名所図会』にも「日高墓」「日祐墓」として両塚が掲載されている。その山は現在も「祐師山」と称されており、山域には山門の石碑と、境内跡と思われる石畳、裏には石段も残され、日祐をはじめ、大田乗明日高の墓所と伝わる石塔、そのほか石碑等があるが、寺域の囲りには鉄条網が張り巡らされて参拝することはできない。鉄条網の周りには犬の糞やゴミなどがそのまま放置されており、管理も行き届いていないことがうかがえ、非常に残念である。

 「中山法華経寺」は室町時代後期に、日祐の師・伊賀公日高(大田乗明の子)が父の館跡に建立した中山本妙寺と、日常の法華寺をあわせて成立した寺院である。中山法華経寺には中世の下総国の情勢を知ることができる文書が多数現存していて、小城千葉氏千田千葉氏千葉介原氏高城氏と、南北朝・室町・戦国時代を通じて千葉一族の庇護をうけて繁栄し、下総における日蓮宗中山門流の総本山となった。

 日祐の系統を引く日蓮宗中山門流は、若宮法華寺を築いた富木常忍(常修院日常)を初代とし、その弟子・中山本妙寺帥阿闍梨日高が二世、浄行院日祐は中山本妙寺と若宮法華寺の両寺の住持となった。室町時代後期まで両寺は二つの寺院として続くが貫首は一人という両寺一主制が続いた。天文14(1545)年正月20日、古河公方・足利晴氏から「妙蓮山法華経寺」「諸法華宗の頂上本寺たるべき之状」が発給されているが、この文書が「法華経寺」の初見である。

 中山門流の日蓮宗は千田千葉氏の庇護を得て大きな力を持つようになったが、千田千葉氏は領内支配のために日蓮宗だけではなく、他宗教も同時に庇護しており、中山門流は日蓮宗独特の「他宗徹底排除」の風潮とは一線を画すことを余儀なくされ、七代貫主・日有も教団運営のためにあえて黙認の態度をとっていたが、そのことを四院家法宣院久遠成院日親(鍋かむりの上人として有名)が激しく批判したため、日親を破門している。

●1富木常忍(日常)→+――――――2日高―→+=3日祐―+→4日尊――→5日暹―――+→6日薩
           |     (伊賀公) |(大輔公)|(弁阿闍梨)(治部卿法印)|(兵部卿権大僧都律師)
●大田乗明――――――+           |     |             |
(大田金吾)                 |<養子> +→日貞          +→7日有
                       |      (中山法宣院開基)    |
 千葉介頼胤―――千葉宗胤―――――千葉胤貞―+                   +→日親
(千葉介)   (太郎)     (大隅守)                      (久遠成院)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與
   下総国八幡庄谷中郷内中山堂田地貳町在家屋敷事坪付有別紙
 
  右所者、為現世後生、大輔公日祐自幼少養子として、ゆつり與所也、
  亡父名越殿遺骨を奉置候之間、殊しう心候、若於子孫中、
 
  い論のわつらいなす者出来候者、以此状上申、なかく不幸仁たるへく候、
  胤貞か跡において者、別子孫申可給候、仍為後譲状如件

     元応二年十二月一日      平胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

   奉寄進
   妙見御神田合貳町事、下総国八幡庄谷中郷内奉寄進所也、仍状如件

     元応二年十二月一日      平胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

   奉寄進

  十羅刹御神田壱町、下総国八幡庄谷中郷内田地、奉寄進候所也、仍状如件

     元応二年十二月一日      平胤貞(花押)

●正中元(1324)年10月13日「千葉胤貞置文案」(『肥前光勝寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

   胤貞之罪障深重候之間、條々申置事、

  一 於子孫、于本寺背申、不可為謗法事、
  一 家内謗法仁等、不可召仕事、
  一 於領中、他宗之寺社、不可為安置事、
    右、此條々、背於子孫者、

  法華経中之三宝妙見大菩薩之御罰を蒙候而、胤貞之跡、一分不可知行候、
  仍為末代、證状如件

    正中元年甲子拾月十三日     平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與
    下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地七段、在家壱宇、
    同庄中村郷三谷堂職田地貳町五段、在家壱宇、
    同郷辻堂職田地五段、在家壱宇、同郷田地五段、
    在家壱宇、同庄金原郷内田地五段、在家壱宇、
    同国臼井庄嶋田村内又三郎名七段、在家壱宇、
    同真木野村神田五段、在家壱宇、同平戸村田地五段、
    在家壱宇、同古牟呂村以下、處々神田、
    同国八幡庄曾谷郷秋山村内田地貳町、在家壱宇、
    肥前国小城郡光勝寺職、同妙見座主職、

    同乙犬名坪付別紙在之本妙寺職、所々注文別紙在之等事、
  右、所々田畠者、胤貞相伝私領也、然彼所々堂職等お、為中山堂免、
  師匠大輔阿闍梨日祐仁、永代奉譲處実也、天地長久御祈祷お、
  能々可被懸御心、代々殊者胤貞後生菩提お、可有御訪者也、若子々孫々中、
  致違乱競望、退伝法華経信心、違背中山者、為不孝仁、胤貞跡お壱分不可知行、
  仍為後日譲状如件

      元徳三年九月四日    平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  奉譲與
    師匠大輔阿闍梨日祐、所々田地坪付等事、

  下総国千田庄原、中村、金原参ヶ郷田在家、
  同国八幡庄曾谷郷秋山分、彼田地等載譲状、
  同国臼井庄嶋田、真木野、平戸、田地等譲状載之、
  同庄古牟呂村分
   貳段  八幡神田
   六段  又四郎名
   四段  九郎三郎名
   一段小 又五郎名     本ハ壱町貳段尓
   一段  今下内      本ハ壱町五段尓
   三段半四十歩  うい内  本ハ壱町大尓
   四段  さき内
   参段  孫四郎入道名

  一 本妙寺職別紙在之

      元徳三年九月四日   平 胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與所領事
   可令太輔公領知、下総国八幡庄内中山□□免事、
  右所者、太輔公譲與所也、代々、殊者胤貞後生ほたいを能々心にかけられるへし、
  いつれの子孫たりといふとも、彼所にいらんわつらいをなすへからす、
  仍為後日状如件

      元徳三年九月四日    平 胤貞(花押)

●天文14(1545)年正月20日『足利晴氏書状』

 下総国八幡庄谷中郷中山村妙蓮山法華経寺、無辺行菩薩の再誕、富城日常門下之事、
 諸法華宗之頂上、本寺たるべきの状、如件

   天文十四年太歳乙巳正月廿日      晴氏
      法華経寺
 

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日胤 (????-????)

 正東山日本寺三世千葉大隅守胤貞の猶子。父は大田五郎左衛門尉茂明(中山二世・伊賀公日高の兄)。若宮戸蓮経阿闍利御坊大僧都。弟に智観院日貞がいる。なお、大田茂明は中山貫主日英から「高師三枚御本尊日胤御親父藤原茂明授与候(応永廿四年八月「日英譲状」『法宣寺文書』)と見えることから、藤原姓であり、鎌倉の三善姓太田氏や摂津源姓太田氏との血縁関係はない

 幼くして本妙寺三世・浄行院日祐の弟子となって出家。養父の千葉胤貞より「胤」字を賜った。また、弟の日貞はおなじく千葉胤貞より「貞」字を賜った (『千葉氏研究』第六号)日祐の代官を務め、千葉胤継より多古村内に知行を受けた。

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日貞(????-1361)

 正東山日本寺四世千葉大隅守胤貞の猶子。智観院大僧都西海総導師職中山法宣院開祖。二世日高の甥にして弟子。兄に若宮戸蓮経阿闍利日胤がいる。

 肥前国松尾山光勝寺の開山式を日祐に代わって現地に赴き勤めた。康安元(1361)年示寂。日貞の「貞」字は千葉胤貞より与えられた一字という(『中山法華経寺歴代譜』)

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日範(????-1361)

 修善院主金原又三郎有胤の二男。通称は彦四郎。修善院は肥前国小城郡の日蓮宗寺院であり、光勝寺との関係もあったのだろう。

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朗源(1326-1378)

 具足山妙顕寺三世。嘉暦元(1326)年誕生。千葉又一郎の四男。幼名は徳寿丸。「千葉又一郎」が千葉家内でどのような位置にいた人物かは不明だが、朗源は日像の俗縁の人物なのだろう。

 暦応元(1338)年、わずか十三歳にして入洛。日像の弟子となり、同年10月18日、日像を師として得度し朗源となる。その後、康永元(1342)年まで日像遷化までの四年間、日像に付き従った。

 貞治3(1364)年、妙顕寺二世の大覚妙実和尚より妙顕寺主職を継いだ。

 永和4(1378)年正月十八日、入寂。五十三歳。

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日周 (????-1441)

 安房国保田妙本寺六世。成蔵坊侍従阿闍梨

 妙本寺五世・中納言阿闍梨日伝の弟子である。出自は「千葉 平氏 号木内」とあり、東六郎大夫胤頼の末裔・木内氏と推定される。

 応永23(1416)年、師の日伝より日了、日応とともに妙本寺を治めるよう指示を受ける。

 嘉吉元(1441)年6月13日、入寂。

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日靚 (1489-1524)

 中山法華本妙寺九世貫主

 延徳元(1489)年に誕生した。実父は不明ながら千葉氏の一族と伝わる。文亀元(1501)年、わずか十三歳で貫主職に就任(児貫主)しており、千葉氏の一族出身ということの裏付ともいえる。

 日靚は目立った活躍はなく、大永4(1524)年2月晦日に入寂。三十六歳(『中山法華経寺歴代譜』)

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日俒 (1515-1598)

 中山法華本妙寺十世貫主

 永正12(1515)年に誕生した。実父は不明だが、先代の日靚と同様に千葉氏の一族の出身と伝わる。

 大永4(1524)年、先代貫主の日靚入寂にともない、十歳のときに十世貫主に就任した「児貫主」である。高僧たちの後見を受けながら修行を積み、いつしか名貫主として成長していった。衰退していた中山門流の結束を固め、天文20(1551)年2月16日には、若宮にあった常修院日常ゆかりの法華堂(国指定重要文化財)を祖師堂の裏手の高台に移築しするなど、信仰面での強化も狙った。

 そして、天文4(1535)年正月、古河公方・足利晴氏より「諸法華宗の頂上、本寺たるべき之状」が発給されている。

 天正元(1573)年ごろに弟子の日典に貫主職を譲り、大御所的な立場で日典を後見し、天正19(1591)年3月、中山を離れて香取郡にあった日祐上人ゆかりの東福寺(香取郡多古町)へ隠居した。その後、東福寺を正東山日本寺と改め、現在地に移築している。

 天正19(1591)年11月、徳川家康から十五石の朱印状を得て日本寺十三世貫主として発展に尽くし、慶長3(1598)年5月29日に示寂した。八十四歳(『中山法華経寺歴代譜』)

●天文14(1545)年正月20日『足利晴氏書状』

 下総国八幡庄谷中郷中山村妙蓮山法華経寺、無辺行菩薩の再誕、富城日常門下之事、
 諸法華宗之頂上、本寺たるべきの状、如件

   天文十四年太歳乙巳正月廿日      晴氏
      法華経寺

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日侃 (1525-1601)

 安房国保田妙本寺十五世。宰相阿闍梨

 大永5(1525)年3月21日に誕生した。妙本寺十四世・進大夫阿闍梨日我の弟子となり、跡を継いだ。出自は「千葉六郎■頼ノ末」とされ、六世・侍従阿闍梨日周と同様、東六郎大夫胤頼の末裔と思われる。また、「山名猶子、本ハ平氏」とあることから、山名氏の猶子になっていたことがうかがわれる。 

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日円 (1565-1605)

 東正山日本寺十五世。妙雲山法輪寺四世(飯高壇林。のちの飯高寺)。父は椎名五郎左衛門(千葉五郎末胤末裔と云)と伝わる。字は恵照恵精恵性。号は慧雲院


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